4 平坂神社

雨は勢いを強めた。


帰りの会が終わる。


由香・幸子と共に美邦は学校を出た。丁字路までは、下校する生徒たちで賑わっていた。紅い消火栓の前まで来ると、中通りの北を幸子は指さす。


「じゃあ、私こっちだけん。」


また明日ねと由香は言い、じゃあねと美邦は言った。


「うん、気をつけて。暗ぁならんうちに。」


幸子と別れ、中通りを南へ進む。


ひとけが少なくなった。


日没まで時間はあるのに、薄暗い闇に町は包まれている。家々の軒先に垂らされた紅い布は、雨露に濡れて血のように濃さを増していた。


水の張るアスファルトに、砕かれたフロントグラスが散らばっている。幻視だ。その光景は、詠歌や冬樹の言葉を思い出させた。


「ねえ由香、この町って交通事故とか多いの?」


由香は曖昧に笑む。


「確かに、多いほうかな? 私が知っとるだけでも、三件ほど死亡事故が起きとるに。」


「――三件?」


「やっぱ、路地や坂道が多いと危ないでない?」


「けど――」


死亡事故で三件だ。この小さな町では多すぎる。加えて言えば、不穏な噂は事故だけではない。


「けど――人さらいもいるって。」


「どちらかといえば、それは失踪だでな。この町、夜になると暗ぁなるけんな。」


それに――と由香は言う。


「こがなこと言うのもどうかと思うだけど――藤村君のお父さんも、自動車事故で亡くなっとるだけん。私の知っとる死亡事故のうち、一つが、藤村君のお父さんが亡くなった事故なだけどな。」


美邦は目を伏せる。


「――そうなんだ。」


父親がいない点で、冬樹は自分と同じだったのだ。


「だけぇ、藤村君、気になるでないかな?」


伊吹と平坂の間には、鞘川さやかわという川が流れている。幅は狭いが、深い川だ。橋の手前、山側には煙草屋がある。板張りの壁に、栄養ドリンクや蚊取り線香の琺瑯ホーロー看板が貼られていた。


何十年も時が止まったような光景を平坂町では見る。そのたびに、懐かしさを感じていた――自分が経験したことのないはずのものへの懐かしさを。


――母のくにに帰ってきたのだ。


山へ向けて、鞘川に沿った道を歩きだす。


通りには人がいなかった。


代わりに、廃屋が多い。その全てに紅い布はある。雨のせいで、ひときわ暗い影が廃屋に落ちていた。過疎化は、確実にこの町を蝕んでいるらしい。


幻視も増えてゆく。


雨で霞んだ景色の中に人影が多くたたずむ。廃車や廃屋の中にもいる。幻視は、ブラウン型テレビや洗濯機、割れた水槽など、路上に投棄された粗大ゴミとしても現れた。だが、現実の生き物はいない。


――この先に。


祟る神が祀られていた。


――海から来た。


「美邦ちゃん、大丈夫?」


由香に問われ、美邦は我に返る。


「大丈夫? 何だか、不安さあな顔しとるけど――」


無意識のうちに怯えが現れていたらしい。


「いや――その――ちょっと、幻視があって。」


「えっと、あのシルクドソレイユ症候群ってやつ?」


不安な気持ちを、由香は察してくれたようだった。


「手、つながぁか?」


「うん――」


しかし、鞄と傘で両手は塞がれている。


話し合った結果、相合傘をすることとした。美邦が傘を畳み、由香の傘に入る。肩を寄せ、同じ柄を二人で握った。由香の温もりに少し心が落ち着く。


相合傘をして進む。


途中、取り壊し中の廃屋を見た。「安全第一」と書かれた囲いの中に、民家を破壊したまま止まったショベルカーがある。そこに書かれた「稲置建設」という文字が目に入った。


由香は、スマートフォンで何度か住所を確認した。


やがて、伊吹山へ伸びる道が現れる。雛段状の石垣に挟まれた上り坂だ。丁字路には、眼鏡のような二面反射鏡が立つ。無数の人影が鏡面に写っていた。鏡の間には「注意」と書かれた札がある。


「こっちみたい。」


「うん。」


坂道を上る。石垣の上には民家や畑があったが、いずれも荒廃していた。


登るにつれて勾配はきつくなり、道幅も狭まる。


坂を登り切ると、空き地が現れた。一面に、子供の背丈ほどもある雑草が生い茂っている。森には、洞窟のような黒い穴が開いていた。


――ここは来たことがある。


しかし、ふもとにあった鳥居はない。


困惑の声を由香は上げる。


「あすこが、神社の入口だったってことかいなぁ――? だとしたら、祀られとった神様も可哀想いとしげに。こんな――荒れ果ててしまって。」


美邦は森を見つめる。


――あの中に石段が続いていた。


目の前の荒れ果てた風景は、十年という時の長さを感じさせた。同時に、得体の知れない不安も覚える――襟足の冷えるような、脚の竦むような。


「どうしたん、美邦ちゃん?」


由香から声をかけられ、またしても我に返る。


「うん――いや、何でもない。」


「もう、美邦ちゃんったら、さっきから呆っとしとるで?」


そうかもしれない。中通りを折れたときから、じりじりとした不安が這い上っている。それは、この空き地に近づくにつれ高まっていた。なぜか、ここにいてはいけないような気がする。


時報のサイレンが遠くから聞こえてきたのは、そんなときだ。


地の底から唸るような鋭い音が、降りやまない雨の中に響き続ける。サイレンは十数秒間続いたあと、余韻を引き摺りながら退いていった。


「美邦ちゃん、もうそろそろ帰ろ。――藤村君も言っとっただら? 今日は雨が降っとるけぇ、暗くなるのも早いって。暗くなると、危ないで?」


由香は、急に真面目な声となった。


「うん――そうだね。」


危ないという言葉が、切実なものを感じさせる。


相合傘を続けながら坂道を下った――少し早めの足取りで。暗くなってきているため見通しは悪い。


坂道から出ても、幻視以外に人の姿はなかった。


買い物帰りの主婦や、学校帰りの子供達の姿はどこにあるのだろう。雨だからといって、あまりにも静かすぎないだろうか。


そんなことを考えていたときだ。


刺すような痛みが右耳の奥にはしった。


右耳を押さえ、前かがみとなる。スピーカーから聞こえるような、キーンという音が響いていた。


由香は、心配そうに声を掛ける。


「大丈夫?」


「うん、ちょっと耳鳴りが――」


そう答え、美邦は顔を上げる。


そして――。


ぐしゃりという――泥を踏むような音を聞いた。


ぐしゃり、ぐしゃりと、音は大きくなってゆく。


どうやらこちらへ向け近づいてきているらしい。


顔を上げると、黒い人影が遠くに見えた。


――幻視だ。


泥を踏むような音は、その影が発している。


しかし、幻視ならば音を発することはない。


隣から、見ちゃいけんという、ささやくような声が聞こえた。視線を横へ流せば、いつも美邦がするように由香は目を伏せている。


「あれは多分、見ちゃいけんもんだと思う。」


――幻視ではないのか。


美邦だけではなく、由香まで見えている。それでも、こちらへ近づいて来ているものは、美邦がいつも見ている人影と変わりがなかった。


由香の言葉に従い、美邦もまた目を伏せる。促されるがままに前へ――音のするほうへ歩きだした。


耳鳴りは消えない。右耳の奥がじんじんと疼く。そんな中、千秋の言葉が頭に響いた。


――北朝鮮から船が来て。


泥を踏むような音が、どんどんと近づいてきた。


――さらってくだって。


五メートルほど先に、黒ずんだジーンズが現れる。どうやら男性らしい。ぐしゃりと泥を踏むような音がするのは、靴の中に雨水が充満しているためだ。


すれ違ったとき、男の白い手の甲が一瞬だけ視界をかすめた。藻のようなもののついた汚い水を垂らす手。小指は第二関節から先が欠けている。同時に、潮の臭いも感じた――沙浜に立ったとき、打ち寄せる波から漂ってくる濃厚な臭いだ。


泥を踏む音は、やがて背後へと遠のいて行った。


男から離れても、しばらく無言で歩き続けた。町はいよいよ暗くなろうとしている。家々の窓からは、温かい明かりが漏れていた。


中通りへと差しかかったとき、由香はようやく口を開いた。


「じゃあ美邦ちゃん、私は伊吹だけぇ。」


そう言い、由香は中通りの、中学校がある方向を指さす。


「うん、分かった。」


美邦は由香の傘から出て、自分の傘を開いた。同級生の女子と身体をくっつけて歩いていたことが、急に恥ずかしく感じられる。


「でも大丈夫? ちゃんと一人で帰れるかえ?」


由香は、なおも心配そうに声をかける。


「うん、大丈夫。由香のほうこそ――」


「私は、もうすぐそこだけぇ。――気ぃつけて帰ってな。その右耳も、痛いでないの?」


「ああ、耳は――まあ。」


そのときになって、先ほどまで酷かった痛みが、不思議と消えていることに美邦は気づいた。あれほど強かった不安も、綺麗さっぱりなくなっている。


「それかぁ。じゃあ、また明日な。」そう言い、由香は手を振った。


「うん、また明日ね。」美邦もまた、手を振り返す。


美邦は自分の家へ向け、とぼとぼと歩きだした。


空は暗くなる寸前であった。


歩幅は次第に大きくなり、駆け足となった。泥が跳ね、脹脛ふくらはぎへとかかったものの、とりあえず今は気にしない。平坂町を今まさに覆おうとするこの闇が、耐え難いほどに怖くなったのだ。

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