5 紅い灯台

朝読書の時間――美邦は集中できなかった。


――同じクラスだったんだ。


彼の顔を思い出す。


次の瞬間、自己紹介で噛んだ時の記憶が蘇った。顔がほてり、開いていた文庫本の文字がぐにゃぐにゃと曲がる。それを気に病んだことと、左眼が塞がっているために、左に隣接する生徒が視界に入らなかった。


声をかけられたのは、朝読書の時間が終わった時だ。


「あの――大原さんだっけ?」


恐る恐る顔を向ける。


こけしに似た少女がいた。厚く切りそろえられた前髪のおかっぱ頭だ。髪型に沿うように頬も丸い。大きな瞳が魅力的に感じられた。


いつもの癖で顔を伏せる。


「あ、うん。」


ほわほわした愛らしい声が響く。


「私、実相寺じっそうじ由香ゆかっていうにぃ。大原さんとは席隣だけぇ、これからよろしゅう。」


「あ――うん。よろしく。」


反対側から、別の女子の声が聞こえた。


「実相寺さん、さっそく声をかけているのですね。」


顔を上げると、いかにも委員長といった姿の少女が立っていた。前髪を七三で分け、カチューシャをつけている。


「大原さん――私は、大原さんと同じ班で、学級委員長をしている岩井と申します。鳩村先生からは、大原さんをサポートするよう仰せつかっておりますので、なにとぞよろしくお願いします。」


しゃべりかたにつられ、思わず敬語で返す。


「あ――はい。よろしくお願いします。」


ほぼ時を同じくし、ふちなし眼鏡をかけたポニーテイルの少女が近づいてくる。厚いレンズを隔て、由香とは逆の切れ長の目が見えた。様子を窺うように、あの、と彼女は言葉を切り出す。


「私――古泉こいずみ幸子さちこっていうに。大原さんとは、席、ちょっと離れよぉるけど、由香とはいつも一緒におるけん。――よろしく。」


「うん――よろしく。」


美邦の戸惑いをよそに、こけし頭の少女――由香は問いかけた。


「なあなあ、大原さんな、京都から来ただでなぁ? こがな時期に、よりによって平坂町に引っ越して来るなんて珍しいでな――出て行く人は多いだけど。どがぁしてこっち来たん? 親の仕事の関係なとかえ?」


「いや――その――お父さんが亡くなって。」


その場が少し静かになる。


申し訳なさそうな顔で、ごめんねと由香は言った。


「いや、大丈夫。もう一週間以上も経っているから、さすがに気持ちも落ち着いてきたよ。」


空気を切り替えるように幸子が問う。


「今は、どこ住んどるん?」


「ええっと――平坂の、三区だったかな? 渡辺さんっていうお家にお世話になっているの。私のお父さんの弟さんの家なんだけど、今は四人暮らしだよ。叔父さん夫婦と小学生の娘さんと一緒で。」


「そうなん。私の家とちょっと似とるかも。」


由香がせり出す。


「大原さんな、こっちぃ来てそんな経っとらんだらぁ? 京都とは色々違うだらぁし、分からんことあったら何でも訊いてくれたらええけぇ。代わりに、向こうのことなと聴かせてくれたら嬉しいな。」


出会った町民の中で由香は最も訛っている。しかし声のせいもあり、悪い人ではない気がした。


「うん――ありがとう。そうさせてもらう。」


立場を失ったためか、岩井が苦笑する。


「やはり、こういうことは私より実相寺さんのほうが得意そうですねえ。」


しかし、その直後すぐに真顔となった。


「でも――視覚障碍は大丈夫なんですか? こんなに後ろの席ですけど。」


美邦は顔を伏せる。


「うん。」


説明の時は意外と早く来た。


「それのことだけど――」


解放性幻視について、たどたどしい説明を始める。当然、三人とも不思議そうな顔をしていた。しかし、疑ったり、ひいたりしていないようだ――辛うじてそれが救いか。


説明を終えたころ、男性教師が教室に這入ってくる。


「おーい、そろそろ準備始めとけぇい。」


幸子は、「大原さん、またね」と言い、岩井も、「のちほど」と言って席を離れた。


授業が始まる。


授業中、ときとして板書が融けた。結露した窓に書いた文字のように、たらりと流れてゆく。


またたいたり、目をすがめたりしていると、由香が小声で問うた。


「大丈夫かえ? 見えづらいでない?」


「う――うん。」


「読んだげやあか?」


心遣いに甘える。


「ありがとう。」


つつがなく授業はついてゆけた。


由香の持つシャープペンシルに目が留まる。千秋の好きなキャラクタが描かれていた。この話題ならばついて行ける。仲良くなるのは早いかも知れない。


次第に心は落ち着き、板書も正常に見えだす。


二時間目は理科だった。由香と幸子と共に教室を出る。おかっぱとポニーテイルの二人は、前髪パッツンのコンビのようだ――それを言えば美邦も前髪パッツンだが。


気にかかって尋ねる。


「二人とも、付き合いは長いの?」


答えたのは幸子だ。


「かれこれ八年の付き合い。平坂町は小学校が二つあるだけん。どっちもクラスは一つ。私も由香も伊吹に住んどって、同じ入江小だったに。」


「まさか八年間おなじクラス?」


「うん。中学に入っても変わらんかっただけん。」


「そがぁな人、わりと多いだで? うちの学校。」


「岩井さんは?」


あの人は上里――と幸子が答えた。


階段へ差し掛かった時、美邦は足を止める――窓から、実習棟と渡り廊下が見えたからだ。


不思議そうに由香は問う。


「どしたん、大原さん?」


「えっと。」左眼に手を当てた。「今朝ここ来たとき、あの窓から港が見えたはずなんだけど。」


幸子が、廊下の突き当たりを指す。


「港は、あっちだで? こっからは見えん。」


「――そっか。」


フォローするように由香が言った。


「大原さん、そがなぁ見えちゃうだぁが。」


厚いレンズを隔て、切れ長の目がまたたく。


「へえええ。」


階段を下った。


渡り廊下に差しかかる。体育館の方から、コンコンという音が聞こえた。由香が説明する。


「今、プールは工事中なだけぇ。これはその音だにぃ。」


「そうなんだ。」


「木造は教室棟だけだでぇ。実習棟は『鉄筋校舎』って呼ばりょうる。体育館も鉄筋。あ、プールも木造でないけぇ安心してえな。コンクリで造られとる。」


「プールが木造なわけないが?」幸子が呆れる。「由香ったらいつもこれだで? ほわほわしすぎ。」


「幸子がしっかりなだけだでえ。」


鉄筋校舎に這入り、理科室に着く。


ふと、先に来ていた男子と目が合った。しかし、まるで言葉を失ったように目を逸らす。この町に来て初めて出会ったにも拘らず、かける言葉はまだない。


――この町の夜は人を喰いますから。


父がいた時から、そうだったのだろうか。


     *


四時間目の授業のあと、美邦は手洗いに立った。


声をかけられたのは、手を洗っているときだ。


「大原さん――ちょっとええ?」


くぐもった声だった。


振り向くと、歯竝びが悪い小太りの少女がいた。初対面の人と話すときの癖で、美邦は顔を逸らす。


「えっと――何かな?」


「実相寺由香さんには近づかないでください。あの人は悪い人です。」


「えっ――?」


訊き返したものの、手洗いから彼女はすぐに出た。


彼女がクラスメイトだったと気づいたのは、教室へ戻ったときだ。まだ見分けのつかない顔ぶれの中にその姿があった。


     *


昼休み――美邦の世話を言いつけられていたはずの岩井は、次の言葉を捨てて消えた。


「実相寺さんと古泉さんさえいれば、私なんか用なしですねぇ。」


由香と幸子に校舎を案内してもらう。


あちこちを歩き回ったあと、鉄筋校舎の二階のバルコニーに通された。


そこからは、漁港と町が一望できた。遠くには紅い灯台もある。今朝――階段で見たものと同じ光景だ。それを目にし、美邦は固まる。


――初めて見るのに。


我ながら不気味だった。


「あすこが漁協でぇ、あすこがスーパー。」


町を指しながら由香は説明する。


「でも、こっからじゃあ平坂と入江と上里が見えんなあ。あっちも色々あるにぃ。」


「上里にも、たくさん人が住んでいるの?」


「うん、いっぱい!」


説明になっていない言葉に幸子が補足する。


「上里ってな、実は大字でなくて、いくつか集落をまとめたもんだに。ぱっとみ田畑ばっかだけど、山のほうにたくさん集落があるだけん。」


「岩井さんは上里だっけ? あの人、どうして敬語でしゃべってるの?」


幸子は首をかしげる。


「そりゃ岩井さんだけんだが?」


「ほんになぁ。」由香はうなづいた。「岩井さんは岩井さんだでぇ。」


「むしろ岩井さんが敬語でなかったら何になる?」


「え――そう?」


釈然としないが、何も言えなかった。


由香は少し考え、あとは、と言う。


「うちらぁからは特にないけど――大原さんからは、今のうちに、訊いときたいことなと、言っときたいことなとあらせんかえ? 私たちのことなと、この町のことなと、何なと答えるで?」


「あ――うん。」


美邦は少し迷う。


他人と違う言動や、目立つような発言は謹んできた。だからこそ、詠歌や啓に否定されたことを問うのは気後れする。答えは同じに違いない。それでも、気になって仕方がなかった。


「それなら――ひとつ訊いていい?」


何だえ――と由香は身を乗り出す。


「あの――この町に神社ってなかった?」


二人ともきょとんとする。


神社――と幸子はつぶやいた。


「うん。できれば――荒神様以外で。」


美邦は目を伏せる。


「私――この町に住んでいたとき、大きな神社にお参りしたはずなの。山の中に石段が続いてる神社。でも、誰に訊いても、そんな神社はないって言われて――。けど、気になってるの。」


幸子は考え込んだ。


「私は、荒神さん以外に考えつかんけど――」


ふっと、由香は息を吸い込む。


「あれ? けど、お祭りがあったやぁな気ぃする――えらい昔に。いや――それとも、あれは、平坂町とは別ん処だったかいなぁ。少なくとも、今はないわな?」


お祭り――と美邦は口ずさむ。


「うん、お祭り――」


由香は言い淀み、そして、ぽんと手の平を打った。


「あ! うちのクラスに、こがぁなことに詳しい人がおるにぃ! その人に訊いてみりゃ分かるでないかいな? 今は図書室か――でなきゃあ教室におると思うけど。」


「それ以外に行く処もないだら。」


幸子はきびすを返す。


「いずれにしろ、教室棟まで戻らないけんね。早くいかんと、休み時間も終わっちゃう。」

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