3 消えてゆく人たち。

藤村ふじむら冬樹ふゆきは、先ほどの自分の言葉を気にかけていた。


神社などない――と、なぜ言えなかったのだろう。


荒神塚を除けば神社はない。市内には無数にある神社が、この町にはない。誰の目にも明らかだ。しかし、知らないと言ってしまった――この自分が。


夕暮れになる前に家へ着いた。


冬樹は夕暮れが恐い。


この町に住む者は、程度の差はあれど誰もが夜を恐れる。クラスメイトも家族も、夜が迫れば必ず不安を訴える。軒に吊された紅い布は怯えの現れなのだ。


それゆえか、日没前の平坂町は閑散とする。


そんな中で、ちらちらと出歩いている二、三人ほどの人間が恐い。魂のない木偶でくが歩いているのかと想う。だから早めに帰る。


玄関へ上がり、「ただいま」と言った。


祖母の良子が台所から顔を出す。


「ああ、冬君、お帰りんさい。今から晩ご飯作るけん、うがいと手洗い先に済ませときんさい。」


うん、と冬樹は返事をし、洗面所へ這入る。本を横にのけ、蛇口をひねった。ふと再び気になる――まさかとは思うが、自分が知らないだけではないのか。


洗面所を出ると、良子が台所で夕食の準備を始めていた。冬樹は尋ねる。


「あの、一つ訊いてええ?」


「うん、何ぃ?」


「この町に、神社ってなかった? その――荒神さん以外で。何でも山ん中にあって、大きな社殿があるんとか。」


良子の手が、ぴたりと止まった。


何秒か経った後、ぽつりとこう言う。


「いや――少なくとも思い当たらんけどなあ――」


「そっか。」


それは当然の回答だった。しかし、答えるまでの間が引っかかる。


「それで――神社が一体どうしたん?」


「いや――色々とあって。詳しい話は後ででも。」


それだけ言うと、冬樹は台所を後にした。


自室に戻る。


床には、本棚に収まらなくなった本が積まれていた。『神隠しと日本人』『厄神と福神』『青銅の神の足跡』――中には、父から受け継いだ物もある。


借りてきた本を机に置く。


窓の外から静かに、時報のサイレンが聞こえてきた。空襲警報のように急激に強まり、単調に鳴り続けたあと、長い余韻を曵きながら灰色の空に消えてゆく。


窓へ目をやった。


夕暮れが始まる――まだ幼稚園だったあの時と同じように。


――父さん。


現場を見たわけではない。だから想像するしかない――海岸沿いの崖を通る県道、大きく湾曲して町が見えるその地点に、急ブレーキをかけた黒い跡が残るのを。タイヤをすり減らした黒い線は、何かを避けるように海へ向かい、ガードレールを突き破っている。


――何で。


あそこには歩道がない。だから、冬樹はいまだ行けていないのだ。


カーテンを閉めた。


スマートフォンを取り出し、「平坂町」「神社」で検索した。当然ながら、荒神塚を除いて何も出ない。それを目にし、わずかに安堵する――自分は間違っていなかったのだ。


神社も祭りもない町だとずっと思っていた――だから気になるのかもしれない。


それからしばらく本を読んだ。やがて、玄関から音がする。冬樹は自室を出て階段を降りた。母親の早苗が帰ってきたところだった。スーツ姿だが、片手にはレジ袋を下げている。


「お帰り――母さん。」


「ただいま。」


レジ袋を受け取り、冬樹は台所へ向かった。食材を冷蔵庫へ入れる。ちょうど夕食が出来上がっていたので、良子と共にテーブルへと竝べだした。


夕食のとき、夕前の出来事について冬樹は話した。当然、早苗もまた不可解な顔をする。


「神社――?」


「うん。大きな社殿が山の中にある神社だってさ。」


「少なくとも心当たりはないけど――。大体、そんなんあったなら、知らんなんて冬君が言うわけないが? いつもは、出雲大社がどうのこうの大穴牟遅おおあなむちがどうのこうの言っとるにぃ。」


「まあ――そうだけどさ。」


しかし、「知らない」と言ってしまった。


ふと、良子が尋ねる。


「その女の子って、冬君と同い年くらいだって?」


「うん。」


「知っとる子?」


「いや――全然。」


もしも学校にいたならば知らないわけがない――あれだけ目立つ外見をしていたのだから。


腰まで届く三つ編み。整った顔立ちと、焦点の合っていない瞳――灰色の真珠のように左眼は濁っていた。


何でもない日常の光景が、脳裏に焼き付いて離れないことがある。冬樹にとって、彼女と目を合わせたその瞬間がそうだった。


水を点すように早苗が問う。


「ところで冬君――勉強は大丈夫? 中間テスト、近いんでないん?」


その言葉に、うん、と冬樹は答える。


「神社に興味持つのはええけど、赤点は取らんでよ? 特に数学と理科が酷いことになっとったが。あんたのことだけん、高校に落ちるなんてことはないとは思うけど。全然希望しとらん学校に行くのもいやだら?」


「解っとるって。」


冬樹は味噌汁をすする。あまり気の向かない話題だったので黙り込んだ。

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