2 荒神塚
翌日、午前中に墓参りを済ませた。
海を見渡す高台に墓場はある。そのあちこちには黒い人影が
まだ新しい花を詠歌が抜き、どこかへ去ってゆく。
バケツと
叔父の背中は、昭を思い起こさざるを得ない。
「お墓――十年も放置されてたんですか?」
「ああ。」啓はうなづく。「葬儀のあと、来てみたら草が伸び放題だった。十年間――誰も
思わず頭が下がる。
「――ありがとうございます。」
「気にすることないに――兄さんの墓なだけん。」
詠歌が戻ってきた。
新しい花を供え、線香に火をつける。
そして、手を合わせた。
美邦にとって初めての墓参りだ。同時に母との再会でもある。これを自分は望んできた。しかし落胆を隠せない。母がいるはずの事実に違和感を覚える。
墓は墓であり、母ではない。
父の葬儀を思い出す――遺骨になった時点で、それは昭とはかけ離れていた。
――お母さんは、火事で死んだ。
手を解き、顔を上げる。
林立する墓石の彼方に伊吹山が見えた。
――あの神社は山の中にあった。
墓場を離れ、帰路につく。
複雑に折れる細い路地を下っていった。
その途中、様々な幻視に出会う。喪服をまとった男女や、廃屋の中からこちらを窺う者も見えた。路上には、物干し竿やアンテナが現れては消える。
――この町は
幻視が増えている。墓場や病院でもない限り、ここまで見ることは普通ない。
美邦の前を歩いていた詠歌が振り返る。
「そういや――美邦ちゃん、片づけが終わった後は荒神さまに行くんだっけ?」
「はい。――千秋ちゃんが案内してくれるって。」
「それかぁ。」無表情の顔を詠歌は戻す。「行くことはええけどな――くれぐれも境内に這入らんでな。」
「――どういうことですか?」
「神様は、人の死を嫌うにぃ。私たちは、お葬式が終わってそんな経っとらんけん。だいたい、四十九日が終わるまではお参りせんほうがええの。」
千秋が不満げな顔をする。
「じゃあ、あたしも?」
「もちろん――千秋も。」
家に戻り、昼食を摂る。
やがて、引っ越し業者が荷物を運んできた。
桜色のマットを畳に敷き、ベッドや学習机、
空が灰色に染まる頃、片づけは終わった。
居間で一休みする。
詠歌が、白兎の形をした饅頭と煎茶を運んでくる。小麦色の皮の中には、しっとりとした白餡が詰まっていた。
食べ終えたあと、千秋は立ち上がる。
「じゃ――そろそろ。」
「うん。」美邦はうなづく。「荒神さまね。」
部屋に戻り、バッグを手に取った。
そして、千秋と共に玄関へ向かう。
台所から詠歌が顔を出し、心配そうに声をかけた。
「二人とも気ぃつけてな。サイレンが鳴る前に帰ってきないよ。暗くなったら危ないけん。」
分かっとるにぃ――と千秋は答える。
「美邦ちゃんも――気ぃつけてな。お姉さんなだけん。千秋から目ぇ離さんでな。」
引っ掛かりつつ、はい、とうなづいた。
紅い布の垂れる玄関を出る。
複雑に折れる路地を進んだ。
詠歌が見えなくなってから、恐る恐る美邦は尋ねる。
「そんなに夜は危ないの?」
「うん。」小さい声が返ってくる。「子供がよう消えるだって。だけん――みんな気ぃつけとる。小学校の登下校は集団でするし、どこに行くにも子供は必ずGPSつけられるにぃ。」
「――消える?」
「人さらいが出るとかって話だけど。北朝鮮とかから船が来て、さらってくだって。」
詠歌は、交通事故が多いから危ないと言っていた。外国からの誘拐だと話が違う。
「そんな事件があったの?」
「分からん。でも――ただでさえ怖いにぃ。あたしも、暗くなると外にはでたぁない。変な唸り声もするし、真っ暗な中から何か来そう。」
これには共感した。
「分かる。波の音か風の音か知らないけど――こーって何か鳴ってるよね。」
路地を出て、表通りを西に進む。
ひとけのない通りには、様々な人影が浮かんでいた。真っ黒に焼けたような人や、上半身のない人、鏡写しのように映り続ける看板や標識もある。
――やっぱり、多い。
「この通りな、中通りって言うにぃ。」
千秋は指を三つ立てる。
「平坂町には、大きい通りが三つあるだけぇ。一つは中通りで、もう一つは浜沿いの浜通り。それと、浜通りから中通りを貫く本通り。」
「――そうなんだ。」
「あと、
「坂が多いから平坂なのかな?」
「それは分からんけど。」
中通りは緩やかに曲がり、緩やかな上り下りを繰り返す。途中、いくつも人影は見えた。
廃屋が多い。だが、紅い布は必ず吊るされている。それは、「彼ら」が中に入ってこないようにするための物のような気がした。
中通りを逸れ、路地に這入る。細い道を何度も曲がり、上り、下り、歩き続け、やがて港へ出た。
「あれえ。」千秋は困惑する。「どこだったかいなあ?」
「ひょっとして、迷ったの?」
「うん。」スマートフォンを千秋は取り出した。「このへん複雑だけえ。」
画面を確認しながら、来た道を帰る。恐らく方向音痴なのだろう――地図を見つつ千秋は迷っている。
坂道を少し登ったとき、自転車を曳く少年が向かい側に現れた。
これ幸いと千秋は声をかける。
「すみませぇーん。」
少年はこちらを向いた。
歳は美邦と同じほどか。やや癖毛の髪は、あちこちが跳ねている。平凡だが整った顔立ち、落ち着いた姿勢。そして、涼し気な目元をしている。
美邦と彼の目が合う。
刹那、細い
美邦の目元を気にかけてか彼は目を逸らす。
「――はい?」
「あのぉう、入江神社ってどこでしょーか?」
「ああ。」彼の顔が柔らかくなる。「ちょうど今お参りしてきたところだに。案内したげやあか?」
「あ、ありがとうございます!」
彼に導かれ、高い方へ進んでゆく。
同い年の少年がいるだけで、美邦は黙り込んだ。冷ややかな空気が千秋を挟んで流れるのを感じる。
やがて、坂の上に鳥居が見えた。
近づいてみる。
塀も柵もない。鳥居の先に、民家の二階や屋根に囲われた空き地がある。台形の石垣があり、祠と、石灯籠が載っていた。空き地は砂っぽい。そんな中、背の高い祠は墓石を思わせる。
「お姉さんの言う神社って、ここ?」
美邦は首を横に振る。
「ううん――違う。」
記憶の中の神社は、ひんやりと冷えた森の中にあった。しかも、何か「波」のようなものが感じられていたのだ。
同じものを、神社へ参拝するとき感じることがある。主に、歴史が古かったり、森林が豊かだったりする神社に多い。逆に、名だたる大神社になく、都会の中の小祠から感じることもある。
だが、ここには何もない。
これ以外に平坂町に神社はないという。
ならば――記憶の神社は何なのか。
帰ろうとしていた少年が足を止め、振り返った。
「――神社?」
千秋は、美邦と彼とを交互に眺めてから、うん、とうなづいた。
「あたしたち、神社を探しとるんです――できればこの町で。山の中にあって、大きな社が建ってる神社らしいんですけど。」
口元に手を当て、彼は考え込む。
「いや――知らんけど。」
しかし、その姿勢のまま彼は考え続けた。
美邦は、彼の自転車の籠に目をやる。何冊かの本が積まれていた。一番上の本には『祭祀と
千秋が振り返った。
「でも――せっかく来たにぃ、お参りせんとか、もったいなぁない?」
仕方ないよ――と美邦は答える。
「四十九日が終わってないもの。穢れが落ちてないと参拝したら駄目だって、何かで聞いたことある。」
ふと美邦は気にかかる。神社も初詣もないのに、そのような作法を、なぜ詠歌は知っていて守らせようとするのだろう。
「気にすることないですよ。」
いきなり聞こえた声に顔を上げる。
「――え?」
少年が顔を向けていた。
「四十九日ってのは、弔意を示す期間です。なので、お祝い事や祭の時の参拝を避ければいいだけです。それに、神道だって葬送を司ってたんですから。」
美邦は視線を逸らす。
「そう――なの?」
「ええ。入江神社だって、古墳だったっていう説がありますし。ほら――」視線で境内を示す。「あの石垣の部分がそうだったみたいです。だから、荒神塚とも呼ばれてるんです。」
興味深そうに千秋は目をまたたかせた。
「あれが? 古墳なんですか?」
「うん。まだ発掘されとらんけど――ひょっとしたら四隅突出型墳丘墓だったかもしらん。」
彼の顔を千秋は覗き込む。
「けど――この町ってそういうの多いですよね? 勾玉とか出てきたり。発掘したら何か出てくるかも。中学校を造るときも何か出たんですよね?」
「ああ――銅鐸が。」
彼はきびすを返す。
「でも、早く帰った方がいいと思います。そろそろ――暗くなりますし。」
千秋の顔から表情が消えた。
「ですね――暗くなりますね。」
神社から離れようとする。
つぶやくように彼は言った。
「この町の夜は――人を喰いますから。」
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