2 荒神さま

次の日――午前中に墓参りを済ませた。


海を見渡す高台に墓場はあった。そのあちこちに黒い人影がたたずむ。墓石が竝ぶ中、両親の眠る場所にだけ三色の菊が活けられていた。


まだ新しい花を詠歌が抜き、どこかへ去ってゆく。


啓が、バケツと柄杓ひしゃくを触れ合わせ墓石の水を換え始めた。やはり、叔父の背中は父と似ている。


「お墓――十年も放置されてたんですか?」


「ああ。葬儀のあと、来てみたら草が伸び放題だった。十年間――誰もんかったらしい。業者さんに頼んで、綺麗にしてもらったに。」


思わず頭が下がる。


「――ありがとうございます。」


「気にすることないに――兄さんの墓なだけん。」


やがて、詠歌が戻ってきた。


新しい花が供えられ、線香に火がつけられる。そして、叔父夫婦・千秋と揃って手を合わせた。人生で初めての墓参りだ。これを美邦は望んできた。


――でも。


先週、火葬のあとで見た物を思い出す。遺骨になった時点で、それは昭とはかけ離れていた。


――お母さんは、火事で死んだ。


墓は墓であり、父でも母でもない。ましてや、父子であっても、祈っただけで言葉が通じたことはない。でないなら、町を隠してきた父の気持ちも知られた。


顔を上げる。


墓石の彼方――青い空の下に伊吹山が見えた。同時に、潮風が頬をなでる。


――何か怖いものが来て、左眼が凄く痛くなった。


やはり、それは山からかもしれない。加えて言えば、記憶の中の神社は山にあった。そこへと思い当たったとき、大切なことに気づく。


――⬛︎⬛︎なきゃ。


やるべきことがあるのだ。一方、そう思うことも違和感だった。


――何を?


つっかえたように出ない。


墓参りを終え、複雑に折れる細い路地を下っていった。


途中、様々な幻視に出会う。


喪服をまとった男女や、廃屋の中からこちらを窺う者――。路上には、物干し竿やアンテナが現れては消える。来るときも見えていた。その事実に戸惑う。


――やっぱりおかしい。


墓場や病院でもない限り、ここまで多くは見ない。だが、美邦に語りかけるように様々なものが現れ、消える。


前を歩く詠歌が振り返った。


「そういや――美邦ちゃん、片づけが終わった後は荒神さまに行くんだっけ?」


「はい。――千秋ちゃんが案内してくれるって。」


「それかぁ。」無表情の顔が戻る。「行くことはええけどな――くれぐれも境内に這入らんでな。」


「――どういうことですか?」


「神様は、人の死を嫌うにぃ。私たちは、お葬式が終わってそんな経っとらんけん。だいたい、四十九日が終わるまではお参りせんほうがええの。」


千秋が不満げな顔をした。


「じゃあ、あたしも?」


「もちろん――千秋も。」


家に戻り、昼食を摂る。


やがて、引っ越し業者が荷物を運んできた。


桜色のマットを畳に敷き、ベッドや学習机、収納棚シェルフ箪笥チェストなどを載せる。そこへ、使い慣れた小道具や本などを納めた。


先日と同じように千秋が来て手伝ってくれる。


千秋は、美邦を避けようとしない。積極的に関わってくる姿が羨ましい。妹のようでも、育った環境が違えば全て異なる。両親と家があり、この町の訛りを遣う千秋は――あったかもしれない自分なのだ。


空が灰色に染まる頃、片づけは終わる。


居間で一休みした。


詠歌が、白兎の形をした饅頭と煎茶を運んでくる。小麦色の皮の中には、しっとりとした白餡が詰まっていた。


食べ終えたあと、千秋は立ち上がる。


「じゃ――そろそろ。」


「うん。」美邦はうなづく。「荒神さまね。」


部屋に戻り、バッグを手に取った。


そして、千秋と共に玄関へ向かう。


台所から詠歌が顔を出し、心配そうに声をかけた。


「二人とも気ぃつけてな。サイレンが鳴る前に帰ってきないよ。暗くなったら危ないけん。」


分かっとるにぃ――と千秋は答える。


「美邦ちゃんも――気ぃつけてな。お姉さんなだけん。千秋から目ぇ離さんでな。」


はい――と応え、引っかかった。


――何か警戒してる。


見知らぬ故郷に、ずっと恋焦がれてきた。だが実際に帰ってくると、予想外の違和感に気づく。神社だけではない――この町は「欠けている」とさえ感じた。


ここは――本当に、自分の帰るべきだった町なのだろうか。


紅い布の垂れる玄関を出る。


複雑に折れる路地を進んだ。


先ほどの詠歌の言葉が気にかかって尋ねる。


「そんなに夜は危ないの?」


「うん。」小さな声が返った。「子供がよう消えるだって。だけん――みんな気ぃつけとる。小学校の登下校は集団でするし、どこに行くにも子供は必ずGPSつけられるにぃ。」


「――消える?」


「人さらいが出るとかって話だけど。北朝鮮とかから船が来て、さらってくだって。」


意外な国名に驚く。しかも、交通事故が多いから危ないと詠歌は言っていた。外国からの誘拐だと話が違う。


「そんな事件があったの?」


「分からん。でも――ただでさえ怖いにぃ。あたしも、暗くなると外にはでたぁない。変な唸り声もするし、真っ暗な中から何か来そう。」


これには共感した。


「分かる。波の音か風の音か知らないけど――こーって何か鳴ってるよね。」


路地を出て、表通りを西に進む。


ひとけのない通りに、様々な人影が浮かんだ。真っ黒に焼けたような人や、上半身のない人――やはり、京都ではなかったほど見る。


「この通りな、中通りって言うにぃ。」


千秋は指を三つ立てる。


「平坂町には、大きい通りが三つあるだけぇ。一つは中通りで、もう一つは浜沿いの浜通り。それと、浜通りから中通りを貫く本通り。」


「――そうなんだ。」


「あと、大字おおあざが四つ。今のここが平坂。平坂の北が伊吹で、西が入江。東に行って山の方が上里かみさと。」


「坂が多いから平坂なのかな?」


「それは分からんけど。」


中通りは緩やかに曲がり、緩やかな上り下りを繰り返す。


廃屋が多い。だが、紅い布は必ず吊るされている。それは、「彼ら」が中に這入らないようにするための物の気がした。


中通りを逸れ、路地に這入る。細い道を何度も曲がり、上り、下り、歩き続け、やがて港へ出た。


「あれえ。」千秋は困惑する。「どこだったかいなあ?」


「ひょっとして、迷ったの?」


「うん。」スマートフォンを千秋は取り出した。「このへん複雑だけえ。」


画面を確認しながら、来た道を帰る。恐らく方向音痴なのだろう――地図を見つつ千秋は迷っている。


坂道を少し登ったとき、自転車を曳く少年が向かい側に現れた。


これ幸いと千秋は声をかける。


「すみませぇーん。」


少年はこちらを向いた。


歳は美邦と同じほどか。全体的に、まるで棋士きしのような印象を受けた。落ち着いた姿勢と整った顔立ち――そして、涼し気な目元をしている。やや癖毛の髪は、あちこちが跳ねていた。


彼と目が合う。その一瞬が長く感じられた――細いひもの中で、玉と玉が触れて音を立てるように。


美邦の目元を気にかけてか彼は目を逸らす。


「――はい?」


「あのぉう、入江神社ってどこでしょーか?」


「ああ。」彼は顔を戻した。「そこなら、ちょうど今お参りしてきたところだに。案内したらぁか?」


「あ、ありがとうございます!」


彼に導かれ、高い方へ進んでゆく。


同い年の少年がいるだけで、美邦は黙り込んだ。冷ややかな空気が千秋を挟んで流れるのを感じる。


やがて、坂の上に鳥居が見えた。


近づいてみる。


塀も柵もない。鳥居の先に、民家の二階や屋根に囲われた空き地がある。四角い塚のような石垣があり、祠が載っていた。


「お姉さんの言う神社って、ここ?」


美邦は首を横に振る。


「ううん――違う。」


空き地は、全体的に砂っぽい。


一方、ひんやりと冷えた森の中に記憶の神社はあった。しかも、何か「波」のようなものが感じられていたのだ。


同じものを、神社へ参拝するとき感じることがある。主に、歴史が古かったり、森林が豊かだったりする神社に多い。逆に、名だたる大神社になく、都会の中の小祠から感じることもある。


だが、ここには何もない。


これ以外に平坂町に神社はないという。


ならば――あの記憶は何なのか。


帰ろうとしていた少年が足を止め、振り返った。


「――神社?」


千秋は、美邦と彼とを交互に眺めてから、うん、とうなづいた。


「あたしたち、神社を探しとるんです――できればこの町で。山の中にあって、大きな社が建ってる神社らしいんですけど。」


口元に手を当て、彼は考え込む。


「いや――知らんけど。」


しかし、その姿勢のまま彼は考え続けた。


美邦は、彼の自転車の籠に目をやる。何冊かの本が積まれていた。上の本には図書館のラベルが貼られ、『祭祀と供犠くぎ:日本人の自然観・動物観』とある。


千秋が振り返った。


「でも――せっかく来たにぃ、お参りせんとか、もったいなぁない?」


仕方ないよ――と美邦は答える。


「四十九日が終わってないもの。穢れが落ちてないと参拝したら駄目だって、何かで聞いたことある。」


ふと美邦は気にかかる。神社も初詣もないのに、そのような作法を、なぜ詠歌は知っていて守らせようとするのだろう。


「気にすることないですよ。」


いきなり聞こえた声に顔を上げる。


「――え?」


少年が顔を向けていた。


「四十九日ってのは、弔意を示す期間です。なので、お祝い事や祭の時の参拝を避ければいいだけです。それに、神道だって葬送を司ってたんですから。」


美邦は視線を逸らす。


「そう――なの?」


「入江神社だって、古墳だったっていう説がありますし。ほら――」視線で境内を示す。「あの石垣の部分がそうだったみたいです。だから、荒神塚とも呼ばれてるんです。」


興味深そうに千秋は目をまたたかせた。


「あれが? 古墳なんですか?」


「うん。まだ発掘されとらんけど――ひょっとしたら四隅突出型墳丘墓だったかもしらん。」


彼の顔を千秋は覗き込む。


「けど――この町ってそういうの多いですよね? 勾玉とか出てきたり。発掘したら何か出てくるかも。中学校を造るときも何か出たんですよね?」


「ああ――銅鐸が。」


彼はきびすを返す。


「でも、早く帰った方がいいと思います。そろそろ――暗くなりますし。」


千秋の顔から表情が消えた。


「ですね――暗くなりますね。」


神社から離れようとする。


つぶやくように彼は言った。


「この町の夜は――人を喰いますから。」

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