第二章 神無月
1 平坂町への帰還
海岸沿いの長い県道を下った先が平坂町だった。
高い崖の上の道を車は進んだ。鉛色の海が窓に広がっている。その景色に見飽きてきたとき、運転席から叔母が声をかけた。
「ほら、あれが平坂町だが。」
県道が大きく曲がり、サイドウィンドウに港が現れる。
――あれが。
今まで――自分が恋焦がれてきた町。
県道は下り坂となる。
吸い込まれるように町へと降りた。サイドウィンドウに映る景色が、紅い布の吊るされた民家の群れへと変化する。
ゆるやかに湾曲する道を、ゆるやかに上下しつつ車は進む。海側には、民家の二階部分や屋根が竝んでいた。その合間から、点のように小さい紅い灯台が見え隠れする。
やがて車は減速し、駐車場に停まった。
荷物を取り、車から降りる。
海から渡り来る微かな潮風が頬を撫でた。
美邦は周囲を見回す。
写真で見た通りの印象だ。はっきり覚えているものは何もない。しかし、既視感のようなものは覚える。それは、紅い布の印象が強いためか。ここで、
――お父さんと、お母さんは生まれ育った。
「どお? 懐かしいでしょ。何か覚えとるものなとあるでない?」
少し迷ったが、美邦は相槌を打つ。
「何となく覚えてる気がします――あの紅い布のこととか。」
「それか。」
こっちだで――と言い、詠歌は歩きだす。その後を美邦は追った。
海から潮風が渡り、紅い布が一斉になびく。
同時に美邦は思い出した――この潮の香りは覚えている。この町にいたとき、常に嗅いでいた匂いだ。
表通りを外れ、階段状の路地を上る。
迷路のように折れ曲がった坂道の先――石垣の上に渡辺家はあった。半世紀近く建つこの家は、随所でリフォームした以外は変わっていないという。
玄関先には、家と外との境界を示すような紅い布が吊るされていた。それを潜り、中へ這入る。父が生まれた家は、他人の家の匂いがした。
靴を脱いでいるとき、隣接する階段から
「あ、お姉さん、お帰りんさい。」
ただいま――と言ったものの、何だか
「けど――ここは千秋ちゃんの家なのに。」
「まあ、ええが。お姉さんも今日から住むにぃ。」
「うん。」
少しの気恥ずかしさと嬉しさを感じる。
「よろしくね――今日から。」
「こちらこそ、よろしく。」
そのやり取りを見ていた詠歌が微笑む。
「こうして見ると、ほんに姉妹みたいだな。」
ちらりと千秋へ視線をやる。だが、劣等感を覚えて逸らした。自分の右眼と同じように、千秋の両眼は褐色だ。片眼だけが別方向を向くこともない。
「とりあえず、お父さんに先に挨拶しやか。」
「ええ。」
仏間へと詠歌に案内された。その後を千秋はついてくる。
仏壇には、昭の遺影が載せられていた。バッグを横に置き、霊前に坐る。線香を立て、鉦を鳴らして合掌した。
立ち上がろうとしたとき、バッグに千秋が手をかけた。
「京都から五時間も車だら? 持ったげる。」
「うん――ありがとう。」
仏間から出た。階段の上を詠歌は指さす。
「美邦ちゃんの部屋は、こっちね。」
詠歌に従って階段を昇る。二階の廊下を突き当たった処が美邦の新しい部屋だった。殺風景な六畳の和室に、京都から送った荷物が置かれている。
部屋は少し薄暗い。
千秋は、バッグを置くと、窓に近寄って障子を開けた。同時に、新しい景色が視界に写る。山が目に入り、引き寄せられるように美邦は近寄った。
サッシに手を掛け、その風景を眺める。
張り巡らされた電線や、瓦ぶきの屋根――その彼方に、綺麗な円錐形の山があった。灰色掛かった青い空の下に、青黒い巨躯を横たえている。
「気になるん?」
千秋に問われ、うん、と美邦はうなづく。
「綺麗な形の山だな――って思って。まるでピラミッドみたい。」
背後から詠歌が答える。
「あれは伊吹山だが。美邦ちゃんの通うことになる学校も、あの伊吹山の麓にあるだで? こっからじゃ、屋根が邪魔になって見えんけど。」
「そう――なんですね。」
伊吹山の端正な稜線に美邦は見入った。遠くからは海の音も聞こえる。父もまた、この景色を眺めていたのだろう。見慣れた光景だったに違いない。
だが、ふと違和感を覚える。山そのものよりかは、窓から見える風景から。本物そっくりの似せ物を見せられたような――どこかピントがズレたような感覚だ。
「とりあえず、大きな荷物は明日来るけん。小さな荷物を先に片付けちゃっといて。」
「はい。」
「千秋も、美邦ちゃん手伝ったげてな。」
「うん。」
あと――と言い、声のトーンを詠歌は落とした。
「言っとくけど、暗くなったら外に出んでぇな。」
「――え?」
「この町は複雑な地形だけん、夜になると交通事故とかが多いだけぇ。そうでなくても、京都と違って、暗くなってからは人通りが全くと言っていいほどないし、色々と危ないかも。」
「そう――なんですか?」
隣から千秋が答える。
「あたしらもあんま出歩かんにぃ。なんか、とても寂しぃなるけん。」
顔を陰らせながら詠歌は続けた。
「別に、治安が悪いとか、そういうことでないけどな。町の外で働いている人でも、遅くまで帰って来ないということは、あまりないかな。」
その言葉が意味ありげに感じられ、美邦は気にかかる。まるで慎重に言葉を選んでいるような、暗に含んだものがあるような言い方であった。
*
渡辺家に着いた時には十六時を回っていた。
段ボールを開き、収納ボックスを押し入れへと入れる。片づけを手伝いながら、美邦のことについて千秋は尋ねてきた――父と二人で京都で暮らしてきたことや、失明の時期、髪が長い理由なども。
髪が長い理由について千秋は共感してくれた。
「髪、切りたぁないのは分かる。あたしも、もったいない感じがして伸ばしとるけえ。」
「千秋ちゃんも綺麗な髪してるもんね。」
美邦ほどではないが、千秋もロングヘアだ。より似て見えるのは、それゆえかもしれない。
「お祖父さんの血筋なのかな? 私のお父さんも、千秋ちゃんのお父さんも似てたし。」
「けど、お姉さんのお母さんとも似てるって言わんかった? どんな人だったん?」
「覚えてないよ。」美邦は視線を落とす。「私が三歳のころに亡くなったもの。」
場の空気が少し冷えたのを感じ、取り繕うように美邦は言う。
「けど――明日、荷物が届くから、そこにアルバムがあるよ。似てるかどうか、正直、私はよく分からないけど、それ見てみたら分かるかも。」
「あ、少し楽しみ。」
「けど、その前にお墓参りしなきゃ――今まで一度もしたことなかったから。ようやく再会できるの。」
「町にも今まで来たことなかっただけんな。」
「うん――お父さん、隠し続けてきたから。」
終わると同時に外は暗くなる。
そして、サイレンが鳴った。何かを警告するような音が、十数秒ほど単調に響き続ける。そして、長い余韻を引きながら夕闇の中へと消えた。
気にかかり、美邦は尋ねる。
「あの音は何?」
「サイレン? 五時の時報だが?」
「こっちでは、そんなの鳴るの?」
「うん。正午と五時に。――京都ではなかったん?」
「うん。――なかったけど。」
夜を告げるような音だった。この音が、町では毎日鳴るのだ。
十九時ごろ、啓が帰ってきた。
そうして夕食が始まる。
神社の話題が出てきたのはそんなときだ。
「神社?」
きょとんとした目を千秋は母親へ向ける。
「そうそう。」詠歌はうなづく。「美邦ちゃんな、この町にいたとき神社にお参りしただって。山の中にある大きな神社。けど、私には心当たりなくて。」
「あたしも、そんな神社が町にあるなんて知らんけどなあ。荒神様ならあるけど、あれは『祠』だし。」
どうしても気に掛かり、美邦は尋ねる。
「でも、七五三とか初詣とかはどうしてるの?」
「初詣ってアニメに出てくるやつ?」
千秋の言葉に、一瞬、美邦は言葉を失う。
「――え?」
答えたのは詠歌だった。
「初詣は――市内の神社にお参りする人もおるけど、人によりけりでないかな? 七五三も同じ。お寺さんが近かったら、そっちでする人もおるみたい。」
「そう――ですか。」
千秋は何かに気づいた顔となる。
「ひょっとして、お姉さん、七五三とか初詣とか京都にはあったん?」
「え――あったけど?」
「屋台で水風船買ったりとかもした?」
「したけど――?」
「ええなあ――ほんにアニメみたい。」
詠歌が苦笑する。
「まあ、京都は神社やお寺がたくさんあるだけえ。平坂町とは違うわいな。歩いて近所に神社があったら初詣もしたかもしらんけど――こっちにはそういうのないだに。」
「そう――ですか。」
落ち込んだ美邦を気にしてか、啓がフォローした。
「まあ――平坂町ってったって広いだけえ。探してみたら、山ん中にでもあるかもしらんが?」
「そうね。」詠歌も同調する。「そんな気になるんなら、荒神様にだって行ってみりゃええだが。美邦ちゃん小さかったけん、荒神様が大きく見えただけかも知らんだで?」
「じゃあ、あたし案内してあげやあか?」
身を乗り出した千秋に、首をかしげる。
「荒神さまに?」
「うん。他に町のこととかも。」
胸が温かくなる。新しい暮らしに不安を感じていたが、千秋とは打ち解けつつあった。
「ありがとう。」
「それがええな。」詠歌も微笑む。「美邦ちゃん、この町について、なぁんも知らんもんな。」
*
風呂上り――寝間着に着替えて部屋へ戻った。
ふすまを開けたとき、窓の外に人影が見えた。しかし闇に目が慣るにつれて消えてゆく。
照明をつける。部屋の闇が追い払われた。だが、窓の外までは明るくならない。
美邦はそっと窓へ近寄る。
伊吹山は暗闇の中に姿を消していた。
海から渡り来る風の唸り声が聞こえる。あるいは、遠くから轟く
今になって、詠歌が発した言葉の意味を理解した。
言われなくとも、外へ出るのが
美邦はそっと障子を閉じた。
*
その晩、夢を見た。
目の前に、大きなドールハウスがある。向かい側には、小学生低学年ほどの女の子が
彼女は美邦の姉なのだ。自分に姉などいないはずなのに、夢の中の美邦は「妹」だった。
――だけんね、ちーちゃん。
――わたしとちーちゃんにしか見えんもんは、他の人にしゃべっちゃだめだで。でないと、またお母さんも怒っちゃうけん。ひょっとしたら、この子らも捨てられちゃうかもしらん。
美邦は、手元の着せ替え人形を握りしめる。
わかった――と答える。
――それじゃあ、指切りしやぁか。
それから姉妹は、小指を絡ませ約束を交わした。
ただそれだけのことなのに、酷く懐かしい感触がする。このときになり、自分の帰るべき場所に帰ってこれたような気さえした。
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