3 見知らぬ叔父
翌日も、放課後になると病院へ向かった。
一昨年に昭が体調を崩して以降、学校帰りに友人と寄り道をした記憶はない。一ヶ月前からは、美邦に気を遣って放課後に誰も拘束しなくなった。
病院に至る交差点に差し掛かる。
信号機の
いつも通り病院に着いた。
長い廊下を渡り、昭がいる病室のドアを引いたときだ――見慣れない後ろ姿に気づいたのは。
美邦に気が付いて彼は振り返った。
美邦は息を呑む。
彼は、体調を崩す前の昭だった。
美邦は瞬き、目を凝らす。
彼の顔が、昭とは違うものに変わる。昭とは似ているが昭ではない――見ず知らずの四十代の男性だ。
初対面の人を前にする時の癖で美邦は顔を伏せた。
「大丈夫だから、こっちに来なさい。」
しゃがれた昭の声が聞こえてくる。
「この人はお父さんの弟の
恐る恐る顔を上げる。
「谷川さんに――?」
啓と呼ばれた男は、戸惑ったような表情を浮かべていた。瓜二つではないが、確かに似ている。自分の親戚――父以外の血縁者を初めて目にした。
美邦は再び顔を伏せ、ベッドへと近寄る。
「えーっと、美邦ちゃんですか?」
美邦の様子を窺うように啓は問う。
「
啓と距離を取りつつ、美邦は答えた。
「いえ、その――昔のことは、よく覚えてなくて。」
「ああ、そうか――。美邦ちゃん、小さかったけんな。僕のほうは、美邦ちゃんのことをよう覚えとるけど――。それでも、
思わず首を
「ひらさかちょう?」
「美邦ちゃんが小さい頃に住んどった町の名前だが。」
幼児期の記憶と、「ひらさかちょう」という言葉の響きが繋がる。不吉な言葉を連想させる響きだが、潮の香りの漂うあの町の名前に違いない。
「町の名前――初めて聞きました。」
啓は唖然とし、昭へと視線を向けた。
「町のこと教えとらんの、本当だっただな。」
「別に、知らなくてもいいことだったからだ。」
その言葉が胸に突き刺さる。美邦にとって、知らなくてもいいことではないはずだ。
啓もまた呆れ顔で抗議する。
「知らんでもええなんてことないがぁ。この十年間――こっちが、どれだけ気にかけとったか。」
だが、冷たい言葉を昭は返す。
「別に――来てもらわなくともよかったんだ。たとえ俺が死んだとしても、そっちに連絡を入れるつもりはなかった。いや、谷川が勝手に連絡したくらいだから、どうなっていたかは分からないが。ともかく――美邦をそっちに遣るつもりはないから。」
美邦は視線を上げる。自分の今後のことについて話題が出ていたことを何となく察した。
啓は説明しだす。
「いや――ついさっきまで、お父さんと話しとっただけん。もしも――もしもだけれど――お父さんの身に何かがあったら、美邦ちゃんはどうするのかって。僕自身は、こっちで引き取っても構わんって思っとるだけど。それ言ったら、お父さんから反対されてしまって――。僕は、美邦ちゃんの意見も聞いてみるべきだって言っただけど。」
「その――ひらさかちょうで暮らすってことですか?」
「うん。」
美邦には何も答えられない。
母がいた町のことは知りたかった。しかし、実際に預けられるとなれば躊躇せざるを得ない――そうでなければ、施設に預けられるわけだが。
俺は行くべきではないと思うがな――と昭は言う。
「あそこは京都みたいに拓けた処じゃないし、閉鎖的で人も冷たい。近所との付き合い方も、生活の利便性も全く違う。住み慣れた土地や、こちらの友達まで捨てて、あんな処に行く必要はない。」
「あんな処――って。」
啓は呆れ顔となる。
「兄さん、自分の生まれ育った処だが? 十年前までは兄さんだって平坂町に住んどったが。僕だって今でも住んどるに――そんな人の冷たい処でも、閉鎖的な処でもあらせんが? 何で、そんなことを――」
ふと、美邦は疑問に思う。
昭と啓の姓が違うのはなぜだ。昭は、いつから平坂町に住んでいたのだろう。そこに啓は今も住んでいる。平坂町は昭の故郷なのだろうか。
「事実を言ったまでだ。美邦も、一度でも行ってみれば判る。」
それから、昭は溜め息をついた。
「俺だって、何が何でも美邦を平坂町へ帰したくないわけじゃない。ただ――俺は心配なんだ。今まで住んできたマンションも引き払い、こっちにいる友達とだって別れて暮らさんとならんのだぞ? はたしてこんな中途半端な時期に転校して、美邦が向こうでやっていけるかどうか――」
「だから――それは美邦ちゃんの意見を聴いてみるべきで――」
「まあ――そうだな。」
うなづいて、美邦のほうへと昭は顔を向ける。
「美邦はどう思ってるんだ? さっきから、肝心の美邦を置いてけぼりにしてしまっていたが。」
「わ――私は――」
急に問いかけられ、美邦はたじろいだ。施設での暮らしと、親戚の元での暮らし――どちらがましなのか分からない。
「そんな――急には答えられる話じゃないよ。その――向うのこととか、何も知らないし。今まで、名前すら聞いたこともなかったのに――」
優しげな声で啓は言う。
「まあ、あくまでも選択の一つって話だけぇ。実は、家内にも娘にも、まだ何も言っとらんに。一度、平坂町へ行って、顔を合わせてから考えるのも悪くないと思うだけど。」
「そう――ですね。」
昭は、つまらなさそうに窓へと顔を向ける。
彼方には、橙色に染まった空があった。
「いずれにしろ――俺はもう生きて帰ることはないんだな。」
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