２ 記憶の神社
リビングの照明を入れる。
部屋は掃除が行き届いていた。一方、テーブルの上の小箱には様々な処方箋が突っ込まれている。昭が帰ってくることを信じ、そのままにしていたのだ。
自室で私服に着替えた。
着替え終えると同時に、スマートフォンが鳴る。画面を
｢親戚の方のこと、お父さんと話せたかな？」
父の同僚である谷川からだった。
谷川とは、幼い頃から美邦も顔馴染みだ。ここ数日は、今後のことについて相談に乗ってくれている。
ありのままのことを返信する。
｢ええ。でも、反応は先日と変わりませんでした。
私が親戚に預けられるのはよくないと思ってるみたいです。」
返信はすぐに来た。
｢そうか。」
｢何で、あんなに親戚の人を嫌うかなあ。」
｢美邦ちゃんも、もう一か月も独り暮らしだし、僕としても心配なんだけど。」
｢会社に関することは構わないけど、何でも全て保護者代わりになれるわけじゃないから。」
｢ご迷惑をおかけします。」
｢いや、いいよ。美邦ちゃんは今は大変なんだし。」
｢どうあれ、お父さんと話し合って早めに決めよう。」
｢女の子の一人暮らしは危ないからね。何かあったらすぐ連絡して。」
美邦は、｢ありがとうございます」と書かれた犬のイラストのスタンプを送信する。
リビングへ戻ると、ひとけのない空間が目に留まった。
家にいるとき、テーブルの前のソファにいつも昭は寝転がっていた――本格的に体調を崩し始めた一昨年から。それまでは分担していた家事もできなくなってしまった。以降、美邦が一人でしている。
――お母さんがいなかった分、
――自分のことは自分でしてきたじゃないか。
昭の言葉を思い出しながらキッチンへ行く。
冷蔵庫を開けると、扉側の収納棚にはインスリンの注射器が竝んでいた。
作り置きの
野菜煮込みを電子レンジで温める。
――ねえ、お父さん。
――どうして、私にはお母さんがいないの？
幼い頃から、美邦は何度もそう尋ねてきた。
そのたびに、昭はこう答えた。
――お前が三歳の頃、病気で亡くなったんだ。
続いて、美邦はこう尋ねるのが常だった。
――じゃあ、お母さんと住んでいた処はどこ？
母とは、年季の入った家で暮らしていた。
恐らく、幼稚園に入る前のはずだ――近所に今もある幼稚園に三年間、美邦は通っていたのだから。しかし、幼稚園へ母に送ってもらった記憶はない。母は――京都にはいなかった。名前も知らないあの港町で亡くなったはずなのだ。
おぼろげながらにも記憶はある。波止場に連なった漁船や、複雑に入り組んだ路地、地元の子供と遊んだことも覚えている。しかし、記憶に反して昭は必ずこう答えた。
――いや、ずっと京都に住んどるよ。
そんなはずはないのに、記憶違いだと言う。
しかし、港町の景色と母との記憶は切り離すことができない。だからこそ、名前も知らないその町について思い出すたびに恋しくなる。特に――母と一緒に参拝した神社の記憶は格別だ。
大きな鳥居のある神社だった。
母に抱かれて、どこまでも山の中に続く参道を昇っていたのを覚えている。湿った空気と、山に特有の土の匂い。冷え込んだ空気が肌に触れ、
――そして。
石段を登りきると、
普通ではない感触を受ける場所だった――弱い波のような何かを。それについて思い出す時、恋しさ以上の感情がやってくる。
――何か、大切な「こと」があるような気がする。
それが何なのかは分からない。しかし、昭がいなくなってしまうことへの恐れや、見知らぬ土地への不安よりも、もっと惹きつけられる「何か」がある。
成長するにつれて、次の質問が加わった。
――お母さんのお墓はどこ？
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