最終話 思い出の薔薇
星の輝きも、月の光りも、すべてを覆い隠す灰色の闇。
会場のざわめきが遠くなるほどに、わたしはひたすら歩いた。
長くて暗い廊下を抜ければ、庭園がある。
天使の像を中心に、美しい虹色を纏う水が流れる噴水を目指していく。
王城に来ることがあれば、向かいたくなる場所だ。
噴水の周りは薔薇で囲まれていて、香りも楽しむことができる。
薔薇──ルキウスが花を贈ってくれるときは、必ず薔薇だった。
丸い花びらが特徴の白薔薇ロサ・アルバや、同じ種類で香りが強いダマスケナ。
それから、ビロードかかった深い赤色で、剣弁咲きの花びらが美麗な大輪種パパメイアン。
一番多く贈ってくれたのは、黒薔薇の代表品種であるパパメイアンだ。
濃い赤紫色が綺麗で香りは強いものの、艶やかに咲き誇る姿にわたしも特に気に入っていた。
「…………」
思えばわたしは、ありきたりな言葉しか伝えたことがない。
「ありがとう」「嬉しい」「大切にする」
当たり前のことばかり。子供だって言える。
好きだと言ったことも、ルキウスから聞かれたから答えただけのもの。
わたしの本心を、口に出したことはなかった。
なのに、どうして。彼の愛を得られると思っていたのだろう。
そんな努力を一切しなかったのに。
これは、当然の結果だ。
それに、わたしと離縁してナディア殿下と婚姻を結ぶことは、ルキウスにとっても利益になる。
伯爵家の娘よりも王女殿下と結婚できれば、王家との強い結びつきが生まれ、ルキウスを支える大きな後ろ楯となるだろう。
わたしははじめから、ルキウスに相応しい人ではなかったのだ。
「……馬鹿みたい」
胸が張り裂けそうで、痛くて苦しくて堪らない。
うつむいたままドレスを握り締め、耐えようとした。
けれど、視界に入るドレスが徐々に歪んで見えて、一粒また一粒と落ちていく。
わたしはまだ、ルキウスの妻として王城に来ている。
アーノルド殿下主催の夜会を、途中で投げ出すことはできない。
だから、会場に戻るためにも、泣いたらいけないのに。溢れてとまらない雫が、頬をつたい流れていく。
どうにかしなければ、とハンカチを取り出し拭おうとした。けれど。
「っ…………」
今日、持ってきていたハンカチは、ルキウスの頬を拭いてあげたときのものだった。
わざわざ街まで迎えに来てくれて、慣れないことをして怪我を負っていたルキウス。
自分の怪我より、わたしの心配をしてくれていた。
今まで無関心だったのに、離縁の話をした途端に彼は変わった。
デートをして、外食やオペラまで。
わたしを、色々な場所へ連れていってくれただけじゃなく。
ルキウスは、自身のことまで教えてくれた。
好きなもの、いつもしていること。
意外にもルキウスは、暇さえあればお酒や読書を嗜むほど好きだという。
それから、身体を動かすことも。
嫌いなものは聞いていないけれど、おそらく夜会が好きではない気がする。
いつも出席したときは、不機嫌だったから。
よく見て会話をすれば、彼を自然と知ることができた。
本当は甘えたがりで優しくて、感受性豊かだ。
いつも笑みを浮かべていただけのわたしに、心を開いてくれるはずもないのに。
なぜ、わたしは、彼との距離を埋められると思っていたのだろう。
どうして、自分に足りなかったものに、気づけなかったのだろう。
どうして、今さら。
「……優しく、したの……っ……」
次々と溢れる涙は、止まることを知らず。涙腺が壊れてしまったかのよう。
ふと、肌に冷たい感触がした。
気づけば庭園まで来ていて、霧のような細かな雨が注がれていく。
濡れることよりも、寒さよりも。なにより、すべてを。
「……洗い流してくれたら、いいのに」
涙も、恋心もぜんぶ。
遠くに流れて、忘れられたら──。
「ロティ」
「っ…………」
不意に、後ろから抱き締められて、身体が驚きに跳ねる。
「……る、ルキウス……」
「身体が冷えるよ」
「…………」
先ほどの出来事なんて、まるでなかったかのように優しく接してくる。
本当にずるい人。
冷えた肌に浸透していく彼の体温。
胸がズキズキして、辛くて苦しくて、雫が一筋流れ落ちる。
今はまだ、彼の話を聞く勇気がない。
逃げ出したくて彼の腕から離れようとするけれど、よりきつく拘束してくる。
「離して……ルキウス」
「ねぇ、ロティ」
「嫌……いやなの……っ」
お願い、今は、言わないでほしい。
ごめんなさい、弱いわたしを許して。
でも、そんなわたしの想いを引き裂くように、緩むことのない彼の腕。
心が粉々に砕け散っていく。
「ごめ……なさい、いま、は」
「ロティ、愛している」
「────っ」
わたしは、声を出すことができなかった。
今、ルキウスはなんて言ったの……?
「ロティ、君を愛している」
「っ、うそ、よ……」
「言ったでしょ?離さないって」
「ぁ、……」
冷えていた身体が急速に熱を持ちはじめ、トクトクとはやい脈を打っていく。
彼の言葉が本心かもわからないのに、受け入れたいと思っている自分がいて。
これ以上、暴かないでほしい。
縋りついて、彼の言葉に甘えてしまいそうになるから。
「でも……貴方は王女殿下と……」
「ねぇ、ロティ。俺は君の本心が聞きたい……本当に俺と、別れたい?」
「わたし、は……」
混乱しているわたしの中に、ルキウスは難なく入り込んでこようとする。
絶望を感じていたはずなのに。彼の言葉は簡単に、わたしの心を溶かして触れて暴いていく。
また、頬に雫が伝ったのか、濡れた感触がした。
「でも……わたしでは──」
──貴方のために、ならない。
身をもって知った今、その想いがわたしを踏みとどまらせる。
本当は、別れたくない、離れたくない。わたしだって愛している。
でも、最後の一歩が踏み出せずにいるわたしは、本音を素直に伝えることができない。けれど。
「お願いだ、ロティ……俺を、捨てないでくれ」
「っ……」
悲痛な彼の叫びに、心臓が強く音を立てる。
抱き締めてくる腕から震えが伝わり、ルキウスの言葉が重くのし掛かってくる。
わたしは、彼の気持ちを聞くこともなく、ひとりで思い込んで離縁を決めてしまった。
それが、最善で彼の幸せだと決めつけて。
今のわたしのように、彼が悲しむことを考えず。
なんて、ひどいことをしてしまったのだろう。
「ご、めんな、さい……ルキ、ウス」
「ロティ……俺から離れないで」
ルキウスの身体に包まれていたわたしは、雨に濡れてなかったけれど。
彼は上着を肩にかけてくれたかと思えば、うつむいたままのわたしを自身のほうへ向かせた。
わたしは、ルキウスの顔をみることができないままだ。
「ロティ、顔を見せて」
「だ、だめ……」
「どうして?」
「ひどい、顔を、してるから」
散々泣いたせいで、瞼が腫れぼったくて熱を持っている。
きっと、ひどい顔をしているに違いない。
絶対に見られたくないと思っていたのに。
ルキウスは許してくれなくて、大きな手のひらが両頬を包んでくる。
目の前には、うっとりした柔らかな笑みを浮かべるルキウスの相貌。
雨に濡れた黒い髪は乱れていて、凄まじい色香を放つ彼から目が離せない。
「ああ、かわいい……シャーロット」
「っ、ルキウス、風邪を引くわ」
「ねぇ、もっと見せて。ぜんぶ俺に」
ぐっと屈んできたルキウスは、わたしの顔を隅々まで凝視してくる。
まるで、ひとつも見逃さないように、瞬きすらせず。
わたしの顔は彼の、赤い瞳に射抜かれて穴が空いてしまいそうだ。
「ふふっ、かわいい……ロティ、かわいい。好き、好き、大好き……」
言わなければ死んでしまう。
そんな様子のルキウスを、わたしは思わず抱き締めた。
彼の体温がわたしを暖めて、雨をものともせず晴れていくように心地良い。
「こんな、わたしでも受け入れてくれるの……?」
「君じゃなきゃだめなんだ、君しかいらない」
醜くても、我が儘でも、ルキウスは受け入れてくれる。
堪らず彼の胸に顔を埋めるわたしを、ルキウスは大きな体躯で包んできて。
わたしは枯れない涙をこぼし続けた。
「……ルキウス」
「うん」
「わたしも……好き、なの……離れたくない」
「…………っ」
吐露した途端に、鼓動がうるさいくらいに鳴っているけれど。気持ちはとても晴れやかで、軽くなった。
「やっと、俺のものだロティ……」
「……貴方以外のものになったことないわ」
「もう二度と離さないから」
急に低い声で宣言されて、わたしの心音が跳ねる。
ドキドキして固まったままのわたしにお構い無く、ルキウスは強く抱き締めてきて。
頭部になにかが触れた気がして、ハッと顔を上げれば額にも柔らかな感触。
ルキウスの唇が触れている。
理解したときには、頭が真っ白になっていた。
「ぁ、……っ……」
「ははっ、かわいい……」
心底楽しそうであるが、わたしはそれどころではない。
「風邪を引いてしまうね、帰ろうか」
声すら出せずにいるわたしを、ルキウスは軽く横抱きして王城をあとにしたのだった。
──後日。
ナディア殿下の招待で、わたしとルキウスは王城に来ていた。
なんでも、夜会の件で話があるとかで。
手紙をもらってから一週間後に、ナディア殿下と約束を取りつけた。
王城の庭園にセッティングされたテーブルまで、わたしとルキウスは向かったのだが。
すでにナディア殿下は席についていて、アーノルド殿下も一緒に紅茶を嗜んでいた。
緊張で汗が滲みそうになる。
「ごめんなさいね、お兄様から夜会でのことを聞いたものだから」
「その節はご迷惑を……」
「謝るのはこちらよ、ルキウスから話を聞いてなかったのでしょう?」
わたしの正面に座るナディア殿下は、優雅に紅茶を飲みながら謝罪を繰り返す。
ルキウスは無表情でまったく喋らないし、すごく居心地が悪い。
「ルキウスからなにか聞いたかしら?」
「仕事だったとは、聞きましたが……」
ため息を吐いて、頭を抱えるナディア殿下。
相変わらず、ルキウスは口を閉ざしたままだ。
「今、お兄様と義弟の間で派閥争いが起こっていることはご存じ?」
「はい、おおよその話は耳にしたことがあります」
「そのせいで、お兄様は日常茶飯事で命を脅かされているの」
「なんてこと……」
事態は思っていたより深刻なものだった。
王位継承の争いごとは、昔からあるもので王族ならば避けて通れない道だ。
でも、それは同じ血筋の兄弟同士が、話し合いなり勝負をして決めるのが主だった。
確かに、中には野心家だった王子が、実の兄弟を手にかけた話もある。
義弟であるギャレット様は側室の子ではあるものの、王族には変わりない。
そのため、ギャレット様に王位継承権が回ってくるよう、派閥争いが繰り返されている話は聞いていた。
しかし、例えアーノルド殿下に万が一のことがあっても、正妃の子はアーノルド殿下だけではない。第一王女のナディア殿下もだ。
ギャレット様を本気で王位につかせようとするならば、危険なのは王太子殿下だけでないはず。
「まさか、ナディア殿下も狙われているのですか?」
「ええ、そうなの。だから、今回の件はそれを逆手に取らせてもらったのよ」
王家と変わらないほど、大きな権力を持つルーヴェルト公爵家。それに、第一王女であるナディア殿下。
もし、ルキウスとナディア殿下が婚姻関係を結んだ場合、ナディア殿下は王家とルーヴェルト公爵家2つの力を得ることになる。
そして、これらはアーノルド殿下にもいえること。
実の妹がルーヴェルト公爵家に降嫁したとなると、ルキウスとアーノルド殿下は義兄弟となる。
下手に手を出せなくなるというわけだ。
「わたくしたちを手にかけようとしている者を、一網打尽にするために餌を巻いたの」
「そうだったのですね」
「ルーヴェルト家はそれだけ大きな家門だから。焦ればボロが出るでしょう?」
「私もいい加減、辟易しているからね。ルキウスには条件として──」
「アーノルド」
真摯に話を聞いていたのだけれど。
地を這うような低音が割って入る。
ようやく口を開いたかと思えば、ルキウスはアーノルド殿下を睨みつけていた。
どうしたんだろうか。
「あ、うん、ルキウスには協力してもらったんだよ」
「な、なるほど?」
咳払いをしてアーノルド殿下は言い直した。
ルキウスといえば、明後日のほうを向いて素知らぬ顔をしている。
わたしはこのよくわからない状況を、首をかしげて見ていたのだけれど。
思えばルキウスは仕事とはいえ、派閥争いの中心に身を投じたことになる。
きっと、ルキウスも標的にされるのではないか、それが一番心配だった。
「夜会での件は理解しました。でも、ルキウスに危険はないのですか?」
「まさか、話してないの?ルキウス」
ピシャリと扇子と閉じて、ルキウスを叱咤しているナディア殿下。
今度はルキウスが睨まれていて、なんなのだろうかこの状況。
「ルキウス、わたしに言えないことなの?」
「あ、いや、その」
「なんて様なのルキウス」
「……うるさい女だな」
「なんですって?」
なんだか仲がいいなぁ。と羨ましい目で見てしまう。
モヤモヤしてしまって、わたしはこんなに嫉妬深い女だったのかと、ため息をつきそうになる。
「もういいわ。ルーヴェルト公爵家はね王家の
「王家の
「そう、今は代替わりしてルキウスがその役目を背負っているのよ」
ルーヴェルト公爵家が王家に連なる権力を持っているのは、その役目によるものだという。
ルキウスは今まで、王宮で雑務をしながら、アーノルド殿下を守る騎士のような役割をしていた。
もしかして、ルキウスは心配させまいとして言わなかったのだろうか。
それでも、正直に打ち明けてほしかった。
「この冷血無慈悲が死ぬはずないから安心して頂戴」
「そ、そうですか」
冷血無慈悲とは一体。
なんのことかはわからないけれど、危険なことには変わりないはず。
ルキウスが怪我をすることも、あり得るのでは。と考えただけで、血の気が引く思いだ。
「では、私たちは戻るから、あとはふたりで話し合うといい」
「はい、ありがとうございます」
退出する両殿下に、一礼をして見送った。
席につこうかとも思ったけれど、ふと庭園の薔薇が目につく。
今の季節は満開で見頃だ。
肌を撫でる風とともに、いい香りが漂い散った花びらが舞っている。
とても美しい光景だ。ずっと見ていても飽きないほどに。
「ロティ」
「っ、ルキウス……!なにしてるの」
名を呼ばれたと思い振り向けば、ルキウスはその場に跪いてみせた。
焦るわたしの手を取り、優しく握り締めてくるルキウス。
反らしもせず、まっすぐに見つめられて、心臓が高鳴る。
「話してなくて、ごめんね」
「いいの。でも、これからは話せることは話してほしいわ」
「わかった」
まっすぐに見つめてくる赤い双瞳。
握り締められた手の甲に、彼の額が触れて。まるで、誓いのようだった。
「ルキウス」
「なに?」
「騎士と変わらない仕事だと聞いたわ。危険なのでしょう?」
アーノルド殿下を守るために、日々奔走していると聞いた。
常に危険と隣り合わせの生活をしていたなんて、わたしはなにも知らなくて。
言ってくれなかった悲しみよりも、心の拠り所を築いてあげられなかった自分自身を責めてしまう。
「我が儘かもしれないけれど、わたしは貴方が危険な目に合うのはいやなの」
「……ロティ」
花びらを乗せて舞う風が、ルキウスの髪を撫でていく。
揺れる漆黒の隙間から、覗く赤い瞳。愛してやまない彼が傷つく姿は見たくなかった。
けれど、ずっとルーヴェルト公爵家が背負ってきた役割だから、やらないでとは言えない。
ならば、わたしにできることはなにか。
今からでも彼の妻として、支えられたらなによりの喜びだ。
「わたしは貴方の妻として、支えていくから」
「…………」
「だから、約束してほしいの。絶対に死なないで」
「ははっ、……」
目を見開いたかと思えば、ルキウスはわたしの手を引いて、倒れ込む身体を強く抱き締めてきた。
柔らかな芝生の上で、わたしは彼に寄り添う。
密着した部分から彼の鼓動が伝わり、同じようにドキドキしてきて。
まるで、ひとつになれたようで嬉しくなった。
「安心してよ、ロティ。俺を殺せるのは君だけだから」
「ふふっ、なぁに……それ」
笑みをこぼすわたしたちの周りは、光を浴びて輝く景色と濃厚な香りで囲われている。
気づけば握られていた手に、絡んでくる指先。
そのまま寄せられた彼の唇が、手の甲に触れて熱を帯びていく。
一瞬も逃さず、こちらへ流される視線。
薔薇のように赤い瞳は、一生わたしを捕らえて離さない。
冷淡だった夫が離縁と聞いて、ヤンデレ溺愛モードに豹変しました 玖黎 @Sovranoxxx
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