暁星のヒカル

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暁星のヒカル

 少年は、掲示板に張られたクラブ活動報告の紙を見ながら、ぼんやりとたたずんでいた。もう三十分になる。放課後、特にやることもなければ、やらなくてはいけないこともなくて、用事と暇のその中間にぶらさがったまま時間が過ぎるのを待っていた。

「ヒカル、どうした?何か記事が気になるのか。」

 少年――東雲ヒカルの五年二組の担任、高田先生が声をかけてきた。わざわざ背をかがめてヒカルが見ていた掲示板のほうを向く。

 めんどくさいな…。

 にこやかで健康的な高田先生のことをヒカルはつい先週まで好んでいた。だが、今はそのフレンドリーな態度がお節介にしか感じなかった。

「別に。何でもない。」

 イライラを隠そうとして失敗した。上がり調子の声に、いつものヒカルを知る高田先生は、驚いてヒカルをふり向く。

 この様子だと、まだ知らされていないみたいだな。

「何かあったのか、ヒカル?先生、何でも相談に乗るぞ。」

 いつものヒカルなら、宿題が終わりそうもないとか、プールに浮かぶ虫が嫌だとか、話すことはいくらでもあった。けれどヒカルはだんまりのまま傍を離れた。

児童用勝手口で上履きを乱暴にはきかえた。ランドセルにしまっているせいで少しくたびれた青と白のキャップをかぶり、外に出る。

くもってはいるが、暗くはない。夏だけれど涼しさがあって、遊ぶのにはもってこいの天気だ。泳いだらさぞ気持ちいいだろう。

キャップを深くかぶり直し、ヒカルは帰り道を歩き出した。途中でクラスメートが公園でふざけ合っているのを見つけた。

「ヒカルー!クラブどうしたんだよー!」

「サボりかー!不良~!」

 サッカーボールを転がすのをやめてまで声をかけてきた。

「うっせーよ!」

舌を出して怒鳴り返せば、少年たちは笑いながら再びサッカーに夢中になっていった。

ムカムカする。

腹にたまった気持ち悪さを、ヒカルは唇を噛むことで耐えた。家に帰るころには唇の端が紫色になっていた。

 母親に夕飯に呼ばれたとき、洗面所で唇を確認した。色は元に戻っていて、ヒカルはほっとした。母親に気を使われると、傷口に塩をもみこまれるようで不愉快だ。

 夕飯の最中にも、やはり気を使った口調で話しかけられた。

「ヒカル、学校どうだった?」

「別に。」素っ気なく返した。「何にも。」

「そう……。」

 母親は夕飯のメニューについて、どこで買ったとか、安いとか高いとか、当たり障りのないことを話し続け、ヒカルはそれをすべて聞き流した。

 夕飯を終え、「ごちそうさま。」と箸を置いたところで母親から真剣な声がかかった。

「ヒカル。ごめんね。」

ヒカルは黙ったまま箸を見た。

「あのね、この前行った病院の先生が、専門のもっといい先生を紹介してくれるって。痛みが無くなるようお薬とか治療を試してみたらどうかって。だからね、ヒカル、今度……。」

「いい。」

 ヒカルは母親の言葉をさえぎった。

「そういうの、もうさ、いい。治んないならいい。クラブ、辞めるから。あとで紙渡すから名前書いといて。」

 一気にまくし立てて、ヒカルは自分の部屋に立てこもった。母親が名前を呼んでるのがかすかに聞こえたが、スマホの音楽を再生して布団に寝転がった。そのまま、ヒカルは眠った。


「どんなんだった?」

「遠くで見えなかったあ。」

「私ねー聞いたよ。男子だって。」

 教室に入るとクラスメートがいつもより大きな声で騒いでいた。

 机にランドセルを置き、前に座る五反田葉介の肩をたたいた。

「おはよ五反田。なあ、誰か来んの。」

「よっ、ヒカル。おめー覚えてないのかよ。ほれ。」

 五反田が指差す掲示板のプリントには、

『来週の月曜日から新しいお友だちの目白君が来ます!

・わからないことは教えてあげよう!

・困ったことがあったら助け合いましょう!』

と書かれていた。

「忘れてた。」

「はは!俺も!教室ついてから思い出した。」

 ヒカルはしばらく五反田の夏休みの予定を聞き、話が盛り上がってきたところで担任が転校生を伴って入ってきた。

「なんだよ、いいとこだったのに。」

 五反田のぼやきを聞きながら、ヒカルは体をひねり転校生を見た。黒板には既に高田先生が名前を書いていた。

「目白です。明るいに羅生門の羅で、アクル、って書きます。」

 転校生は指で空中に名前を書くしぐさをして、おじぎをした。

「席、用意してあるからな。あそこだ。それと、出席番号は一番後ろになるから気を付けてな。皆、目白君は来たばっかりで慣れないことも多いし、クラスで協力するように。」

 礼儀正しい男子に、クラスの女子は浮かれているように見えた。男子は早速話しかけて、アクルはそれに大人っぽく返していた。

 ヒカルは違和感を感じた。アクルはどちらかと言えば、ヒカルの苦手なタイプだ。だが、話しかけてみたい好奇心に駆られた。色白なアクルと日に焼けたヒカル。見た目も異なるし、話が合うとは普通なら思わなかった。

だが、なぜだろう。ヒカルは、転校生と自分は似ていると感じた。

その後も、ヒカルは声をかけようかと迷い、その間にアクルは他のクラスメートと話しだしてしまっていた。そんなことをくり返すうち、あっという間に放課後になった。ヒカルが最後の授業の教材の片付けをして、職員室と教室を往復している間に目当ての人物はいなくなっていた。クラスメートに訊くと、もう帰ってしまったようだ。

 がっかりしたが、校門から校舎まで距離のあるうちの学校なら追いつけるかもしれないと思い、ヒカルは急いでランドセルを背負った。急ぎ足で階段へ向かうと廊下の向こうから、あまり会いたくない人物が歩いてきた。だが、母親から連絡が行っていたのか、昨日練習をサボったというのに、水泳クラブの担当は「気を付けて帰りなさい。」と言うだけだった。

 校舎を出て校門に続く校庭を見回しても、アクルの姿はすでになかった。追いかけようと、近道でプールの横の道を通ったとき、ホイッスルの音と消毒液の匂いに、今日も水泳クラブの活動日だったことを思い出して、脱力してしまった。

 何も、今日会うこともないじゃん。明日でいいや……。

 ただ、家に帰ってもやることがないことに気づき、余計に疲れが増した。

 一回学校の校舎から出てしまったからか、また戻ってうろうろするのは気が引けた。それに水泳クラブの仲間や担当と鉢合わせたら最悪だ。

 真っ青な空に浮かぶ雲をぼんやりと眺めながら、のそのそと帰り道を歩いた。

「東雲くん。」

 いきなりかけられた声に、ヒカルはアスファルトにできた傷に引っ掛かり、つんのめった。

「わっ!ごめん。怪我しなかった?」

「お前、目白……。」

 今日一日中、話しかけるのをためらっていた本人に声をかけられたヒカルは、つい逃げ腰の体勢になってしまう。

「足ひねっちゃった?」

「別に……。」

「ホントごめん。驚いたよね。」

「いや、いいから。」

 ヒカルはキャップのつばをつかみ直す。

「帰りこっち?一緒に帰ってもいいかな?」

「んなの、別に。好きにすれば。」

 アクルの方から距離をつめられ、ヒカルは居心地の悪さを感じた。

「東雲くんさ、水泳クラブなんだって?」

「なんだよ。いきなり。」

「クラスの子が言ってたよ。うちの学年で一番早くて、ナントカって選抜の候補にもなってるって。」

 ナントカって……みんな名前覚えるほど興味ねぇんじゃん。

「すごいね。」

「すごかねーよ。それと、もう辞めるし。」

「え?」

「辞めんの。クラブも、水泳も。」

 どうして、と訊かれるのだろうか。

 顔をそらして唇を噛んだヒカルに、アクルは言った。

「東雲くんさ、肌が弱い……ううん、日に弱いって言われた?」

「は?」

「ひどい日焼けとか、発疹とか。病院に行って、日に当たらないほうがいいって言われたんじゃないの。」

 ヒカルは絶句した。

アクルの言ったとおりだった。元々、日には焼けやすく、ときにはピリピリと痛むこともあった。それが、つい先日、クラブがあった日の夜に、肌に火にさわったような痛みと発疹が出て、病院で検査をした。詳しいことは主に母が聞いていたが、点滴を受けながら医者と話したときに、水泳を続けてもいいかと聞いたら悲しげに首を振られたのだ。

「診断としては、日光アレルギーとか、そういうんじゃなあい?」

 ふり返って、アクルを見る。

 誰だコイツ? 

朝にクラスメートの前であいさつしたときとは明らかに違う。

けれど、不思議と怖くはない。むしろ奇妙な親しみさえ感じた。

「当たってた?その顔見るとそうみたいだね。なんで当てられたか知りたい?」

 夕焼けに反射してアクルの茶色の瞳が、赤く光って見えた。

「君も、吸血鬼の血をひいてるからさ。」

 アクルはどこまでもにこやかに笑みを浮かべた。

「……俺、オカルトは好きじゃないんだよ。」

「目、怖いよ?大丈夫、僕のこと怖いなんて思ってないはずだ。」

「お前何言ってんだよ。吸血鬼だからなんなわけ?俺は別に……。」

「吸血鬼ハーフである僕らは日に弱い。そして君は長年屋外プールで活動していた。」

 ヒカルを無視して続ける。

「水泳を辞めなければならない理由を、納得できる証拠を、僕が見せるとしても?君は別にかまわないのかい?」

 ヒカルは唾を飲み込み、いつの間にか汗ばんでいた手をきつく握りしめる。

そうだ、吸血鬼とかハーフとか、それよりも水泳だ。水泳以上に大切なものなんてない。いきなり、もう外では運動しないでくれって、そんなの納得できるはずがない。けど、駄目だって先生や親に命令されたら俺には何もできない。手放さなきゃいけないことを納得できるなら、そんなものがあるなら見てやろうじゃないか。

「いいぜ。」

 緊張で言葉は少しかすれた。

「証拠。見せろよ。」

「いいよ。来てっ。」

「おいっ!?」

 ヒカルの答えに満足げに笑うと、アクルはすぐさま走り出した。

「おいっ!どこ行くんだよ!」

「高台の公園。」

「なんでっ!!」

「高いから。」

 アクルの声は弾んでいた。

 昼間はもっと大人しく見えたのに……。急に元気になって。何なんだよこいつ。

 高台へ向かう坂を登りながら、

「ほら見ろよ。もう暗くなってきてる。帰りてーんだけど。怒られるのやだし。」

「今日は日が落ちるのがたまたま早いだけさ。それに。」

 声と共に身軽に足も弾ませ、手を広げてみせる。

「今日から先の日は、日がどんどん伸びていくさ。」

 二人が着いた高台は狭く、崖があるくせに危険を示す立札が置いてあるだけの管理の行き届いていないどうしようもない公園だった。

ヒカルはほぼ走りながらの坂登りに疲れて、ランドセルを地面に落とした。Tシャツは背中とランドセルに挟まれ、汗でびっしょりしている。

アクルも一つしかない一人用ベンチにランドセルを置くと、何でもないかのように、崖の前に設置された木材と紐でできたちゃちな柵を乗り越えた。

「おい目白!何やってんだよ。」

 ヒカルの言葉が聞こえてないかのように、アクルは夕焼け越しに柵と空中のわずかな幅を楽しげに歩き回る。

「おいっ!危ねえって!」

 ヒカルはアクルの手首をつかみ引っ張るが、アクルは意にも介さなかった。

「ここに転校する前、ええと、いくつ前だったかな。群馬の田舎の学校にいてさ、そこはなあんにも無いけど空気だけはよかった。僕、排気ガスはどうにも苦手でね。都会の喧騒も。それでも、この都心の夜景は綺麗じゃないかい?」

「た、ただの……電気だろ。」

 都心に生まれ育ったヒカルはそう答えた。ヒカルにとっては完成したばかりの観光塔でさえ、日常の光景だった。

「都会の夜景を題材にした作品が沢山あった!美術館に行って本当に驚いたよ!たかだか純正な人間でも、夜の美しさをわかるなんてさ!」

 アクルは興奮して、つかまれていない方の手を広げ喜びを表す。

 もう完全に日は落ちていた。

「お前……。」

 ヒカルが呟く。その後に続く言葉は見つからなかった。

「ほらっ。」

 アクルに手を引っ張られ、あ、と開いた口が硬直する。寒気と共に空中に体が投げ出される一瞬に、ヒカルは頭が真っ白になった。

「う、ああああっ、ああっ!」

 落ちるっ!落ちている!!

 背中の汗が一気に風圧で乾いていく!開けた口に夏の夜の空気が無理やり入り込む!

 恐怖で目を閉じたいのに、なぜか閉じることができない。遠くのタワーの点滅がゆっくりと移動するのを見て……そして止まった。

「……あ、え……?」

「東雲くん、ごめん。そんなに怖がるとは思わなかったんだ。」

「なんで、意味が、俺……なんで。」

「落ち着いて。バランス崩すと危ないよ。」

 浮いている。

 ヒカルとアクルは広大な都心のビル群を一望していた。身を寄せているが、二人以外には何もない。それはヒカルに今の状況がトリックでもなんでもないことを思い知らせるには充分だった。

「おい!人に見られたら……!!」

 ビルの間を通るアリのような車を見て、ヒカルは悲鳴じみた声を上げる。

「大丈夫、見えないよ。人間なんかには、さ。」

「見えてないのか……。遠いからじゃなくて……?」

「本当だよ。僕は何度も試したことあるから、絶対に。」

 アクルはヒカルの真正面に立ち、ヒカルの手をゆるく両手で包んだ。

「僕はずっと同種を探してた。」

 アクルの真剣な眼差しと言葉を、ヒカルは黙って聞いた。

「いろんな町を巡った。たまにわざと転校せざるを得ない状況にしたりとか、無茶もやったなあ。それでも吸血鬼にも、僕と同じ吸血鬼ハーフにも出会えなかった。悲しかったよ。僕は独りなんだって、思い知らされて。けどやっと見つけたよ、東雲くん。」

 本当に、本当に嬉しそうにアクルは微笑んだ。

「君のお父さんは、吸血鬼なんだよ。そして君は僕と同じ吸血鬼ハーフだ。」

 ヒカルは何か言おうとして、しかし何も言えず黙り、口を閉ざした。

「君のお母さんは知らないと思うよ?ふつうの人間。そうじゃなきゃ屋外での水泳クラブに入らせるわけないしね。君は吸血鬼ハーフだから、本来なら日に当たる行動は避けるべきだった。吸血鬼にとって日光は天敵……毒だからね。クラスの子に聞いたけど、屋外のプール活動は一年生から、クラブは三年生からずっとやってたんだって?よく今まで体を壊さなかったね。幸運だよ。けど、このまま続けてたら、日焼けや火傷じゃすまなくなる。」

 ヒカルはアクルの手を少しだけ力を入れてにぎり返す。

「……目白、お前も?」

「うん。幸い今は何ともないけど、僕も日に当たれば当たるだけ、体を壊していく。このままでは、僕らは滅びるんだ。」

「滅びるって……死ぬってことか。」

 ヒカルの問いかけにアクルは悲しげに目を伏せた。

「日を避け続ければ、人間並みには生きられると思う。でも、僕たちは吸血鬼と人間のハーフだから……子どもだから……。昼に目いっぱい過ごすことも、夜に働いて生きることも、そのどちらもできない。ずっとこれから、不便な生活を、生きづらい運命を強いられる。」

 アクルが深くうつむく。そして、すぐに明るい笑顔をぶつけてきた。

「だから探さないか?自由に生きる道を!」

「自由……。」

 ヒカルの脳内に明るい日差しの中で泳ぐ自分の姿が見え、街から吹いてきた風でそのイメージはすぐに蹴散らされた。

「自由が欲しいだろ、東雲ヒカルくん。」

 都心のイルミネーションが光る街の空中で、にぎられた手とアクルとの間で目をさまよわせながらも、ヒカルはうなずき返した。


「で。」

 コンビニのイートインスペースで買ったばかりのジュースをヒカルはすすった。

「どうやって探すの。」

 隈のある目でじっとりとにらんでやれば、アクルは苦笑いしてかわした。

 空に浮かぶという決定的な証拠を見せつけられた夜、ヒカルはなかなか寝付けなかった。おかげで次の日――つまり今日だが――寝坊して、教室にはギリギリで飛び込む羽目になった。

 吸血鬼ハーフなら、暑い中走るのもよくないんじゃないのか?

 疲れで授業はほとんど聞いてなかったが、放課後になってすぐ、アクルに家にランドセルを置いてからコンビニで落ち合うことを約束させた。何も買っていないアクルは手持無沙汰なのか、観光スポットの書かれたフリーペーパーで折り紙をしながら、周りの中学生に聞こえないよう声を落として話しだした。

「ヒントは君のお父さんさ。」

「どういうことだ?」

「君と僕は、純粋な人間と純粋な吸血鬼から生まれた50%の吸血鬼。転校してきたとき、僕に東雲くんのことがわかったように、東雲くんだって僕にシンパシーを感じただろう。」

「つまり?」

「つまり、君のお父さんが100%の純粋な吸血鬼だったのなら、絶対に息子のためになにかをのこすと思うんだよね。吸血鬼として生きたのなら、人間社会で生きづらいのはよくわかってるのに、子どもをもうけたんだもの」

「ふぅん。そういうものか。……あれ、俺、父さんいないことお前に言ったっけ?」

「水泳クラブ担当の先生が教えてくれた。」

「あいつさ、お喋りだから気をつけろよ。平気で個人情報話すんだ。プライバシーとかデリカシー勉強してねえんだよ、あの先生」

「わかった、気を付けるよ。それで、東雲くんのお父さんの私物とか、家にある?」

「あー、俺が小学校入る前に事故で死んだんだけど……。あ、これは昨日、母さんに聞いたから絶対な。」

 ヒカルの父親は婿養子だ。茨城のプール教室でインストラクターとして働いていたときに母と出会い結婚し、東京に来た。

「アルバムはあるけど……。そういえば、父さん自身の話、仕事とか、小さいころとか、聞いた覚えがなかった気がする。」

 記憶の中の父親はいつもヒカルを褒めていた。昆虫図鑑や電車に夢中になるヒカルを見るたび、父親は「学者になれるぞ!」と多いに喜んでいた。

「母さんも、父さんが天涯孤独って知ってたから、あんまり訊いてないって。父さんの物も、服とかさ、全部寺で燃やしてもらったらしくて。父さんがそうしてって、母さんに頼んでたんだってよ。だから父さんの物は、ウチにはたいしてねーんだ」

「そうなんだね……。お父さんが仲良くしてた人とかは?」

「うーん……。父さん自分で、友だちいないって言ってたぐらいだし……。あ、けど母さんの兄さんとは仲が良かったぜ。なんか囲碁好き同士で気が合ったとか。」

「へえ。じゃあ、会いに行こうよ。」

 簡単に言ってのけるアクルにヒカルがぎょっとする。ヒカルの不満顔を見て、アクルはバッサリと言い切った。

「来週から夏休みじゃないか!時間はいくらでもあるよ。」


一週間後、二人はヒカルの伯父の家の前にいた。

 母親から電話で訊いた伯父の住所はそう遠くなかった。

 屋敷のような家に気圧されていると、アクルはさっさとインターフォンのボタンを押してしまった。

「伯父さんの名前は?」

「城伯父さん。城って字書くから、お城とか歴史とかが好きなんだ」

 直接伯父の家を訪ねるのは初めてだが、大らかな性格の伯父はヒカルのことを気に入ってくれているから大丈夫だろうと思いながらも、どうしても面倒くさい思いが出てしまった。

 インターフォン越しに名前を告げ伯父に用があると言うと、数分もせずに伯父が玄関を開けて出てきた。

「ヒカルの坊やか、昨年の正月ぶりだな。はああ、大きくなったな。今何年生だ?学校は、ってもう夏休みだったな。休みになったら灯には遊びに来いと何度も言ってるのに」

 灯、とはヒカルの母親の名前だ。

「こんちは、城伯父さん。こっち、友達の目白」

「おお、暑いところよく来てくれた。クラブの友達かい?ヒカルはどうだい?悪さはしてないか?灯のやつは筆不精だからな。儂は手紙は昔から好きだからな。今はSNSだって使いこなしてるぞ。ヒカルはやってらんのか?はああ、そういうところは灯にそっくりだなあ。あっと、立ち話じゃなんだな、あがんなさい。アイスあるよ。それともスイカがいいかな。冷たい麦茶も出すぞ。応接室に来なさい、クーラー効いてて気持ちいいぞ」

 にこにこと笑いながら一方的に話すと、伯父は二人が靴を脱ぐのも待たずに、あっという間に家の奥の方へ行ってしまった。そして大きな声で「菓子はなかったかな。子どもが好きなやつ。ヒカルが来たんだよ。ああそう、友だちもいるから。二人分ね。」と言っているのが聞こえた。

「城伯父さん、パワフルすぎるんだよ。」

「みたいだね。」

 ヒカルがやれやれと手をふる様子にアクルは笑った。

 涼しい応接間で待っていると、すぐに伯父が大量のお菓子とジュースを家政婦に持たせてやってきた。「ヒカルは水泳ばかりでちっとも遊びに来ないからさびしい。」と悲しんでみせる伯父にヒカルもアクルも苦笑いをし、しばらくは伯父の気のすむまで会話に付き合った。

「ところでさ、城伯父さんは、父さんと仲が良かったよね。」

「ああ。ヒカルくんのお父さん……肇くんは碁に詳しくてね。兄妹の誰も碁に関心を示さんから、そりゃあうれしくて会ってすぐ仲良くなったとも。」

「父さんから、何かもらったりしたものある?」

「肇くんから?ふむ、私があげることはあっても、もらったことは……。ううむ、どうだったかな。碁に関する本はいくつかあげたような……。」

 ぽん、と伯父はひざを叩くと勢いよくヒカルに顔を向けた。

「ああ!そういえば百枝のやつ、供養だと言って、肇くんの物を全部寺に持って行ったんだったな!すまないなぁ、ヒカルくん。」

 百枝というのはヒカルの母親の名前だ。

 心底申し訳なさそうな顔をする伯父に、

「いや、別にそれは気にしてないから……。」

「そうかい。あ、いや、そういえばもしかして……。」

「何か心当たりがあるんですか?」

 ジュースをちゃっかり三杯も飲み終えたアクルが尋ねる。

「ウチに蔵があるのを知っているだろ?あそこは読まなくなった本の置き場として使ってるんだが……。前にちょっくら掃除したとき、見慣れない、まがまがしい表紙の本があってな。私の趣味とは違うから、もしかしたら生前の肇くんと貸し借りしたときのものがまぎれたのかもしれん。」

「それ、見てもいい?」

「ああ、もちろん。ただどこにあったか忘れてしまったし、ホコリっぽいぞ。」

 家政婦に案内された蔵に入ると、伯父の言うとおりホコリっぽかった。

 軽くせきこみながら、いたるところに置いてある本を手当たり次第に見ていく。

「城伯父さんに渡したのはわざとだろうね。君のお母さんの性格からすると、いつのまにか片付けられてしまう恐れがあったから。」

「でさ、父さんの物が俺のためにとってあったとして、何が重要なんだ?」

「僕が思うに。」

 アクルは肩にまで舞い上がった埃を落としながら、

「ノスフェラトゥ・ウェイへ行く方法が書いてあるんじゃないかな。」

「ノスフェラトゥ・ウェイ?」

「吸血鬼だけ住む国へ渡るための道、とかかな?」

「かな?って、目白は、そのノスフェラトゥ・ウェイってもの、どこで知ったんだ?」

「僕の両親からなんだけど……。小さすぎて、ノスフェラトゥ・ウェイって言葉しか覚えてないんだ。大きくなったときにちゃんと教えてくれるはずだったんだろうけど、両親はその前に亡くなったし、親戚とも交流は全く無くてね。」

 アクルの言ったことにヒカルは何と言っていいかわからず、黙って本の山を崩した。

一つの山を崩すと、別の山も崩れてきた。横の棚から崩れた中の一冊にヒカルは目を引かれた。

「これか?」

 表紙のデザインがどう見ても碁に関係する本ではないことから、アクルに尋ねてみた。アクルも本の山を崩すのをやめ、近づいてまじまじと見る。

「間違いないよ。」

「伯父さん、オカルトチックでまがまが……?しい、って言ってたけど、そんなでもねーな。ふつうにボロイ本じゃん。柄は、まあ、ちょっと変だけど。」

「人間にはそう見えるのかもね。僕らは吸血鬼ハーフだから、感じ方が違うのかも。」

「伯父さんは、古くてノリが固まっちまったから開かないって言ってたぜ。」

「それなら多分、血で開くんだよ。」

 平然と言ってのけるアクルに、ヒカルが手の甲を指して驚く。

「ち……って、え、この!?」

「そう、血。血液。僕らは吸血鬼なんだから。鍵となるのは血の可能性が非常に高い。」

「わかってんなら、さっさとやれよ。」

「いや、東雲くんがやらないと。」

「は、なんで。」

「これは東雲くんのお父さんの物なんだよ。吸血鬼に関する。なら、君の血でないと意味がない。多分僕の血では開かないよ。」

 血を出すほど、わざとケガをすることにヒカルが顔をしかめていると、

「やってみせようか」

 おいおいおい!

「やめろよ!なにやってんだ!」

 折りたたんだB5用紙をカバンから取り出したアクルは、紙の端で指の皮を切るそぶりをしてみせたのだから、ヒカルは慌てた。

「お前いつも行動が急すぎんだよ!心臓にわりーからやめろよ!」

「そうかい?」

「そうだよ!」

「じゃ、東雲くんの了解もとれたことだし。」アクルはスパッとヒカルの人差し指を紙で切ってしまった。「はい、切ったよ。」

 急な痛みにヒカルは文句を言おうとしたが、これ以上言い合っても無駄だと思い、本の上に指をかざし、血が落ちるのを待った。

 ぽとり、と血が落ちると石のように硬かった本は簡単に開いて中身を見せた。

「本当に開いた……。」

「分厚いけど……カモフラージュなのかな、吸血鬼に関することが書いてない……。」

「この本じゃないってことか?」

 ヒカルは血を乾かすため手をひらひらさせる。

「待って。まだ最初のほうしか見てないから。とりあえず、ざっと見てみる。」

 アクルが床に座って文を流し読みしてるのを見て、立ったままのヒカルは手を後ろ手に組んで待った。

「そういや、お前、クラスの女子とかに声かけられてたじゃん。」

 クラスで誰に対してもにこやかな対応をしていたアクルを思い出して言った。

「うん。夏休み、みんなで遊ばないかって。」

「……行かなくていいのか。」

「そんなことより、僕らが滅びない方法を探すほうが大切だよ。」

「けどよ、クラスメートだろ。ちったぁ仲良くしてもいいじゃん。」

「なんで?」

「いや、……はあ?」

 なんで、って……こっちが言いてーよ。

「仲良くしゃべってたじゃんか。」

「フリだよ、フリ。せっかく同じ吸血鬼ハーフに出会えたんだ。イイコを演じて、学校を追い出されないようにしなきゃ。大体なんで、ただの人間と仲良くしないといけないのさ。あの子たちは僕らとは違うんだ。僕らのように生きることに必死にならなくていいし、滅びることに怯える必要もないし。」

 淡々と、アクルは言った。ページをめくる動きに変わりはなく、本心から言ったことだとヒカルには見えた。

 生きることに必死にならなくていい。

ヒカルはそんなふうには思えなかった。

同じクラスの一番後ろの席の大崎は、野球のリトルリーグに入り毎日練習でくたくたになっている。こっそり教えてくれたが、父親のプレッシャーがきついらしい。大崎のお父さんは学生時代に甲子園で活躍していたという。

窓側の真ん中に座る上野は、将棋の奨励会というやつでプロ入りを目指しているのは有名だ。別の世界のことでよくわからないが、プロになるのはとても大変で、プロになった後も将棋の勉強を一生していかなければいけないと男子たちで話した。一生勉強なんて、俺からしたらありえない。それだけで上野はすごいと思った。

一番前の席で熱心に授業を聞く神田は、中学受験で女子御三家の一番難しいところを受けるらしい。まだ五年生だぜ、とからかったときは怒るでもなく、それどころか静かに笑って、「外交官になるのは夢だから。」と話した。いつだったか神田を迎えにきた母親を友だちと見たことがあった。車の前で神田に、もっと頑張れだの、他の子に負けてもいいのか、と強い口調で言っていた。神田の顔は見えなかったが、なんとなく俺らもそのことをからかってはいけないことはわかった。

ヒカルが知る五年二組の中だけでも、必死に毎日努力している人間は確かにいる。ヒカルにはその子たちがアクルの言うように、なんにも怯えずに生きているとは思えなかった。

そう気づくと、アクルの後ろ姿にイライラした気持ちがわいてきた。

 俺と仲良くするのは、俺が吸血鬼ハーフだからなのか?そうじゃなければお前にとって、俺は仲良くする意味がないってことか?俺だって、吸血鬼ハーフだって知ったのは最近で、それまでずっと人間のつもりだったのに。お前の考えてる人間ってなんなんだよ。

「東雲くん!ここ!」

 ヒカルの思考はアクルの声によってさえぎられた。

「ここに『吸血鬼の道』ってある!ノスフェラトゥ・ウェイのことだよ、きっと!」

「本当に、父さんの……。」

 アクルは一呼吸おいて読み始めた。

「『吸血鬼の道、流されず正しく抜ければ望みは叶う。ただし、惑わされてはいけない。やり遂げなければならない。諦めの底に陥るなかれ。彼は誰の前までに抜ければ、願い叶わん』。」

「彼は誰の前、ってなんだ?」

「前後の文章からすると、日にちか、時間だと思うけど……。」

「ググってみる。」

「ありがとう。まだ続きがある……。『方は一つ、二つはない。三礼の坂、五礼の坂にてあらためよ。さすれば四礼の坂の隣にて、吸血鬼の道開かれん。最後に六つの戒めをきけ。闇の道に気をつけよ――この世ならざる迷いを聞くな――未知の道こそ命の穴――今一度を望むなら時を待ち道抜けよ――焦るなかれ――心に従え』……。これで終わりみたいだ。」

「なんか……よくわかんねぇな。」

 ヒカルが頭をかいて肩をすくめる。

「望みが叶う……か。そうか、国じゃなくて、望み……。」アクルが本に目を落としたままつぶやく。「完全な吸血鬼になることが……僕にも……。僕も完全な吸血鬼になれる……。」

本にくいいるアクルの姿に、ヒカルは異常ささえ感じた。

 大丈夫かこいつ。俺がしゃべってんの、ちゃんと聞こえてんのか?

「目白。」

 ヒカルが呼んだことで、アクルはパッと顔をあげた。

「さっきのだけど、「かはたれ」って読むんだと。夜明けのことだって。」

「じゃあ、『彼は誰の前』は、夜明け前って意味か……。東雲くん、このあたりに、三礼、五礼って名前の坂や地名はあるかい?」

「いや、聞いたことない……。それもググる?」

「うん、お願い。『あらためよ』……か。何かを新しくするのか……?それとも調べろって意味かな……?」

 ヒカルはスマホをホーム画面に戻し、アクルを振り返る。

「やっぱりねーな。ここら辺どころか、日本中探してもヒットしなかった。」

「暗号かもね。」

「げ。」

「何だい東雲くん。暗号嫌い?」

「別に。」

「東雲くんて、何かあるとすぐそれ。」

「はあ?」

「別に、って。すぐ言う。」

「悪いかよ。」

「……どうだろうね。」

 アクルの答えにますますヒカルは眉間にシワを寄せた。

「ところで。なんでこれ、こんな古めかしい文章なんだ?父さんが書いたんだろ。」

「多分、伯父さんに見つかったときの言い訳にするつもりだったんじゃない?伯父さん、歴史好きなんでしょ。何かの資料ってことにして。」

 へぇ、父さんもいろいろ考えてたんだな。

「んじゃ、ミッション達成ってことで早く外でよーぜ。ホコリ、めんどくせ。」

 ヒカルの言い分にアクルも素早くうなずき、本を持って蔵から脱出した。

「このあたりの坂を全部調べてみようよ。」

 伯父の家からの帰り道、文の意味は結局、時間以外は読み解けずに、どうしようかとずっと悩むヒカルに、アクルは明るくそう言い放った。

また、とんでもないこと言い出して……。

 とっさに顔をしかめたが、ヒカルが今抱えている父の本を手にできたのは、確かにアクルの行動力あってのことだ。古くて妙なデザインだが、父の本だと思うと、大切な宝物に見えてきた。

「さて、東雲くん。一体なんでだと思う?」

 アクルは指を立てて、クイズ番組のようにおどけてみせた。

「父さんが、わざわざ伯父さんのところの蔵にのこしたなら、本に書かれてた坂もこの近くの坂のことじゃないか……で合ってるか。」

「ピンポーン!東雲くん、意外に成績いいの?」

「お前な……。」

 最初に、それこそ転校生としてあいさつしたときに見た姿は、静かで大人っぽかった。だが、最近のやりとりを思い出すと、人をからかったり軽口を叩いたり、ヒカルとクラスメートのやりとりとなんら変わらなかった。

「俺はお前と違って性格悪くないから言い返さないからな。それで、まさか明日からやるとか言わねーよな?」

「ええっ!?明日からやろうよ!」

「やだよ!今日で三日分くらい疲れたし、明日何度だと思ってんだよ!」

「UVケアして、熱中症対策すればいけるって!」

「俺は暑いからやなんだって!」


 二週間後。

「なあ、目白。次でいくつ目?」

「うぅんと……十七か所目?だったかな……。」

「ぜんっぜん暗号解けねーじゃん……。」

「この街……。坂、多いね……。」

「知らなかったのか?ここ、街が二つの高台とそれ以外に別れてて、坂がめっちゃ多いことで有名なんだぜ。」

「それは……はぁ暑い……知らなかったよ。」

「俺ら、明日には灰になってんじゃねーの……。」

「灰になるのは、人間の作り話だよ……。それと、僕らはハーフ吸血鬼で、半分は人間の血が入ってるから……、ふつうの吸血鬼よりも日に強いはず……。多分……。」

「多分なのかよ……。」

「仕方ないだろう。僕は君以外の吸血鬼に会ったことないし……。僕の知識だって……疲れたぁ……小さいころの親の思い出と、僕自身の実験による推理が大きいんだもの……。」

「なに実験って……。あーやっぱ言うな、いい。しゃべると暑い。」

「やだ言う。……わざと日の下で過ごしてみたり、どのくらい飛べるのか高いところから飛び降りてみたり。僕の力だと、「飛ぶ」というか「浮く」が……正しいかもね。はあ……暑い~。」

 二人はアクルの提案通り、町中の坂を小さなものまでしらみつぶしに探索していた。

言い合いの結果、伯父の家を訪ねた二日後から行われることになった。

ヒカルは愛用のキャップを、アクルは通販で買ったという麦わら帽子をかぶり、水筒や塩タブレットやミニ扇風機を持って歩き回った。もちろん、ヒカルの父親の本もヒカルのリュックの中に収まっている。

坂の名前が書かれた石や、坂の由来についてびっしりと埋め尽くされた案内板をスマホで撮っては、実際に坂を歩き、足元から周囲の家まで観察した。残念ながら、いまだに何の成果も上がらず、上がる気温とミンミンとうるさい大合唱に二人はへばってきていた。

「なあ、お前は完全な吸血鬼になるのが望みなのか?」

 坂の入口で、となりの公園からのびた木陰で休憩しているとき、ヒカルは訊いた。

ヒカルは水筒を、アクルはタオルをそれぞれのリュックから取り出す。

「うん、そうだよ。東雲くんもそうだろう?」

 アクルの言うことをわざと無視する形でヒカルはわざとらしく首を捻ってみせた。

「吸血鬼になったら夜しか動けないんだろ?」

「いや、日光に気を付けるのは変わらないけど、浴びたって少し辛いぐらいですむはず。長生きになって体も丈夫になるし、空を飛ぶのだってもっと自在に、それに簡単にできるようになるさ。」

「……完全な吸血鬼なら、自由に生きられんの?」

「そうさ。」アクルが自慢げに言う。「ちょこっと血を飲んで、日を避ける。それだけであとはすべて自由なんだ。人間社会のネットワークなんかにもしばられなくていい。まあ、僕の親の場合、わざわざ病院で点滴されに行くために、夜に人間の仕事をしてたみたいだけど。だけどさ、栄養分的には同じだからって、血の代わりが点滴っていうのも、なんかちょっとおかしいよね。……僕らはまだ人間社会で暮らしてるから駄目なんだろうけど、完全な吸血鬼になれば、きっと他の吸血鬼たちが僕たちのことを見つけてくれるよ。そのときは仲間について、いろいろ教えてもらおうよ。もしかしたら吸血鬼の住む国も本当にあるかもしれないしさ。そしたら、ずっと楽しく生きられるね!」

 ヒカルは水筒のドリンクを飲んで返答をあいまいにした。そんなヒカルの様子を気にするでもなく、タオルで汗をぬぐい終わったアクルは坂の入口に立つ案内板を見始めた。

 アクルは、ヒカルも吸血鬼になるのだと疑っていない。ヒカルは自分の思いをうやむやにしたままアクルに接していいのか、わからなかった。

「東雲くんっ!」

「なんだよ、もー。」

 中身の無くなった水筒をふりながら、アクルの呼ぶ声にヒカルは文句を言う。

「これ!」

「何?」

「この富士美坂、昔の名前のところ見て!ほら、旧名。」

 ヒカルはアクルが指差すところを読む。

「ウシロノミネ、サカ。漢字が、……ムズイな。」

「後に嶺で、ウシロノミネだろう。これ、ゴレイとも読めるよね!」

「え、マジ!?」

 ヒカルは嶺の字をスマホで調べてみた。確かに音読みの欄に「レイ」とある。

「じゃあ、富士美坂が『五礼の坂』ってことか!?」

「うん、そうだと思う。東雲くん、暗号を解くのに、坂の歴史が書いてある案内板が必須だとすると、それは有名な坂のはずだ。そっちを優先的に行こう。まだ行ってない場所で地元の君が思いつくところはあるかい?」

「有名なとこか……。」

 ヒカルが浮かんだ中で一番近いところを挙げようとしたとき、ゴーンと近くの寺から鐘の音が響き渡った。一瞬だけセミのうるささもフェードアウトする。

 セミのBGMが戻ってきたところで、

「なあ目白。今日はまだ早いけど帰らねえか。かなり疲れたし……。一つわかったと思ったら気が抜けちまった。」

「……そうだね、雨も降ってきそうだし。明日、出直そう。」

「なんだよ、今日はやけに素直じゃんか。」

 ヒカルは地面に置いたリュックを背負い直す。

「僕はいつも素直さ。雨が好きじゃないだけ。」

「へえ。」

「あれ、理由訊かないの?」

「逆に理由なんてあるわけ?」

「実はね、水にぬれると飛びにくくなっちゃうんだ。」

「あっそ。」

「なにそれ、その態度!吸血鬼にとって大切なことなんだよ。」

「別に。俺、今飛べねーから関係ないし。」

 

「ここは、付属上坂。付属中学と高校の上に坂があるから、って校外学習で言ってた。」

 次の日、快晴の下、ヒカルは街では大きめの坂の案内板の前で説明した。

「新しく付いた名前なのは覚えてるけど、旧名まではわかんね。」

「僕らの読み通りなら、案内板に旧名が乗ってるはずだ。うーんと、どこに書いてあるかな……?」

「目白、これだ。旧名は……山に霊に坂で、ヤマタマザカ。」

「やっぱりね。サンレイ、って読むことができる。当たりだ。」

 ヒカルは苦い顔をして、

「なんつーか、読み方変えただけじゃん。」

「あれ、がっかりしてる?」

「もうちょっとさあ、暗号っぽいの考えてたのに。これじゃあ、ただのダジャレじゃん。父さんの作ったカッコイー暗号かと思ってたのによお……。」

「小学生の僕らでも解けるように、簡単に作ったんじゃない?君がお父さんの本をいつ見つけるかまでは予測がつかないしね。」

「んんぅ、でーもなー、なぁーんかなー。」

 両手をブンブン振り回し文句を言う。

 母親から聞いた父親の姿は、体格がよく頭が切れるクールで大人な男性であった。ダジャレっぽく思えてならない謎解きを父親が作ったのかと思うと、イメージが崩れかけてきた。

「っと、まだ『四礼の坂』が残ってたな。」

「東雲くん、それなんだけどさ。ちょっと思いつくことがあって。僕らは結構な数の坂を見てきただろ。」

「ああ。スマホで写真も撮ってるし昨日見たけど、ヨンレイ、シレイに読めそうなところはなかったぜ?」

「サンレイとゴレイがシャレなら、『四礼の坂』というのも、三と五の間って意味で、名前そのものに意味はないんじゃないかな。」

「え、じゃあ……。」

 ヒカルは地図アプリを起動し、山霊坂と後嶺坂に印をつけ、間を線でつないだ。線のちょうど真ん中には坂の名前が書かれている。

 あった。

 横からアクルが画面をのぞきこむ。

「逆水坂……ここだね。」

「今から行くか?」

 現在地から逆水坂までの経路を調べる。

「いいや、時間は夜明けってわかってるからね。今日は早めに帰って寝ないと。」

「それもそうか。」

 スマホをポケットにしまい、リュックをつかむ。

「なあ、夜明けって何時?」

「この時期だと、まあ五時前は確実だね。」

「……マジか。」

「それと夜明け前にノスフェラトゥ・ウェイを抜けなくちゃいけないからね。念には念を入れて四時くらいに……。」

 腕を組み考えるアクルに、ヒカルが思いつく。

「そんな時間に抜け出せんの?」

 親に見つかるんじゃないか、と続けようとして、アクルの両親がいないことを思い出し、あわててつけ加える。

「四時だぜ。ラジオ体操の言い訳にはキツくないか?」

「平気。吸血鬼は鍵を開けるの得意なんだ。窓からこっそり出ることにするよ。吸血鬼ハーフでもそのくらいできるさ。」

「俺、そんなのできねーけど。」

「君は吸血鬼の血に目覚めたばっかりだからね。そのうちできるようになるよ。」

 そんなもんなのか。

「どこでそれ使うんだよ。空き巣?」

「吸血鬼を泥棒と一緒にしないでよ!もー!」

 ヒカルがからかうと、アクルは目を三角にして怒った。二人は帰り道が別れるまで、ふざけ合った。


 ヒカルはゆっくりとみそ汁をすする。今日の夕飯のポークステーキはヒカルの好物だ。機嫌よくヒカルは小分けにした肉をほおばる。

 カチャカチャとナイフとフォークの音がする中、母、灯はさりげない風を装って話し始めた。

「ヒカル。最近、外で遊んでばかりだけど大丈夫?熱中症とか……」

「平気、帽子も水も持ってる」

 ヒカルは食事の手を止めずに応える。

「良かった。あのね、よかったらこれ外行くときに使って」

灯は机の下の鞄から薬のチューブを取り出した。

「これなに?」

 食器を置き、手を伸ばして受け取ったそれは15センチほどのチューブだった。見た目より軽いが包装がきっちりしているのかチューブ自体はかなり硬い。ラベルの字はヒカルには読めないものだった。

「日焼け止めと保湿クリームを混ぜた軟膏よ。お母さんも使ったけど、べたべたしてなくてとってもよかったの」

「……これ、病院の?店で売ってるやつじゃないよね」

「うん。ごめんね、ヒカルには余計なお世話かもしれないけど、あれからお母さん、紹介された大きな病院の専門家の先生に聞いてきたの。そしたら、これを使ってみてって。海外で使われてる薬なんだって」

「ん……そうなんだ」  

 ローマ字の変な位置に点や記号がついている。英語じゃないのかもしれない。

 ヒカルは、ありがとうと言うべきなのだろうと思いながらも躊躇ってしまう。気恥ずかしい思いもある。だがそれより、母親の卑屈そうな態度が気になってしまった。

 食卓に沈黙が落ちる。ヒカルはチューブと母親を交互に見やった。

 なぜ母は今にも泣きだしてしまいそうなんだろう?

 灯は息を吸い込み懺悔するように言った。

「ごめんねヒカル。水泳の方、お母さん何もしてあげられなくて。こんなことしかできなくて」

声を震わせ、目に涙をにじませ、それでも気丈に母は微笑んで見せた。

 ヒカルはようやく気付いた。母はずっとヒカルを心配していたのだ。水泳ができなくなり投げやりな態度ばかりのヒカルの心を案じていたのだ。

 母親としてできることは何か。こんなとき何をすべきなのか。どのように接するのが正しいのか。

日焼けする体質でこれからの生活に支障はないか。

再び水泳の世界に戻れる方法は本当にないのか。

母親の言葉にヒカルは驚き固まった。

(そうだ、俺はそもそも水泳のためにノスフェラトゥ・ウェイを探してたんだった)

  目白アクルに出会ってからは長い夏休みがあっという間に流れていっていた。二人であちこ歩きまわり、調べて考えて、ふざけあっていた。

 それは幼いころに水泳に魅了され放課後も休日も水泳にささげてきたヒカルには初めての体験だった。その事実に、ヒカルは今更ながら気づいた。

(謎解きが……目白といるのが楽しくて、水泳ができないことなんて考える暇もなかった)

 

ヒカル「ううん、ありがとう母さん」

 母はようやくほっとした顔をした。

 母親はずっと不安だったのかもしれない。

 そう思うとヒカルは不思議な気持ちになった。

母を安心させたい。

それは水泳大会で一等をとって喜ばせたいという気持ちと、似ているようで違うところにあるもののように感じた。



 ついに目的の日、まだ真っ暗な中起きたヒカルは手探りで着替え、玄関から出て行った。

 涼しい。おまけにまだセミも起きてないみたいだ。

今日はもうノスフェラトゥ・ウェイを通り抜けるだけで調べ物はないから手ぶらだ。アクルにも身軽な方がいいと言われ、父親の本もスマホも机に置き、キャップだけかぶってきた。

 身軽なのもあるけれど、これからついにノスフェラトゥ・ウェイに入るのだと思うと、ヒカルは胸がドキドキして、つい早足になっていた。

 逆水坂に着くと、アクルが待っていた。

「てっきり坂の下にあると思ったら、あっちみたいだ。」

 アクルは途中で左に折れた坂の角にある案内板を指差した。

「行こう。」

 ヒカルがうなずく。



「ん。……あ、なあこれ」

   ヒカル、軟膏チューブをポケットから取り出し、アクルに渡す。

ヒカル「日焼け止め。今はいいけど、家帰るときは日出てるだろ。多分高いやつだし、後でつけとけ」

アクル「う、うん、ありがとう」

   アクル、軟膏チューブをズボンのポケットに入れる。

ヒカル「ん」



案内板の前まで着くと、右側のすみの暗がりに、人一人ギリギリ通れるくらいの隙間ができていた。

 ゴクリとつばを飲み込む。

「行くぞ……。」

「うん。あ、待って、僕が先に行く。」

 暗い隙間を二人は一列になって入る。入るとすぐに隙間は広がり、二人が横に広がっても充分なほどの道になっていた。奥に進むと、入る前には感じていた涼しさが無くなり、暑さも寒さも消えた。

「暗い……。」ヒカルが呟く。「間に合うか……?」

 道の地面も、壁もでこぼこしていて、うっかりすると転びそうになり、二人は慎重に進まざるを得なかった。

「間に合わせてみせるよ。」

 アクルが壁に手をついて転ばないようにしながら言い切る。

「僕は諦めたくない。」

 真剣な声に、ヒカルは横目でアクルを見た。

「僕はまだ、日光に対して大きなケガも病気も、異変も兆候もない。物心ついたときから、病弱を理由にして、ずっと日を避けてきたから。けど、いつか必ず起こる。ハーフ吸血鬼だからって、恐れながら暮らす運命なんてまっぴらだ。絶対にあらがってやる。」

 初めて聞くアクルの激しい訴えと乱暴な口調に、ヒカルは息をのんだ。

 人間を見下してるわけじゃなかったのか……?自分のことに精一杯なだけだったのか……?

 アクルがどう考えているのか、ヒカルにはわからなくなってきた。

「光が見える……!」

 そう言ってアクルが駆けだす。ヒカルも慌てて走り出す。

 アクルの言葉に、もう朝日が昇ってしまったのかとドキリとしたが、光の感じが違う。緑に発光した、見たこともない光だ。

「道が二つ……何で……?」

アクルは二つに別れた道を見て呆然としていた。緑の光はそれぞれ分かれた道の先両方から差し込んでいた。

「こんなことは書いてなかった……。」

 思わぬ事態にアクルが困惑する。その横でヒカルはでこぼこの地面をスニーカーで踏みながら尋ねた。

「なあ、訊きたいんだけどよ。」

 思いのほか冷たい声が出て、ヒカル自身も驚いた。

「目白って、人間、嫌いなのか?」

「え、どうして……?」

「答えろよ。」

「……好きとか嫌いとか、そんなふうに考えたことないよ。だって。」

「別の種だから?」

「……うん。」

「お前がさ、吸血鬼のプライドが高いのはわかる。けどさ、俺らは吸血鬼ハーフだろ。半分は人間じゃん。それなのに、人間が嫌いじゃない、って言えねーのか?自分のことでもあるのに。」

「東雲くん……?もしかして……東雲くんは…………吸血鬼に……。」

 アクルが震えながらヒカルに向かって手を伸ばす。そして――。

「コンニチワ。少年サン。」

 不意に二人のどちらでもない声が道に響いた。

「ワタクシは、ケンネと申します。」

 真っ赤な肌をした男だった。青いスーツを着て、二人の後ろ、二メートル上に浮いて、うやうやしく礼をした。

アクルは両手を握りしめ、ヒカルは男から距離をとった。

 イントネーションの外れが、ヒカルには不快に思えてしょうがなかった。

「ワタクシは、このノスフェラトゥ・ウェイの監視員でして。というのも、ごくごくマレにこの道に入り込んでしまうヒトがいるのですよ。サテサテサテ、少年サンはどちらでショウ?」

「の、望んでここへ来ました。」

 おそるおそる、だがはっきりとアクルが言う。

「ほうほうほう。それでは道がわからなくてお困りのようですし、教えて差し上げまショウ。」

 ケンネは右の道を指し、

「アチラが吸血鬼になるための道。そして。」今度は左の道を指す。「ソチラが人間になるための道。オフタリで入られたから、道が二つ出来たのでショウ。」

 ケンネが手を叩く。

「サアサ、お行きなさい。好きな方へ。タダシ、行けるのは片方だけですガ。」

「え。」とヒカルが揺れた声を出す。

「少年サンはオフタリで入ってきた。そうなると、抜けるときも同じ道をオフタリで抜けなければならナイ。」

「そんなこと聞いてねえぞ。」

 ヒカルが言い捨てる。

「今言いましたトモ。」

「父さんの本に、そんなこと書かれてなかった。」

「では、書き忘れでショウ。よくあることです。」

「んなわけねぇっ!!」

「東雲くん!?」

 ケンネに怒鳴ったヒカルに、アクルが目を見開く。なぜ、ヒカルが食い下がっているかわからない、といった表情だ。

 ヒカルは頭をふってため息をつくと、

「コイツ話通じねーから、お前は早く右の道行っとけ。」

「え……東雲くん、何言ってるの?一緒に行けばいいじゃないか、ね?」

「…………。」

「東雲くんっ。」

 ヒカルの怒りをなだめるように言いつのるのを無視され、アクルも大声を出す。

「君は吸血鬼になるんだろうっ!?」

 アクルの訴えは切実さと悲鳴が混じり合っていた。

ヒカルが「うん。」と返すのを待っている……。それ以外を認めたくないと、唇が震えていた。

「……俺はそんなこと、一言も言ってない。」

「なんで……?」

「いいから行けよ、時間無くなるぞ。」

「じゃあ、吸血鬼になるって約束して!僕と同じ右側の道を通るって!ねえっ!?」

「行けって!」

「僕らは同じ吸血鬼ハーフだろ!どうして!?」

 パニック状態で肩をつかみ揺さぶってくるアクルを、ヒカルが突き飛ばす。

「俺が!!」

 突き飛ばされたことにアクルは硬直する。

それを見たヒカルは一転してトーンを落としてしゃべる。

「俺が吸血鬼ハーフじゃなかったら、お前は転校してきた日、俺に話しかけてきたか?」

 今まで言いたかった言葉が、心が、ヒカルの中からあふれ出す。

「俺が人間でも、俺と仲良くできんの?俺が人間になったら、友だちやめるのか?友だちだって思ってたの俺だけなのか?吸血鬼じゃなきゃ、俺はお前にとってどうでもいいわけ?」

 アクルの目がゆがみ、うっすらと涙がたまる。

 互いを見たまま黙りつくす中、ケンネがキンキン声を響かせた。

「はいはいはいー!オフタリとも、お忙しい中すみませんネエ。なんと残念なことに!モウ夜明け、つまり時間切れとなってしまいましたー!」

 場違いなほどひょうきんな態度でケンネが白手袋に包まれた指をふる。

「時間切れになってまでノスフェラトゥ・ウェイにいるとですねエ……。」

 ケンネは暗闇で見えなくなった入口の辺りを指し示す。すると、突然ぽっかりと地面に穴が開いた!

「この穴は未知の道と言いましてねえ、アノ世の底にまでつながってイテ。落ちたらオワリ。いやいやいや怖ーいですネ。ワタクシは絶対に落ちたくアリマセン。」

 にやにやと不気味な笑みをケンネは浮かべる。

「ケレド、少年サンには落ちてもらわないといけませんね。」

 ケンネが指揮者のように腕を振ると、緑の光が出ていたはずのノスフェラトゥ・ウェイの二つの出口から大量の水が流れてきた!

「ぅあっ!」

 ヒカルは水の勢いに足をとられ転びそうになる!慌てて、でこぼこした壁を右手で必死につかみ流されるのを防いだ。左手は、言葉無く流されそうになったアクルの左手をしっかりとつかむ。

 水はドドドドと音を立てながら後ろの穴に向かって勢いよく流れている。

 水が生温い。気持ち悪い。

服が水を吸って重くなり、顔が沈みかける。

「すー……ぷはっ!」

ヒカルはバタフライの要領で、一度顔を沈めその勢いで息つぎをする。

 大丈夫、慌てるな…。

 しかし、アクルがおぼれそうになっているのが、左手の揺れからわかる。

「アクル!」

「東雲くん……。」

「何やってんだ!ちゃんと泳げ!」

「ぼ、くは……。」

「泳げないなら……!力を抜けっ!」

「無理、だ……。無理だよ……。」

 ヒカルが無理に引っ張り上げているおかげで、なんとか顔は水面から出ているがアクルの体は無駄な動きが多いのか、どんどん水にのまれていく。

「僕の妹は、川でおぼれて死んだ……。だから…僕も、きっと泳げない……。」

 アクルの顔には、いつもの余裕も、憎たらしい笑みもなかった。恐怖と諦めが、水によってアクルを支配していた。

「ふざけんなっ!」

 ゴウゴウと流れる水を飲みそうになりながら、ヒカルは必死にアクルの手を今まで以上に強くにぎる。にぎり返してくれないとそのうち水で滑ってしまう。

 ヒカルは口を開こうとしたところに流れ込んだ水を思い切り吐き出し、

「完全な吸血鬼になって、仲間と会うんだろ!諦めんなこのバカッ!」

「無理だ!もう無理なんだ!離して!!離してくれっ!巻き込みたくないっ。」

「諦めたくないって、お前言ってただろ!!それにっ!!」

 ヒカルは人生で一番声を張り上げた。

「巻き込んだのは、アクル!お前だろ!アクルが俺に吸血鬼ハーフだって教えたんじゃんかっ!勝手いうな!巻き込んだんなら、最後まで責任持て!」

 蒼白になっていたアクルの目が、出口からもれる朝日に反射して赤く輝く。

「俺には。」

 荒くなる自分の呼吸にパニックにならないよう、ゆっくりと噛みしめて言う。

「俺には母さんがいるから、吸血鬼にはなれない。だから俺は、……俺は一緒には行けない、行かないつもりだった。けどな!今なにもかも諦めて、泳ぐのやめちまったら、あの底に沈むだけだろっ!!」


 アクルは水しぶきの向こうに見えるヒカルを見てハッとした表情になり、ケンネを見やった。


アクル、ヒカルを見て目を見開く。ケンネを見る。

ヒカル「東雲君!これ借りるね!」

アクル、右手で軟膏チューブをズボンから取り出し、ケンネに思い切りふりかぶった!

「ギャッ!」

 キャップは、水の届かない空中でゆうゆうと浮いていたケンネの顔にヒットした。

「小僧!」

 それまでの丁寧な言葉を捨てて、ケンネが二人に向かってくる!

「やめろ!!」

 アクルは襲いかかるケンネのネクタイをつかみ、にぎり合っていたヒカルの手をふり払った。

「アクル!!」

 水の勢いでアクルが穴のほうへ流される――ケンネと共に!

「離せ小僧!何している!このワタクシを!!」

 アクルは左手できつくケンネの顔をつかむ。

「離すんだっ!落ちてしまう!イヤだ!あああああっ!」

穴のふちまで流されケンネが情けない声を上げる。そして、

「あっ。」水ごと穴の中心へ弾き飛ばされ、アクルは思わず平坦な声が出た。

ゆっくりとした一瞬の浮遊感がアクルとケンネを襲う。

「小僧、飛べ!飛ぶんだ!ハーフ吸血鬼ごときが!」

 どうやら水にぬれたせいでケンネは浮遊できないようだ。

しかし、アクルも同じだった。水をたっぷり含んだ服は重すぎる。ケンネどころか自分一人だって飛べやしない。そのことは、ヒカルの手をふり払ったときからわかっていた。

ケンネはわめきながらアクルの服をつかんでいたが、ついに手袋が滑り、さらに別の水の流れに押され、ケンネは穴へ落ちて行った。

ケンネのいなくなった重さの分、少しだけ空中に浮けたが、それも数秒のことだ。

「ぅ…。」

 我慢していた涙が出る。穴に落ちるのが怖いのではない。アクルは、ヒカルが人間になっても友だちでいるつもりだった。ヒカルをあんなふうに怒らせるつもりじゃなかった。

(吸血鬼の仲間が……吸血鬼ハーフの友だちがほしかったんじゃない……。僕はただ、吸血鬼ハーフである僕を認めて、いつか来る滅びの運命への不安を分かり合える友だちが欲しかっただけなんだ……!)

 自分の思い違いに、アクルは気づいた。

今さら、どうしようもならないとわかりながらも、かすかに見える出口の光に向かい手を伸ばす……。

 そして、温かな手が確かアクルの手をつかんだ。

驚き、手の主を見ると、

「アクル!」

「……ぇ、東雲、くん……。」

だった。

 ヒカルは器用に地面のでこぼこの隙間に足をはさみ、片手を穴のふちにかけていた。

「引っ張るぞ!手に力入れろ!」

 アクルは目の前の光景に信じられないまま、ヒカルの言葉にうなずく。合図とともに穴に落ちかけていた体が引っ張り出される。

「ここ、つかめ。」

 あわてて、ヒカルに言われた地面のでこぼこをつかんだ。

 息を吸おうと顔をあげたとたん、未知の道の穴も、水もすべて消え、入ってきたときと同じノスフェラトゥ・ウェイに戻っていた。

 ただし、暗闇ではなくぼんやりとした明るさがあった。

「アクル!あれ。」

 座ったままのヒカルが二つに分かれていたはずの道を指し示す。

 道は一本になっていた。

「どうなってんだ……。」

 アクルはヒカルの呟きを聞きながら立ち上がり、服が水にぬれていないことに気づく。頭から靴までびっしょりだったのに、水のにおいさえしない。

「とりあえず出るよ。」

「わっ。」


手をつないだまま二人は光のもれる出口を抜けた。

 まぶしさに目がくらむ。

 まばたきをくり返し、見えてきた光景は、逆水坂の途中だった。ノスフェラトゥ・ウェイに入ったところと全く同じ場所にいた。

 二人してその場にへたりこむ。

「あいつは、なんだったんだ……?」

 未知の道に消えていくケンネの悲鳴が耳に残っているようで、ヒカルは思わず二の腕をさする。

「ノスフェラトゥ・ウェイ自体がこの世のものじゃないとしたら……。あのケンネというのもどこからか入り込んだんじゃないかな。本にあっただろう、『この世ならざる迷いを聞くな』って。」

 アクルは不安げに、

「けど、これで……よかったのかい?」

朝日に照らされたアクルは、今にも泣きだしてしまいそうだった。

「僕らは条件を守れなかった。完全な吸血鬼にも人間にもなれず、吸血鬼ハーフのまま……。君は……君はさ……。」

 アクルが何を言おうとしているのか、ヒカルには分かっていた。

できるなら、人間になりたかった。日に怯えず、再び水泳を始めたかった。それはヒカルの本心だった。

けれど、ケンネの言うとおりにしようとするアクルを一人残して、自分だけ左の道を進むことはできなかった。

フー、と息を吐く。

「父さんの本の戒めってやつにさ、『焦るな』とか『今一度を望むなら』とかあったろ?あれって、またリベンジできるって意味じゃねぇの?」

 アクルは驚き、ヒカルをふり返る。

「俺は、また今度、その時でいい。別に明日にでもすぐ滅びるってわけじゃないだろ?お前も、俺も。」

 断言してみせるヒカルに、やはり泣き出しそうな震え声でアクルが訊く。

「あんな、おっかない目にあったのに?」 

「だから、あーいう変なのに反撃できるよう、準備できてから。」

「そっか……そうか、あはは。」

 ようやくアクルから笑みがこぼれる。

「うん、なんかさ。よかったかも。こういうことになって。だってさ、このままでいれば、君とずっと友だちでいられるもの。」

 ヒカルは再び大きく息を吐くと、少しばかり目を吊り上げて、アクルに向き直った。

「言っとくけどな、俺の父さんが吸血鬼でも俺にとっての父さんと変わらねーように、お前も……アクルが吸血鬼でも吸血鬼ハーフでも、人間でも、友だちやめる気なんて俺にはなかったぜ。」

 きまりが悪いのか恥ずかしいのか、ヒカルはわざと口調を荒げて「唯一の友だちとして言ってやるが。」と前置きし、

「ショージキな話、お前ときどき性格悪いぞ。吸血鬼より、そっちのほうがよっぽど問題あるぜ」

ヒカルの言い分に思い当たるところがあったのか、アクルは目を丸くした後、大きく笑いだした。

「はは、そっかそうだよね!性格悪かったね、僕。」

「そうだぞ!そのへん直さねーと二学期、友だちロクにできないっつーの。猫かぶりもそのうちバレるかっな。」

「うん、わかったよ……!うん、ありがとう、ヒカルくん。」

 ハハッ、とヒカルは快活な笑顔をふりまき、

「東雲くん、より呼びやすいだろ!」

 大きく開いたヒカルの目は、朝日によって、茶色の瞳を赤く反射させていた。


 あごにまで垂れる汗をぬぐいながら、アクルは日傘をさして坂道を下っていた。お気に入りのキャップまでもう汗を吸っているし、白のアームカバーも肌にはりついている。

帰り着くまでにせっかく買ったアイスが溶けないか心配になってきた。

日傘をくるくると回し遊んでいると、下から見たことのある車が登ってきて、助手席の人物がアクルを見て運転手にしゃべりかけた。

 坂の途中、アクルの横で車は止まり助手席の窓ガラスが開いた。シートベルトを引っ張りながら、しま模様のアームカバーをしたヒカルが顔を隠していたフードをずらし、アクルの方へ身を乗り出した。アクルは車内から流れてくるクーラーの風を浴びながら、

「やあ、ヒカルくん。これからクラブ?」

「おう!今日は水球の体験。アクル、水球知ってる?」

「ううん。」

「今度やろうぜ。」

「ヒカルくん、僕のほうは泳ぎ初心者なの知ってるでしょ。今度の休みだったら一緒に行けるから、飛込してみせてよ。」

「無茶言うな!まだ体験中だから危ないのは禁止。ま、遊ぶのは自由だし、センセイもいろいろ試してみて好きなのいくらでもやれって言ってるから、休みのときは上級生がやるの見学してみよーぜ。」

 話に夢中になっていると、ヒカルの母親と目があった。日傘が車に当たらないよう気をつけて頭を下げた。

「こんにちは。」

「こんにちはアクルくん。お買い物?まだ暑いから熱中症気を付けてね。はい、コレ。」

 渡されたのは、塩タブレットだった。

「歩きながら食べなさい。」

「ありがとうございます。」

 礼を言うと、ヒカルから「またな。」と言われ、車が遠ざかる。アクルは大きく手をふり、反動でずれたキャップをかぶり直した。すぐに見えなくなった車にさみしさを感じながら、そんな自分にアクルはおかしくなった。

 大丈夫。ヒカルくんとは、友だちなんだもの。これからも、ずっと。僕が何者であろうと。

「ヒカルくん。僕、人間のこと好きになれそうだよ。」

 入道雲に向かってそうつぶやくと、アクルはクーラーの効いた家に向かって走り出した。


                                   

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暁星のヒカル aoki @kihina

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