猫と遥と

数日後、薄暗い文芸部の教室で、怜音と遥は一台のパソコンを二人で睨みつけていた。画面に流れていたのはとある映画だった。何年も前に大流行した、某豪華客船を舞台にした恋愛映画である。


「この映画、親が好きなんで家にDVDあったんですよ」

画面を眺めながら怜音が口を開いた。ふうん、と遥は軽い返事をし、また視線をパソコンへと戻す。話はクライマックスで、船はほぼ沈没し、男女は海中に投げ出されている。男は女を助けるべく、壊れた船のドアの上に彼女を乗せ、自身もそれに掴まっていた。しかし冷たい海の水が男の体温を奪っていく。男がもう助からないことは明らかだった。

「あ、ほらここです」

怜音が画面を指差す。それにつられて遥も映像を注視した。


女は最後の言葉を男に告げ彼の手に唇を落とすと、泣く泣く男の手を離した。ゆらめく海中に、男の体が飲み込まれてゆく。やがて、その体は海の暗がりへと見えなくなっていった。


「ここ、めちゃくちゃ感動しませんか?俺初めて観たのが小学生の時だったんですけど、子どもながらにめっちゃ号泣した記憶ありますよ」

やや興奮気味に語る怜音に対し、遥は眉間に皺を寄せて、うん、と頷いた。

「感動するシーンなんだなってことは分かる」

「・・・・・・やっぱり、だめそうですか」

「うん、ごめん」

うつむいて落ち込み気味に言った後、遥は顔を上げた。

「いま君の中にどういう感情が湧いてるのか教えてくれる?」

怜音は「そうですね・・・」と言って視線を斜め上に向けた。

「まず、愛する人を失うという悲しみですね。それも、自ら諦めることを選択しなければならなかったやるせなさ。沈んでいく男を見た女性の気持ちは・・・そうだな、喪失感からの・・・、「うわー!!!」って感じだったと思います。・・・・・・すみません、感情を言葉であらわすのって難しいですね」

困ったように笑う怜音に、遥は首を振った。

「ううん、悪いのは私だから」

「それで、何かピンときたりしましたか?」

「・・・ごめん、あまりはっきりとは」

「そうですか。分かりました。じゃあ、映画とは別の何かをまた考えてきますね」

頷いた怜音は映画を停止させ、パソコンからDVDを取り出した。遥は集中して観ていたせいか、少し疲れたように息を吐き出した。


「ちなみに、共感できない症状っていうのは生まれつきですか?」

「うん、昔からこうだった。両親からも愛情をもらって育てられてきたし、こうなる原因みたいなことも思い当たらないの」

遥は椅子から立ち上がり、窓に歩み寄るとぼんやりと外を眺めた。映画一本分の時間を消費していたため、空は少し赤みをおびていた。

「やっぱり、私なにかおかしいのかな」

すらっと立つ遥の背中を見つめた。その後ろ姿に何か言葉をかけずにはいられなかった。

「でも、理解ができるなら、感覚で分かるようになる可能性だってありますよ。・・・俺、諦めないんで、先輩も諦めないでください」

願うように言うと、さっと遥は振り返った。黒々とした瞳で怜音を見つめた。

「ありがとう」

言葉のあとに笑顔が浮かび、それを夕陽が照らした。きっと良い方向にむかう、と怜音が思ったのはその笑顔に人間味を感じたからかもしれなかった。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 


文芸部に入部してからしばらくの時が経って、暦は十一月になっていた。その間も怜音は遥に感受性を芽生えさせるべく、あの手この手で様々なことを試していた。

部室にあった同じ本を読みお互いに感想を言い合ったり、前とは別の映画も観たし、遊園地のお化け屋敷に二人で行ったりもした。最後は単なるデート目的なんじゃないかと遥はいぶかしんでいたが、怜音なりに考えた結果だと主張した。確かに、下心が全くなかったわけではないけれど。


しかしやはり遥に変化はなかった。放課後の文芸部室で、顎に指をかけ次の作戦を考える怜音に、遥は声を掛けた。

「・・・ねえ、どうしてここまで親身になってくれるの?私が変われるかどうか、わからないし、変わったところで君を好きになるとは限らないんだよ。・・・ここまでしてもらって、こんなことあまり言いたくはないんだけど」

それを聞いた怜音は遥の方へと顔を向けた。

「・・・なんて言うんですかね。最初は、一人でぽつんと部活をしている先輩に興味が湧きました。それから無共感の話を聞いて、更に興味を持ちました。何とかしてこの人を変えられないだろうか、って思ったんすよ」

遥は黙って聞いていた。

「だから俺が好きでやってるだけなんで、先輩は俺に対して悪いとか、思わなくて大丈夫です」

「・・・そう、ありがとう」

遥は少し悲しそうに笑った。怜音もまたそんな遥を不憫そうに見つめずにはいられなかった。

二人を映す窓の外で、どこかの運動部があげた声が聞こえた。



 数日後、怜音が文芸部に顔を出すと、遥は待っていましたと言わんばかりに彼を手招きした。

「ねえ、ちょっと、見て欲しいものがあるの」

にやにやした彼女は怜音を部室の外へと連れ出した。そのまま校舎も出てしまい、何事かと思った怜音は遥に声を掛けた。

「どこまで行くんすか」

それに対し遥は横顔だけで振り返り、「校庭だよ」と答えた。彼女はいつもより機嫌が良さそうだった。

「体育が終わった後にね、道具の片付けに行ったら見つけたんだよ」

言葉通り、彼女の足は体育倉庫の方向へと向かっていた。しかし倉庫には入らず、近くの草むらの方を見やった。

「まだいるかな。・・・あ、」

笑顔で振り返った遥の後ろには、草むらの中で隠れるようにして毛づくろいをする、一匹の黒猫がいた。怜音たち二人に注意を払う様子はなく、懸命に自分の手やら体を舐めている。向かって右手の肉球に傷があった。真っ黒な被毛が艶やかに光る、金色の瞳が綺麗な成猫だった。

「どうしたんすか、この猫」

「私もさっき見つけたところなんだよ」

「だいぶ綺麗っすけど、飼い猫ですかね?」

言いながら怜音が近付いても猫は逃げる様子を見せず、彼は毛づくろいを続ける猫の被毛を撫でた。

「そうなのかも。だからむやみに連れて帰ったり餌をあげたりしたら駄目だね」

「そうっすね」


次の日、二人でまた体育倉庫の方へ行ってみると、猫はそこに居た。また次の日もいた。遥は少し嬉しそうだった。

「この猫、この時間ここに来るのがルーティーンになってるんすかね」

しゃがんで黒猫を撫でる遥を眺めながら怜音は言った。

「この子の名前を考えてみたの。飼い猫だとしたらちゃんと名前があるんだろうけど、それはそれとして、ここで私達が呼ぶ名前」

「なんすか」

「ノア。フランス語で黒のことをノワールっていうから、そこから」

「先輩にしては意外と普通っすね」

「なんだって?」

遥は冗談っぽっく目をつり上げた。その間もノアは我関せずといった感じでごろんと横たわっていた。

「動物、好きなんすか?」

ノアといる時の遥はいつもより機嫌が良いので、そう聞いてみた。遥は猫を撫でる手を止めて少し考えた。

「んー、好きっていうか、こういう所で会うとやっぱ特別な感じするじゃん」

「そういうもんっすか」

怜音も特別動物が好きという訳ではなかったので、そう答えただけだった。


放課後、猫は毎日そこに来ていた。文芸部の活動も黒猫を撫でまわすことから始まるようになっていた。

二週間ほどそのような日が続いたある日、例のごとく草むらに向かうと、そこには既に遥がいて、しかし少し様子がおかしかった。何かを探すようにきょろきょろしたり、草を搔き分けたりしている。

「どうしたんすか」

怜音が声を掛けると、驚いたように遥が振り返った。

「ノアが・・・いないの」

彼女は少し動揺した顔つきをしていた。普段常に落ち着いている彼女を見てきた怜音はそれをやや意外に感じた。

「たまたまどっか行ってるだけなんじゃないすか。猫だし」

「でも、この時間はいつもここにいたのよ?もしかしたら、何か事故とかに巻き込まれたのかもしれない・・・」

そう言うと遥はノアを探すつもりなのか、駆けて行ってしまった。面食らった怜音は、ああもう、と言いながら、「俺はあっちを探して来ますんで!」と遥とは逆方向へ走り出した。


学校の敷地内で、猫が居そうな場所は見てみたが見つからなかった。そこで怜音は校門を出て辺りを探してみた。

細い路地、民家の庭(もちろん外から視認できる範囲だけだ)を探した後、学校から少し離れた場所にある公園に入ってみた。小さい子どもが遊ぶような、比較的小規模な公園だ。

遊具の裏などを確認したあと、視線を公園の奥にやると、草の陰に一匹の猫がいるのを見つけた。・・・黒猫だ。

「ノア・・・?」

近付いてみると、毛づくろいをしていたその猫の右手には傷があった。間違いなくノアだ。見つけた。怜音は警戒されないように近寄ると、「ちょっとごめんな」と言ってノアを持ち上げた。そのまま学校へ向かう。歩きながら遥に「見つかりましたよ」とメッセージを入れた。すぐに既読がつく。そして学校に着きいつもの草むらに向かうと、そこにはもう遥がいてノアを抱いた怜音に駆け寄ってきた。表情を見た感じだと、心配でたまらない様子と安堵した様子が混じり合っていた。


「見つかったのね・・・!良かった・・・!」

「近くの公園にいましたよ」

怜音が答えると、遥はほっとしたような顔でノアの艶やかな被毛を撫でた。そんな彼女を見ながら、怜音は微笑した。

「心配だったんですね、ノアのこと」

怜音の言葉に、遥ははっとした表情を見せた。怜音の言いたいことを汲み取ったようだ。

「・・・うん、そう。こんな気持ちは、初めてだった・・・。そうか・・・・・・『他人が心配でしょうがない』ってこんな気持ちだったんだ・・・・・・」

怜音はそのままノアを遥に明け渡した。遥はノアの体を大事そうに受け取った。

「今回は猫でしたけど、ちゃんと先輩に他者を思いやる気持ちがあるってことがわかったじゃないすか。この先、今の感覚を忘れないようにしながら人と接してみたらどうっすかね?・・・そうしたらきっと、少しずつ変わっていきますよ」

遥は恥ずかしそうな、それでいて嬉しそうな顔で頷いた。

「うん。・・・こんな私に根気よくつきあってくれてありがとうね。・・・一応、感謝しとくわ」

最後遥はわざとにくらしい様子で怜音に言った。怜音はそんな遥を笑った。外の空気は冷たかったけど、そこには温かい時間が流れていた。ふいに遥にかかえられたノアが顔を上げ、ニャー、と綺麗な声で鳴いた。


                 

             終









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完璧で、そして欠落した君 深雪 了 @ryo_naoi

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