飛鳥休暇

 ふとしたときに脳裏に浮かぶあの淫靡いんびな光景が、夢か現実かいまだに分からない。

 現実であったとすれば、おれが十三歳で、早妃さきねぇは十五歳だったはずだ。

 夏休みにふたりして川遊びをしていたとき、急に深くなった場所に足を取られたおれは急流に飲まれ溺れてしまった。

 次に目を覚ましたときには川辺に仰向けになっていて、耳に響くのはぴちゃぴちゃと鳴る川のせせらぎ。――いや、本当に川の音だったのだろうか。

 違和感を覚えたおれが首だけを起こすと、おれの股間に顔をうずめる早妃ねぇの姿があった。

 おれが意識を取り戻したことに気付いた早妃ねぇも顔を上げ「秘密やで」と言ったような気がする。


 その目に涙を湛えながら。


******


「早妃ねぇ、ここ置いとくで」


 玄関から声を掛けると、奥からエプロン姿の早妃ねぇが姿を現した。肩甲骨まで伸ばした髪を後ろで一つに縛っている。


拓海たくみ、いつもありがとうな」


 実家から持ってきた新鮮な魚を確かめながら早妃ねぇが目を細める。


「今日は若いお客さんふたりおるからご飯いっぱい炊いとかなあかんわ」


 嬉しそうにそう言った早妃ねぇの後ろから、大学生と思わしき二人組がやってきた。


「ほな、ちょっとそこらへんぶらついてきますわ」


 毛先だけが変に金色に染まった男がそう言うと、早妃ねぇも笑顔で返した。


「海辺だけは気をつけてくださいね。夕食は六時頃にはできてるようにしますんで」


 玄関で靴を履いている二人組に早妃ねぇが声をかける。


「ほな、いってきます」

「いってらっしゃい」


 出て行く一瞬、金髪じゃないほうの短髪の男の目が早妃ねぇの身体に舐めるような視線を送ったのをおれは見逃さなかった。

 蛇のようなその目におれは嫌悪感を持った。それは明らかに性的な意味を持った視線だった。


「早妃ねぇ、気をつけや」


 ふたりの姿が見えなくなったのを見計らってから、早妃ねぇに声をかける。


「ん? なにによ」

「いや、あいつら。早妃ねぇのこといやらしい目で見てたから」


 その言葉を聞いた瞬間、早妃ねぇはぷっと吹き出した。


「なんや拓海、心配してくれてんの?」

「そら、……いや、別に」


 おれの返答がおかしかったのか、早妃ねぇは口元を押さえて笑いをこらえている。


「大丈夫。うちには水神様がついてるから」


 うちに手だすようなやつは祟られるで。と早妃ねぇが続ける。

 その言葉が冗談でないことをおれは知っていた。


 早妃ねぇの家は民宿を営んでいて、新鮮な魚を使った食事が朝晩付いているにも関わらず一泊一部屋一万円(つまり、四人でシェアすればなんとひとり二千五百円だ)という格安価格なのだが、いかんせんここは和歌山のド田舎の村で、観光するような場所もないことから、客は年に十数人ほどといったかたちだった。

 まぁ、そもそも、早妃ねぇの家はとある理由から村中の人間から施しを受けるので本来は働く必要もないのだが、開いている部屋がもったいないのと、気分転換のために営業しているので客が少なくてもなんの問題もないのだ。


「ほな、また来るわ。明日、がんばってな」


 おれの言葉に、早妃ねぇが首だけで返事した。その顔はどこか少し悲しげにも見えた。


 海に続く道を下っていくと、さっき出て行った二人組が井坂商店の前で体育座りのような格好をしてアイスをかじっていた。この村ではコンビニなんてものは当然無く、この井坂商店が唯一といっていいほどの雑貨屋だった。


「しっかしほんまになんもないとこやなぁ」

「マジでな」


 暑さで溶けそうになったアイスを下の方から舐め取りながらふたりが話しているのが聞こえた。


「でもあの綺麗な姉ちゃんがおっただけでも収穫やな」

「それな」


 ふたりが下品な笑みを浮かべながらそう言う。


「こんな田舎で暇してるやろしあとで飲みにでも誘うか」

「ええな」


 盛り上がっているふたりを睨みつけるが、おれの視線には気付いていない。


「あかんで」


 ふいに聞こえた声は井坂商店の主であるミツばあだった。


「早妃ちゃんは水神様のもんやから、あんたら変なことしたらあかんで」


 ふたりは驚いた表情でミツばあのほうへ振り返った。


「水神様?」


「そうや。あんたら明日の夜までおるんやったらちょうど見れるわ。明日は水神祭やからな」


「なんかお祭りですか?」


「祭り言うても出店とかはないで。水神様のもとへ捧げ物をするだけや。それが早妃ちゃんや」


「捧げ物? へぇー、おもしろそうですね」

 と言ったあとに、小声で「なに? ここ因習村?」と小馬鹿にしたように言い合うのをおれは聞き逃さなかった。


「ミツばあ」

「おお、拓海か」


 会話を遮るようにして、ミツばあに声をかける。これ以上よそ者に余計な詮索をされるのは気に入らなかった。


「コーラちょうだい」


 そう言って硬貨を何枚かミツばあに渡すと、ミツばあは「あいよ」と言って店の中に入っていった。

 二人組はおれのことをじろじろと観察してくる。同年代の男に対する敵対心と値踏みのような目だった。

 おれが負けじと視線を返すと、ふたりは白々しくそっぽを向いた。


「ほら、拓海」

 ミツばあが瓶のコーラを片手に戻ってきた。受け取るやいなやラッパ飲みをし、そのままげふぅと大きなげっぷをかました。

 二人組は顔をしかめて「おい、いこうぜ」と言ってその場を後にした。


「ミツばあ、よそ者にあんまりべらべらしゃべらんほうがええで」

「なにがや」


 本当になんのことか分からないといったような顔でミツばあが返してくる。


「それより、孝男にもよろしく伝えといてや。毎年のことやけどりは大変な仕事やからな」

「わかった」


 おれはコーラの残りも一気に飲み干すと、今度は出そうになったげっぷをがまんして井坂商店をあとにした。



 家に帰るとなにやら緊迫した話し声が聞こえてきたので、早足のようなかっこうで居間に向かうと、そこに孝男じいちゃんと明子ばあちゃん、そして親父とお袋がいた。

 座っている孝男じいちゃんを囲むように残りの三人が見下ろすように立っていた。


「どないしたん?」


 全員が険しい表情をしていたので、恐る恐る聞いてみると、祖母の明子がこちらに顔を向けてきた。


「この人、庭の木を切るいうて作業中に脚立から落ちて骨折ってもうたんよ」


 明子に指をさされたじいちゃんはばつが悪そうに頭を掻いている。その左足は堅そうなギブスで覆われていた。


「明日水神祭やいうのに、ほんま。りはどないすんのよ」


「分かっとるわそんなこと」


「分かってないから言うてるんやろ!」


「まぁまぁ」


 熱くなったばあちゃんを親父がなだめる。


「守りはおれがやるから、おかんもそんな熱くならんと」


「あんたは自治会長やねんから他にやらなあかんことが山ほどあるやろ! いまから調整するゆうてもみんなに迷惑かけるんやで」


 親父の言葉を遮ってばあちゃんが喝を入れる。


「おれが、――おれにやらせてくれへんか」


 思わず出た言葉に全員の視線がおれに集まる。


「いや、そやかて拓海。あんたはまだ若いから……」


 ばあちゃんの言葉を制するようにじいちゃんが手のひらをばあちゃんに向けた。


「拓海。こっちこい」


 じいちゃんが手招きするので、そばまでいって正座する。じいちゃんの目がまっすぐおれに向けられた。


「お前、いくつになったんや」


「今年で十八です」


「そうか。……決まりは知っとるな?」


「はい。水神の巫女を守ること、何があってもお堂を開けないこと、夜通し起きておくこと」


 水神祭での守り役の決まりごとをすらすらと述べると、じいちゃんは大きく息を吐き「ええやろ」と呟いた。


「あんた」


 ばあちゃんが不安げな声をじいちゃんに向ける。


「そろそろ後継者も決めなあかんとこやったやろ。それに、拓海と早妃ちゃんは小さい頃からお互いを知ってる仲や。拓海なら早妃ちゃんも安心してくれるやろ」


「じいちゃん」


 じいちゃんはふっと表情を崩しておれを見て、すぐさま硬い表情に戻してから「責任重大やからな」と言ってきた。


 おれは唇を堅く結び、大きく大きく頷いた。


******


 その夜は緊張からか布団に入っても眠れずにいた。

 まさか本当に守り役を任せてもらえるとは思っていなかったからだ。

 守りの仕事は水神祭当日、巫女のいるお堂に付き添い、一晩中それを守ることだ。その際、他の人間はお堂には近づかないことになっている。

 巫女とはつまり、早妃ねぇのことだ。


 おれの手が自然と股間に向かう。

 早妃ねぇのことを考えるといつもこうだ。それはあの現実感のない淫靡な記憶のせいかもしれない。

 おれは早妃ねぇの髪を思い出す。絹糸のようになめらかで美しく光を反射する髪。細い腰は抱きしめるとおれの腕にフィットすることだろう。

身体に似つかわしくない大きい尻はきっと柔らかいに違いない。


 想像の中だけで早妃ねぇの身体を作り上げ、抱きしめる。

 白い首筋にキスをしたら、甘い香りが肺いっぱいに広がるのだ。


 そんなことを考えているだけで、いともたやすく果ててしまった。


「早妃ねぇ……」


 むなしさと少しの罪悪感が混じったような吐息とともに早妃ねぇの名をつぶやく。


「おれが守ってやるから」


 決意と共に目を閉じると、いつのまにか眠りについていた。


******


 水神祭は村民総出で行われるうちの村の一大行事だ。

 小さな漁村であるうちの村の豊漁を願い、先祖たちに祈りを捧げる。

 そしてその中でも一番重要とされているのが巫女の奉納だ。

 巫女は村の若い女性の中から選ばれ、そしてその者はでないといけない。巫女が交代したあとについては決まりはないのだが、なぜか例外なく巫女に選ばれた女性はその後も生涯独身を貫いて死んでいくらしい。


「準備はええか?」


 親父の声かけに大きくうなずく。水神祭用の着物の襟を一度だけぐっと握りしめる。

 夕日が赤く染まる頃、村の男連中が早妃ねぇの家の前に集まり、神輿を準備している。ほどなく、白い装束を身に纏った早妃ねぇが家から出てきた。

 おれと目が合うと、ふっと笑みをこぼす。


「拓海、ちゃんとできる?」

「当たり前やろ」


 軽く返すが心臓は異常な速さで拍を刻んでいる。


 早妃ねぇが神輿に乗り込むと、男連中がかけ声を上げてそれを持ち上げた。


 おれは神輿持ちには加わらず、守り専用の百六十センチほどの樫の棒を手に持ち並んで歩く。


 お堂へと続く道を歩いていくと、道すがらにすれ違う村民たちはみな神輿に手を合わせて拝む。

 目の端に映った例のよそ者大学生の二人組が、楽しげにスマホをこちらに向けていたので少しの苛立ちを覚えたが、隊列を外れるわけにはいかないので気にしないようにと自分に言い聞かせる。

 横目で早妃ねぇの様子を伺うと、緊張からか高揚からか、頬が少し赤らんでいた。お堂へ向かうときの早妃ねぇはいつもこんな顔をしているような気がする。


 集落を離れ、山道に入っていく。

 お堂があるのは村のはずれの山の中腹だが、去年まではおれも神輿を担いでいたため道はよく知っている。


 水神様を奉るお堂に到着すると、神輿がゆっくりと下ろされる。

 早妃ねぇは慣れた動きで神輿から降り立つと、腰を大きく曲げて男連中に頭を下げた。


「それでは、行ってまいります」


 早妃ねぇの言葉に、今度はこちらが頭を下げた。


 何百年も前からあるお堂はさほど大きなものではなく、五段ほどの階段を上がったふすまを開けると十畳ほどの部屋がひとつあるだけだ。

 その部屋の中心には敷き布団が一枚だけ敷かれており、早妃ねぇはここで一晩中祈りを捧げるのだ。


「ほな、頼むで」


 親父がおれの肩に軽く手を置いてから男連中と共に神輿を担いで来た道を戻っていく。


 ここからひとり。明日の朝が来るまでおれはお堂を、早妃ねぇを守るのが役目だ。


 親父たちの姿が見えなくなると、すぐに辺りが暗くなってきた。

 おれはお堂の階段の下で樫の棒を地面に突き立て仁王立ちする。

 ここから先は初めての体験だ。緊張のせいかさっきから汗が止まらない。

 ふうと息を吐いて気持ちを落ち着かせようとしたとき、近くの草むらで物音が聞こえた気がした。

 そちらに顔を向けると「あ、やべ」という声が確かに聞こえた。


 足に力を込めて一気にその場所へと駆け寄ると、木の陰に隠れるように大学生の二人組がそこにいた。気まずそうに愛想笑いを浮かべた毛先だけ金髪野郎の手にはスマホが握られている。


「なにしとんじゃこら」


 おれは樫の棒を素早く振って金髪が持っていたスマホをたたき落とす。


「ああ! おれのアイフォン!」


 この後に及んでスマホの心配をして手を伸ばした金髪のその手に向かって樫の棒を再び振り下ろす。


 小枝が折れるような小気味の良い音と共に、金髪が悲鳴を上げた。


「いっでぇぇ」


 あまりの痛みに手を押さえて地面を転げ回っている。


「お、お前、やりすぎ」


 口を出してきた黒髪のほうの男にはみぞおち辺りに棒を突き当てた。


「ぐぇ」


 黒髪も腹を押さえてその場で膝をつく。


「おいこら」


 おれはふたりに目線を合わせるように膝を折り睨みつける。


「ええこと教えといたるわ。この村には駐在さんがひとりだけおってな。もう二十年もここにおる人や。おれが赤ちゃんの頃から世話になっている家族みたいな人や。これがどういう意味か分かるか?」


 ふたりは痛みに耐えるように顔を歪ませながらも、意味が分からないと言いたげに互いに顔を合わせる。


「明日お前らの死体が海に打ち上げられたとしても、事故として処理されるってことや」


 おれの言葉にふたりは目を見開いてひゅっと息を飲んだ。


「いますぐ失せろ。ほんでそのまま家に帰れ。わかったな?」


 ふたりは言葉を発することなく何度も何度も首を縦に振った。


「あ、スマホ」


 金髪が手を伸ばした先にあるスマホに、それより先に棒を振り下ろした。画面が粉々に砕け散る。


「失せろっていうたんや」


「お、おい。もう行くぞ」


 黒髪のほうが金髪の腕を取り引きずるように逃げ去っていく。金髪は最後まで名残惜しそうにこちらを見ていたが、そのうちふたりの姿は見えなくなった。


 ふたりが消えてから、念のためもう一度地面に落ちたスマホを叩き割ってからお堂へと戻る。


 ある意味、守りの仕事を勤めることができたとひとつ息を吐いた。


 二人組が去ったあとは、とても静かな時間が流れた。

 お堂からはまっすぐ海が見えるように前面の木が伐採されており、夜が深くなってきた海には漁船と思わしき小さな光が遠くの方でぽつぽつと輝いていた。


 風が吹くたびに木々のこすれ合う音が聞こえ、うだるような暑さの中でわずかばかりの涼しさを感じさせてくれる。


 気付くと辺りには鈴虫の鳴き声がりーんりーんと響いていた。


 ――鈴虫?


 その事実に気がついた瞬間、背筋が一気に凍り付いた。


 いまは夜でもうだるような暑さが続く夏の真っただ中だ。鈴虫の鳴き声など聞こえるはずがない。


「う、うぅ」


 聞こえてきた声にすぐさま振り返る。


「早妃ねぇ?」


「あっ、うぐぅ、……あぁ」


 ふすまの向こうから確かに早妃ねぇの苦しそうな声が聞こえてくる。

 いや、これは苦しそうな声というよりは――あえぎ声、のような。


「ひっ、……あっ、あっ。いっ」


 心臓が飛び出してきそうなほど高鳴っている。暑さとは異なる嫌な汗が背中を伝った。


「さ、早妃ねぇ、大丈夫?」


 階段を上がりふすまの前から声をかけるが返答はない。聞こえてくるのはただただ艶めかしく甘いうめき声だけだ。


 ――どうする。


 おれは混乱した頭で必死に考える。

 もしかしたらあの二人組のように隠れてついてきたやつがいて、お堂に侵入して早妃ねぇに暴行を加えているのかもしれない。

 そう思ったおれは樫の棒をぎゅっと握りふすまに手をかける。――しかし。


(何があってもお堂を開けないこと)


 もしこれが正しい儀式だったとき、この誓いを破ってしまってもよいものか。

 その考えがふすまに置いた手の動きを止めさせた。

 中から聞こえてくる早妃ねぇの声は心なしかどんどんと大きくなっている。


「くそっ!」


 おれは意を決してふすまを開けた。何があっても早妃ねぇを守る。それが一番大事なことだと考えたからだ。

 しかしその考えは、目の前に広がる光景を目の当たりにした瞬間消え去った。


 おれが目にしたのは、部屋の中心にいる早妃ねぇを取り囲むように、四方八方から伸びた半透明の「手」だった。

 何人分なのかもわからないほど多くの手が、早妃ねぇの身体に纏わり付いている。

 手が早妃ねぇに触れるたびに、早妃ねぇはあえぎ声とともに身体を跳ねさせた。


「た、たくみ」


 虚ろになった目で早妃ねぇがおれの名を呼ぶ。


「さ、早妃ねぇ!」


 開けるべきではなかった。開けるべきではなかったのだ。

 この世のものとは思えない光景を目の当たりにして、いまさら後悔の念が沸き上がってくる。

 手はまるで早妃ねぇの身体を貪り喰らうかのように伸びては触れ、触れては消え、消えては現れを繰り返している。

 早妃ねぇはもはや意識朦朧といった状態で、口からよだれをだらだらと垂らしながら声ともつかない声を漏らし続けている。


「あぁ、……早妃ねぇ」


 おれは手に持った棒を力なく落とし、ふらふらと早妃ねぇに近づいていく。


「あかん。拓海、あかんよ」


 早妃ねぇが目に涙を浮かべながら、最後の力を振り絞るかのようにそう言ってくるが、おれの目にはもはや早妃ねぇしか映っていなかった。


 そうして早妃ねぇまであと数歩というところで、半透明の手のひとつがおれに向かって伸びてきた。


「あかん!」


 悲鳴のような早妃ねぇの声が聞こえたかと思った瞬間、手がおれの身体をすり抜けていった。


「あぁぁぁ!!」


 声を上げていたのはおれ自身だった。

 突然の感覚にその場で膝をつく。

 それを合図にしたかのように手のいくつかがおれに向かって伸びてきた。


「あっ! ぐぁ、あぁぁぁ!!」


 襲ってきたのは、経験したこともないような――快感だった。


 手が自分の身体をすり抜けるたびに、五、六回射精したかのような快感が全身に広がる。

 手はとどまることなくおれに向かってきて、そのたびに気が狂いそうなほどの快感が全身を貫く。


「なっ、あっ、あぁっ、ひっ」


 いつしか自分の口からおおよそ言葉とは言えない声が漏れていることに気付いた。抵抗することのできない反射的な音が口からとめどなく流れ出てくる。

 その時ぼんやりと脳裏に浮かんだのは、川で溺れたときのあの記憶だ。とめどなく襲い掛かってくる水流に抗うこともできずに流されたあの時と同じ。


「あぁ、拓海……」


 早妃ねぇが這うような格好で近づいてくるが、その早妃ねぇも手が通り抜けるたびに身体を跳ねさせあえぎ声を上げている。


「さ、早妃ねぇ……」


 おれも必死になって手を伸ばすが、とめどなく続く陵辱がそれを許さない。

 手が身体をすり抜けるたび、気を失ってしまいそうなほどの快感に襲われ、思考は徐々に遠のいていく。


 何度射精したのだろう。いや、射精したのかすらわからない。ただただ続く快感の暴力に、身体を震わせ、されるがままになっていた。




 気がつくとふすまから朝焼けの光が差し込んできていた。

 視界はいまだに歪んでいるような気がしている。

 ゆっくりと身体を起こすと、辺りを取り囲んでいたはずの手たちは、まるでそれが夢であったかのように消え失せていた。

 無意識に股間に手をやると、射精した形跡は一切なく、それがまた昨夜のことが夢であると言っているようにも思えた。


「拓海」


 早妃ねぇの声が聞こえたので顔を向けると、早妃ねぇは荒れた息を整えながら乱れた着物の胸元を押さえて身体を起こしてきた。


「あぁ、拓海。……可哀想に」


 早妃ねぇはゆっくりと近づいてきてから、おれの頭を抱えるように抱きしめた。


「早妃ねぇ、あれは」


 おれの問いかけに、早妃ねぇは何も言わずただ首を横に振った。


「もうすぐ迎えが来るから。何もなかったように振る舞うんやで」


 早妃ねぇは子どもに言い聞かせるように、おれの両頬に手を当て、真っ直ぐ目を見て言ってきた。


「秘密やで」


 早妃ねぇはあの時と同じ言葉を口にする。


「――わかった」


 おれはゆっくりと立ち上がると、乱れた服を整え畳に落ちていた樫の棒を拾う。

 ふすまを閉めるとき、早妃ねぇのほうへ目を向けるが、早妃ねぇは何も言わずにうなずくだけだった。


 階段を降りてお堂の前に立つと、ほどなく迎えの神輿を担いで男連中が山道を上がってきた。


「拓海、大丈夫やったか?」


 親父がおれの顔を見るなり言ってくる。


「……あぁ。大丈夫や」


 伏し目がちに答えたおれを少しだけ訝しむように見ていた親父だったが、すぐに男連中に声をかけ、お堂にいる早妃ねぇを呼びに行かせた。


 早妃ねぇが階段を降りてくるが、おれは顔を向けることができなかった。

 彼女が神輿に乗ったことを確認すると、男たちは声を合わせてそれを持ち上げ、帰路についた。


******


「おう、拓海」


 家に戻ったおれにじいちゃんが手を上げて声をかけてきた。


「大丈夫やったか?」


「……大丈夫やった」


「……そうか」


 じいちゃんはそれ以上なにも聞かずに、ただ労うようにおれの肩に手を置いた。


 この村でずっと守りをしていたじいちゃんだけは、早妃ねぇのあの声を知っているのだろう。もしかしたら、中で何が起こっているのかも知っているのかもしれない。それでも仕事を全うしたはずのおれに、最大限の労いを込めて、そういったぬくもりのある手が肩に乗っていた。


******


 大阪の大学に進学したおれは、半年ぶりの故郷へ帰る電車に乗っていた。

 去年の夏。おれが守りをした水神祭のあと、村は例年にない豊漁に恵まれ、いつになく村は潤った。

 それもこれも守り役が若くなったからだと村の年寄りは冗談交じりにおれに言ってきた。

 そういったこともあってか、今年の水神祭もおれに守りをやって欲しいとじいちゃんから直々の依頼があったのだ。


 あれから、早妃ねぇと顔を合わせるのを避けるようになっていた。

 早妃ねぇに対する恋慕の気持ちが無くなったわけではないが、彼女の家に魚を届けるときも、言葉少なに荷物を置いてすぐに帰るようになっていた。


 早妃ねぇのことを思って自慰行為をすることもなくなった。

 いや、正確に言うとあれからおれの身体は性的な反応を一切示さなくなっていた。

 あの夜味わった快感。

 あれを越える快感を性行為で得られるとは到底思えない。そんな考えがどこか身体の根っこから理解しているからかも知れない。


「拓海、準備できたか」


 親父の声が聞こえたので顔を上げる。

 神輿が早妃ねぇの家に着くと、去年とまったく同じように、白装束の早妃ねぇが姿を現した。


「拓海。今年もお願いね」


 あえて周りに聞かせるようなかたちで微笑みながら早妃ねぇが言ってくるので、おれは声を出さずにうなずく。


 お堂へ向かう道中、おれは神輿の上の早妃ねぇに目をやる。

 早妃ねぇの頬は緊張からか高揚からか赤らんでいた。

 毎年お堂へ向かう早妃ねぇはこんな表情をしていたはずだ。

 そしてその理由を、――いまのおれは知っている。


 無事にお堂へ到着し、早妃ねぇが皆にお辞儀をしてからお堂の中へと入っていく。


「ほな、頼んだで、拓海」


 親父が手を上げ、男連中を連れて山道を下っていく。


 樫の棒を持つ手に、じんわりと汗がにじんでくる。

 それが暑さのせいではないことをおれは知っている。


 あたりが暗くなり、遠くの海にぽつぽつと光が見えてきた頃、おれの耳に鈴虫の鳴き声が聞こえてきた。


 りーんりーんと鳴るそれは、これから起こることの合図だ。


「あっ、いっ、……はぁっ」


 早妃ねぇのくぐもったあえぎ声が聞こえてきた。

 おれは唇をぐっと噛みしめ、目を閉じる。


「あっ、いやっ、……拓海っ」


 聞こえたその言葉に思わず振り返る。

 いま確かに早妃ねぇはおれの名前を口にした。


 おれはゆっくりとお堂の階段を上っていく。

 ふすまの前で決意を固めるように大きく息を吐いてから、力を込めてふすまを開けた。


 あの夜とまったく同じ光景がそこにはあった。

 四方から伸びる半透明な手。

 その手が触れるたびに、早妃ねぇの身体が大きく跳ねる。


「拓海……」


 潤んだ瞳でおれを見る早妃ねぇの目は、優しく呼び込む手のように思えた。


 心臓の跳ねる音が身体を伝わって鼓膜にまで届いている。


 あぁ、だれか。だれか教えてくれ。


 このおれの胸の高鳴りは。


 ――恋か。

 ――愛か。



 ――それとも。




【手――完】

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