海に行けば何かが変わるのだろうか。
麗
海
海を見たい。
海に行って、あのどこまでも広い青色を見れば、何かが変わるかもしれない。そんな幼稚な思いつきが頭の中から離れなくなったのは、いつからだっただろうか。
そして、とうとう海に行く電車にふらりと乗ってしまった。
私、何をやってるんだろう。
「でも、もう乗っちゃたしね……」
私はガタゴトと揺れる電車の中で小さくため息をつく。
窓の外を、全く知らない景色が目まぐるしく流れていく。私が幼かった頃は家族で海に行っていたらしいが、あいにく私は何も覚えていない。
「次は〜〇〇駅、〇〇駅。〇〇線にお乗り換えの方はこの駅でお降りください」
パラパラと人が降りていって、代わりに、降りた人数よりも多くの人が乗ってきた。あまり混雑した電車に乗らないから新鮮だ。少し息がしづらくなって顔をしかめる。
海を見たいという思いに取り憑かれたのは、この間の模試の時だった。国語の試験に出てきた小説の中で、いろいろな悩みや不安を抱えた主人公が海を見た。するとたちまち、暗い気持ちは吹き飛びはじけて、主人公は新しい道を歩み始めた。
私は、その主人公のことがうらやましくて仕方なかった。
ちょっと海を見ただけで、そんなに心が晴れるなんて。私も海を見ればこのもやもやした気持ちも吹っ飛ぶのだろうか。あのどこまでも蒼く、どこまでも広い海を見れば、自分の悩みも笑い飛ばせるのだろうか。最初は何を馬鹿なことをと笑ったけれど、海を見たい気持ちは日に日に膨らんでいった。
私の家は、母子家庭だ。父は私が物心着く前に逝ってしまったらしい。悲しいと感じたことはないけれど、父親と仲良く遊んでいる子を見ると胸がキュッとなった。でも、母は女手ひとつで私のことを育ててくれた。いろいろと大変だろうに休みの日は一緒に出かけて、映画を見たり、遊園地に行ったりした。
私も今年は高校三年生。学費がかさむようなところには絶対に行ってはならない。これ以上お母さんに迷惑かけられない。
でも、思うような結果が出ない。これではだめだと思い、友達からの遊びの誘いも全部断って勉強漬けになっていった。それなのに、何一つ自分の思い通りにならない。進もう進もうと足を動かしているのに、進むべき地面が足元になくて、宙に浮いてしまった足を、どこに降ろせば良いのかも分からない。自分はそれなりに頭が良いほうだと思っていたのに、毎日それが否定されているようだった。最近の私は、息の仕方すら忘れてしまった気がする。深呼吸しても深呼吸しても、空気がまるで入ってこない気がするのだ。
もう何も思い出したくない……。
今日は全部忘れて、やりたいことをしよう。
そう決意して、もう一度窓の外を見つめた。そこには、嫌味なくらい澄み切った空が広がっていた。
◎
乗り換えをするために一度降りる。改札口を通って次の電車に移動しようとした時、甘い匂いが私の鼻をくすぐった。それに合わせて、私のお腹も豪快な音を鳴らし始めた。
うわっ。
慌てて周りに聞こえてないか、こっそり辺りを見渡す。周りの人たちは私のことなんか目に見えないかのように、歩いていく。
当たり前か。ここはそれなりに大きな駅だ。誰も私のことを気にしない。
ふと、腕についた黒の腕時計を見ると、針は三時三〇分を示していた。そういえば、朝ごはんは軽くしか食べなかったし、お昼も食べていない。お腹が空くのも当たり前か。
甘い匂いのした方向を見ると、美味しそうなクレープが売っていた。バナナチョコレート、ストロベリー、アイスのトッピング、フルーツ、ふわふわクリーム。喉がゴクリと音を立てた。
気がつくと、私の手にはほんのりと暖かいバナナチョコレートクレープがしっかりとにぎられていた。薄い生地に包まれたふわふわのクリームとダークチョコレートが絡められ、その隙間からバナナが少し覗いている。……ついついアイスまでつけてしまった。
良いよね、たまには。
近くの壁にもたれながら、食べることにする。行儀悪いけど。
アイスを少しかじり、クリームを頬張る。ふわふわの甘いクリームと苦味のあるチョコレートがベストマッチして、口の中で最高のハーモニーになっている。柔らかくて甘いバナナと、暖かいクレープの中の冷たいバニラアイスも良いアクセントになっている。
……おいしい。
久しぶりにこんなに甘いものを食べた気がする。ふわふわした気持ちになってきて、食べるそばから、お腹がもっと食えと催促してきて、食べるのを止められない。ずっと栄養の足りていなかった臓器に、ぐんぐん栄養が入っているような気がする。
気がついたら、最後の一口になっていた。名残惜しくなりながら、その一口を口の中に放り込む。先っぽの方にもチョコレートが入っていて、なんだか嬉しくなった。
お腹も気持ちも満たされて、自然と笑みがこぼれる。包みの紙を丸めてさっきのクレープ屋さんの近くにあるゴミ箱に捨てる。
ドンッ
いきなり、右肩に衝撃がきて、予想外のことで思わずよろけてしまった。転びはしなかったけど。
「あっ、すみませんっ。大丈夫ですか?」
声がする方を見ると私と同い年くらいの制服を着た女の子が四人いて、そのうちの一人が私に向かって話しかけてきた。
「もー、なにしてんのさぁ。あんたトロすぎだよー。ごめんなさい。うちの子がー」
近くの子が加勢してきた。
「んー。どうしたん?」
「あのバカが人にあたった」
「えー。何やってんのさ」
悪口大会が始まっていた。本気で言っているわけではなくて、仲がいいからなんだろうけど。
「えっ、あ、こちらこそごめんなさい……。ボーっとしていて」
「いやいやいやいや。こっちが悪いんで。すみませんでした」
「大丈夫なので。気にしないで」
と言って、証明するようににこりと笑ってみせる。
「なら良かった。じゃあ、ほんとすみませんでした」
向こうも笑って返してくれた。そして、その女の子たちは歩いていき、やがて見えなくなった。
うわああ、緊張した……。
さっきの子達の制服は短いスカートに大胆に開いた胸元、パーカーを着ている子もいた。化粧もバッチリで、髪を染めている。その姿は自信満々で、輝いて見えた。
対して私は、校則で決められた長いスカート丈の白と黒のセーラー服。真っ黒な髪をきっちり結んでる。いつも地味だといわれる私の顔は冴えなくて、周りの空気に溶けてしまうのではないかと思うほど、存在感がなかった。正反対だ。
「ふぅ……」
とりあえず、次の駅に行こう。その駅で降りたら、海がある。
それにしても、本当に何か変わるのだろうか。こんなところまで来ておきながら、そんな思いが心をよぎる。いや、そもそもの問題として大切なこの時期で遊んでいいのか……。たとえ何があろうと、自習室にこもって勉強し続ける私であるべきではないだろうか。
ボーっとしながらエスカレーターに乗り、なんとなく壁に貼ってある鏡に映る自分の姿を見ていた。
「えっ」
思わず声を上げてしまった。なんと、私の制服にべっとりとクリームがついているじゃないか。急いでハンカチを取り出して擦る。
ううううう……。
擦れば擦るほど広がって行く。しかも、少しストロベリーが混ざっていて、余計に取れにくい。
あの時か。
さっきぶつかった人。そういえば、クレープを持っていた。その時ついたのだろう。あっちも気づいてなかった。たぶん。
どうしようこれ……。
とんでもなく自己主張が激しいわけでは無いけど、少し目立った。何より自分が気持ち悪い。
ふと、視界の端に洋服屋さんが目に入った。
◎
目的の駅に着いた。心なしか、さわやかな海風が吹いているように感じる。
足元がスースーする。
クリームのシミをごまかすための苦肉の策として私がやったのは、パーカーを買うことだった。ぶつかった女の子のグループの子が似たような格好をしていたので、やってみることにしたのだ。
パーカーを買って合わせてみると、高速指定の長いスカートではおしゃれに興味のない私でさえ引くほどダサい。仕方がないのでトイレでスカートを巻き、ついでに髪の毛もほどいてしまった。
膝上のスカート。いつもは結んでいる黒髪も久し振りに垂らしているので、風に揺らされ少しくすぐったい。
誰も注目なんてしてないことはわかってはいるけど、なかなか恥ずかしい。だけどさっきから「悪いことをしている」、という正体不明のワクワク感に襲われている自分もいる。何より、私に纏わりついているどす黒い物を引きはがせたような気分で、爽快だった。
「えっと、こっちか。」
駅にあった地図で行き方を確認して、出発。
都市の高層ビルなんか一つもなく、気持ちの良い空がどこまでも続いている。
歩いていくとだんだん潮の匂いがしてくる気がする。それどころか、しょっぱい匂いや、甘い匂いまでしてくる……? おかしいな。
ドンドン ド ドドンカ ドン
いきなり、太鼓の音がして来た。
「もしかして……」
嫌な予感がしてスマホで調べてみると、なんと今日は花火大会があるらしい。
どうりで人が多いと思った。どうしよう……。
よし。今日の私はポジティブだ。ポジティブ人間で行こう。せっかくだ、花火まで見て帰ってしまおう。
母に「自習して帰る」と送り、たくさんの屋台に引かれるようにして海へと足を向けた。歩道から降りて砂浜に入ると、そこには私の想像していたのどかで静かな海ではなく、人と屋台に埋め尽くされた騒がしい海があった。青い海は人の波の向こうにちょっと見えるだけだった。
……思ってたんと違う。
甘い匂い。しょっぱい匂い。辛い匂い。瓶と瓶の触れ合う音。人々の話し声。砂浜ならではサクサクという足音。海の音。風の音。トンビの鳴き声。
たくさんの音と色にあふれていた。それは、思っていたのとは、たしかに違うけれど。そこに広がっていたのはもっと魅力的なところだった。
私って意外に積極的なのかも、なんて思ってしまう。普段の私は、嫌がりそうな場所だ。違ったのかもしれない。周りの人に「おとなしい」「大人っぽい」「頭が良い」「真面目」エトセトラ、エトセトラ……そんなことばかり言われて来たから。気づかないうちに自分で自分のことをそう思っていたのかしら。
自分の考えにおかしくなってクスクス笑いが止まらない。花火が始まるのは十九時から。それまで何をしていよう?
◎
その後。射的、わたあめ、じゃがバター、ソーダ、チーズハットグ、チョコバナナ。思いのほか豪遊してしまった。財布には痛いが、勉強ばかりでお小遣いは溜まっていたので余裕はあった。
今は十八時時五十七分。あともう少しで花火が上がる。砂浜はたくさんの人で埋め尽くされていて、砂の色さえ見えない。
みんな今か今かと、花火が始まるのを楽しみにしているのが高まっていく熱気でわかる。友達や恋人、家族と一緒に来る人が多いと思っていたけど、意外と一人で見にきている人もいた。
私はりんご飴をかじりながら、砂浜の上にある歩道沿いについている柵に寄りかかりながら花火を待っていた。
そういえば、花火を見るのは本当に久しぶりだ。
小さな頃、母に手を引かれて花火を見に行った記憶が朧気ながらある。幼心にも、空で弾ける花火は綺麗に映った。
そういえば、母が何か言っていた気がする。パパがどうとかこうとか。
もしかして、その時はまだ父は生きていたのだろうか。
ドドーン
ボーっとしていると、いつのまにか花火は始まっていた。
歓声が上がり、次々と色違いの花火が上がる。赤、青、緑。グラデーション、最初と最後で色が変わる花火、形の異なる花火。
目の前に異空間のような景色が広がる。私の目は、そこに釘付けになった。
なんて綺麗なんだろう。
こんなにも周りに人がいるのに、全く気にならなかった。たった一人で花火を見ているような、よくわからない感覚が襲う。でもそれは、ずっと私が抱えていたもやもやした気持ちとは違う、暖かくて気持ちの良いものだった。
「もう大丈夫だよ」
そう言われた気がした。
◎
いつのまにか、花火は終わっていた。
感動が抜けず、ふわふわした感覚のまま電車へと向かう。ものすごい数の人が駅へと向かって行く。それに流されるようにして電車を乗り継いで、地元駅へと向かう電車に乗り込む。
いつもは混むことのない電車も今日だけは人であふれていた。でも、地元駅に向かうに連れて人がどんどん居なくなっていった。
私の駅、田舎だもんね。
ついついスマホを流れるように見てしまう。すると、母からラインが来ていた。
『自習、何時に終わる?帰る時、連絡してね。』
あ。そういえば自習してくる、って嘘ついたんだっけ……。今更ながらに罪悪感が襲ってきた。帰ったら本当のことを言おうか、いや、怒られちゃうかな……。
「え……」
その文章に、私はくぎ付けになった。
『そうそう、今日は花火大会あったでしょ。音聞こえたんじゃない? パパはね、花火の職人だったんだよ。言ったことあったかしら、懐かしいわ。』
そう、書かれていた。
お父さんは、花火職人? うそ。
だからなのかもしれない。今日、私が海に行ったのは。お父さんが呼んでくれたのかもしれない。そう思うと、言葉にできない感情が胸の奥からせりあがってきて、いっぱいになった。
電車が地元駅に着いた。
外に出ると、夜の少し肌寒い風が頬を撫でた。ふと見ると、着ているパーカーに糸くずが付いていた。ヒョイと指でつまんで、駅のホームにポイと落とす。そして、家に帰るため、足を階段へ向けた。
明日からは、なんだか頑張れる気がした。
海に行けば何かが変わるのだろうか。 麗 @rei_urara
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます