第174話 異形が捕らえた身中の蟲

 周囲がその状況を把握し、騒ぎ立てるまでの短い時間の隙間においてクロムとレゾムは即座に状況を開始した。


「レゾム、最大速度で目標を捕らえて、こちらに引き寄せろ。周囲の状況理解が及ぶ前に捕獲し、これから巻き起こる騒動でお前の存在を掻き消す」


 ― あいあい! ―


 背腕アルキオナが先端の顎を開きながら、疑惑の近衛騎士に向かって展開される。

 それと同時に細い紐状の黒い触手が、突き出されたクロムの右掌から蛇の舌を彷彿とさせる速度で瞬間的に伸ばされた。


 感覚を極限まで高めたクロムの視界と時間の流れが緩慢に引き延ばされていく。

 近衛騎士の目がゆっくりと見開かれていき、そしてもう一方の男は未だ何が起こったのか理解出来ず、表情に変化は無い。


 当然のことながら、クロムの右掌から高速で放たれた黒い触手の存在を認知する事すら出来ていなかった。

 レゾムの触手が諜報員の男に巻き付き、一気に手繰り寄せるタイミングでクロムの視界に映る時間が一気に通常通りに流れ始める。


 男の方向に向かって差し出されたクロムの右手には、吸い込まれるように飛んできた諜報員の首が収まっており、男は未だに自身に襲い掛かった災難を認識出来ていない。

 ただ全身の骨や肉が急制動による衝撃で悲鳴を上げているのみ。


 一方で近衛騎士は瞬時に自身の置かれた状況を本能的に身体が理解し、全身を魔力で強化するとアルキオナに対し迎撃態勢を取る。

 近衛騎士は、何故自分が黒騎士の背後から突然生えた正体不明の物体に襲われているかまで理解が及んでいない。

 ただ自身の危機に対し、意識よりも先に身体に染み付いた戦闘経験が身体を突き動かしていた。


 剣を抜く暇も無く、徒手格闘で対応する近衛騎士。

 左腕で顔面の半分を防御しつつ、迫り来るアルキオナの顎を右拳で迎え撃った。

 アルキオナの先端を騎士の拳が捉え、ガキンと大きな金属同士の衝突音が響き渡る。


 しかしこの衝突音は2つの音が重なっていた。


 次の瞬間、近衛騎士が苦悶の表情を浮かべ、脇腹を支点に身体を折り曲げられる。


 この刹那の時間の中、彼の意識は戦闘を感知しておらず、身体が騎士の本能で動いているのみ。

 目の前の黒騎士が瞬間的に超近接戦闘の距離まで詰め寄り、彼の右脇腹に攻撃を加えようとしている事に意識が向けられていなかった。


 クロムの左拳が近衛騎士の脇腹に叩き込まれ、鎧が大きく凹む。

 鎧に付与された魔法防御が、このたった一撃の拳打で激しい魔力火花と共に叩き潰された。


 後に控えている尋問の為、殺害を避けるよう手加減されたクロムの拳打。

 それでも魔鋼製の金属鎧が飴細工の様に変形し、近衛騎士の生身の肉体に食い込んでいく。


「ごぼっあぁっ...っ!」


 口から血と吐瀉物を撒き散らしながら身体を横に折り曲げる近衛騎士に、アルキオナが無数の鉤爪を喰い込ませ、安らぎを全く感じさせない抱擁を届ける。

 鎧の隙間にアルキオナの鋭い鉤爪が潜り込むと、着込んでいる魔織布のインナーを刺し貫き、皮膚を引き裂く。


 鎧を伝わり、滴り落ちる鮮血の雫。


 この背腕の単純な締め付けだけで全身鎧を軋ませる程の圧力が彼を襲い、圧迫感の中で皮膚を斬り裂かれる苦痛が彼の全身を駆け巡った。

 そして最初に脇腹に炸裂したクロムの拳打が近衛騎士の意識を刈り取ろうとするも、アルキオナの与える断続的な苦痛がそれを許さない。


 近衛騎士は、全身を痙攣させながら短く呻き声を上げ、クロムに吊り上げられる事になった。





 そして動き出す周囲の時間。

 諜報員の男の近くにいた者達は、男がいつの間にかその場から消え、黒騎士の手で締め上げられている事にようやく気付く。

 そして何故か通常通りに応対していた筈の騎士が、黒騎士の背から生えている異形の物体に巻き付かれ、吊り上げられていた。


 周囲の人間がこの状況を理解する事にまずひと時の時間を要し、やがて優秀な兵から順番に意識を切り替え始める。

 ここには民間人は殆どおらず、騎士や警備兵を始めとして砦の戦力がこの区画に集中していた。


「さて、色々聞きたい事があるが...場所を提供させる必要があるな。この騒動を知ればウルスマリテ辺りが飛んでくるだろう。待つか」


 槍衾の如く武器を周囲から突き付けられるクロムが、冷静に後の予定を組み上げていく。


 クロムの右腕で締め上げられている諜報員が苦し気に呻き声を上げ、自身の置かれた立場を完全に認識していた。

 だが必死に足掻き何かを喋ろうとしても、思うように身体が動かない。


 締め上げるクロムの黒い手で覆い隠された男の首の表面には、黒く細い線が植物の根の様に放射状に広がっていた。

 接触面からレゾムが男に侵入し、中枢神経を浸蝕しているのだ。


「くれぐれもやり過ぎて殺すな。あと自害もさせるな。対処しろ」


 ― はぁい。歯に何か仕込んでいるかもぉ?やっちゃうねぇ ―


 レゾムの過去に行っていた諜報活動の経験が生かされた。

 そして彼女がいとも簡単に導き出した残酷な答え。


「っ!?もがごぁぁっ!」


 突然、諜報員の男の顔が驚愕の表情と共に更なる苦痛で歪む。

 男の頬の奥で何かが蠢き、口からくぐもった悲鳴と共に血液が大量に溢れ出て来た。


 ― 怪しい歯は全部根元からからもう安心だよぉ。舌も嚙み切られないように前歯もいっちゃおうかなぁ ―


 男を浸蝕しているレゾムが彼の口の中を細い無数の触手で蹂躙し、歯を根元から肉ごと抉り取る。


「ごぼっ...ごぼぉ...」


 口腔内で溢れた自身の血肉で男は溺れそうになるが、即座にレゾムがそれを飲み干していく。


 ― そんな簡単には死ねないよぉ。ざぁんねんっ! ―


 白目を剥いて血を吐きながら痙攣する男。

 目を見開きながら異形に吊られる騎士。


 理解を超えた光景を連続で見せられ、またしても思考が滞る周囲の者達。

 それでもクロムに対し、周囲は武器を構え続ける。


 しかし誰一人としてクロムに対し警告を発する物もおらず、近付こうとする者も居ない。

 クロムを中心に巻き起こる


 クロムを知る者達は間違っても彼の標的にならないように気配を抑え、そして彼がこうやって動いた事に何らかの理由があると推察する。

 だからこそ動かない。


 クロムを知らない者達は、目の前の黒い騎士が正体不明の物体を使い、近衛騎士と男に突然襲い掛かったと認識している。

 だが、動けない。


 ただ両者に共通するもの、それは“圧倒的な恐怖”。

 黒騎士から漏れ出る深紅の魔力は、感じ取るだけでもその身を震わせ、身体を縛る。

 背中から異形の物体を生やしている事を“異常”と感じさせない程の恐怖を振り撒くクロム。


 ただ何かが起こっているという認識だけが、現時点で周囲が理解出来るたった一つの現実だった。






 ウルスマリテが現場に向かいながら、今までにない異様な雰囲気を感じ取っていた。

 騒ぎの中心に向かえば向かう程に、喧騒が鳴りを潜めていく。


 何事かと騒ぎ立てる外縁部から中心に向かう程に、静寂の比率が増え、そして緊張感と畏怖が漂い始める。

 可能な限り騒ぎの中心から静かに遠ざかる騎士も居た。


 本来であれば騎士にあるまじき行動ではあるが、この騒ぎの中心にいるのが黒騎士クロムである以上、それを騎士団長として責める事が出来ないでいる。

 相手が人間を無座別に殺す魔物であれば、逃亡など許されるはずも無く、ウルスマリテは騎士団長として騎士の資質を疑うと共に厳しい処罰を与えるだろう。


 しかし相手が黒騎士クロムなのだ。

 確固たる意思を胸に秘め、他の追随を許さぬ戦闘力を持つ、理性的な怪物。

 この世界の突如として現れた特異点。


 騒ぎを収めるべく足早に向かうウルスマリテは、過去に敵前逃亡で処罰したピエリスを思い出した。

 騎士団の中で黒騎士クロムと一番最初に邂逅を果たし、与えられた役目を果たせぬまま、失意を胸に騎士を辞めたピエリス。


 強さだけが騎士の正義では無く、崇高な精神と目的の為に日々研鑽を重ねてきたウルスマリテ。

 しかし彼女もまた圧倒的な強さを誇るクロムに対し、自身の持つ正義を主張する事が出来ないでいた。


 あまりに無力。

 ウルスマリテはピエリスがあの時、自身の主が成す術もなくクロムに蹂躙される光景を見て、そして自身の力では何も出来ないと言う絶望感に襲われていた事を今なら容易に想像出来た。


 そしてクロムを取り囲むように騎士達が集合している中心地にウルスマリテが到着する。

 あまりに静かな戦場。

 ただそこには小刻みに聞こえる無数の金属が擦れる音。


 その場に居る騎士や兵士が震えていた。


 ウルスマリテが背後にいるにも関わらず、クロムの発する恐怖で全く気付かない騎士達。


「喝っ!!!皆の者、今すぐ武器を収めよ!ここはこの私、騎士団長ウルスマリテが対応する!即座に持ち場に戻り、各々の職務を果たせ!」


 ウルスマリテが闘気を瞬間的に放射し、その気が周囲の騎士達の恐怖に支配された精神を解き放つ。


 ― ほぉ。流石と言うべきか。騎士団長というのは伊達では無いな。気迫で恐怖の鎖を引き千切るとは ―


 クロムが周囲の状況を観察しながら、ウルスマリテの評価を1段階引き上げた。


「これは伯爵閣下が下されたご判断である!この命令に従わぬ者は閣下に対する反逆と見做す!またこの騒動に関してその一切の他言は厳禁である!これに反した者は、反逆罪にて即時極刑に処されると理解しろ!」


 周囲の空気を振動させる程の気迫と声量で、その場を収めるウルスマリテ。

 その言葉を聞き、クロムを知る者達は即座に行動を開始する。

 この段階で状況が自分の遥か上に存在する事を確信したからだ。


 そして知らぬ者達は、この状況を理解出来ないまま、反逆と極刑と言う言葉に恐れを抱きつつその場を離れ始める。

 だが、その中の一部の者はクロムの放っていた恐怖によって精神が麻痺させられ、その罪の重さの意識を軽く見てしまう。


 その場に残り、事の顛末を見届けようと命令に抵抗する姿勢を見せる者達が居たのだ。


 ― 愚かな...そしてこの私は何と非力な事か ―


 ウルスマリテが奥歯を噛み締める。

 先程の自分の意思を込めた気迫の叫びが、クロムの恐怖と威圧に勝てなかった事を思い知る。


 立ち去ろうとしない者達の背後に、近衛騎士の数名が近付いて行く。

 そしてその者達が、背後の異常な気配に自身の過ちに気が付いたが、時すでに遅し。

 拘束され、連行される者達はこれから厳しい処罰を受ける事になる。


 そこで漸く全体が事の重要さと異常さに気が付き、騒動が一応の収まりを見せる事になる。

 先程まで1点に集中していた視線が、今度は“見てはいけない物”として外されていく。





「クロム殿。まず先に伝えておく。閣下を含め貴殿のこの行動を阻害する意図は無い。ただ事情に関して話して貰えると非常に有難い。その手の中にある者達はあくまで我々の配下の者であるが故の要望として受け止めてくれ」


 ウルスマリテが可能な限り闘気を抑え、クロムに語り掛けた。

 クロムとウルスマリテの間に酷く冷たく重い空気が流れていく。


「訳あってこの2人を尋問する必要がある。場所を用意しろ。また尋問に立ち会う事は許可するが、余計は口出しをするな」


 アルキオナと右手に僅かな力が籠ると、小さな呻き声が大きくなった。

 拘束された両者の足元には血が滴り落ち、地面を黒く染めていた。


 ― クロム殿は無意味な暴力を行使しないと信じたい。何か理由がある筈だ...だが、まるで状況が把握出来ない。近衛騎士と...もう一人は何者だ? ―


 ウルスマリテはクロムの姿を今一度見つめ、その時点で彼の背中に見慣れぬ物が担がれている事に気付く。

 それが何か全く予想も出来ない、奇妙な物体。


 背中から生える禍々しい異形の副腕の存在に隠されていた、もう1つの正体不明の物体。

 そしてクロムに捕らえられた面識の無い男。


 この時点でウルスマリテが朧気ながら1つの予測に辿り着く。


「わかった。至急手配しよう。場所はそうだな...逃亡防止を考えて地下室で構わないだろうか。声や情報を漏らさぬ措置も取っておく」


 ウルスマリテが瞬間的に思考を巡らせ、機転を利かせた意見をクロムに投げ掛ける。


「わかった。それで頼む」


 彼女の進言に即答するクロム。


「良かった。では私に付いてきてくれ」


 ウルスマリテが身を翻し先導するように歩き始め、後ろを2人の人間を吊るし上げたクロムが続く。

 周囲が見れば全く理解出来ない構図。


 クロムが即座に進言を受け入れた事により、ウルスマリテは予想よりも早く事態の収拾を完了させた。

 だが彼女の心は全く安心出来ていない。


 ― これは...不味い。あまりに不味い。男は恐らく間者だろう...それはまだ良い。入り込んでいる事自体は状況からして不思議ではない。だが問題は... ―


 ウルスマリテが歩きながら拳を握り締めていた。


 ― 我がオルキス近衛騎士団の中にも間者が居たという事だ...それをクロム殿が何らかの方法で看破した。これは騎士団に対して様々な方面への致命的な信用問題の悪化に発展する...! ―


 近衛騎士団の主であるオランテに対する明確な反逆行為に加え、今後、連携を取る事になるであろうクロムとの信頼関係にも亀裂を走らせる状況。


 ここに来てウルスマリテの背筋に汗が滲み始めた。


 ― この局面...どう切り抜ける...! ―

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