第151話 怪物は互いに喰らい合う
天幕の中で巻き起こった騒動が沈静化し、その場に落ち着いた空間が戻って来た。
しかし周囲を見渡せば、吹き飛ばされた壁に始まり、傾いたテーブル、両断されたソファー、散乱する調度品と文字通り嵐が過ぎ去った跡となっている。
しかし渦中のクロムとラナンキュラスは、周囲を置き去りにしながら先程の騒動をまるで無かったかのようにその場で立ったまま会話を淡々と進め、最後に王女がクロムに王家印章が刻まれた依頼書を受け取る事で、一応の交渉終結を迎えた。
ただしその交渉の中でも、特にオランテが困難だと進言した称号と王家公認の冒険者ランクの授与に関しては、クロムは正面から拒絶した。
「称号など不要だ。俺はお前の騎士にも王家の駒にも成り下がるつもりは無い。諦めろ」
クロムはそう言うと、その場でラナンキュラスに書状の文言を無理矢理削除させるという、傍から見れば暴挙以外に何物でもない指示を出した。
この時点で胃液が喉元まで上がってきたオランテだったが、当のラナンキュラスは眉根を寄せて残念ですと一言呟きながら、即座にその文言を魔道具にて削除する。
最終的にその訴状の中には、大司教ラナンキュラスの会合参加における星約騎士としての帯同に同意する文面、そしてクロムに策謀等で不利益が発覚した場合、即座に契約を破棄、敵対行為として対処するという文面が残された。
対するラナンキュラスがクロムに支払う対価は、彼の行動全ての容認、そしてその権限と影響力を最大限利用した工作活動によるクロムの支援、及び一連の行動に対する指揮権の放棄だった。
これが釣り合っているのかと聞かれると、その前例の無い異常過ぎる内容もあり誰も答える事が出来ないだろう。
当事者が納得しているから問題は無いと認識する他なかった。
ラナンキュラスは随分と寂しくなった書状の空白を残念そうに見つめながらも、思いのほか素直に話を切り上げる。
「ではクロム様。今後とも宜しくお願い致します」
「連絡は伯爵経由で問題無いだろう。今後があるかはお前の行動次第だ」
彼女は僅かに熱の籠った目線でクロムを見上げるも、クロムからは何の反応も引き出す事が出来ない。
クロムに対する不利益の範囲を取り決めていない為、仮にその中に彼の不快感が含まれているとすればと考えると、あまり執着する訳にもいかなかった。
そしてラナンキュラスは交渉の冒頭で口にした、贈呈品に対する個人的な対価の話をしようと口を開く。
しかし、それはクロムの思わぬ言葉で遮られる事となった。
オランテが心の底から事態の収束に安堵している状況で、思わずいい加減にしてくれと叫びそうになる。
騒動の燻り今も尚、確かな火種となってその場に存在していた。
「ロサ・アルバ。一度だけ俺への攻撃を容認する。かかって来い」
この言葉にラナンキュラスも驚きの表情を隠せなかった。
そして神官達、オランテ、レオントはこの言葉の意味を理解するよりも早く、身を屈め退避行動を取る。
ラナンキュラスが静かに歩きその場から離れた瞬間、ロサ・アルバが両手でシミターを握りクロムとの距離を瞬間的に詰めた。
ロサ・アルバの発した冷気を伴う魔力は、床に氷の足跡を残す程に濃密であり、白い靄を立ち上らせるシミターがクロムの首と腕を切り離さんと斬り払われた。
甲高い破裂音と共に、白と赤の魔力波動が天幕を内側から持ち上げんばかりの勢いで放射され、それを見つめるラナンキュラスの髪がその波動に反応し、僅かに光を帯びながら浮かび上がる。
もはや周囲の人間にとっては、災害以外何物でもない。
オランテやレオント、そして神官達も一般市民とは違う高い身体能力を有しているが故に、何とか耐えられているだけだ。
瞬間的に繰り広げられた一騎打ち。
白い冷気と魔力を立ち上らせ斬りかかったロサ・アルバに対し、赤い魔力を纏いながら腰を低く構えて受け止めるクロム。
クロムの首を狙った一振りはクロムの右前腕部により阻まれ、もう一方の攻撃はクロムの左手がシミターの刀身そのものを反対側から攻撃を追う形で掴み取っていた。
キリキリと背筋が震えるような金属音が響き、クロムの右前腕と左掌が白く凍り付き始める。
だが宇宙空間の絶対零度でも長時間耐えられるクロムの外骨格装甲にとっては、何ら損害を与える事が出来ない。
[ 外骨格装甲 第1層に衝撃を確認 装甲強度に影響無し 損害無し ]
[ 融魔細胞へ魔力供給 融魔細胞活性化及び変性を確認 低温耐性 問題無し]
コアからの報告も無慈悲なまでに簡潔な物のみだった。
装甲の隙間から内部に侵入する冷気も、融魔細胞の変性で難無く対処が出来ていた。
― 本気では無いだろう。ただ砕ける事も無く、刃毀れしない所を見るとかなりの強度と魔力が込められているな ―
クロムは何としても装甲を突破しようと力が込められ、カチカチと震えている2本の刃を冷静に確認している。
ただしこの時点でロサ・アルバもクロムを倒す事が不可能であると悟っていた。
一閃されたシミターの刃が軌道を追う形で裏側から無傷で掴まれた時点で、現時点での装備ではクロムも命に届かない事を受け入れている。
だが、それでもロサ・アルバの心の中に蠢く明確な殺意と憤怒が、剣を引く事を許さない。
「...何故反撃しない」
ロサ・アルバが静かにクロムに問い掛ける。
「ならば今ここで殺し合うか。その代わり俺は周囲への配慮は一切しない。それでも良いなら相手になろう。今ここでお前を潰してやる」
クロムに両腕に赤い魔力が湧き立ち、刃との接触面に赤い火花が散り始め、瞬く間に白い氷が溶かされていく。
この言葉はロサ・アルバの憤怒に油を注ぎ、白い魔力がその身体から溢れ出す。
しかしその視界の中にラナンキュラスの姿を捉えると、その怒りは急速に鎮静化していった。
剣に込められていた力が抜け、そのまま静かにクロムの身体から離れていく。
「...次は殺す。今の私の装備が柔すぎる」
「好きにすればいい。次までに望みの潰され方でも考えておけ」
クロムからの反撃を全く想定せずに、ロサ・アルバはシミターを腰に戻し所定の位置へと戻っていく。
― この気質自体は嫌いでは無いのだがな。いかんせん鬱陶しい ―
一定の評価をクロムが下した所で、ラナンキュラスがロサ・アルバに冷え切った視線を浴びせながら戻ってくる。
「クロム様。愚かな駄犬と戯れて頂き感謝致します。交渉を無事終えたと判断した上で、私の個人的な対価の件でお話があるのですが、宜しいですか?」
ラナンキュラスが一瞬で瞳の温度を変え、クロムを真っすぐに見つめると、自身の話の続きを口にする。
「言ってみろ」
「はい。しかしながらその前に、クロム様のお目を汚す事になる事を、先に謝罪させて頂きます」
彼女の煌めく瞳に仄暗い空洞が浮かび上がる。
「ロサ・アルバ。これまでの労に報い、哀れな者達に神の慈悲を」
ラナンキュラスがその言葉が発し終わった瞬間、天幕内を横薙ぎで一筋の白く輝く剣閃が煌めいた。
ダイヤモンドダストを伴うその剣閃は、周囲に控えていた神官達を通り過ぎ、霞の様に消え去る。
そしてこの場に居た神官全ての表情が凍り付き、動きが停止した。
糸が切れた操り人形の様に崩れ落ちる神官達の身体、次に床に転がる切り離された無数の首。
その切断面は凍結し、一滴たりとも血は流れず、人間の内部構造を輪切りで観察出来た。
価値ある自身の喜びを無価値の有象無象に共有される事を何より嫌ったラナンキュラスの判断。
最も手早く、そしていとも簡単に選択される口封じ。
「な...」
オランテが突然の出来事に身体を硬直させ絶句するも、そこから言葉を続ける事は出来ない。
何故なら先程の剣閃がオランテの首の直前まで迫っていたからだ。
ロサ・アルバの加減次第ではその攻撃に気付く事無く、命が絶たれていた可能性があった。
伯爵である自身の立場であれば、それは無いと言い切る事が出来ない現実。
ラナンキュラスの一言とロサ・アルバの匙加減で、自身の命はいとも簡単にこの世から切り離され、それに対してクロムが何か行動を起こしてくれるかと言われればその確証も無かった。
事実、クロムはこの一連の粛清に対して何ら行動を起こしていない。
無関心と言っても良かった。
「クロム様、お騒がせしました。対価の件ですが実の所、もう十分すぎる程に頂いてしまったのです」
「どういうことだ」
生気の戻った瞳でラナンキュラスが自身の髪に触れながら答える。
「誰も触れる事が無かったこの私に触れ、そして魔力にも触れて頂きました。この歓びは私にしか理解出来ないものでしょう。それ故に十分過ぎるという事なのです」
「よく理解は出来ないが、敢えて知りたいとは思わん。それを対価として満足しているなら問題無い。面倒な事にならないのであればな」
「はい。それと最後にお聞かせ願えないでしょうか、クロム様」
「なんだ」
潤む瞳の中に黒くクロムを反射させ、言葉を幾つか選ぶように問うラナンキュラス。
「私の髪をどう思われますか、クロム様」
その口調には僅かに言葉の迷いと、その問いの答えに対する恐怖を感じさせるものがあった。
「魔力も含めて美しいな。俺が言えるのはこれだけだ」
ラナンキュラスはその言葉を聞き、一転して今までに無い笑顔を浮かべる。
だが彼女の心境とは裏腹にこの会話を区切りとして、早々にラナンキュラスへの対価の件を終わらせるクロム。
それを感じた彼女は悲し気な吐息を吐くも、クロムから送られた言葉を素直に受け止め、十分過ぎる満足感を覚えていた。
ラナンキュラスが名残惜しそうな表情を浮かべながら、安堵も含む溜息をふぅと吐きながら、小さくその身を一度震わせる。
そして騒動の最中、一度も魔法によって倒れる事無く、床に直立したまま放置されていた木の錫杖を手繰り寄せ、口を開いた。
「これでクロム様との交渉を終わりとします。伯爵...この度はご苦労様でした」
「い、いえ...勿体無きお言葉...」
突然の王女の口上に、オランテはふらつく身体を何とか抑え、跪いて頭を垂れる。
「ですが...」
その後に続いたラナンキュラスの労いを否定する言葉が発せられた瞬間、今度はオランテの身体がビクリと震えあがり、背筋を冷や汗が一気に滲み出した。
「私とクロム様との...とてもとても大切な触れ合いの最中、何やら異議を唱えましたね...薄汚い大声で...そうですよね伯爵?」
小首を傾げながらオランテを冷めた視線で射抜く王女。
オランテは頭を上げる事が出来ず、許されてもいない。
だが王女が自分に冷徹な視線を向けている事は、全身を支配する戦慄に似た気配にて容易に判別出来た。
「も、申し訳...」
「その謝罪に何の意味があるというのでしょうか。いいでしょう...この交渉を実現したという功績を称え、この失態を相殺とします。ですが...それでこの功績は完全に消え去る事になります。宜しいですね?」
「寛大なご慈悲に心より感謝致します...」
例えその是非を聞かれたとして、オランテに許された回答は是のみ。
オランテは深々と頭を下げる。
「あぁ...そうですね。ついでにここに散らばった醜い
コツリコツリと静かな足音を立てて歩き出すラナンキュラス。
「後、不思議な事に何故か我々の乗って来た馬車に余分が出来てしまいましたが、これも潰してしまいなさい。精々薪くらいにはなるでしょう。火となり民の温もりとなるのであれば、それは十分な働きです」
そして彼女は改めてクロムに向き直ると、出会った時と寸分違わぬ美しいカーテシーを披露し別れの挨拶とする。
「クロム様。至らぬ事も多く愚かな者達による数々の無礼、大変失礼致しました。このラナンキュラス、次お会い出来る事を心より楽しみにしております」
「くれぐれも自分本位の勘違いは避ける事だ。失望させるな」
「勿論でございます。決してそのような事はございません」
微笑を浮かべたラナンキュラスが答えるもクロムは懐疑的な言葉を返す。
「だといいがな」
その言葉を聞いてラナンキュラスはふふと嗤い、身を翻し天幕を後にする。
その際、彼女に付き従うロサ・アルバとクロムの視線が交錯するも、僅かな殺気の応酬のみで終わった。
天幕の外に出て、目を閉じながら森の夜風を堪能するラナンキュラス。
待機していた馬車に乗り込む寸前に、ふと何かに気が付いたように目を細めた。
「ロサ・アルバ。役立たずの駄犬に仕事を与えます。何やら近くに“穢れ”が潜んでいます。処分してきなさい。私は馬車でこの心地の良い余韻を楽しんでいます。この素晴らしい夜を乱す汚物に死の祝福を」
「御意」
馬車の扉が閉じられ、魔道具が強力な結界を展開したのを確認すると、ロサ・アルバが純白の魔力を身に纏いながら、霜の足跡を残し森へを消える。
そして僅か数十分後には純白の鎧に僅かな黒い汚れを付けながら帰還したロサ・アルバ。
無言で御者台に座り、馬に鞭を入れると砦を後にする。
「随分と時間を掛けましたね。一体幾つ失態を重ねれば気が済むのですかロサ・アルバ」
今日も主より罪を与えられた白銀の騎士。
彼の兜の中で歪む顔は誰にも見られる事は無い。
青みを帯びた魔法の明かりが照らす馬車の中で、豪華な背もたれに身を埋めながら、ラナンキュラス自身の髪に触れながら微笑んでいた。
美しい緑の長髪に絶え間なく滲む魔力。
今まで決して触れられる事の無かった髪に躊躇無く触れた黒く冷たい手を思い出し、瞳から強い魔力の光を溢れさせた。
「何と心地の良い感触...そして暴力的で荒々しい魔力。私の全てを飲み込むほどに濃厚な魔力」
湿り気を帯びる唇を人差し指でゆっくりとなぞり、それを舌先で絡め取る。
「でもクロム様はあれだけの力を持ちながら、何故その慈悲深いお心の中に小さな迷いを置かれているのでしょう...」
憂いを帯びた表情を浮かべる顔の前で両手を広げ、手遊びの様に指先に魔力を纏わせるラナンキュラス。
舌で弄んだ人差し指が濡れ、明かりをぬらりと反射していた。
「それにクロム様は時折そこにおられるにも関わらず、何処か遠くの誰かを見ているような...この私では貴方様の眼を留める事が出来なかったのですね...とても残念です...でも...でも...」
悲しみと口惜しさを滲ませた言葉を紡ぐラナンキュラスの眼が見開かれ、緑の魔力が迸る。
意識の中でクロムと触れ合った記憶がフラッシュバックで蘇り、彼女はあの時の苦痛と快感、そして幸福感を強烈に感じ取った。
そして差し出された両手の平に小さな魔力の揺らめきが生まれる。
弱々しく揺らぐ魔力。
彼女がその手に浮かび上がらせたのは深紅の魔力。
その赤い光がラナンキュラスの蕩けた表情を浮かび上がらせた。
彼女はその手に浮かび上がらせた深紅の魔力を凝縮し、飴玉サイズの1つの塊を作り上げると、それを透明の唾液で満たされた口腔内に迎え入れた。
彼女のぎこちなくうねる舌が赤い魔力の塊を絡め取り、味わうように転がらされ、飲み込まれていった。
そして体内で沸き上がる暴力的な深紅の魔力の胎動。
ラナンキュラスは両腕で自らの身体を抱きながら、その苦痛と衝撃を受け止め、その意識の先に黒騎士クロムの姿と、その身に刻まれた黒く硬い感触を思い出す。
「ああ...これがクロム様の...なんて孤独な魔力...まるで哭き叫ぶ奈落の獣のよう...果の無い闇の中で迷われているのですね...」
両手を胸の前で組み合わせるとクロムの眼前で魅せた祈りの姿勢を取り、魔力と共に涙を溢れさせるラナンキュラス。
大きく見開かれた瞳から零れる魔力の光は、緑では無く深紅に煌めいていた。
「祝福を祝福を...安寧を安寧を...闇で迷える黒き騎士にどうか導きの光を...」
ラナンキュラスの悲しみの表情が恍惚の微笑に移り変わり、瞳から濁流の如く溢れ出した赤い魔力が、深緑の長髪を漆黒に塗り替えていく。
「染め上げよ染め上げよ...赤く黒く染め上げよ...穢れた骸を天まで積み上げ...その頂きに立つ者に狂神の加護と鮮血の祝福を...」
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