第146話 黒の帰還に蠢く思惑
建設がかなり進んでいる砦にある一際大きな天幕の中には、現場監督を任命されたレオントが工期と進捗を書き示した紙を見ながら頭を悩ませていた。
オランテは現在、自領の伯爵邸にて執務と例の王女の件の調整に追われており、日に日に目の隈が濃くなっていると報告を受けている。
そんな中、伝令と思しき兵士が天幕の前で入室の許可を取った。
「ご報告があります!先程、ウルスマリテ騎士団長殿が率いる調査隊より伝令が!」
「入れ!」
レオントは何かあったのかも知れないと、即座に頭の中で援軍の構成に必要な騎士や兵士の数を計算する。
「ご報告します!調査隊がウェア・ウルフの集団と接敵、交戦状態に入りました!」
その言葉を聞いた瞬間、レオントが血相を変えて立ち上がった。
「なっ!?ウェア・ウルフだと!そんな魔物がこの区域に出現するなど前例が無いぞ!」
ウェア・ウルフの戦闘力は通常のオーガやオークよりも遥かに高く、高位の騎士数名でようやく1体を何とか出来る程だった。
加えて、砦の背後に広がる森林外縁部に出て来るような魔物では無く、より森林の奥深くに縄張りを持っている筈。
「しかしながら黒騎士クロム様の武力介入により鎮圧されました!現在、調査隊と黒騎士クロム様は合流され、こちらに向かっているとの事です!」
「っ!?クロム殿が戻られたのか!よし...これよりこの天幕を含む重要区画は許可の無い者の侵入を厳禁とする。周辺警備の人員を確保した後、周知徹底を図れ」
「はっ!直ちに!」
そう言って兵士はレオントの命令を受け、天幕を後にする。
再び1人になったレオントは、即座に紙を机に置きオランテへの報告書を書き始めた。
クロムがこの砦に到着する時間までにオランテの来訪が間に合わない可能性が高いが、クロムを待たせる時間は短い方が良い。
備え付けの伝書鳥を使えば報告自体はさほど時間は掛からない。
問題は来訪者がオランテ1人では無い場合だった。
あのラナンキュラス王女がオランテと共に行動する可能性も考えなくてはいけない。
指定した重要区画への侵入を厳禁とした理由もこれにあった。
加えてクロムの姿を公にする事で、噂や憶測が飛び騒ぎになる事を防ぐ意味もある。
「しかしウェア・ウルフを造作も無く撃破するとは...何とも恐ろしい」
書き終えた機密文書を丸めて魔法筒に封入すると、オランテより預かっている魔力印章を使い厳重に封印した。
そしていつでも飛ばせる様に待機させていた伝書鳥に魔法筒を装着すると、そのまま空へ放つ。
「また暫くは忙しい日々になりそうだな...ただ私より閣下の方が心配ではあるが...」
レオントは冷めた紅茶でオランテが毎日の様に摂取している胃薬を飲み下すと、その苦さに顔を歪めつつ、これから起こるであろう騒動を想像して声色に疲労を滲ませた。
砦を任せたレオントからの知らせを受け、オランテは全ての業務を中断し砦への出立準備に追われていた。
オルキス領領主であり、伯爵位を持つオランテの移動にはかなりの警護が必要であるが、現状において行動の秘匿性を高める為、最低限の人員で済ませる手筈となっている。
そして可能であれば、あの王女の眼を自然と掻い潜れる手段を取りたいとオランテは考えていた。
王族は動かないという常識を一気に覆したあの王女の行動は、ここに来て全く予測の出来ないものとなっている。
しかも今、王女の傍らには王国最高戦力の一角である
それがクロムと邂逅を果たした際にどのような事態が引き起こされるのか。
まだ記憶に新しいクロムとヒューメの戦闘を思い出して、オランテは背筋を冷やす。
クロムに対する王女の言動によっては、彼が王家のみならず王国その物を敵対視する可能性もあった。
「どう動く...クロムの次の目標次第で話が変わって来るな...王女殿下の要望をどのように伝え、了承を得るか...対価は何を提示すれば穏便に...」
レオントから送られてきた機密文書が広げられた執務机に両手を付き、扉を睨みつけながら思考を回転させるオランテ。
― ここで選択肢を間違う訳にはいかない。王女殿下の思惑も未だ分からんうちは慎重に慎重を... ―
オランテの眉間に力が入り、最近はほとんど見せていなかった国家諜報機関“
その剣呑な雰囲気が部屋を支配する中、伝令役の兵士によって扉がノックされ、入室が許可される。
そして伝令は扉を開けて入室した際に部屋に満ちた緊迫感と、オランテの浮かべている雰囲気に息を飲んだ。
「か、閣下、失礼致します。出立の準備が整いました。近衛騎士団8名騎乗状態で待機中であります。」
「わかった。こちらが準備出来次第で出立する。近衛騎士団に私が戻るまでの間、厳戒態勢を敷く様に伝えろ。場合によっては騎士団長を呼び戻す」
「はっ!」
今迄にないオランテの気迫に煽られ、いつも以上に背筋を伸ばし敬礼を行った伝令が部屋を退出する。
― クロムが
実際の所、クロムの現状をそのまま知ってしまえば卒倒する可能性すらあり得るオランテ。
この時はまだ冷静さを保つ程には、精神的な余裕があった。
王家保養地の屋敷内の礼拝堂にて祈りを行っていたラナンキュラス。
風の無い礼拝堂の中でも、魔力に煽られて静かに髪が揺れている。
礼拝堂の外には扉を警護する為に一切の身動きを見せずに立つ
そしてその廊下を挟んだ壁沿いには、冷や汗を滲ませ、頭を垂れ震えながら跪く男の神官が居る。
身動き一つ間違いがあるだけで、今見つめている床に自身の血が染み込むと考えると震えが止まらない。
その上からロサ・アルバの冷たい殺気が容赦無く浴びせられている。
この神官は密偵の報告を上げに来ただけであり、このような殺気を浴びせられる謂れは無い。
だが、それがこのラナンキュラスに仕える神官の受ける通常通りの扱いである。
「大司教猊下が参られる」
扉の向こう、礼拝堂内部でのラナンキュラスの行動を気配で察知し、ロサ・アルバが動く。
その場の気温が数度下がった様な錯覚を覚えさせるロサ・アルバの声を聞く神官は、ただただ頭を深く垂れる他に選択肢は無い。
ロサ・アルバの手で扉が開かれ、奥から美しい法衣を着たラナンキュラスが姿を現わした。
王国民が見れば溜息を漏らす程の美しさを湛え、その笑顔は万人の心を癒す。
しかし今この場においては、その美しさすら恐怖の対象であり、そして王国民が決して見る事の無い狂気の片鱗を孕んでいる。
「口を開く事を許可します」
抑揚の無い静かなラナンキュラスの声が廊下に響く。
ロサ・アルバの殺気が神官の頸椎部分に鋭く注がれていた。
「は、はい...先程、潜伏していた“
神官は声を震わせながらも報告を全うし、再び口を真一文字に噤む。
僅かでも不手際があれば、今強烈な刺激を受けている頸椎に剣が振り下ろされる。
「あら。長らく音信不通だった穢れた汚泥が?てっきり哀れな駄作の末路を辿ったと思っておりましたが...そうですか...」
白く細い指先を細い下顎をなぞり、目を閉じて思案するラナンキュラス。
そしてその指先が静かに離れると、彼女の顔に蠱惑的な微笑が宿る。
「なるほど...動きましたね伯爵。その先に何があるかはもう考える必要はないでしょう。それでは私も動かねばなりませんね」
彼女の瞳が緑に潤む。
「ロサ・アルバ。時間を置いて我々も動きます。準備をなさい」
そう一言告げるとラナンキュラスは踵を返し、魔力の残滓を振り撒きながら髪を揺らすと自室へ向かって歩き出した。
命令を受けたロサ・アルバは静かに頭を垂れると、彼女の後について行く。
神官の頸椎に浴びせられていた殺気が消え、僅かな安堵が去来するも、彼は見てわかる程に震えながら、床に額を付けんばかりに頭を垂れる。
後は大司教がこの場を去るまで待つのみ。
― ば、化物共め...神よ...私にどうかご慈... ―
神官の心の中で蠢く怨嗟と祈り。
だが、それは突然襲い掛かってた浮遊感、軽い落下の衝撃と共に途切れた。
トスリという音がラナンキュラスが去った後の廊下に響き渡り、絨毯の上を生首が転がる。
しかしその切断面は首と胴体共に冷気によって表面が氷漬けにされており、鮮血が噴き出す事は無く、途方も無い価値を誇る絨毯を血で汚す事は無かった。
汚す可能性が有るとすれば、死後の汚物排出であるが、ラナンキュラスに仕える神官は男女身分問わず“御むつき”の着用を義務付けられている。
彼は最後まで気が付かなかった。
ラナンキュラスが身を翻した際、宙に舞った美しい髪の先端が一瞬、頭を垂れた彼が被るミトラに触れた事を。
その瞬間、ロサ・アルバのシミターが神官の頸椎を撫でた事も。
自室に向かう最中、ラナンキュラスは冷徹な瞳を浮かべながらロサ・アルバに告げる。
「処罰が遅いですね。気を抜いていましたか。本来であれば貴方にも罰を与えなければいけませんが...赦しましょう。今は歓びをこの身で、この震える心で存分に受け止めたいのです。邪魔は許しません」
自室の前に立ち、ロサ・アルバが扉を静かに開ける。
部屋に吹き込む冷たい空気がまたも彼女の髪を揺らすも、ロサ・アルバはそれに触れる事は無い。
「すぐさま髪を清めます。準備をなさい。この歓びに一点たりとも穢れはあってはなりません」
ラナンキュラスは髪を手に取り、先程神官が触れた先端部を見つめる。
「汚物が触れたこの髪を切り取れない苦しみ...ああ、これもまた私に与えられた試練なのですね...」
彼女が部屋に入るとロサ・アルバは静かに扉を閉める。そして扉の前で立ったまま時間が停止したように動かなくなった。
その背には扉越しに、ラナンキュラスの鈴の音の様な歓びの声が僅かに届いている。
部屋の中、魔力文様が浮かび上がった古めかしい木箱を両手で掲げながら、微笑むラナンキュラス。
歓びによる高揚感で全身から漏れ出た緑の魔力が、触れる者に死を与える髪を存分に舞わせていた。
女は脳を浸食して傀儡にした一般兵士が王家保養地の門前まで辿り着き、無事にその任務を全うした事を感じ取る。
その場でその傀儡兵士が何らかの形で死んでしまった事から、自身の存在を知っている者が対応した事を証明していた。
「それならばぁ...報告かんりょー問題なぁーし!」
先日、夜更けに根城にしている廃屋の前を偶然通りがかった、買い物帰りの親子から服を譲り受け、汚れ切っていたメイド服の残骸を脱ぎ捨てて着替えた女。
小綺麗だった服はもう既に所々が汚れ始めていた。
「むぐむぐ...これからどうしましょうかぁ...ワタシも行こうかなぁ」
服を譲り受けるついでに、食料提供もして貰った女が頬を膨らませながら肉を食んでいた。
垂れ眼の下に色濃い隈を浮かべた金髪の女が、1人でありながら大袈裟な身振り手振り付きで、独り言を呟いている。
「ううぅーん...でもぉ、次会う時は名前を決めておけって言われたしぃ」
あの月夜の晩から、女は土の中、岩の隙間、沼の中、どこに潜伏していてもあの時の事を思い出し、自身の名前を考えていた。
黒い騎士が彼女に与えた課題。
今迄に下されたどんな命令よりも、彼の言葉が強く彼女を突き動かしていた。
あの日を思い出すだけで、既に失った下半身が疼く。
思う存分撫でまわし、掻き回したい欲求が覆い被さってくるも、無い者は無いのだ。
「もう戻る気もないしなぁ...戻ったらもうお終いちゃんちゃんって感じ?」
彼女はもうクロムと戦いたいとは思っていない。
ただ彼女は彼に自分の名前を呼んで欲しいだけだった。
気が付けばこのような悍ましく変わり果てた姿となり、
名前があれば私は私として死ねる。
その為なら死臭に塗れながら、孤独に変わり果て続けても構わない。
クロムに名前を呼んで貰いたい。
汚泥と呼ばれた1人の女の小さな願い。
「くぷぃ。お腹も一杯になったしぃ...んー...やっぱワタシも行こうかなぁ。うんそうしよぉ。名前もその時までに考えればだいじょうぶじょぶ...何ならお兄さんに決めて貰えばいいよねぇ!」
廃屋の外が何やら騒がしい。
辛うじて人間の姿を保っていた笑顔の女の身体が、不定形の黒い液状の塊に姿を変えた。
そして木床の隙間にゴポゴポという音と共に吸い込まれていく。
そして床に脱ぎ去られ服だけが残され静寂が訪れたと思いきや、激しい音を立てて廃屋の玄関の扉が蹴り破られた。
無数の騎士と兵士が大声を上げながら突入してくる。
鎧や盾にはオルキス近衛騎士団の紋章が輝いていた。
「探せ!通報から時間はまだそれほど立っていない!警備兵は騎士の指示に従い中を虱潰しに調査しろ!発見しても決してその場で戦おうとはするなよ!相手を人とは思うな!正真正銘の化物だ、油断するな!」
「「「はっ!!」」」
床を軋ませながら、兵士たちが散開し至る所で扉や障害物を破壊する音が響き渡る。
― ひどいなぁ...それを言って良いのはお兄さんだけなんだよぉ ―
床下から発せられた不満げな声は、上の喧騒に掻き消された。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます