第142話 覆い被さる暗闇の名は

 クロムが原初の奈落ウヌス・ウィリデの森を駆け抜け、外縁部に到達する頃には身体の至る所が魔物の返り血で汚れていた。

 制圧したとは言え、森の中の魔物はクロムの存在を確認するや否や、問答無用で襲い掛かってくる。


 オルヒューメによって出力調整や戦闘システムの最適化を行ったクロムの戦闘力は、侵入時に比べて格段に向上しており、システムと馴染み始めている背腕アルキオナの動きも洗練されつつあった。

 それ故に、コボルトやゴブリン、リザードマンと言った食物連鎖における下層中層の魔物に関して言えば、まさに鎧袖一触と言った具合でクロムに蹴散らされ、屠られている。


 クロムの出立と同時にマガタマBも指定された座標に向かって行動を開始しており、その後の経過はオルヒューメによって監視され、通信にて情報は常に更新されていた。

 これから伯爵と面会する以外にも、ゼロツとゼロスリーの武具の調達や情報収集等の任務を抱えており、多忙な未来が容易に予想出来る状況だった。


 特に次の攻略目標となる星屑の残滓ステラ・プルナの位置を把握する事が急務であり、場合によっては前回の戦闘よりも激しい展開が予想される為、装備や戦力の拡充もクロムは視野に入れている。


 ― 人員の呼び込みが出来れば良いが...あの魔力濃度に耐えられるか ―


 未だに原初の奈落ウヌス・ウィリデの魔力濃度はかなり高い水準を保っており、通常の人間では生存自体が難しい状況である。

 安易に余計な者を招く訳にもいかず、人員不足解決への道のりは遠い。


 様々な思考を巡らせながら、原初の奈落ウヌス・ウィリデから脱出したクロムは、止まる事無くそのままオランテが建設予定を言っていた砦の方面へは走り出す。


 クロムは久しく見ていなかった通常の森の風景の中を、背腕アルキオナを使いながら、木々の間を跳ねる様に森を突き進んでいった。



 ― 前方150 魔力レーダーに反応あり 反応多数 ―



 クロムの意識内に報告が入り、対象の位置関係がレーダーに表示された。

 無数の光点が一定の距離を保ちつつ、移動している事がわかる。


「かなり統制された動きだな。騎士団かそれとも冒険者の集団か。いずれにしても原初の奈落ウヌス・ウィリデ関連である事は濃厚か」


 原初の奈落ウヌス・ウィリデに向かって直線的に進むのではなく、地形に沿って最短距離で迂回している事がわかり、目的地はほぼ間違いなくあの地獄の森だった。


「オランテの手勢であれば、状況が多少短縮出来るだろう...偵察しておくか」





 クロムは森を跳ねながら近くに比較的大きく深い泉を見つけると、その前で一旦立ち止まり、音に気を使いながらゆっくりを全身を沈める。


 そして水中で瞬間的に身体を高速振動させると、盛大にキャビテーションが発生し、クロムの身体が気泡で覆われた。

 その気泡が弾けると同時に、乾ききっていない返り血も洗い流されていった。


 全身が黒い鎧で覆われ、更には血塗れというクロムの外見が、相手に与える心理的影響を考慮したとも言えるが、血の臭いによって存在が露見するのを避けるのが一番の目的である。

 クロムの記憶の中に非常に勘の良い盗賊系の冒険者が居る事を考えると、これでも配慮が足りない可能性があった。


 だが現状出来る対策はこの程度であり、後は魔力レーダーと感度を高めた感覚器官に頼らざるを得ないだろう。


 頭部の各種センサーが未だに修理復旧が出来ていない為、クロムの偵察能力自体はかなり落ちていると言えた。

 クロムがマガタマの増産と配備を急ぐ要因の一つに、この偵察能力低下をカバーする事が含まれている。


 場合によっては殲滅、戦闘になる事も予測に入れているクロムは戦闘システムの起動準備も行う。

 戦闘になるとすれば、アルキオナを含めた新しい制御システムの実戦テストとして、もしオランテの手勢であれば手間が省ける。


 どちらの場合でもクロムにとって損は無く、どちらかと言えば戦闘になった方が都合が良いとも思っていた。

 クロムは両大腿部に1本ずつ固定している細長い金属プレートを見やり、この実践運用データが取れればと考える。


 すると魔力レーダーがその集団に接近する複数の反応を更に検知した。

 それなりに反応が強く、そしてオークやオーガにしては動きが速い。


 その反応は集団の側面を突く様に、統制された動きで急速に接近していた。


「戦闘に発展するならば、その混乱に乗じてみるか」



 ― 戦闘システム起動 コア出力40+40 クリスタライザー起動 魔素リジェネレータ起動 ―


 ― 融魔細胞活性化 ステルス・システム展開 外部接続回路を遮断 ―



 戦闘システムを起動したにも関わらず、クロムの身体から漏れ出る赤い魔力が限界まで絞られている。

 クリスタライザーと魔素リジェネレータの最適化、コア融着魔力結晶のバランス最適化によって、クロムの体内にてエネルギーの循環が可能になっていた。


 アラガミシステム起動時には対応不可能ではあるものの、通常戦闘時ではクロムの体内にて魔力と通常エネルギーの変換と還元が行えるようになり、魔力の体外放出を可能な限り抑える事に成功している。

 これにより、一般的な魔力感知が非常に困難になっており、オルヒューメがこれをステルス・システムと名付けた。


 ただあくまで安定した状態での戦闘や隠密行動時にのみという制限があり、また完全に魔力漏洩を防ぐ事は出来ない。


 クロムは自身の魔力の状態を確認すると、その反応の方向へ一気に駆け出した。

 アルキオナにより立体機動により、木々から木々へと黒い影が森を突き進む。


 その集団の指揮官と思われる者の号令らしき大声が聞こえ、そしてクロムが集団を視認すると同時に、集団と接近する勢力が交錯し、直後激しい戦闘音が森に響き始めた。

 クロムが戦場から距離を置きながら、アルキオナを木の幹に巻き付け、自身は宙に浮いた状態で障害物の隙間から様子を伺う。


 灰色の毛皮らしきものに覆われたオーガ程の大きさの魔物1体に対し、金属鎧を身に着けた騎士らしき人間がスリーマンセルで対応している様子が見て取れる。

 それでもその魔物の戦闘能力は高い様で、2人の騎士は盾を構えた状態で防戦一方となっていた。


「あの紋章は伯爵家の近衛騎士団だな。相対する魔物は...狼人間...なのか?」


 灰色の毛皮に覆われ、オーガと比べても遜色無い体躯の魔物ウェア・ウルフ。

 首元から胸にかけて美しい毛並みの体毛が生えており、所々で雪の様に白い体毛が目立つ模様を作っている。


 その下に隠された肉体は鍛え上げられた筋肉で構成されており、その輪郭からも十分にその戦闘能力の高さが伺い知れた。


 尻尾も長くフサフサした見た目であり、その顔は子犬の様なコボルトの顔では無く、精悍かつ獰猛さを隠そうともしない狼である。

 手足の爪はクロムの鉤爪と同程度のもので、あの体躯と筋肉量から相当な破壊力があると推測出来た。


「伯爵の手勢であれば加勢する必要があるな。既に何人かがやられ始めている。ん?あれは...トリアヴェスパか?」


 クロムの視線の先に、大斧を振り回しながらウェア・ウルフの猛攻を防いでいる大男がいた。

 残り二人は隙を突く形で、投擲物や弓矢で支援をしているが、その巨躯の防御の前に致命的な一撃を入れられずにいる。


「やはりそうだな。赤髪はフィラか。このままだと3人は確実に死ぬか...ふむ...」


 クロムがトリアヴェスパとの今後の兼ね合いと、作戦行動においての利用価値に関して判断を下そうと考え込む。

 実際の所、交流はあるとは言え彼らの生死に関する事象は、クロムの中で優先順位が低い。


 情報漏洩に関しても、クロムは彼らにそこまで信頼を置いている訳では無かった。

 つまりは彼らの生死はクロムの今後にさほど影響は及ぼさない。


 これを冒険者としての運命として捉えれば、致し方無しであると自己解決出来た。


 だがクロムの意識の中に、あの時の前腕部に感じたフィラの小さな拳の感覚が蘇る。

 クロムは自身の前腕部を見つめると、溜息を付いて両手を太腿に伸ばした。






 クロムは以前彼らの戦闘行動を共にした際に行った評価の中で、何点かパーティの弱点に気が付いていた。

 その中で一番致命的とも言える弱点が今まさに露呈している形となっている。


 それはパーティ構成であり、メイン火力であるロコが同時に防御役であるという事。

 フィラとペーパルが、ロコの受け止めている敵を倒せなければ、そのまま彼が消耗して戦闘に敗北する可能性が高い。


 そしてその予測をなぞる様に、次第にロコの身体にウェア・ウルフの鉤爪が被弾する機会が増えていく。

 ペーパルが顔を引き攣らせながらも放った魔法矢で造った隙を作り、完璧なタイミングでフィラが素早く横から脇に潜り込むと、脇下の急所に麻痺毒を塗ったダガーを一閃する。


 しかし分厚い毛皮と皮膚に邪魔されたのか、殆どダメージを負わせる事が出来ない。

 それに激昂したウェア・ウルフが更に身体強化を強めて、大きく鋭い牙が並んだ口を開き、大気を揺るがさんばかりに吠えた。


 その魔力波動を伴った咆哮の威力は凄まじく、至近距離でそれを浴びたロコは魔力防御が間に合わず、身体を硬直させる。

 それを見逃さずウェア・ウルフの鉤爪による切り上げがロコに直撃した。


「くっ!ぐごぁぁっ!」


 何とか身体を動かし、被弾直前でロコがそれを防御するも超重量の大斧が弾き飛ばされ、そのまま近くの木を半分抉り飛ばしながら深く食い込む。

 ロコも致命傷は避けられたものの、苦悶の叫びを上げて吹き飛ばされ地面に叩き付けられた。


「ロコ!なんて馬鹿力なのよこの犬っころ!クロさんじゃあるまいし!」


「クロムさんの攻撃ならもうロコは死んでる!ってそんな事言ってる場合じゃない!僕はロコを援護する!暫く足止め頼むよ!」


 明らかに死の足音を実感しているが、2人は冷や汗を額に浮かべながらもワザと軽い口調で叫び合う。


「頼んだわよ!これぃ犬っころ!アタシが相手だ!」


 フィラが大声で叫ぶと、腰にぶら下げていた小さな陶器製の球を手に取り、先端部を擦り合わせ点火する。

 そしてそれを時間を見計らってウェアウルフの顔面に投げ付けた。


 ドンという爆発がウェア・ウルフの顔面近くで起こり、爆炎と破片が標的に襲い掛かる。

 しかしそれも致命には至らず、顔面を血で染めた魔獣の怒りの火に油を注ぐ事になった。


「ちぃっ!やっぱ威力が足りない!ペーパル!ロコを頼んだわよ!」


「フィラ!お前も逃げろ!」


 自分の体重の何倍もあるロコを引き摺りながら、敵との距離を少しでも取ろうと踏ん張るペーパルが大声で叫ぶ。

 周囲の騎士達に助けを求めようにも、ウェア・ウルフは4体が戦場に存在し、当初のスリーマンセルでは対応が出来ず、倍近い人員が裂かれていた。


 凄まじい殺意と魔力を帯びたウェア・ウルフの眼が、追い詰められた表情を浮かべるフィラの姿を反射していた。

 彼女は片手にダガー、もう片手に先程の炸裂弾を構えるも、その手が僅かに震え始める。





 冒険者であれば何度も経験してきた死の恐怖。

 それが再び彼女の前に現れた。


 眼を血走らせたウェア・ウルフの頑強な腕部に魔力が集約し、凄まじい力が凝縮されていく。

 その魔力の大きさに、フィラのみならず意識を取り戻したロコや、顔を真っ青にしているペーパルも戦慄した。


 彼らが逃げろと叫ぶより早く、フィラが十分に反応出来ない程の速度でウェア・ウルフが地面を蹴り上げ、土煙を巻き上げながら突進する。

 前傾姿勢で口から牙を煌かせ、殺意の塊となって一気に彼女との距離を詰めた。


 瞬間的にフィラの身体が大きな影で覆われ、その中で彼女の瞳が抑えきれない恐怖と絶望で塗り潰される。


 ― 噓でしょ...?いやまだ大丈夫...ここから何とか... ―


 時間が緩やかに流れるフィラが、飛び掛かって来たウェア・ウルフの身体の奥に見える仲間の姿を視認した。

 2人供、絶望に満ちた表情で彼女を見ている。


 ― ははっ。何て顔してんのよ...諦めたらダメじゃないの...まだいけるはずよ...まだ死ぬわけにはいかないんだよアタシ達 ―


 ウェア・ウルフの魔力を纏った腕が振り上げられ、その先の鉤爪が確実にフィラの身体を引き裂こうを標的を捉えた。

 次第に迫る死の影が、フィラの身体と意識に強烈な現実を纏わりつかせて来る。


 避けられない死。

 ここでフィラとしての存在が無くなってしまう現実。


 ― アタシ...死ぬ...?これ夢じゃ... ―


 フィラは目の前の死に直面し、今までの記憶が無数にフラッシュバックを起こす。


 初めて見る走馬灯。

 そしてもう見る事の無い最期の走馬灯。


 その中で一際強烈に浮かび上がる黒い騎士の姿。

 彼女の心と記憶に大きな衝撃を与えた存在。


 ― クロさん...ごめん。カッコつけたけどやっぱアタシには無理だったのかも ―


 いつしか彼の外套の中で感じた黒い鎧の冷たい感触。

 迫り来る死の冷気とは違う、どこか“温もり”を感じる冷たさ。


 そして溢れる涙。


 ― やだよ...死にたくないよ... ―


 一筋の涙を頬に流すフィラの目の前に、ウェア・ウルフの鋭い鉤爪が更に時間を遅らせ、ゆっくりと迫る。

 彼女は必死に避けようとするも、身体はそれ以上に緩慢な動きしか実現出来ない。


 そしてその鉤爪の動きが止まり、フィラの感覚が無限に引き延ばされ、彼女の人生が終わりを告げる時がやって来た。


「クロさん...」


 フィラが自身の最期を認識した際に零れた小さな小さな呟き。

 拳を突き合わせ別れた黒騎士の名。

 あの時の黒騎士の拳の感触が、今になって彼女の恐怖で握り締められた拳の先に蘇る。





 その瞬間、フィラに覆い被さるウェアウルフの影よりも濃い暗闇が彼女を包み込んだ。

 かつて彼女がクロムの外套の中で感じた何よりも安心出来る、何よりも温かい、そして少しばかり自身の体温を上げてしまう暗闇。


 そして目の前の暗闇に一筋の眩い陽の光が縦に走り、次第に左右に割れ広がっていく。

 生々しい音と共にウェア・ウルフの身体がゆっくりと両断されていき、彼女の両脇に様々な物を撒き散らしながら跳ねて転がっていった。


 身体を全く動かせる気配を見せないフィラが、目を大きく見開き涙を溢れさせる。

 その黒い存在は逆光で詳細までは分からない。


 それでもフィラには分かる。

 間違える訳が無かった。


 酷く破れが目立ち老朽化が進んだ外套が、黒い翼の様に広がりはためき、彼女を陰で覆う。

 背中からは見た事も無い様な禍々しい尾が生え、両腕の前腕部からは鈍く光る金属の剣が生えていた。


 鈍く輝く赤い単眼が、黒く塗りつぶされたその姿の中でフィラを捉えている。

 そしてその黒い異形の影が、フィラに言葉を掛けた。


「人の名を叫ぶ暇があるなら、もっと出来る事があるだろう」


 フィラは震える口を開いてその名をもう一度呼ぼうとするも、声が掠れて出てこない。

 それでも全身全霊でフィラはその名を呼んだ。


「クロ...さん...っ!!!」

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