第5章 黒騎士と白亜の王女

第132話 世は穢れ待ち焦がれ

 クロムの布告から10日程の時間が過ぎ去り、その間、オランテ伯爵は人生で最も多忙であり、そして最も胃薬を飲む期間となった。

 原初の奈落ウヌス・ウィリデの制圧を成し遂げ、そして王国よりその管理権を簒奪したクロム。


 オランテは密命を出していたラナンキュラス王女への報告をどのように調整するか、悩みに悩んでいた。

 王家の立場から考えれば、間違いなくクロムは反逆罪が適用されるだろう。


 そして冒険者である以上、その余波は冒険者ギルドへ間違いなく波及する。

 権力と一定の距離を置き、政治的策謀への関与を完全に拒絶する冒険者ギルドであっても、王家という存在は全く別の物なのだ。


 だがオランテがそれよりも危惧する事。

 それは如何なる理由であっても、今のクロムに手を出してはいけないという事だった。


 過去、王国が威信を賭けて莫大な予算と人的資源を投じ、幾度と無く星屑の残滓ステラ・プルナへの大遠征を敢行し、いずれも失敗に終わっている。

 生き残った騎士や兵士は口を揃えて、そこを地獄と呼び、生き残ったとしても非常に重い魔力飽和の後遺症で長らく苦しみ、場合によってはその助かった命を落としていった。


 それを単騎で完全に制圧するような存在に、例え王家であれ間違っても手を出してはならない。

 飼い慣らす事もまず叶わず、放置しておけばどのような事態を引き起こすか見当が付かない。


 唯一救われているのは、害意の無い条件での交渉であれば表向きは穏便に話を進める事、これに尽きる。


 現在のクロムは王国内においてその権限や強制力を一切受け付けない場所にを持つ存在であり、治める土地の価値と武力だけで言えば王国と対等に話が出来ても不思議では無かった。


「この報告を受けたラナンキュラス王女殿下の出方次第では、王家と近衛騎士団煌花筆頭ソラリス・ユースティティアエが動く事になる」


 オランテは執務室の椅子に深く腰掛けながら、机に置かれたクロムの伝言が書かれた紙と魔力結晶を見つめる。

 そしてその前には、砦の進捗状況を報告に来たレオント、そして新設されたオルキス近衛騎士団長ウルスマリテが立っていた。


 現在水面下で動いているこの状況は、オランテとクロムと一戦交えた経験を持つレオントのみで共有していた。

 だが、そこにクロムに対し並々ならぬ対抗心を燃やすウルスマリテが、半ば自身の立場を利用し、ねじ込む形で強引にこの策謀に参加している。


「やはりあの化物達が動きますか...クロム殿と敵対する可能性も?」


 レオントが最悪の事態を想定し、眉を潜めながら主に問う。


「いや、近衛騎士団煌花筆頭ソラリス・ユースティティアエは王女殿下が従える“ロサ・アルバ”が敵対に反対意思を示せば容易には動けんだろう。だが...」


「その肝心の王女殿下がどう動くか全くわからないと」


「そうだ。加えてそれに対する“ロサ・プルプラ”の動きもまるで読めん」


 レオントよりも体格が大きく、野性味を感じさせるウルスマリテがオランテの言葉に相槌を打った。

 オランテは紅茶を一口飲み、そして大きな溜息の後に騎士達に問い掛けた。


「実際の所、近衛騎士団煌花筆頭の3色が全てクロムに敵対したと想定して、我がオルキス近衛騎士団の総戦力で1色でも止める事は可能か?足止めでも構わん」


「誠に申し上げにくいのですが...」


「「不可能です」」


 レオントが苦々しい表情で言葉を切り出し、最後にウルスマリテの言葉が合流する。

 主の前で無理と言い切ってしまう不甲斐無さもあるが、それよりも主の命を最優先した結果、こう答えるしかない騎士達。


「クロム殿が人外の怪物であると同時に、彼らもまた別の領域に住まう化物達です。我々でどうにか出来る相手ではございません」


 オスキス近衛騎士団とて、テラ・ルーチェ王国内であれば近衛騎士団煌花筆頭の次席とも呼ばれるほどの実力と戦力を誇っている。

 だが、筆頭と次席の戦力差は絶望的と言っても良い程に隔絶されたものだった。


 テラ・ルーチェ王国が誇る最強にして最凶の騎士団。

 それらはよりランク5層アビスのプレートを与えられ、“人外”と評される騎士団長が率いており、その姿は既に人間の形を留めていないという噂すらあった。


 騎士団という名を冠してはいるが、実際は各騎士団長1人に与えられる称号のような物であり、それ以外の騎士団員は付属品、部品と言う扱いである。

 ただし、その部品もまた国内最高品質で揃えられているのは言うまでもない。





 近衛騎士団煌花筆頭ソラリス・ユースティティアエは、テラ・ルーチェ王国の国王が率いる“ロサ・ルボル”と第1王子が率いる“ロサ・フラブス”、第1王女が率いる“ロサ・アルバ”の3色を基本として運用される。


 基本的にこの3色が各騎士団の主の命令の元で独自に動き、これら各陣営の行動方針によっては衝突も有り得る危険かつ不完全な3竦みとなっていた。


 しかしながら、そこに最後の1色である女王が率いる“ロサ・プルプラ”が3色に対する“裁定者”として控えており、戦略的行動を起こす場合、その行動方針や行動の結果に対し主に女王の裁定が下される。


“賛同”、“傍観”、“処断”


 仮に“処断”の裁定が下された場合、その主と騎士団団長には慈悲無き処刑という極めて苛烈な処遇が待ち受けていた。

 それはテラ・ルーチェ王国の最高権力者が国王では無く、女王であるという事の証明でもあった。


 表向きに貴族を統括し、政治力と権力を握る国王、その裏でその行動方針を裁定する女王という、この構造が今のテラ・ルーチェ王国である。





「いずれにしてもこのまま隠し通す訳にもいかん。ありのまま報告をした上で、王女殿下の方針決定を待つ他無いだろう」


 オランテが何度も読み返した紙を緊張した面持ちで拾い上げると、それを丁寧に丸める。

 この紙ですら、オランテが今まで見た事の無い素材で出来ており、決して走り書きのメモ用紙の様に使って良い物では無い。


 これもまた正真正銘の遺物であり、これ1枚の価値が引き起こす権力闘争の規模は計り知れない。

 魔法で保護しようにも魔力を一切通さない遺物特有の性質は健在で、オランテは可能であればあまり触れたくないとさえ思っている。


 平然と装っているレオントとウルスマリテだが、それが遺物である事は理解しており、実際に目の前にある事が信じられないという心境だった。

 そしてそれに拍車を掛けているのが、クロムから送られてきた魔力結晶である。


 ここに置いてあるだけで、この結晶が放出している魔素の影響で3人の体内魔素量が僅かながら上昇し始めており、普通の人間であれば部屋に近付くだけでも意識がふら付く可能性がある。


 実際、侍従や使用人は許可無しにこの部屋の近辺に近付く事を禁止されていた。


 別の場所に保管しようとしたが、そのあまりに強烈な魔素放出により、保管場所に設置されている魔道具が誤作動や暴走を起こしそうになった。

 それにより、この屋敷で最も地位が高いオランテの執務室に置かれる事になり、屋敷の最高権力者が最も被害を被るという事態に陥っている。


 クロムがこれを見たならば、その魔力耐性のあるその紙で結晶を包めば魔素放射を遮断出来るだろうと言うだろう。

 だが、そんな事をこの3人に出来る筈が無かった。


「その魔力結晶も王女殿下に献上した方が宜しいかと」


 ウルスマリテが、魔力飽和で凝りを感じ始めた肩を回しながらオランテに進言する。

 静かな執務室に似合わない、鎧が軋む音が響く。


「元よりそのつもりだ。こんなもの今こちらでは取り扱えん」


 つまりはこの厄介な結晶を王女に丸投げするという事になるが、この魔力結晶の価値は王家への献上品という扱いでも足りない程である。


「何でしたらクロム殿からの献上...いや、それはまずいですね。贈呈品とすれば宜しいかと...」


 レオントが半ば強引過ぎる形で、クロムを間接的に王女に売り込む案を出した。

 クロムが持つ心象によっては非常に危険な行為ではあるが、権力的な駆け引きや融通を効かせる事に繋がるのであれば、クロムは納得するであろうと予測した結果である。


「それを知ったクロムの反応が少々恐ろしいが...そうだな。クロム殿が星屑の残滓ステラ・プルナ|で獲得したと明言した上で、王女殿下ヘ贈呈品として渡す事が一番穏便に済ませられる可能性が高いな」


 オランテは心の中で、クロムに対しどことなく恐ろしい物を感じながらも、一旦この状況から離れて考えを纏めたい一心で、レオントの提案を採用する事にした。

 判断力が鈍っている訳では無いが、オランテはこの選択が最善なのかは判断出来かねている。


「考えているだけでは物事は進まん。レオントは引き続き砦の建築に全力を上げよ。こちらは情報収集と王女殿下との方針の調整に入る。ただいつでも有事に対応出来るように備えはしておけ。最悪の事態もあり得ると心得よ」


「御意」


「ウルスマリテ、お前はこちらに残す戦力を考慮した上で、選抜騎士隊を結成し、現在建築中の砦から原初の奈落ウヌス・ウィリデへの連絡線を確保せよ。可能な限り最短距離でだ。道中の魔物の討伐は冒険者を何人か組み込んでも構わん。判断は任せる。ただし無理はするな」


「はっ!お任せを!」


 オランテからの命令にレオントはいつも通りの反応を見せるが、ウルスマリテは何故か興奮した面持ちで返事をする。

 オランテは脳裏に嫌な予感が走った事で、ウルスマリテに釘を刺した。


「ウルスマリテ、くれぐれも独断先行はするなよ。間違っても、間違ってもクロムに接触しよう等とは思わぬように。この意味は解っているだろうな?」


「も、勿論です!閣下!」


 目線をどことなく天井に向けて泳がせながら、背筋を張りその高身長を更に伸ばしたウルスマリテ。

 オランテはこの近衛騎士団長に密偵を付ける事を即座に決意した。





 その日の夜、テラ・ルーチェ王国第1王女ラナンキュラスは絢爛豪華な屋敷の寝室で、晩餐前に送られてきた機密文書の内容を確認していた。

 既に湯あみが済み、身体のラインとその下の肌をハッキリと浮かび上がる純白のネグリジェを月明かりで輝かせながら、夜の雰囲気とは正反対の太陽のような微笑を湛えている。


 ラナンキュラスの美しい緑の長髪が常に放出され続けている魔力で薄く輝いていた。

 その魔力を調整する為の魔道具でもあるネグリジェが、白い生地の表面にオーロラの様な波紋を浮かび上がらせ、月明かりと合わせて幻想的な姿を演出する。


「あの黒騎士様が原初の奈落ウヌス・ウィリデを完全に落としたとの報告が入りましたわ」


「...」


 厳重に施錠され魔法陣が刻まれた扉の前で、純白の全身鎧を装備した長身の騎士が無言で立っていた。

 顔も兜で覆われている為、外観からはその人物像を全く判別出来ず、性別すらもわからない。

 腰の両側にはそれぞれ1本づつ、三日月にも見える美しい意匠が施されたショーテルが吊るされ、暗がりにも関わらず仄かに白く輝いていた。


「我がテラ・ルーチェ王国王家が所有し管理する星屑の残滓ステラ・プルナを我が物にするとは何とも傲慢な所業...」


「...」


 ラナンキュラスがネグリジェをフワリと靡かせながら、ステップを踏むように陶磁器の様に白い素足で赤い絨毯の上を静かに歩く。

 もしその彼女の素足が絨毯の異物でほんの僅かでも傷付けば、翌朝にはこの部屋の準備を担当した者達と責任者が纏めて死体となって墓穴に入る。


 彼女の感情の高ぶりを表わす様に、緑の髪の輝きが月明かりに負けじと増していき、テラ・ルーチェ至高の宝石と称えられた緑の瞳が潤み始めた。


「でも...それが黒騎士様なのです。黒く黒く黒く...この穢れた世界を、神ですら純粋な黒で染め上げる...どんなに白い物もたった1粒のその雫が真っ黒に変える...」


「...」


 何一つ言葉を発する事無く、無言を貫く純白の騎士。

 様々な装備品を身に着けているにも関わらず、その身からほんの僅かな音も発しない。


「その黒騎士様がこの私に素晴らしい贈り物を下さいました...あぁ...あぁ...なんて素敵な事なのでしょう!」


 その白く細い両手の上には、今も変わらず強力な魔素を放出する星屑の残滓ステラ・プルナ|の魔力結晶が乗っていた。

 訓練した騎士ですら身体に異常を来しかねないその魔力結晶を、恍惚の表情を湛えながら輝く緑の瞳で見つめるラナンキュラス。


 膨大な量の魔素が、その白く細い身体に次々と飲み込まれていく。


「それならばこの私、ラナンキュラスもまた黒騎士様に素敵な物をお返ししなければならないのが道理...そうだとは思いませんか、ロサ・アルバ?」


 蠱惑の笑顔をロサ・アルバと呼ばれた純白の騎士に向けるラナンキュラス。


「黒騎士...」


 ロサ・アルバの端的な言葉と共に、兜の奥に潜む白い双眸が光を放つ。

 白い蒸気の様な魔力が騎士の身体から立ち上り、寝室を煌めきながら舞い散っていく。


「悦びなさい。苦しみなさい。世界のうねりの中で狂ったように踊るのです。ああ黒騎士様...ラナンキュラスは貴方様と踊るに相応しいでしょうか...」


 魔力結晶を胸に抱きながら、ラナンキュラスは頬を染めながら祈るようにバルコニーに歩き出す。

 その美しくもどこか儚さを抱く肢体が月明かりを浴びながら、夜の闇の中で存分に露わになる。


 誰も見た事の無い、見せる事も決して無い無垢な王女の艶姿。


 ラナンキュラスが纏う緑の魔力が静かな狂気を内包し、その肢体を舐め上げる。

 深緑と深紅が螺旋を描くその瞳が、未だ見ぬ黒騎士の姿を心待ちにするように輝いていた。

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