第94話 その名は陽の当たる場所へ
クロム達が訓練場を去った後、誰一人としてその後を追おうとする者はいなかった。
あの黒騎士に挑んだ2人は間違いなく強者の部類に入る実力を持っていた。
あの魔力強度を見れば一目瞭然であり、仮にパーティで挑んだとしても勝ち目があるとは到底思えない程に実力差がある。
しかしその2人を相手にし、全く身動きすら取らず1人につき片腕1本で膝を落とさせた黒騎士の実力が最早どの高さにあるのか評価すら出来ない。
― 命が惜しければ、黒騎士クロムとその関係者には間違っても喧嘩は売るな ―
ギルドから徹底的に通達されたあの文言を本当の意味で理解した観客達は、関わる事自体が自身の命に関わりかねないとその身を震わせていた。
権力を無視するかのようにこの地を収める伯爵を呼び捨てにしたと思えば、あれだけ親し気に話していた美女2人に向けて、その強大な力を躊躇うことなく振るう黒騎士。
誰もその歩みを邪魔する事が出来ない真の自由を手にした爪痕付きの
その黒騎士の姿は、全ての冒険者の到達点としての理想像として皆の心に強烈な印象を残した。
ただ同時にあれは同じ冒険者として見てはいけない、決して安易に触れてはいけない存在であると同時に理解する。
今この街でよく聞く“英雄譚の黒騎士の再来”というあの噂が、ここに来て真実味を帯びてきたと観客の中の数人が口にし始めた。
訓練場の出口から消えた黒騎士の後姿を思い出し、もしかしたら先程のやり取りもこの先、新しく語られていく黒騎士の伝説の一幕として残るのではないかと。
自分達はその伝説を目撃した数少ない語り手になれるのではないかと、皆の心が興奮に包まれていく。
彼を追う事が出来れば、自分も伝説の一幕に残るかも知れないとさえ思わせる出来事。
街で今、人気を博している絵巻物“新・黒騎士物語”の挿絵に描かれていた孤高の黒騎士は、確かにここに実在した。
そして数日後にはこの噂も街に広がり、果敢に試練へ挑んだ2人の女騎士を黒騎士が労わる絵となってその絵巻物に追加されるだろう。
ただしそれは噂の発端となった赤髪の女冒険者と黒騎士の絵と同様に、人々の想いで補正が掛けられたものになる事は避けられなかった。
そのような話題で盛り上がる訓練場から離れ、最近は人を抱きかかえる機会が多くなってきたなと考えながら歩いているクロムは、その事を知る由も無い。
余談ではあるが、ネブロシルヴァにて黒騎士クロムの名とその存在が、冒険者達以外にも広まっているのには理由があった。
それはトリアヴェスパと連れ立ってネブロシルヴァに到着した際、門前での騒ぎあった頃に遡る。
その騒ぎを一般人の列に並びながら、食い入るようにその顛末を見つめる1人の男が居た。
嫌な雰囲気を持った責任者らしき警備兵から、赤毛の背の低い冒険者の女性を庇うように立ち塞がり、 十数人もの警備兵達を一瞬で打ちのめした黒い騎士。
その男は主に英雄譚を始めとする民間娯楽の絵巻物や吟遊詩人の詩に合わせて絵を書く旅の絵描きであり、その姿を見てクロムの姿を英雄譚の黒騎士と重ね、その場で木の板を取り出して一心不乱に炭ペンを走らせた。
そして黒騎士の外套を手で掴んで涙を浮かべ、何かを告げる赤髪の女冒険者の姿を垣間見る。
この構図を見た瞬間、絵描きの男の脳内に稲妻が走り、更に彼の想像力をかき立てて、それに呼応した手とペンがもう一枚取り出された木の板の上を縦横無尽に走った。
英雄譚にて最期まで何者にも与さず、只一人戦い続けた名も無き黒騎士。
血を流す黒騎士に包帯代わりの腰紐を巻いた村娘との哀愁漂う一幕は、英雄を目指す男や夢見る乙女が一度は憧れ、そして涙した物語だった。
ただ栄光に輝く英雄達の伝説の裏で、1人闇夜を歩き戦い続けた黒騎士の物語はあまりにも伝承が少ない。
絵描きの男は思った。
まるで英雄譚の光と影であり、ただその黒騎士の軌跡が日の目を浴びてないだけなのでは無いかと。
昼間に月が見えないのと同じように、もしかしたら黒騎士の本当の物語は別にあるのではないかと男は考えた。
そしてその答えが、今目の前にあるような気がしてならなかった。
黒騎士に寄り添い、涙を浮かべる赤髪の女冒険者。
そして男の脳内が想い描く未来の光景。
次第に2人のその距離が近づき、黒騎士の外套の中でそっとその身を預ける女冒険者の姿が見えた気がした。
男は列から離れ、城壁に背を預けながら脳内の光景を木の板に叩き付ける。
そして門が閉められる時間になり、夕暮れが男を照らした頃、男は一枚の絵を書き上げる。
その木板に書かれた絵には、黒騎士の外套に包まれながら寄り添う赤髪の女冒険者。
彼女は少し悲し気な笑みを湛えながら、頬に一筋の涙を零している。
その光景は戦いに赴く黒騎士との今生の別れの時なのか、それとも黒騎士が戦いを終えて帰還した時なのかはわからない。
それでも英雄譚の黒騎士の本当の姿を映し出したような、未だ見ぬ英雄譚の一幕を切り取った見事な絵だった。
そして次の日、街の道端で絵を書く男の脇にその黒騎士の絵が置いてあり、大勢の目に留まると、絵巻物を取り扱う店の店主と吟遊詩人が現れ、その絵を使って一曲作りたいと申し出て来る。
歴史の影に消え、あまり語られる事の無かった黒騎士という存在の噂は、実際にあの光景を目の当たりにした者達によって街に広がり、理想と願望、そして憧憬によって彩られていく。
たちまちそれは酒場から話が走りだし、演劇や二次創作、絵画に至るまでの浸透を見せ始め、やがて大人好みの悲哀に満ちた仄暗い恋物語として大成していく。
そしてその絵描きの模写能力が非常に高かった事により、もう1つの憶測が生まれた。
その人物の様相がとある女冒険者に非常に似ていると。
その赤髪の女冒険者がその噂に気付いた頃には、もう絵の人気が当人の否定の主張が届かない領域まで到達しており、程に暫くまともに表を歩けなくなったのは言うまでもない。
仲間の冒険者が笑いながら慰める中、その女冒険者は羞恥か酒の影響か解らない程に赤面し、酒を飲み干しながら覆面の購入を真剣に悩む。
だがそんな本人の焦りとは裏腹に、間違いなく彼女はこれから語られていく“黒騎士物語”という叙事詩に名を残すであろう冒険者だった。
テラ・ルーチェ王国王都フローストピアの中央に聳え立つミラビリス城。
燦燦と降り注ぐ陽光を受け、変わらぬ白い威光で城下町を照らしていた。
1つの巨大な山を削り出し、山頂に建築されたミラビリス城を頂点として、権威の順を表わすように山肌を階段状に整地されており、中央には主城に続く街道が敷き貫かれている。
その上から3段までの敷地は全て王家の人間の敷地として管理されており、その敷地の一角、門に王家の象徴である太陽と剣、そして大輪の蓮の花が彫り込まている金色の紋章が輝いていた。
そしてその横にはもう1つ、カルコソーマ神教を表わす五芒星と十字架が重なった意匠が施された白銀の紋章も掲げられている。
その敷地内、宮廷に務める庭師が数名で隅々まで管理している庭園で、1人の法衣を来た女性がハーブティーを嗜んでいた。
首から掛けられたカルコソーマ神教のメダリオンが胸の膨らみの斜面に横たわり、その法衣には金銀様々な刺繍が施され、鮮やかな緑色のストラが下から吹き抜ける風にゆっくりと靡いている。
その腰まで伸びる髪は途中で金色の帯で緩やかに留められ、陽光を受けてエメラルドの様に輝いている。
常に緑の魔力を帯びているその髪は例え先端であれ、本人や王家が認めた特別な者でないと触れる事さえ許されず、それは風に靡いて当たるといった不可抗力ですら王家への反逆とされた。
その隣に立つ同じく法衣を来た男が慎重に距離を取り、その女性に厳重な魔法封印が施された書簡を手渡す。
その魔力証明印に刻まれている名前は、オランテ・ファレノプシス・ソラリス・オルキス。
テラ・ルーチェ王家の誕生以来、王家と盟約を交わし忠誠を捧げ続ける伯爵家であり、王家の権威を影で支える諜報機関“
その者の直筆による書簡が届くのはいつ以来になるかしらと、法衣の女はそれに手を掲げて王族を象徴する緑色の魔力を発すると、魔法陣が幾つも現れ、そして虚空に消えていった。
そしてその書簡を開き内容に目を通し始める女性。
その書かれている文章をなぞる様に左右に動く、髪の色と同じ魔力を湛えた瞳がふとある言葉で止まる。
― 黒騎士 ―
「テラルーチェ王国が保有する
女性が桃色の艶やかな唇を小さく動かし、言葉を紡ぐ。
「黒騎士と呼ばれる人物に関しましては、別に情報が既に入っております。その者はクロムという名を名乗り、爪痕付き
周囲の法服の男達は女性に情報を伝える事は出来ても、彼女の言葉に対する意見を述べる事は許されていない。
ただ独り言として、受け流すのみである。
「この方はお一人で
緑の眼をすっと細めて、鈴の音のような声で笑う。
「それに伯爵が
その白く細い手に持った書簡を丸めて再び魔力を込めると、その中で書かれていた文字が消え始めた。
そしてその白紙の書簡を脇に居る男に手渡すと、処分を命じる。
そしてそのまま立ち上がる素振りを見せると、侍従がすぐさま音も無く椅子を引く。
女性は緑の髪を風で靡かせながら、眼下に広がる城下町を微笑みながら見渡した。
城下町の煙突から立ち上る無数の煙柱が、その隆盛と賑わいを感じさせる。
「わかりました。まずは試金石として国内の大森林にある
ワルツのターンの様に優雅にくるりと身体を一回転させる女性。
その宝石の様に輝く髪が風を巻き取りながら、陽光の下でより一層輝いていた。
カルコソーマ神教のメダルが遠心力で金色の円を宙に描く。
「「「大司教猊下の御心のままに...」」」
その髪の範囲に巻き込まれない距離で、複数の司祭が深々と頭を垂れる。
ラナンキュラス・レーギス・トレース・ソラリス・テラ・ルーチェは微笑の中に氷のような冷たさを湛えながら、頭を下げる司教達を睥睨する。
彼らは彼女にとって何の価値も見い出せない有象無象の内のほんの一部であり、ただ神の名の元に頭を下げるだけの無様な人形という認識しか持たれていない。
ラナンキュラスは彼らの名前も顔も一切記憶していなかった。
生まれながらに絶対権力者として、王国の頂点に立つ資格を持つテラ・ルーチェ王国王家の第1王女。
継承権序列第3位、テラ・ルーチェ王国女王ミラビリス43世の3番目に生まれた長女。
そしてカルコソーマ神教テラ・ルーチェ王国大司教区の頂点に立つ大司教である。
「これは私の名において密命として処理しなさい。ふふふ...如何なる権力もその黒騎士の歩みを邪魔する事叶わず...ですか...もし
― 黒騎士 ―
ラナンキュラスは黒騎士と言う単語を繰り返し囁きながら、幼き日に何度も読んだ英雄譚の一幕を思い出し、その姿を思い浮かべる。
感情が一切伴わない表情でラナンキュラスは微笑んだ。
― やはりそうあるべきなのです。黒騎士に祝福を授けるのはこの私。ラナンキュラス・レーギス・トレース・ソラリス・テラ・ルーチェをおいて他にないのですから ―
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