第91話 別れの朝と静かな旅立ち
あの日の夜、ティルトを抱きかかえて屋敷に帰還したのだが、ティルトが事前にクロムに伝えていたように、屋敷内はかなりの騒ぎになっていた。
オランテは魔力波動を感知した直後に数名の斥候を現場に放ち、既にクロムと思われる人物が何者かと戦闘状態に入っており、そこに屋敷にいるはずの錬金術師が急ぎ向かっているとの報告を受け、再び騎士団を招集。
そしてその事態に対応すべく、レオント率いる騎士団が完全武装で出撃準備に入っていた。
デハーニとピエリス、そして自由騎士となったベリスとウィオラ両名はヒューメの護衛として配置に付き、伯爵邸は先日の件に引き続き臨戦態勢で事態の対応に追われる事となる。
そこにクロムに抱えられた遅い帰還を果たしたティルトが、その様子に慌てて事情を説明すると、それを聞いた騎士の中には力が抜けて膝から崩れ落ちる者が数名。
その部隊を指揮していたレオントは、疲れた顔でそのまま夜空の月を見上げていた。
自身の魔力生成実験がここまで影響を及ぼしていたのは想定外であり、流石にクロムはこうなってしまった原因を説明、素直にオランテに対し謝罪の言葉を口にした。
「う、うむ。まぁクロム殿は自身の影響力を再認識した方が良さそうだな...」
謝罪を受け入れたものの顔を引き攣らせているオランテは、あの場に例の逃亡していた女が現れ、交戦状態に入った結果、撃破はならず撃退するに至ったとクロムから報告を受け、加えてそのあまりにも非常識な特徴も伝えられた。
現場に残していた氷塊を斥候に回収に向かわせたが、既にかなりの腐臭を発する黒い水溜まり以外に何も残っていないと追加で報告が伝えられている。
「結局のところ、その化物の目的も解らずか...その話からすると命令する上位の存在も確実にいるようだな」
オランテはソファーに座りながらクロムの報告に耳を傾けているが、その正体には心当たりが無い様で眉間に皺を寄せる。
そして話し合いの結果、いずれにしてもあの正体不明の者は再びクロムと接触してくる可能性が高いと結論付け、互いに調査を進めると共に情報の共有を行う事で意見は一致した。
そしてクロムはその後もヒューメへの影響が気になった為、彼女の部屋を訪れたが、そこは元々魔力防御の低いデハーニが魔力飽和で激しい頭痛に襲われており、あの魔力波動で卒倒しそうになった事を勢い良く責められ、再び謝罪する羽目となる。
一方でピエリスは立場上、クロムに対し小言を言う事は無かったものの、代わりにヒューメが笑顔で赤い眼を輝かせて彼に駆け寄り、彼に抱き着きながら質問攻めにする。
困り果てた様子を見せたクロムに対し、ピエリスは静かに頭を下げて部屋を出て行くという無言の抗議を見せ、結局彼は一晩中ヒューメの相手をさせられた。
そして空が若干白み始めた頃、ようやく喋り疲れたヒューメをベッドに寝かしつける事に成功したが、今度は寝ながらクロムの手を放そうとしない彼女から解放されようと苦心する。
そしてようやく解放されて部屋を出ると、今度は廊下で何故か若干不機嫌なティルトに出会い、次はボクのお話に沢山付き合って貰いますからと一言告げられた。
間違いなくこれは自分の失態だと反省するクロムだった。
そしてその日の昼、伯爵邸の裏にある広場に一台の大きな馬車が止まっていた。
それは馬車と言うより、騎士達の遠征で使う輸送車と言った構造をしており、外側は薄くはあるが金属製の装甲版が随所に装着されている。
内部は予想以上に広く、現在は中身を取り払われており、これから突貫工事で乗客の負担が少ない上質な椅子等の家具や魔道具を取り付けていくという。
馬車の脇には様々な家具類や木箱が置かれ、様々な職人が作業をしていた。
「こんな所にいたのかクロム殿」
その光景を眺めていると、オランテが侍従を連れてクロムに声を掛け、歩み寄って来た。
「この馬車で街を出るのか?」
「これはピエリスが率いていた騎士団の所有物だったものだ。一度も使われる事無く眠っていたからな。これを機会に改装して使おうという訳だ」
「なるほどな」
この会話の間にも、職人達が紙に書かれた設計図らしきものを眺めながら次々と家具の位置を決めて取り付けていく。
「しかしこの随分重たそうな馬車を引く馬がいるのか?」
「いや、これを馬に引かせるとなると最低でも4頭以上が必要だからな。それは流石に維持に手間がかかり過ぎる。代わりに
ドラゴンの闘争本能を極力抑え、ブレスを吐く能力や飛行能力も失われ、その強靭な脚力と本来の耐久性のみを重視した改良生物であり、古くから経済活動の基盤として活躍していた。
走る速度は馬には到底及ばないが、ドラゴン譲りのその力は多少の荒野や山道であれば難無く走破し、かなりの重量物も牽引する事が出来た。
また本能を抑えられている為に戦闘能力は低いものの、耐久性と我慢強さは非常に高く、その知能もその血脈の影響もあって高いのが特徴だった。
また食性は雑食で飢餓にも強く、維持も比較的楽ではあるが、通常の荷馬車と変わらぬ大きさの体躯ゆえに飼育場所の問題が浮上する。
また速度を重視する商人や軍には不向きという事もあり、開拓地や都市部から離れた地方以外での普及率は低い。
そして何より走破竜1匹辺りの値段が通常の馬の約30匹分と非常に高価であり、一般市民には到底手が出せず、裕福な商人や貴族であっても、そこまでの金額を用意してまで利用とする者は少なかった。
「これもクロム殿に言っておかねばならないのだが、この馬車と
「邪魔になるだけだ。要らないぞ」
単独行動が主なクロムにとって、このような物を受け取っても持て余す事は明白だった。
「そう言うと思ったんだがな。だがそうでもしないと道中の安全を確保出来ないと判断した。ヒューメを秘密裏に輸送する馬車だ。場合によっては検問等で情報を抜かれる危険性もある」
オランテが腕を組みながら、ヒューメの部屋の窓を見上げていた。
メイドが窓を開けて、降る注ぐ陽光を部屋に取り込んでいる姿が見える。
「ただしこれがクロム殿の所有物であるならば話は別だ。
「...わかった。一先ず頂いておく」
只の貴族の面子であるならば断わるつもりだったが、その理由を聞きクロムは大人しく馬車と
「そうだな。この際、馬車に対して要望を伝えておこう。屋根に座れる場所を設ける事と
「うむ?ま、まぁいいだろう。それも出発直前になるが急ぎ職人に作らせよう...屋根?」
クロムはあの面子に囲まれて、馬車の中で過ごす事は絶対に避けたいという思いがある。
よってせめて馬車の屋根の上か、
今から2日後の昼にはこの街を出発する事になっており、馬車以外は既に出立の準備も最後の確認となっていた。
それに同行するのはデハーニとティルト、そして従者としてピエリスが決まっていたが、それに自由騎士であるベリスとウィオラが加わる事になっている。
現段階では同行を承諾しているクロムであったが、最初にその面子を確認した段階で、戦力的に自身が護衛に加わる必要は無いと考え、予定を繰り上げて単独で帝国か自由連合に向かう算段を立てていた。
ヒューメとの契約はあくまで安全の保障であり、クロム自身の拡大解釈の余地は残しておくつもりは無い。
しかしその予定を伝えようとデハーニを探してヒューメの部屋を訪れた際、その気配を察知のかヒューメがクロムの左腕を、そして何故かティルトも便乗し右腕を共に抱きかかえ、決して逃がさないという気迫を瞳に込めて同行を切望してくるという事態に陥る。
クロムは何とかしろとその部屋に居たデハーニに視線を送るが、デハーニは顔をニヤつかせながら飯食ってくると言って部屋から逃亡した。
そして再び両腕を抱え込む問題児2人に目線を下ろすと、青い眼と赤い眼がこちらを潤む瞳で見上げている。
「「一緒に来てくれますよね?」」
無駄に息の合った台詞を両者が発し、クロムは仕方なくそれを承諾する羽目となった。
ただ今後の行動に関しては、基本的に単独での行動になると一応の念を押しておくクロム。
しかしクロムの同行を喜ぶ2人にその言葉が届いているかは不明である。
そして出立の日、まだ空も夜の気配を色濃く残す時間帯にも関わらず、既に道中に必要な食料品や水等が積み込まれ、準備が完了した走破竜車の荷台のみが伯爵邸の裏手に停められていた。
その荷台に明かりは一切灯されてはおらず、夜の闇も相まって余程接近しなければその正体すら掴むのが難しいだろう。
そこへ誰の見送りも無く、暗闇の中を長い棒で地面を突き足元を確認しながら、人目を避ける様にヒューメとピエリスが静かに乗り込み、扉が脇に潜んでいたデハーニによって閉められ、内側と外側から鍵が掛けられた。
直ぐに出発するのではなく、周辺に放った斥候の情報を精査した上で出発が決められる。
その間、ヒューメとピエリスの2人は走破竜車の中で静かに過ごさなくてはならないが、幸い車内には魔道具が各種装備されており、空気が汚染される事も無く気温も一定に保たれていた。
荷台部分は少なくともネブロシルヴァの街を出るまでの間は、窓が金属の板で覆われて荷車として偽装を施されており、表向きは伯爵から依頼された荷物輸送という名目となっている。
既に冒険者ギルドにも秘密裏に黒騎士クロムと自由騎士ベリス及びウィオラに対して物資輸送護衛の指名依頼が出されており、加えてその情報自体が伯爵権限で隠蔽指示が出ていると同時に、幾つかの偽の依頼等も紛れ込ませていた。
本来であればギルドにも情報を伏せて置くのが最善ではあるが、伯爵とは言え
また既に各地各部に斥候が多数放たれており、周辺の情報の動きに目を光らせており、その依頼を探ろうとする者は間違いなく網に引っかかるだろう。
勿論、情報漏洩が確認されれば、関係者は元よりネブロシルヴァの冒険者ギルド上層部の首が、纏めて反逆罪で切り離される可能性もある。
デハーニは暗闇の中、荷台の影で形容し難い面持ちで周囲を警戒していた。
2人のあまりにも寂しい故郷との別れに、自身に何が出来たのかと思いを募らせる。
それは一睡もせずに明かりの点いていない執務室に籠り、窓から荷車を見つめているファレノプシス伯爵家当主オランテも同様だった。
予定では、クロムが朝から冒険者ギルドに赴き、オランテから手渡された証書を提出した後、ギルドで自由騎士の2人と合流しネブロシルヴァを出立、そして街から距離を離してから護衛に付く予定である。
執務室にいるオランテは、馬車に乗り込む前にヒューメには別れの言葉を、そしてピエリスにはこれまでの忠義を褒めると同時に、娘を頼むとだけ伝えていた。
しかしそれは薄い壁1枚隔てての会話であり、互いの表情が伺い知れることは無かった。
それでも壁の向こうから涙声で2人の別れの言葉と変わらぬ忠誠の言葉が聴こえた瞬間、オランテは生まれて初めて自分自身の無能さに大きな憤りを覚え、握り締めた拳から血を流す。
その時、ふとクロムに対し心を開き、笑顔を咲かせているヒューメの顔を思い出し、それを今は亡き妻、ヒューメの母親と重ねた。
肖像画で笑う家族の絵の中の3人は、これで全て離れ離れになる。
もしクロムがヒューメを娶ってくれたらと、夢物語でもまず実現しないであろう望みを貴族特有の思惑と共に頭に浮かべるオランテ。
半ば自嘲気味に笑いながらも、夢を見ることぐらいは許してくれと静かに呟いていた。
夜の空が次第に白み始めるのを執務室で眺めながら、オランテはすっかり冷めきった紅茶に口を付ける。
この味にも随分と慣れたオランテは喉の潤いが戻って来たのと同時に、肖像画のヒューメに向かって口を開いた。
「ヒューメ・ファレノプシス・ソラリス・オルキス。お前のこれからの未来にどうか安寧が有らん事を。その安寧は...我らと共に...」
窓から差し込んで来たその日で一番早い朝日が、オランテの流した一筋の涙を照らし出していた。
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