第90話 名前の無い怪物
突然、戦闘に参加したティルトに僅かながら驚いたクロム。
だがティルトの放った台詞、そして手に持った杖に十全に錬磨された魔力が込められているという事を確認すると、クロムは再びメイドに意識を集中させた。
クロムはティルトの判断力に関しては高い評価を下しており、自身の戦闘行動の速度をある程度落とせば、彼はその状況に合わせてくると踏んでいた。
そして恐らく最初の
メイドは視線を落とし、濡れた地面と自身の下半身を忌々しそうに見つめていたが、すぐにクロムに目を向けて口を開く。
「冷たいなぁ。美味しそうな友達が来ましたねぇ...でもタイプじゃないかなぁ?ワタシはおにぃさんのような美味しそうで強引な人が好きぃ」
小首を傾げて笑みを浮かべるメイド。
その台詞の途中に、斜め上方から夜空を保護色にしながらの触手の一撃がクロムに襲い掛かって来た。
クロムはここで半身で回避しながら、煩さしそうに腕で防御し払い除ける動作を取る。
次いで今度は反対側から地面を這うような軌道で触手が薙ぎ払われるも、クロムはこれを回避せずにタイミングを合わせて踏み抜いた。
地響きに近い振動が大地に伝わり、クロムに踏み抜かれた触手は半ば地面に埋没する。
メイドが身体をのけ反らして、踏まれた触手を引き抜こうとした瞬間、クロムは猛然とメイドとの距離を詰める為に駆け出した。
そのクロムの加速よる脚の踏み込みで、地面が大きく抉られ、触手も踏まれていた箇所が磨り潰されてほとんど千切れかけの状態になっている。
「あははぁ!すごくイイ!来て来て!」
メイドが上下左右から無数の触手で迎え撃とうと、クロムに一斉攻撃を繰り出した。
そしてクロムは、今までとは違いそのまま全てを避けずに防御する選択を取る。
これ以降のメイドの攻撃も、ある程度はクロムの予測の範囲内だった。
全身で触手を防御したクロムの四肢に無数の触手が絡み付き、クロムを縛り上げ動きを固定する。
だがしかしそれは同時にメイドも動けなくなるのと同義である、クロムはこれを想定して行動を組み立てていた。
この条件で有利に立つ方法、それは相手よりも力が上回っている事であり、クロムを相手にしているその時点でメイドが有利に立つ事は無い。
そして更に予測が当たる。
クロムの予測はここでメイドが残った触手で、あの黒い融解液を浴びせてくると考えていた。
その場に固定されたメイドと、浴びせられる溶解液、そしてティルトの持つクロムの防御力への絶対的な信頼。
「受け取ってぇぇぇ!」
メイドが恍惚の表情を浮かべながら、クロムの予測通りの行動に出た。
触手の先端から黒い液体を滴らせながら、クロムにそれを浴びせようと小さく触手をしならせて、その先端を振り払う。
放射状に撒き散らされる黒い液体の帯が、クロム目掛けて投射された。
クロムはこのタイミングで回避行動を取るのではなく、腰と重心を低く構えて両脚に突撃に備えて力を込め始めた。
「深度3魔法
クロムの防御力を信じ切ったティルトの魔法が、クロムの考えうる最高のタイミングで発動された。
その魔法はメイドのみならずクロムをも巻き込んだ強大な障壁空間を出現させる。
夜の草原に突如として現れた白い立方体は、夜空に浮かぶ月よりも白く夜に輝いていた。
そして瞬時にその空間内の温度を、氷点下まで急降下させる。
瞬く間に空中で凍り付き、既に白に染まりつつある地面に落下する黒い飛沫。
そしてその飛沫を見つめ続けていたクロムの黒い身体も、瞬く間にその表面が凍り付き、彼の全身が真っ白な霜で覆われ、空気中の水分もダイヤモンドダストと化し舞い散っている。
― 外気温 -56℃ 装甲各部の氷結を確認 戦闘行動に問題無し ―
そして最も被害を被るのは、当然の事ながらメイドであった。
ベリスの下半身とその周囲の地面に着弾させた
それが一斉に凍り付き始め、頑強な拘束へと変化する。
「深度2錬金術式
そしてティルトは更に畳みかける様に、予め
すると氷が大きな軋み音を発しながら、急激のその姿を成長させメイドの下半身の幅の倍以上の大きさまで成長する。
その氷の塊は地中に突き刺さる様に下方向にも成長しており、その重量と硬さはとてもじゃないがメイドの力でどうにか出来るものでは無かった。
「ああぁぁぁ!なにこれぇ!あんのクソガキぃぃぃ!じゃぁまぁするなぁぁ!」
メイドが涎を口から撒き散らしながら、初めて憤怒の形相を見せた。
そして絶叫しながら上半身を前後左右に激しく振り、触手で氷を砕こうと何度も叩き付けるが氷の表面が僅かに削れるだけで効果は無い。
そして触手で地面を押して動こうとするも、全く動ける気配が見えなかった。
「良くやった。ティルト」
その言葉が冷気に支配された白い空間内に響き、クロムがバキバキと全身の霜や氷を破砕しながら、氷に拘束され足掻くメイドに再度突進を開始した。
巻き上げられた土も白く凍り付き、そして砕け散った氷の欠片が黒い身体から次々と剥がれ落ちながら、猛然と駆けるクロムの残像の如く宙を舞い散り、気流に飲み込まれる。
― 融魔細胞の活性化を確認 魔素保有量53% 魔力保有量75% ―
― 魔素リジェネレータ 魔力供給量を拡大 魔素保有量減少中 ―
― 融魔細胞の魔力消費を拡大 細胞強化率38% 魔力結晶発生の兆候無し―
急速にメイドとの距離を縮めながら融魔細胞の魔力消費量を拡大し、未だ完全にコントロール出来ていない強化率をコア任せで引き上げるクロム。
引き絞られた右拳から放出された赤い魔力の帯が、白亜の空間内を真一文字に斬り裂く。
「吹き飛べ化物」
「あああぁぁぁぁ!終わりたくなぁい!もっと絡み合って味わいたいのにぃぃぃ!」
歓喜と憤怒の表情を同時に顔に浮かべ、のけ反りながら絶叫するメイド。
その前でクロムは上半身を捩じり倒し、開かれた左手はメイドの向かって伸ばされ、右腕は拳と共に関節や外骨格を軋ませる程に折り畳まれて力を積み上げている。
そしてメイドの反られた胸部にクロムが躊躇無く全力で右拳を叩き込んだ。
その打撃の衝撃音と肉を引き千切る音、氷が破砕される音が入り混じり障壁内の空気を揺さぶる。
そして遅れて赤い魔力波動がクロムの拳の着弾点を中心に放射状に放たれた。
空間内を舞い散る白い靄が突き出された拳を中心に一瞬にして吹き飛ばされ、その部分だけ美しく澄んだ景色が広がり、そしてあまりにも強烈に放射された魔力波動は、いとも簡単にティルトの作り出した白い立方体を破壊し、崩壊させる。
氷の粒子と化して大気中に霧散していく障壁の中でクロムは、拳から伝わる感触に疑問を感じていた。
「避けられたか」
そう呟いたクロムは、メイドの攻撃に備え再び構えた。
そしてその眼に飛び込んで来たメイドの姿に、クロムは呆れを含む言葉を発する。
「そこまで来るともはや賞賛に値するな」
そう言ってクロムは傍らに未だそそり立つ氷塊に視線を移した。
氷塊の中には確かにメイドの下半身が取り残され、その切断面の中では小さな触手が無数に蠢いている。
そして目の前のメイドは数本の触手を脚代わりにし、胸を陥没させて上半身だけで立っていた。
「ごぼ...あ...はぁ...ワタシの...大事な下半身が取れ...ちゃった...」
乱暴に切断された胴体部分からは、黒い液体と赤黒い臓物に似た何かが地面に落下し、強烈な臭いを発している。
それでもその切断面からは、既に新しく無数の触手が争うように這い出てきており、やがてその傷口を埋めていく。
「下半身を千切って寸前で逃げたか。しかし滅茶苦茶だな。やはり頭を潰すのが最も効果的か」
そう言ってクロムは、更なる攻撃を加える為に身体に力を充填し始める。
「もうやめぇ...もうここらで退散...かなぁ。美味しそうな魔力食べ損ねちゃった...ざんねんむねん」
途切れ途切れの声でメイドが呟き、直後、突然メイドが残った触手の太さを倍近くまで膨張させると、地面を陥没させる程の瞬発力で森に向かって跳躍した。
クロムは戦術の中で森の中での戦闘を考慮していたが、相手が全力で逃亡する場合は少し勝手が異なる。
しかも追う相手は、触手を使い木々の間で立体軌道を行うと思われ、未だ黒い液体もクロムにとっては防ぐ手段が回避しか現状存在しない。
月明かりに照らされた蛸を彷彿とさせる下半身が喪失したメイドの影が、一足飛びで森の中に飛び込んでいった。
木々の枝と葉を揺らし破壊する音が聞こえ、思った以上に明瞭にメイドの声がクロムに届けられる。
「そのワタシの下半身は...おにぃさんにあげるよ...寂しくなったらぁそれを使って思い出して...ね」
その声はクロムの聴覚に普段とは違う、奇妙な感覚を覚えさせるものだった。
「声を魔力に乗せているのか。それにしても最後まで不愉快な化物だな。さっさと消え失せろ」
クロムはおもむろに足元に落ちている拳大の石を拾い上げて、声のする方向と距離を計算するとメイドを殺すつもりで投げ付けた。
暗い森の中で石が砕け散る音と、木の幹が破壊される音が遅れて響いてくる。
「当たらないよぉー...でも方向ばっちりだったぁすごぉい。そんなにワタシの事が気になるぅ?おにぃさん、名前はなんていうのぉ?」
「お前に名乗る名は無い」
クロムは声を魔力に乗せる方法を知らない為、そのままの声で返答するが、メイドにはしっかりと届いていた。
「そっかぁ。じゃぁワタシと同じだねぇ」
「どういうことだ?」
クロムの返答から暫く間が空くも、メイドの声が返ってくる。
「ワタシもこんなになっちゃってぇ、前のワタシはもう何処にもいないの...今はもう命令を受けて戦うか食べるかしか生きる理由なんてないのよぉ」
森の奥で木々が擦れ合う音が響き、それがゆっくりと遠ざかっていく。
それでも尚、クロムの聴覚に奇妙な感触を残すメイドの声が届き続けていた。
「なーんにもないのよぉ...上からは変な名前で呼ばれるけど、それはきっとワタシの名前じゃない...おにぃさんに名乗れるちゃんとした名前は...無いぃ...悲しいなぁ...」
「くだらん。そんなものは自分の意思で決めろ」
「えぇ?」
距離が離れ、徐々に小さくなるメイドの悲哀に満ちた声にクロムが応えた。
「あはぁ、いいのかなぁ...名前...次会う時までに自分の名前考えておこうかな...だから待っててねぇ」
「さっさと消え失せろ。何度も言わせるな」
「ふふぅ...ばいばい、またねぇ、次はもっとめちゃくちゃにして欲しいなぁ」
そのやり取りを最後に完全にメイドの気配が消え、静かな草原が戻ってくる。
未だ冷気が漂い続けている草原が、見渡してみると更に酷い惨状と化しており、今後長期にわたって以前の美しい景色を取り戻すのは困難と予想された。
「何者、いやあの化物は何だ。しかしティルトが居なければ少々面倒な戦いになっていたな」
クロムは自身の開かれた両手を見つめながら、先程の戦闘内容をデータで振り返る。
戦闘開始前より高い位置に移動した月が、荒れ果てた草原に佇む女の下半身を閉じ込めた氷塊と、その傍に立つ黒い騎士を何事も無かったように見下ろしている。
柔らかい風が吹き、メイドの残した強烈な異臭を夜の彼方に運び去ろうとしたが、その優しい風では力が及ばなかった。
クロムがその場でたったまま先程の戦闘データを確認していると、ティルトが駆け寄って来た。
そして周囲に今も尚残る異臭に顔を歪ませる。
更にクロムの戦闘マスクがまたも損傷し、顔の下半分が露出している事に気が付くと慌てて、今にも泣きそうな顔でクロムに謝罪をした。
「ああっ!もしかしてボクのせいで更に壊れちゃったのですか!?どうしよう...ごめんなさい!」
「一旦落ち着けティルト。まず一つ目、俺は全く問題無い。あの程度の冷気では俺をどうする事も出来ん。二つ目、マスクはティルトが来る前に損傷し取り外した。ティルトがやったわけでは無い。理解したか?」
クロムは辺りを見渡してパージしたマスクの残骸を探し、それ拾い上げるとティルトに礼を言う。
「ティルト、先程の戦闘では助かった。感謝する」
「い、いえ...クロムさんを巻き込むような戦術を取らなくちゃいけないボクが未熟なだけです...はい」
クロムの突然の感謝を受けて己の未熟さへの口惜しさと、彼の役に立てた喜びを顔に同居させ頬を染めるティルト。
「いや正直な所、安全策を取り過ぎて、その為に攻めあぐねていたというのも事実だ。しかしあまりにも異常な奴だった。これもオランテに報告すべきか...まぁいい、その話は後にしよう。屋敷に戻るぞ」
そう言ってクロムは、普段と変わらぬ足取りで屋敷へ戻ろうと歩き出した。
クロムに顔を見られまいと、下を向いていたティルトが慌ててその後を追う。
だが、体力がかなり低いティルトは脚にもかなりの疲れが出ていた。
あのクロムの魔力放射を見たティルトは、何故か居ても立ってもいられず、そのまま馬を借りて屋敷を飛び出した。
クロムが突然魔力を使い始めた事、そしてそれにあのヒューメとの一件が関わっている事もあり、心の中で渦巻いていた例えようの無い感情が溢れた結果、突き動かされるようにクロムの元へ向かったのだった。
しかし途中で不穏な魔力を感じたのか馬が怯えて前に進まなくなり、やむなく馬を降りて慣れないランニングで何とかクロムの元まで辿り着いた挙句に、あの異常者との戦闘に遭遇する。
そしてその場で魔力を錬磨し、魔法と錬金術を行使した事で疲れがかなり蓄積していた。
「どうした。かなり疲れているな。大丈夫か?」
「いえ、大丈夫です...と言いたいところですが、ちょっと疲れが...」
後方から捉えたティルトの足音に不自然さを感じたクロムが、振り返ってティルトに問い掛ける。
ティルトは疲れを誤魔化すように言葉を選んだが、クロムに強がりは意味が無い事も分かっている為、正直に答えた。
「俺の身体に掴まれ。落ちるなよ」
「え...あ、あの...」
そう言ってクロムは足早にクロムの横に立つと、ヒューメやフィラの時と同じように左腕でティルトを抱き寄せ、問答無用で抱え上げる。
フィラ、ヒューメに続き、クロムが誰かを抱えて運ぶ機会が多く訪れている事により、彼の中でこの移動方法が板に付いてきていた。
ティルトは顔を盛大に赤面させ、前に思い描いていた小さな望みが突然叶えられた事に、その思考が一切追い付いて来ない。
クロムの前腕部に座って抱えられながら、どこにも腕を預けられず縮こまっていた。
クロムの歩くリズムに合わせて、ティルトの身体と金髪が揺れている。
「落ちるぞ。しっかり掴まれ」
「は、はい...」
ゆっくりとティルトの両手が迷いながらもクロムの首に回され、自然とクロムの身体に身を預ける格好になる。
もはや正常な思考が期待出来ないティルトは、先程の戦闘での冷気を未だ身体に残しているクロムとは対照的に、その体温を上げていた。
そしてこの冷たさの原因は自分にあると悔やみながらも、その温度差がティルトの疲れた身体に心地の良い感覚を沸き上がらせる。
「今屋敷はちょっとした騒ぎになってるので...あの...その...クロムさんが早く歩くと疲れで手の力が...だからこのままゆっくり帰れたら嬉しいかな...って、何言ってんだろボク、ははは...」
もはや言葉の前後の繋がりすらも怪しいティルトの言葉を、クロムは何も疑問に思わずにそのまま受け取った。
「そうか。なら歩く速度を緩めよう」
「...はい」
降り注ぐ夜空の月明かりにさえ優しい温もりを感じながら、ティルトは自然と黒い騎士の首筋に顔を埋めその存在を肌で感じている。
クロムの足音が響く月夜の草原。
この時のティルトの表情を知ってるのは、夜空に浮かぶ半月のみだった。
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