第89話 赤濁りの瞳に狂気を添えて
月夜の晩を再び赤く染め上げた一幕は、想像以上の被害を周囲に与えていた。
風が草原を走り草木を躍らせていたが、クロムの周りの景色は殆ど動かない。
言い換えれば風の戯れで動かせる物が、その周辺には無かったのだ。
二度目の災害に見舞われたこの草原にもう一つの不毛の地が出来上がり、その中心には周辺に与えた状況をまるで理解していないクロム。
直立不動で一切に動きせずに、意識内でモニタリングした数値とコアからの情報を確認していた。
― コア融着魔力結晶の沈静化を確認 浸食無し 体内魔力保有量は規定値で安定 ―
― 体内魔素量 規定値の35%まで減少 魔素リジェネレータ通常稼働 ―
― 融魔細胞内の魔力結晶 分解開始 融魔細胞損傷率1.2% 魔力回路損傷率16% ―
魔素リジェネレートシステムの効果自体は、良好な数値を見せていた。
その事に満足するクロムだったが、やはり損傷が出る時点で体内に負荷が掛かっているという事は明白であり、更に全開近くまでコアの出力を上げるとコアに融着した魔力結晶の浸食が始まる事に関してが最大の懸念点であった。
最大出力で稼働し続ける事が困難である以上、コアの魔力結晶に関して言えばまさに心臓に刺さった時限爆弾と同義である。
現状では融着した魔力結晶とコアとのエネルギー回路の接続も実現出来ておらず、事実上、この結晶はクロムの肉体から完全に独立した制御不能の器官であった。
「こればかりは現状ではどうにもならないか...こちらの世界の魔物を解剖し、直接摂取してみるか。いやそれは危険だな」
― 警告 未確認物体 接近中 ―
コアの警告とクロムの聴覚が、ほぼ同時に暗い森の奥からこちらに向かって接近してくる何かを捉えた。
人の足音に加えて、何かを引き摺る音。
そして僅かな衣ずれの音も混じっている事から、人間もしくはそれに準じた生物であるとクロムは予測する。
しかし向かってく方向が伯爵邸とは全く違う森の中という時点で、関係者の可能性は極めて低い。
そして背の低い草木をかき分けて、その発信源が姿を現わした。
「何か覚えのある魔力が出たぁって思って戻ってきたらぁ...あの時の黒いおにぃさんじゃないですかぁ」
僅かに聞き覚えのある声が響き、木の陰から解放されたその声の主が月明かりの元に晒された。
「お前はあの時の」
クロムの前に現れたのは、尋問した後に逃亡したとされるメイド。
しかし身に着けているメイド服は既に薄汚くなっており、所々にどす黒い染みがこびり付いていた。
衣装が破れて箇所からは、同じく汚れ切った下着と肌が見え隠れし、その肉付きの良い肢体も併せて煽情的に見えなくもない。
ただしその肌は、人として生きているとは言えない程の色をしており時折、服の中で何かが蠢いていた。
ただメイドの顔とその金髪だけは不自然な程に美しく維持されており、月明かりに金色の反射を湛え、そよ風に靡く程に手入れがされている。
「随分と様変わりしたようだな。それに酷い臭いだ」
「ひどいですねぇ。女性に臭いだなんて...ワタシ傷付きますぅ。それにおにぃさん、ワタシの身体に色々と差し込んで、大事な所をいっぱい掻き回してくれたの覚えてますよぉ」
顔に張り付いた様な笑みを浮かべ、身体を器用にくねらせながら舌なめずりするメイド。
垂れ眼の中に浮かぶ瞳が赤く輝いていた。
ただしその赤は美しさとは程遠く、黒く濁っている。
クロムの嗅覚は風に乗って運ばれてくるメイドの臭いを嗅ぎ分けていたが、それは間違いなく血の腐った臭い。
腐臭とも言える、戦場で嗅ぎ慣れた忘れもしない懐かしい臭いだった。
「周辺で妙な動きを見せていた存在が要るとは聞いていたが、お前か」
「んん?違いますよぉ。ワタシはただ様子を見ていたでけですよぉ。未遂です未遂、きゃは。実際にヘマをやらかした人たちはぁ...この可愛いワタシのお腹のなかでぇす」
そういっておもむろにメイド服のスカートを盛大にまくり上げて、原形を留めず局部を隠す気すら見受けられない布切れと化した下着と括れ腹を見せつけるメイド。
その腹の様子にクロムは思わず呟いた。
「醜いな。手術に失敗した被検体を思い出す」
「ひっどーい!」
クロムの言葉に、にやけたままで語気を強めるメイドがワザとらしく地団太を踏む。
「それで何しに来た。素直に白状すれば一撃でその無駄に整った頭を潰してやる」
クロムは腰を落として右腕を引き絞り、拳をギチリと握り締めた。
― 戦闘システムを起動 コア出力45% アラガミ5式 システム使用不可 ―
― 融魔細胞の活性化を確認 魔素保有量85% 魔力保有量95% ―
― 魔素リジェネレータ稼働 魔力回路問題無し 魔力放出口の接続完了 ―
― 融魔細胞の魔力消費を確認 細胞強化率23% ―
クロムの装甲の各部隙間から魔力が滲み始め、魔素リジェネレータの稼働に伴い大気中の魔素をクロムの身体が急速に吸収し始める。
そのクロムの赤い血のような魔力を目視したメイドの顔から不気味な笑みが消え、代わりに恍惚とした表情に切り替わる。
「その無慈悲な言葉に、感情の無い声ぇ...生々しぃ真っ赤な魔力ぅぅ...おにぃさんやっぱ好きぃぃ...大好きぃぃ...あろぉぉ...」
声色と口調が濡れ始め、口を大きく開き、舌を突き出して自身の汚れた両指を舐めまわすメイド。
涎で濡れそぼった両手を胸部と局部に這わせていく。
「あはぁぁ...やっぱり食べたぃぃ...ダメって言われたけどぉぉ...めちゃくちゃにされてぇぇ...めちゃくちゃにしてぇぇ...しゃぶり尽くしたいぃぃ」
涎を垂らしながら白目を向いて、両手で胸部と局部を擦り回すメイド。
そして突然濡れてくぐもった音と共にメイドの腹や首元に背中、そして局部から赤黒い触手の様な物が、メイド服を突き破って赤黒い液体を飛び散らせながら無数に飛び出してきた。
飛び散った液体が地面に撒き散らされ、地面に触れると白い煙を上げて消えていく。
「ああぁぁぁ!出るデルでるぅぅぅ!」
血管の様に赤く仄かに光る無数の筋が黒い触手の表面に纏わりつき、更に勢いを増した腐臭が周辺に立ち込めた。
通常の人間では呼吸すら満足に出来なくなる程の悪臭。
飛び散った黒い液体が地面に撒き散らされ、それを加速させた。
― わかってはいたが人間では無いな。あの液体が浸食系なら面倒な事になりそうだ ―
特に今は頭部の一部が損傷し、素体が露出している事を考えると防御が完全とは言えない。
未だ不安定な体内に正体不明の異物を侵入させるのは、あまりにもリスクが大きかった。
「あはぁ!」
メイドの奇妙な叫び声と共に、思った以上に背後に伸びていた触手が天高く掲げられ、斜め上方からクロムに向かって叩き落された。
クロムは冷静にその触手の起動を読み取り、必要最低限の動きでそれを回避し、空振った攻撃が地面を打つ。
しなりが加わったその触手の威力は地面に一筋の窪みを付ける程に強烈で、土埃が盛大に舞い上がった。
そして間髪入れずに触手はまたも上空に持ち上がり、今度は左右のコンビネーションで無数の触手がクロムに襲い掛かって来る。
クロムは敢えて迎撃せずに回避に専念し、目標を捉えきれない触手がリズムカルに地面を打ち、打音と共にいくつもの筋を大地に刻む。
― 幾つか慎重に触手を潰して距離を詰めるか ―
クロムがそう考えた瞬間、目の前に触手が巻き上げた拳大の石が跳ね上がった。
その石をクロムは瞬時に掴み取り、回避動作で身体を横方向に1回転させたのと同時に、その回転の勢いを乗せて握った石をメイドの胸部中央に向かって投擲する。
豪速で投げ放たれたその石は、夜の闇による視認性の悪さも手伝い、メイドの完全回避を許さない。
それでも眼を見開いたメイドは、寸前で身体を不自然に曲げて回避行動を取った。
だがクロムが投擲した石は咄嗟の判断では躱し切れる速度では無く、メイドの左胸と肩の繋ぎ目付近に直撃。
鈍い音と共に石はメイドの身体を抉り取り、左腕を跳ね飛ばした。
貫通した石はそのまま後方の木に当たり、木を抉りながら粉々に砕け散る。
「あふぁぁ!痛い痛いイタイぃぃ!でも...きもちいいぃぃ!」
自分の腕が跳ね飛ばせた事も、身体を削り取られた事も全く気にする様子も無く、むしろ月明かりに映し出された顔を更に紅潮させて、その身をくねらせるメイド。
その隙を突いて、クロムがメイドとの距離を一気に詰める。
「来て来てきてぇぇ!抱きしめてぇぇ!」
突進してくるクロムを触手で迎撃しながら、口から様々な液体を吐き散らしメイドが叫ぶ。
クロムは左右から襲い来る触手を両腕で払いのけると、接触した瞬間に巻き付く動作を見せる触手。
だがそれを警戒していたクロムが瞬時に腕を引き、巻き付きを回避する。
すると払いのけた左右の触手がクロムの逃げ道を塞ぐように展開し、メイドの腹部から槍の様に飛び出してきた触手が真っすぐにクロムの胸に突き出された。
クロムはそれを半身で躱し、更に脚部に力を込め地面を掘削しながらメイドに肉薄する。
そしてクロムはメイドの腹から出た無数の触手の根元にほど近い場所を右手で纏めて掴み上げ、左手は巻き付こうと側面から襲い掛かって来た触手を受け止めて握った。
そして両脚を大地に縫い付ける様に踏みしめながら、全力でメイドをその場に固定する。
最接近する両者の身体。
クロムの嗅覚が捉える悪臭がより一層激しさを増す。
そして一瞬だが、至近距離で互いの目線が合い、月明かりが両者の顔を照らし上げた。
クロムを見つめるメイドの眼は欲情と狂気に満ち、大量の涎で糸を引く濡れた舌がクロムを舐め上げる様に突き出されている。
クロムの感情の無い赤い眼とメイドの赤く濁った眼が交錯する。
― 融魔細胞の魔力消費増大 細胞強化率35%まで上昇 魔素―魔力変換量増大 ―
そしてメイドの身体を両腕で固定したまま、赤い魔力を沸き上がらせるクロムが上半身を捩じり右脚を限界まで引き絞ると、眼前の彼女の身体を前蹴りで一気に蹴り飛ばした。
破壊槌のような威力で繰り出されたクロムの前蹴りがメイドの腹部、触手の根本付近にめり込む。
ブチブチと嫌な音を立てて触手が根元からメイドの腹部より千切り取られ、それと共にメイドの腹の中のどす黒い臓物が引き摺り出された。
クロムの左腕が掴んでいた触手も半ば程で断裂し、その蹴りの威力を軽減出来なかったメイドの身体が後方へ吹き飛ぶ。
そして同時に飛び散る黒い体液を回避する為に、メイドの身体の抵抗を土台にしてバックジャンプで距離を取るクロム。
― 警告 正体不明の液体が頭部前面装甲に付着 装甲表面被膜及び第1装甲融解を確認 ―
センサー類が損傷していた事もあり、至近距離でメイドから飛び散った数滴の体液が、破損した戦闘マスクに付着していた。
性質の内容は不明のままだが、クロムの意識内に徐々に融解されていく箇所が赤い警告付きで表示される。
「面倒な」
クロムは不機嫌さを隠さずに呟いた。
浸食の拡大と身体各所への浸食伝播を懸念したクロムは、そのパーツの放棄を即座に決断する。
「戦闘マスクを部分パージ。浸食拡大を阻止」
クロムがコアに指示を出すと、パンと小さな火花が戦闘マスクの継ぎ目に走り、顔の下半分のパーツが一気に切り離された。
それによりクロムの顔の下半分が完全に露出し、頭部前面装甲はバイザーと視覚ユニットのみになる。
一方で地面を跳ね、数回叩き付けられながら吹き飛んだメイドが倒れ伏せたまま動かなくなっていた。
対してクロムは両手で掴んでいる触手を左右に投げ捨て、その様子を静かに伺っている。
投げ捨てられた触手は千切られて尚、緩慢ではあるが動きを止めず、その場でうねっていた。
「うはぁん...すごぉい...中身まで持っていかれっちゃったぁぁ...せっかく食べた食事が出ちゃったじゃないのぉ」
倒れたままのメイドから艶めかしい声が発せられ、その身体がビクビクと大きく痙攣していた。
そしてメイドの身体に残っている触手蠢き、人間では不可能な態勢で起き上がらせる。
内蔵諸共、触手を引き抜かれたメイドの腹は不自然な程に大きく凹み、その奥で何かが蠢いていた。
「腰がペラペラだぁ。でも腰が細くなってスタイル良くなったかなぁ。魅力たっぷり愛情たっぷりだよぉ...ねぇお顔の素敵なおにぃさん?」
相変わらず頭部だけは整っているメイドが、その垂れ眼を細めて蠱惑的な表情でクロムに笑みを向ける。
「世の中広いからな。お前みたいな怪物でもまだ望みはあるだろう。だが俺は生憎、興味がないな」
クロムは再び拳を握り締め、低い体勢で構えを取る。
対するメイドはクロムの投石で抉られた箇所と、黒い大穴が開いた腹部が激しく脈動したかと思うと、無数の細い触手が絡まり合って塊を成し、その損傷個所を瞬く間に埋めていく。
― 再生の様な物だとは思うが、やはり体内の重要臓器もしくは魔石の様な物を破壊しないと長引くだけか ―
クロムは耐久性の問題で仕様を控えていた金棒を持参すべきだったかと、思考を巡らせていた。
「まだ終わらせないですよぉぉ...ほんのちょっぴりで良いので食べさせてくださぁい!」
メイドが狂喜の笑顔を浮かべながら、上半身を激しく前後左右に振りながら残った触手を無造作に暴れさせ始めた。
無暗に傷を付けると、そこから流れ出る黒い体液で装甲が損傷する可能性が高い。
先程付着した箇所は戦闘マスクであった故にパージで対応出来たが、胴体部分に付着した場合、パージも簡単には出来ず危険過ぎた。
再び両者は睨み合い、メイドは触手でクロムを四方八方から攻撃し、クロムは打開策とその機会を伺いながら回避に専念していた。
しかしメイドが何かに気が付いたように、にやけ顔で舌なめずりすると絶え間ない攻撃を繰り出しながら一本の触手を攻撃に参加させず、その先端を顔の前まで移動させる。
そしてその先端を濡らすように舌を這わせると、ゆっくりとそれを咥え込み、暫く口の中で舌で転がした直後、目を見開き噛み千切った。
メイドの口の中で触手の先端から黒い液体が迸り、逆流したそれが口や鼻から流れ出る。
「げぼっ...はぁぁ...ワタシのコレがそんなに怖いですかぁ...遠慮せずに飲んでくださぁい」
口から大量の液体を垂れ流しながら、未だ先端から液体を滴らせる触手をゆっくりとしならせるメイド。
― 回避は不可能か。一旦森に場所を移すのも手だな。ただこれの足止めは確実にしなければならない ―
クロムが思考を切り替えて、再び乱舞する触手と対峙したその時、不意に第三者の声がこの場に響き渡った。
「深度1魔法
月明かりを歪めながら反射し煌めく複数の水の球が、対峙する両者の側面から高速で飛来し、メイドの足元目掛けて発射される。
そしてその水球はメイドの下半身、両脚を巻き込みながら地面で破裂し、周囲に大量の水を供給した。
「きゃぁ!冷たぁぁい!なんなのぉ!?」
メイドが大げさな仕草でスカートを捲り上げる。
クロムがメイドへの警戒を維持しながら、その声の方向に意識を向けると、そこには肩で息をしながら、汗を額に浮かべて立つティルトの姿。
月明かりの下でサファイヤブルーの瞳を魔力で輝かせ、魔力を込めた
「クロムさん!一撃で決めちゃってください!」
ティルトが純銀の杖の魔力を更に錬磨しながらクロムに叫ぶ。
クロムはティルトのやろうとしている事は理解していないが、その台詞から導き出された予測を実行に移そうと行動を開始した。
戦場の気温が急激に低下し始める。
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