第83話 黒の帰還と赤の恐怖

 その日はティルトとベリスがクロムの近くで待機しながら、その様子を伺っていた。

 ここ数日、ベリスとウィオラは如何に騎士団長代理の仕事を早く終わらせて、もう1人と交代するかに闘志を燃やしている。


 ティルトはクロムに接近する事を諦め、今後のクロムの戦いに何が役に立つか、どのように自分の力が生かせるかを試行錯誤する事に時間を費やしていた。

 一方、ベリスとウィオラは数人の部下を連れ、魔力錬磨の指導や自身の鍛錬を交えながら、時々ティルトより投げかけられる武器に関する質問に答えたりと、交流の回数を増やしている。


 しかしながらピエリスが騎士団長としての任を現在、凍結されている事もあり、この先の騎士団の未来に一末どころでは無い不安を抱えているのも事実だった。

 いずれにしてもウィルゴ・クラーワ騎士団は、元よりヒューメの為に設立されている経緯があるが故に、事の運びによっては想定外の処遇が下される可能性もある。




 そんな中でティルトとベリス、ウィオラはそれぞれの想いを胸に、今自分が出来る事をやれるだけやろうと前を向いていた。

 すると、突然クロムの周囲の雰囲気が一変したのを2人は同時に感知し、同時にその方向を向いた。


 薄い氷の上を歩いている時のような、どこか不安感を伴った軋み音と小さな破裂音。

 明らかに魔素と魔力の動きが変わったクロムの周辺の変化を、2人は見逃す筈も無く、互いに顔を合わせて頷き合うと、それぞれ武器を構えて臨戦態勢をとった。


「1人は伝令として閣下への報告を急ぎなさい!状況に変化ありとだけ伝えるように!残りは魔力防御準備!」


 ベリスは即座に同行していた部下の一人に伝令として走らせると、残りの騎士には防御態勢を取る様に指示を出した。


「何が起こっているのかわかりますか、ティルト殿」


 ベリスが全身に魔力を纏い、そして突撃槍にも魔力を流しながらティルトに問い掛ける。


「まだわかりませんが、明らかにクロムさんの周囲の魔素と魔力の均衡が崩れ始めています。このままだと結晶が崩壊します」


 結晶の崩壊と聞いて、先日の魔力波動の件を思い出すとベリスは自身の魔力錬磨を更に一段階上げた。

 今は防御特化のウィオラが不在であり、最悪の場合は自身を犠牲にしてでも隣の錬金術師は守らねばならない。


「ティルト殿、もしもの時は...」


「大丈夫です。ご心配には及びません」


 ベリスのセリフを先回りするように、ティルトが魔力増幅剤の瓶を何時でも飲めるようにベルトにセットしていた。


 その間にも結晶から発せられる不穏な音は、その数と勢いを増していき、赤い2本の翼も細かなヒビ割れが発生し始めていた。


「結晶が崩壊します。ベリスさん魔力防御の準備を」


 ティルトが真剣な口調でベリスに伝えると、ベリスもいつでもティルトを護れる立ち位置に移動し、来るべき衝撃に備えた。


 そして固唾を飲んで見守る中、ついに魔力結晶が完全崩壊を起こした。





 ガラスを叩き割った時よりも何倍も大きな音が周囲に響き渡り、粉塵と化した魔力結晶が周辺の景色を一変させた。

 離れていても息が詰まる程の濃密な魔力と魔素が放出され、先日よりも威力は小さいとはいえ、防御の準備をしていなければ身体の自由を奪われるほどの魔力波動が放出される。


「うぐっ!ティルト殿、大丈夫ですか!?」


「はい!大丈夫です!他の皆さんも魔力防御を切らさないで下さい!それと少しずつ下がります!あの濃度は危険過ぎます!」


 そう言ってティルトは、魔法障壁を前方に張りながらベリスらと徐々に距離を取り始める。

 杖には事前に隔絶の氷壁パーマフロスト・クリフの術式を記憶させ、不測の事態に備えていた。


 しかし事態はまたも急変化を起こす。


 今度はクロムの周囲に満ちていた魔素と魔力が、一気にその気配を消したのだ。

 離れていても魔力が僅かに大気に吸われていくのがわかり、ティルトもベリスも焦りを隠せない。


「何がどうなっているのですか!?」


「わかりません!あの空間は前よりもっと危ないです!下手しなくても死にます!魔力防御を全開で対処して下さい!」


 恐らく魔力防御無しであの空間に立てば、体中の魔力を吸い上げられ、瞬く間に命を奪われる危険性があった。

 周辺の大気中の魔力が、突如発生した魔力存在しない空間に向かって一気に流れ込み始める。


 すると一瞬、静寂に似た気配が周辺を支配し、ティルトとベリスの思考が停止する。

 目の前がモノクロームの世界になったかのような気配が漂った。

 その直後、クロムの身体から深紅の魔力が爆発的に沸き上がり、その圧倒的な力の奔流を前に2人は恐怖心から思わず目を閉じて、顔を腕で庇った。


 全身を焼く様な濃密な魔力の波動がクロムから放射されていた。

 ベリスは何とか今までの訓練の成果もあり未だ健在と言えたが、残念ながら部下は膝をついて、クロムから発せられるその威圧にも似た波動に意識を奪われ始めている。


 ティルトは 隔絶の氷壁パーマフロスト・クリフを発動せんと、杖を前に構え魔力を充填し始める。

 ティルトの魔力が深紅の波動に炙られ、杖に込められた魔力錬磨が妨害されていた。


 しかしティルトが隔絶の氷壁パーマフロスト・クリフを発動させる前に、クロムから放射されていた魔力の暴力が収まっていく。

 そしてクロムから魔力放射が消え、現場に再び静寂が戻って来た。


 クロムがヒューメを抱きかかえながら、ゆっくりと立ち上がるのが見えた。

 そしてそのままこちらに向かって歩いてくるのを確認する2人は、魔力防御を展開しているものの、心から少しずつ沸き上がる喜びにその集中力を徐々に切らしていく。


 そしてその喜びが最高潮に達した瞬間、とうとう集中する事が出来なくなった2人の身体から、魔力防御が消し飛んだ。





 クロムの漆黒の身体の関節部分や装甲の隙間から、僅かに深紅の魔力が漏れ出ている為、クロムを知らない者から見れば禍々しい魔力を纏った黒い怪物に見えるかも知れない。

 だが、不在のウィオラを含めて3人は、誰よりもクロムの帰りを待ち焦がれていた。


 深紅の魔力を滲ませながらゆっくりと歩いてくるこの黒い騎士こそ、彼ら彼女らが目指す強さの象徴なのだ。


「クロムさん!クロムさん!」


「クロムさ...クロム殿!身体は無事なのですか!?」


 2人がクロムに駆け寄っていくと、まず僅かに漏れているクロムの魔力があまりにも濃密である事に驚き、そして今までクロムが傷付く事を想像していなかった為か、破損した黒い戦闘マスクを見て目を丸くした。


 そして初めて見るクロムの素肌、そして一部分ではあるがクロムの素顔の片鱗を垣間見て、2人は何故か顔を赤くしている。

 何か見てはいけない物を見てしまったような、どことなく心が落ち着かない2人だった。


 今までは黒い仮面ありきでクロムと交流していた故に、特に素顔の事は考えていなかった。

 むしろ2人にとっては、黒い仮面が素顔の様なものなのだ。


「心配かけたようだな。俺は大丈夫だ。詳しい話は後でするとして、ヒューメも生きている。まずは迎えを寄こしてくれ」


 そういってクロムは、クロムの胸に顔を当ててもたれ掛かっているヒューメを軽く揺らす。

 するとヒューメはクロムから降ろされると勘違いしたのか、その不安感から更にクロムの身体に密着するようにしがみ付いた。


 ヒューメの首が離れるのを嫌がる様に、ほんの小さく何回も横に振られる。


「今、伝令を走らせております。そろそろ来る頃だと思うのですが...それよりもその、大丈夫なのですか...その...あの、お顔とか」


 ベリスはクロムの顔の事に関して触れていい物か判断が付かず、言葉を詰まらせながらもクロムの身を案じた。


「大丈夫だ。だが仮面の破損が続けば、多少不便にはなるかも知れないな。それも追々考えていかなければならないだろう」


 その仮面を叩き壊した張本人でもあるヒューメはその事を完全に覚えており、その小さな身体を強張らせ、クロムの胸に顔を埋めて完全に顔を隠して震えている。


「気にするな。いずれ壊れるものだ」


 クロムが一言、ヒューメに声を掛けると、彼女はまたしても身体を大きく震わせ小さな声でごめんなさいと謝った。

 震えは止まったが、相変わらず顔は隠したままだ。


「ティルト、その様子だと随分を心配をかけたようだな。後ほど色々と聞きたい事もあるから、その時は宜しく頼む」


 ティルトは、クロムの言葉にどう応えるのが正解か大いに迷い、青い瞳を泳がせていた。


「えっと...心配していないっていうのは噓になります...ホントに心配してました。でも無事...かどうかは分かりませんがクロムさんは帰って来てくれました。おかえりなさい。あまり無茶はしないで下さいね」


「ああ」


 クロムはティルトの言葉に短く返す。

 あまりに短い返事だったが、ティルトにとっては言葉の短さなども全く問題にならなかった。

 今、目の前にクロムが立っている事実のみで、既に心が満足している。


「そういえば武器を向こうに落としたままだったな」


「それは後で騎士団が回収しておきましょう。ヒューメ様を抱えたままでは危ないですから。ああ、今迎えが到着しましたね。ヒューメ様、お迎えが来ました。一先ずは帰りましょう」


 ベリスが近衛騎士団とヒューメを乗せる小さな馬車が共にこちらに向かってきているのを発見し、ヒューメに帰還を促した。

 しかしヒューメは再び震えたままで固まっている。


 しかしこの状況に関係無くクロムの意識は、別の方向へ向けられていた。


 ― 今の所、体内の魔力と魔素は安定しているようだな。呼吸によって魔素が微量ではあるが体内に蓄積しているのもわかる ―


 クロムは意識内で体内モニターの数値を事細かに確認している。

 そして、もう片方のヒューメが言っていた“魔力を感じる”という事象もティルトとベリスを見ていると、何となくではあるがわかって来た。


 感覚的なものではあるが、2人から静電気のような肌が泡立つ感覚に似たものをクロムは捉えており、ヒューメからも小さいながら同様の物を感じ取っていた。


 ― これに関しては、ティルトとベリス、そしてウィオラに協力して貰う必要がありそうだな ―


 クロムは近いうちに、この感覚を確証の持てる形でコアに学習させ、次のステップである魔力の視覚化への可能性に繋げようと考えている。

 そうやってクロムが思考を巡らせていると、レオントとウィオラが率いる小規模の騎士団がクロム達に接近してきた。


 先日の事もあり全員完全武装で招集されたようで、非常に物々しい雰囲気を醸し出しており、緊張感と警戒心、そして何よりも恐怖心が前面に押し出されていた。


 それは人外の激闘を繰り広げ、今は恐怖を具現化したような深紅の魔力を滲ませるクロムに対してか、それとも一度は厄災を呼ぶ魔物として父親から討伐命令まで下された、鮮血の令嬢ヒューメに対しての物か。


 いずれにしても、ウィオラ以外の騎士達の心の中に、あの日の夜に感じた底無しの恐怖が鎌首をもたげていた。





「では、ヒューメ様。屋敷に戻りましょう。馬車にお乗りください」


 レオントが、クロムの傍まで歩いてきてヒューメの状態を確認すると跪いて、馬車への乗車を促した。

 それと同時に騎士達に先導されて、馬車がクロム達の前に横付けされる。

 そして騎士によって扉が開かれ、ヒューメの乗車を待つ。


 その馬車は窓が分厚いカーテンで塞がれ、外からは中の様子を伺い知る事が出来ず、馬車の中もかなり暗かった。

 それを見たヒューメは、周りの騎士達の恐怖心や様々な感情を読み取ったのか、頑なにクロムから離れようとしない。


「ヒューメ様、お願い致します。どうか馬車に」


 跪きながら、レオントが再び頭を下げるもヒューメはそれに応じようとしない。

 クロムが無言で降ろそうとするも、少女が必死の抵抗を見せ、クロムにしがみ付く力を更に強めた。


「お願いします...離さないで下さい...ごめんなさい...お願いします、クロム様」


 クロムに顔を埋めながら涙声を静かに震わせ、強く抱き着くヒューメ。


 ― ヒューメを宜しくね ―


 その時、クロムの中に消えていったもう一人の少女の声を思い出すクロム。


 ― これも交渉の材料の1つ...か ―


 クロムはレオントに有無を言わさない口調で、自分の意思を伝える。


「レオント、訳あって俺が彼女を運ぶ。理由を教えるつもりは無い。そしてそちらに拒否権は無いと思ってくれ。それで問題無いな?」


 クロムの腕の中で、ヒューメの力がゆっくりと抜けていく。


 それを聞いたレオントの顔が見事に引き攣るも、オランテからクロムには絶対に逆らうなと厳命を受けている為、元よりレオント以下、騎士達に拒否権は最初から存在していなかった。


 それよりも、クロムの漆黒の鎧の隙間から洩れている魔力のあまりの禍々しさに異論を唱える気さえ起きず、何とか平静を装っているレオントであったが、先程から背筋に滲む冷や汗が止まらず、その他の騎士の大半は鎧が鳴る程に震えている。





 ― クロム殿が更に恐ろしい存在になって帰って来た ―


 レオントはこれから話し合われるであろうヒューメの処遇に関して、オランテ伯爵がより一層難しい判断を迫られるだろうと予想し、これが嵐の前の静けさで無い事を切に願っていた。







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9/25 第82話における「魔力細胞」を「融魔細胞」に名称を変更しました。


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