第81話 強さの距離と届かぬ想い
クロムとヒューメの戦いから一夜明け、伯爵邸の執務室でオランテは、報告書と被害状況の整理に追われていた。
あの魔力障壁の崩壊によって放たれた魔力波動の被害は想像以上に広範囲に及び、現場から離れた伯爵邸の警備及び周辺警戒を行っていた近衛騎士団の約半数以上が、魔力飽和で卒倒するという事態に見舞われた。
現場にいた近衛騎士団に関しても、事前に魔力防御を展開していたにも関わらず、レオント騎士隊長以下数名の実力者を除き、意識はあるが戦闘不能状態に陥っている。
ウィルゴ・クラーワ騎士団は、錬金術師のティルト及び副団長2人の活躍により、被害が最小限に抑えられてはいるものの、こちらはピエリス騎士団長が職務を果たせない状態に陥り、これを戦闘放棄と見做し処罰を下すかで意見が分かれていた。
いずれにしても、今ネブロシルヴァに危機が訪れた場合に対応出来る戦力が低下している事実は、大いに問題があった。
そして多数の機密情報を保管する伯爵邸を守る為にも、未だ厳戒態勢を解く命令は下されていない。
「レオント、報告をしろ。現在のクロム殿の状況はどうだ」
ピエリスの好んで飲んでいた、多忙で冷めてしまった紅茶を不味そうに飲み干すオランテ。
血税にて用意された物である以上、それを一滴たりとも無駄にしないオランテの矜持が見え隠れしている。
「はい。未だ魔力結晶の崩壊の兆候は見られません。錬金術師ティルト殿がその近くに野営する形で監視に付かれておられます。親交のあるウィルゴ・クラーワ騎士団の副団長の2人と数名の騎士が交代で護衛に付いております」
レオントが窓の外に目線を移す。
数少ない開かれた窓からは、状況とは裏腹にとても爽やかな風が空気の重い執務室に舞い込んで来る。
現在、クロムを爆心地とするその周辺は非常に高い魔素及び魔力濃度が計測されており、並みの魔力防御では数分と意識を保てない状態が続いている。
調査に行こうにも近づけないのだ。
「ピエリスの処遇は後に回すとして、ティルト殿の情報によればヒューメも生存しているらしい。恐らくクロム殿の何らかの力で生き長らえているのだろう。これに関しては一切情報を外に出すな。最優先で緘口令を出せ。漏らした場合は厳罰に処す」
「仰せのままに。クロム殿に関しても、現状では情報を広げさせないように口頭で命令しておりますが、如何しましょうか」
オランテはクロムに感謝する一方で、今後どのように彼を扱っていいものか頭を悩ませていた。
中央にクロムの事が漏れれば、間違いなく王都に呼ばれるであろう。
だが、クロムが大人しくそれに従うとは思えなかった。
そしてそうなると、間違いなくクロムの事を知らない王家を始めとする上層部が彼に食って掛かると容易に想像出来る。
あのクロムと敵対したら、例え王家であろうとも只では済まない事は分かり切っていた。
「クロム殿の件に関しても可能な限り伏せておけ。冒険者の情報網も警戒しなければな。それと報告にあった森の中での死体の件、あれは本当なのか?」
オランテは今朝、ヒューメの屋敷に常駐していた残り3人の
そして別の報告から、別館から僅かに離れた森の中で騎士団の装備思われる物と夥しい量の血痕が見つかり、決して外される事の無い仮面もそのまま放棄されていたという。
明らかに何かが起こったはずなのだが、犯人の痕跡が一切見つかっていない。
どのようにして脱出したかも不明のままだった。
「はい。死体が無い以上、断定は出来ませんが間違いなくあの騎士達の装備品です。私も確認しました。そして現場の検分でも、現状ではそれ以外考えられないと」
「あの現場で我々とクロム殿以外にも、何らかの手の物が動いていたのか。そして恐らく
他にも身元不明の商人の衣類が見つかっている事から、オランテは内通者もしくは脱出を手引きする裏の組織の関わりも疑っていた。
そのような状況であれば、ますますヒューメの処遇を早急に考えなければいけない。
現在、クロムが胸に抱えられ眠りについているとの事で、身の安全に関しては問題無いが、ただそれでも動き続ける状況から考えて、オランテもクロムの早急な覚醒を望んでいた。
開け放たれたからオランテはその窓の近くに行き、空を見上げた。
オランテは脳裏にヒューメを思い浮かべる。
ただヒューメが目覚めた時、オランテは父親としての立場は完全に捨て、ただ貴族として厳正に対処すると決めていた。
既に父親と名乗る資格は喪失していると考えている。
ろくに睡眠を取っていない疲労困憊のオランテには、今日の天気は些か眩し過ぎた。
クロムは魔力結晶の中で、ヒューメと自身の身体のモニタリング情報を処理しながら、思考を回転させていた。
ヒューメの容体は回復の傾向を見せており、内外の傷の再生も順調に進み、今は静かな寝息を立てている。
クロム自身の身体は今、現在進行形で強化細胞がヒューメの血液と融合を果たしながら、ゆっくりだが着実に生まれ変わっている。
ヒューメの血液等の情報を事前に検査していた事もあり、当初の予定よりも現段階で8時間程の時間短縮が見込まれていた。
これ以降も順調に融合が進めば、更なる時間短縮も期待出来る。
ただ、融合と再構成によって体内を全く別の細胞に生まれ変わらせるという荒業に近い事を行っている為、クロムの意識も安全措置として度々コアや肉体から切り離され、思考もその度に寸断されていた。
またコアに浸食したままの魔力結晶に関しても、既に完全に癒着に近い形で定着しており、コアを破壊しない限り分離は不可能と言う結果となっている。
クロムが現在対処を考えている事。
それは体内で発生する可能性が高い魔力結晶をどのように消費、もしくは排出するか。
そして魔素、魔力、魔力結晶の状態変化の解明である。
クロムの肉体が魔素を吸収する性質に変化し、魔力の生成が可能になったとして、魔法の行使は不可能だと言われた。
可能性が有るとすれば魔力による身体強化だが、強化細胞とコアの制御下において可能かどうかは現段階では不明である。
そして今クロムが最優先で思考しているのは、魔力結晶から生命活動に必要なエネルギーを抽出出来ないかという事だった。
魔素を吸収し体内で生成した魔力を結晶化、その結晶から何らかの形でエネルギーを抽出しコアの制御下に置ければ、クロムのエネルギー効率は飛躍的に上昇するはずである。
魔素は主に大気中に存在し、その魔素を元にして生命体の細胞内や、魔素の極度の圧縮によって魔力に変化、そして魔力から魔素が急激に抜けると魔力結晶となる。
水の三態変化とは異なる関係性であり、更にクロムが疑問に思っているのが、飽和状態にある魔力も魔力結晶へ変化するという点だった。
クロムはこの時点で、魔力結晶は魔素が抜ける事によって生成される物と、飽和や圧縮によって生成される物の2種類が存在するのではないかと考え、飽和状態で生成される魔力結晶は魔素、魔力の両方を内包し、状況に応じてその両方を取り出す事が出来るのではと考えている。
ただ通常の外気に触れた段階で急速に魔素が放出されてしまう事から、それはクロムの体内で行なう必要がある。
補給が絶望的な戦闘強化薬が近く完全に枯渇する事を考えれば、このエネルギー問題を始めとする魔力関係の解決は急務と言えた。
また目下の問題である“全力が出せなくなる”という事においても、生成されてしまう魔力結晶を体内で魔力や魔素に還元出来れば、余剰分を大気放出する事で解決出来るとクロムは予測している。
― まず手始めに魔力を感知出来るようになれば、その正体の糸口も掴めるかもしれない。それに破損した戦闘マスクの機能を多少は補えるはずだ ―
今回のヒューメとの戦闘で戦闘マスクが中破、機能が40%以上低下し、センサー類も回路破損で使用不能になっている。
またそれを修復をする事自体が現状では不可能である。
― 魔力を感じる事が出来るのであれば、それを疑似的にコアの演算で視覚化も可能かも知れない。試してみる価値はある ―
今回のクロムの行動は非常に危険な賭けであった。
仮に一つでも予測や状況の運びが狂っていれば、生存も含めて非常に困難な状況に陥っていたと考えると、やはり彼の行動は無謀という他無い。
しかし、クロムは確実にこの世界に順応し始めており、これがまさしく彼にとっての第一歩と言えた。
そしてクロムはオランテからもたらされる情報を使い、次の目的への計画も同時に練り始めている。
― 時間はまだある ―
意識内でそう呟くと、クロムは再び思考を深く沈ませていった。
そのクロムから離れた位置にティルトが立っていた。
杖を前方に突き出すように構えながら、ゆっくりとクロムに向かって歩を進めている。
ただ進むにつれてティルトの額から汗が滲み出し、細く繊細な金髪を額に張り付かせていた。
「まだ魔素濃度が濃すぎますね。一体クロムさんはどんな環境で眠っているのだろう」
杖で魔力濃度を調べながら、まだ結晶に包まれたままのクロムを眺めていた。
ティルトとクロムの距離は物理的にもまだ遠い。
しかしティルトの焦りや心配から生まれた心の距離は、その何倍にも感じられた。
「ティルト殿、あまり無茶はされないように。ここにいる段階でも相当な負担が掛かっているご様子」
「あ、ウィオラさん。お加減は如何ですか?」
ウィオラの声を背後から受けたティルトが振り返る。
彼女もまたティルトの代わりに長時間魔力波動を浴びた事により、その夜から翌日の昼までは魔力飽和寸前で満足に身動きが出来ずにいた。
「ああ、ティルト殿の魔力調整薬で何とか持ち直した。改めて礼を言わせてくれ。感謝する」
ウィオラが頭を下げると、ティルトは微笑んだ。
その微笑はウィオラですら一瞬見惚れる程の美しさを放っていた。
「いえ、あの時ウィオラさんが盾になって頂いたおかげで、最悪の事態は免れました。こちらこそありがとうございます」
ティルトも頭を下げる。
森から抜けて来た風が2人の横顔を撫で、髪が乱れる。
2人は自然とそれを避ける様に顔を背けると、その先には陽光に煌めく深紅の翼を天に広げたクロムの姿があった。
「まだクロム殿は眠ったままなのか」
「ええ、残念ながら通常の装備と魔力防御では近づく事すら出来ません」
ウィオラのシールドガントレットが、どこか寂し気にガチャリと鳴り、ティルトの横顔にも僅かに悔しさが滲み出ていた。
この距離が、今の2人とクロムとの強さ、存在の大きさの差だと思い知らされている様で、2人の心には共通の想いが過る。
「まだまだ遠い存在だ、クロム殿は。生まれ変わらせて貰っておいて、これではまだ全くダメだな、私は」
「それはボクも同じですよ、ウィオラさん。クロムさんの役に立ちたくて頑張っているつもりですが...遠すぎます。いつかあの隣に堂々と並び立ちたいものです」
2人が同じ想いを口にすると、互いに顔を合わせて微笑み合う。
「腐っていても仕方が無い。やれるだけやる。今はそれしかない」
「そうですね。まだボク達も先があると思って進むしかないですね」
そう言って2人はティルトが野営している場所に戻っていった。
丁度その場所には、ウィオラとベリスが渾身の力で、あの時の魔力波動を耐えていた事を証明する足跡、そしてティルトが氷壁で魔力波動を正面から抑えきったその痕跡が、はっきりと地面に残されていた。
それこそが彼らの成長の証でもあり、同時に彼らとクロムの存在を分かつ境界線でもあった。
ピエリスは騎士団長の執務室では無く、騎士団の寄宿舎の自室のベッドに腰かけていた。
あの動揺から騎士団を統率する職務を果たさず、後方に下がり部下に護られていたという失態から、オランテより戦線放棄と見做され、別命あるまで無期限の謹慎を言い渡されている。
現在、ウィルゴ・クラーワ騎士団の騎士団長の地位と権限も凍結されており、騎士団長の臨時の代理としてベリス副団長とウィオラ副団長が状況に応じて交代でその任に付き、各種対応に追われていた。
― もはや私は何の為に存在しているのだろうか ―
自分の両手を見つめながら、
ヒューメとピエリスの主従の証であった、
今はもうピエリスとヒューメを繋ぐものは何もない。
あの時、ピエリスの精神状態ではまともな魔力防御も張る事が出来ず、意識が朦朧としている中で部下が後方へ退避させようとしていた。
そして今も記憶に残っている赤い翼が夜空に広がる瞬間を思い出す。
あの場所で一体何が起こったのか、そして今はどうなっているのか、ピエリスには何も知らされていない。
時折、ピエリスの様子を伺いに部屋を訪れるウィオラやベリスにその事を問うてみるも、オランテからの指示で情報統制が敷かれ、2人も詳細を話す事は無かった。
ただ二人からは、今はまず気をしっかり持つようにと言われただけに留まっている。
― あの時、短剣を抜いていれば ―
だがそれも過去の事であり、幾ら後悔しようとも覆す事も出来ず、何よりヒューメを失う事に変わりがない事実は更にピエリスの心を深く沈ませていく。
もう何処で道が分かれたのかも、ピエリスにはわからなかった。
クロムに砕かれた彼女の胸にまたも痛みが走る。
あの時、クロムとの一騎打ちで感じた己の澄んだ意思は何だったのだろうか。
ベリスとウィオラが、生まれ変わったように前に進み始めている横で、自分は前に進んでいたのだろうか。
既にピエリスの中から、騎士としての誇りも何もかもが砕けて塵となっていた。
「私の騎士としての道はもう無いのかも知れないな」
そう小さく呟くと、部屋の片隅にて鎧立てに飾られている自身の騎士鎧に向かって歩き出す。
そしてその鎧の胸に付いている、ウィルゴ・クラーワ騎士団の紋章が描かれているメダルを取り外した。
「すまない、皆。私はもう...無理だ...許してくれ...」
静かな部屋に、ピエリスの嗚咽混じりの涙声がいつまでも響いていた。
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