第75話 蠢動そして2人は1つに
デハーニはクロムが滞在している部屋を聞き出すと、そこに足早で向かい部屋の扉を軽く小突いた。
返事は無く、次の行動に迷っているとメイドが飲料用の水差しを持って歩いている姿が目に入る。
デハーニはメイドにそれをここの部屋にいる奴に届けたいと、その水差しとガラスのコップを受け取り、再度扉を小突いた後にゆっくりと扉を開けた。
予想以上にその部屋は暗く、調度品が美しく配置されているのが逆に不気味さを醸し出していた。
その奥で黒い影が緑の双眸を光らせ、身動きせずに立っていた。
デハーニはそのあまりの不気味さに思わず水差しを落としそうになるも、すぐさま平常心を取り戻し、その影に声を掛ける。
「おい、クロム」
一瞬、クロムの緑の光が瞬き、クロムが返事を返してきた。
「なんだ」
「いや、ずっと閉じこもったままだからよ。ティルトに言われて様子を見に来たってわけだ」
「そうか」
そう言って、デハーニは近くにあった椅子に腰かけると、少し勢いを失った雨をその身に受ける窓に視線をやる。
「随分と熱心に読んでるみたいだな。聞くがクロム、本当にやるのか?」
デハーニの冷え切った声が部屋に響くと、クロムの声が即座に返って来た。
「質問の意図が読めないな。言わずとも分かっているとは思うが、既に利害の一致の中で契約が成立している以上、相手が何であれ実行に移す事に変わりはない」
デハーニは沸き上がった感情を冷やすかのように、水差しから直接水を喉に流し込む。
そして一息つくとデハーニは語り出す。
「俺は村の存在を極力隠す為に伯爵の力を借りている。その代わりに伯爵に森や交易で手に入れた魔石なんかを渡していた。表立って取引出来ない量の魔石をな。ヒューメ嬢に使っているのも知っていたさ」
クロムは情報処理を続ける。
「ヒューメ嬢にも何度か会ってる。魔石を届ける度にごめんなさいと謝ってくるんだよな。多分自分の事は分かっていたと思う。良くわからねぇ力が突然目覚めて、自分の意思ではどうする事も出来ず、気付いたらその手が既に汚れていた。問題の状態の時はあまり記憶はないそうだが、手にはその感触が残っているって泣いているのも見た」
クロムを見るデハーニの視線が、殺気を帯び始める。
デハーニも自分の無力感に襲われ、やり場のない感情で気が昂っていた。
だが如何なる理由があったとしても、その視線を許さない存在が目の前にいる。
「デハーニ。お前との関係性を考慮した上で忠告する。それ以上はやめておけ。俺はティルトにお前の遺品を形見として手渡すつもりは...今の所、無い」
「あの娘はまだ引き返せる筈だ。罪は罪だ、それはわかってる。だがまだ何か解決方法がある筈だ。この先、罪を償う事も」
クロムはその言葉を静かに遮る。
「標的は貴族だ。道端の花売りの少女とは違う。それにお前はその犠牲者がティルトでも同じ事が言えるのか。お前やティルトに悪意を持って襲ってきた敵でも、その理由、境遇を聞いてから斬り殺すのか?見逃すのか?」
デハーニも自分の意見が如何に愚かなのか分かっていた。
ヒューメに哀れみの情を持った時から、世界の不公平を嘆く時もあった。
「もうお前には止められない」
クロムがデハーニに最後通牒を突き付け、デハーニが俯いて拳を強く握り締めている。
雨音と庭の木々が突風で軋みだけが、その部屋の中で舞っていた。
デハーニが静かに立ち上がり、扉に向かって歩き出した。
そして扉の取っ手に手を掛け、クロムに言う。
「すまねぇな」
「問題無い」
短く会話を交わして部屋を後にするデハーニ。
クロムはそのまま再び思考の渦に意識を飛び込ませた。
デハーニはクロムと話す前に、何とかならないかとティルトに相談を持ち掛けている。
そしてティルトはデハーニに対し、こう答えを返していた。
「クロムさんは誰にも止められませんよ。もし止められたらそれはクロムさんじゃないのですから」
デハーニはそう答えた真顔のティルトが、既にあのヒューメの様に魔性の手に囚われている事を知った。
クロムと言う存在が現れてから、急速に自身の周りが黒く染め上げられていく感覚を、今ここでハッキリとデハーニは認識する。
オルキス近衛騎士団、そしてウィルゴ・クラーワ騎士団には現在、伯爵からの指示により無期限の臨戦態勢で非常招集に備えている。
ピエリスは執務室の窓から、完全武装の騎士が装備の点検や軽い模擬戦で意識を高めている風景を見ながら、何やら胸騒ぎのような物を覚えていた。
現在クロムとデハーニが伯爵との会談を行っているという事は、既にピエリスの耳に入っていた。
そしてそれから事態が急速に動き始めたのだ。
特にその渦中にあの黒騎士がいるという事実が、より一層悪い予感を胸の奥から突き上げてくる。
「不安ですか?」
騎士団長室で報告書と準備状況を確認しているベリスがピエリスの背中に言葉をかけた。
相変わらず机に置かれた紅茶は冷めきっている。
「まぁ...な。余りに急な動きだったからな。誰でも何か思う所はあるだろう」
「確かにクロム殿があそこにおられる時点で、何かあると思ってしまっても致し方ないですな」
ウィオラが鎧の各所の緩み具合を点検しながら、半ば諦めたかのように会話に参加する。
「まぁあれだけ色々とあれば気になるのも仕方ないかと」
苦笑いでベリスが答え、ウィオラは小さく笑った。
ピエリスは、あの夜のヒューメの叱責が未だ心に小さな影を落としていた。
今抱える全ての不安が、あの時の自身の失態に繋がっているのではないかと思い始めていた。
ピエリスの脳裏に主であるヒューメの笑顔が浮かぶ。
するとそこに配下の騎士から緊急の報告が入る。
ピエリスは心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚えながらも、騎士団長としての威厳を保ちつつその報告を受けた。
「報告します!騎士団長のご命令で拘束中の女が姿を消しました!捜索隊を組織するご判断をお願い致します!」
ピエリスのみならず2人の副団長もそれぞれの思惑もあり、顔色を変える。
拘束中の人物の脱出を許したという事もそうだが、あの女性はクロムに拘束を頼まれた人物でもあるのだ。
「なっ!?見張りの騎士は何をやっていたのですか!?」
直接クロムよりその女性を預かったベリスは思わず口調を荒げて、報告に来た騎士を責めた。
「み、見張りを担当していた騎士1名が現在行方不明であり、こちらは現在行方を追っておりますが、未だ発見出来ません!」
「一体どうなっている?我が騎士団の中に脱出を手引きした者がいるのか。しかし警戒態勢が敷かれている中で大規模な捜索隊を組織する事は...」
「団長殿、クロム殿との関係は今は考えず、まずは騎士の行方だけで捜索隊を編成すべきかと。その延長線上で女性の行方も追えば...」
息を荒げながら、机に手をついて状況を整理しようとしているベリスを横目に、ウィオラがピエリスに進言した。
「団長、私が捜索隊をまとめて...」
冷静さを失いつつあるベリスが、ピエリスにそう進言しようとするも、ウィオラがそれを止める。
「ベリス、気持ちは良くわかるが今は状況が悪すぎる。騎士団が警戒態勢を取っている最中に、副団長が別部隊を組織して指揮下を離れるのは流石にダメだ」
「し、しかし!」
「落ち着け。我々は誰の指揮下に属しているか冷静に考えろ。クロム殿の事だ、逃亡の可能性を考えていない筈はない。もしかしたら泳がす事も想定していると考えた方が良い」
ウィオラはクロムの思慮深さを材料に、ベリスを何とか落ち着かせる。
実際の所、この状況下で副団長が伯爵の命令無しに部隊を率いて別行動を起こせば、命令違反、反逆罪を適用されても文句は言えないのだ。
ましてやピエリスの騎士団は、その性質上、立場も良いとは言えない。
「ベリス、ウィオラの意見が正しい。一先ず騎士1名の行方が掴めない旨を上に報告し、少人数の捜索隊の組織を具申しよう。ベリス、書状を用意するので急ぎ伝令を走らせろ。それとウィオラ、団員の中からそなたが信用出来ると判断した者を4名、捜索隊として選抜し別命あるまで待機させておけ」
「「了解致しました」」
副団長がそれぞれ命令に従い、行動を開始する。
「クロム殿、あの女性は一体何者なのだ」
言いようのない不安を抱えながら、ピエリスは書状を書き上げていく。
窓の外から見える雨が収まりつつある空。
ただ雲が散る気配はなく、夜の気配を含み始めた暗雲はその暗さを一層深めていった。
「騎士さんの言われるがままに外に出て、この小屋に逃げ込んだけれど...」
あの日クロムに痛めつけられたメイドが、カビ臭い部屋の中でしゃがみ込んでいた。
背中の傷が未だに痛むが、動けるくらいには回復していた。
それでも治りきっていない背中がどうにもむず痒い。
メイドの記憶は酷く混乱し、ここ数日自身の身に起きた事の整理がまだついていない。
そもそもあの日、自分が何故メイドの格好をしてあの黒く恐ろしい騎士の部屋でぼろ雑巾の様にされていたのかも分かっていない。
気が付けば、腫れ上がった背中と拷問と変わらない尋問を受けていた。
ただ心の底に、いや身体の中で何かが蠢いているような感覚はある。
何かしなくてはいけないのではと、何か重要な事を忘れているのではないかと言う焦燥感がメイドの中から消えてくれない。
「何か...何処かに...」
メイドの鼻をくすぐるかび臭い臭いに混じって、もう一つの香り。
メイドの思考に再び靄が掛かり、それとは正反対に心の中が不安と混乱を巻き込んで整地されていく。
メイドの表情が落ち着きを取り戻していく。
― そっか、私行かなきゃ。でもまだ待たなきゃね。でもその前にもう少しだけいいよね。この子もお腹空いてるし ―
そう言って立ち上がると、メイドはゆっくりと歩き出す。
メイドの靴音に瑞々しい音が混じる。
「いただきまーす。もう邪魔な物いっぱい身に着けてるからめんどくさいなぁ」
服が汚れないように気を付けながら、腐りかけの木の床が吸い切れない程の血だまりの中で、赤い瞳のメイドが食事を始める。
金属が擦れ合う音と何かを啜り上げる音が、小屋の中に響き渡っていた。
しゃがみ込んで猫背になっているメイドの背中。
その服の下で何かが蠢いていた。
オランテ伯爵邸別館。
伯爵邸、そしてその周辺の喧騒も届かない場所。
既に夜の足音が聞こえ始め、森に囲まれた別館は街よりも一足早い夜に包まれていた。
執事も使用人もいないヒューメの屋敷。
その1階ロビーの奥、騎士詰所の中で小さな丸テーブルを囲むように4人の
テーブルの上に置かれた、1本の蝋燭が灯す青い炎の揺らめきが、4つの白仮面を暗闇に浮かび上がらせている。
「どうやら伯爵が何か企んでいるようだ。間者からの報告も絶たれている。監視に気付いているのかも知れんな。それに騎士団の動きも活発化しているようだ。予定を短縮する必要がある」
「回収計画を早めるのか?移動させるにはまだ準備が足りない。危険だ」
「私がここに残り、引き続き監視を続ける。お前達は屋敷を出て外の同胞に準備の前倒しを伝えろ。早ければ今日の夜明け前に動く。気付かれるなよ」
「しかしそれは早計...いや、了解した。伯爵もそうだが、報告にあった黒い騎士の存在は無視出来んな。情報が途切れているのが余計にな」
「ともあれ計画を早める。いけ」
「「「了解」」」
騎士達の身体が暗闇に溶け込んでいく。
そして最後まで浮かんでいた白い仮面が消えたと同時に、青い炎も吹き消された。
その別館の部屋で1人の少女が眠り続けていた。
いつもと変わらぬ素肌が透けるほどに薄い白いワンピース。
深い眠りに付いている少女の胸が一定の間隔で上下に動いている。
― 助けてなんて今更言える訳ないじゃない。やってはいけない事をしたのよ ―
― でもあの時の高揚感と解放感、貴女も喜んでいたじゃない。それは良い事でしょう? ―
― 違う。あれは私じゃないの。私だけど私じゃない ―
少女の寝顔が僅かに歪む。
小さな口が時折、空気を求める様に僅かに開く。
声に出せない声。
― あの時、ピエリスに刺されて、その胸の中で永遠の眠りに付いても良かった ―
― でもあの意気地無しは刺せなかった ―
― 違う。ピエリスは意気地無しじゃない ―
― 助けてと言えない貴方が言えた事じゃないわね ―
ヒューメは見たくなかった。
自分に忠誠を誓うあの騎士の顔が、悲しみに歪むのを。
毒の神の抱擁で意識が無くなる直前、その最後の光景がピエリスの哀しい顔だというのは耐えられない。
笑顔でなんて贅沢は言わない。
けれど、それでも記憶に無い肖像画の母の様な穏やかな顔に見つめられながら、優しく抱きしめられて、あの温もりの中で逝きたいと彼女は思う。
― でも怖い。死にたくない ―
― 我が儘ね。死にたいの?生きたいの?貴方にそんな我が儘を言う権利あるの? ―
― 生きたい。でも私は生きてたらダメ。きっとまた誰かの血を求めてしまう。わかってる。もう次、貴方が出てきたら私はもう戻って来れない ―
― いいじゃない。歓び、叫び、嘆き、悪意、殺意...全て受け入れて貴方が私になればいいのよ。ピエリスならきっと分かってくれるはず。あの血が貴方を救ってくれるのよ ―
ヒューメはあの月明かりの下で感じた温もりの幸せと、ピエリスが流した香しい血の香りと味を思い出す。
静かに寝ている少女の身体の奥に熱い想いが燻り始めた。
― そうよ。貴方の想いとピエリスの想い、私達で運命を交差させるのよ ―
― やめて...私は...私は...ヒューメ...私は...わたし...たち...は... ―
― 私達はヒューメ・ファレノプシス・ソラリス・オルキス。天上の血の楽園よりこの世界に降り立った選ばれし者 ―
眠ったままの少女の口から、2人分の声が重なって紡ぎ出される。
「「
横たわるヒューメの身体から深紅の魔力が漏れ出し始める。
分厚い暗雲の隙間から、あの日よりも美しく輝く月が顔を出していた。
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