第74話 その少女は魔物となりて
娘を殺してほしい。
オランテ伯爵はクロムに深々と頭を下げて願い出た。
部屋に流れる沈黙を時計の音が切り刻む。
「ヒューメはもう我々では手に負えない怪物となりつつある。もし何かの間違いがおこれば...ネブロシルヴァに解き放たれてしまえば、その被害はどうなるのか見当も付かない」
「自分で何を言っているのかわかっているのか?クロムに成人間近の少女を手に掛けろと言っているんだぞ」
デハーニは年頃の少女を殺すという行為よりも、その役目をクロムに押し付ける形で依頼するという事に苛立ちを覚えた。
ティルトもオランテの願いに不満を覚え、険しい顔つきで言う。
「もう諦めた...という事でしょうか。父親である貴方様が」
「3ヵ月前よりヒューメを軟禁している屋敷に、
オランテは壁に掛かっているヒューメとその母親の肖像画を見上げながら、抑揚の無い声を発した。
「始末する為か」
「いや違う。私の放った密偵によれば、王都の軍部上層がヒューメの軍事利用を本格的に検討している。既に運用計画が提出され、娘を回収し様々な処置を施した後、試験的に実践投入される予定だそうだ。投入時期は...来年の
それを聞いたデハーニが厳しい目をオランテに向けた。
「あれだけの被害を出して、まだ諦めていないのか王家、いやこの国は。今度は一体どれだけの命を磨り潰すつもりだ」
「遺物の入手は国家にとっての宿願ですからね。隣国のルベル・アウローラ帝国が風の噂ですが遺物の新規獲得に成功したという話も聞きますので」
ティルトが言葉の合間に紅茶に口を付けて、更に続ける。
「オランテ伯爵閣下、何故クロムさんなのでしょうか。この方とは今日初めて御会いになられた筈。事態の深刻さは十分に理解出来ましたが、あまりにも早計なご判断だと思われますが」
薄暗い部屋の中に、ティルトの青い瞳が静かに輝いていた。
結局の所、貴族がヒューメの軍事利用を止める為に、クロムを軍事利用しようとしているとしかティルトには思えてならなかった。
「私の情報網を甘く見ないで欲しいティルト殿。ラプタニラにおいてのクロム殿の戦い、そして今日に至るまでの冒険者としての活動は全て把握した上での、願い、いや依頼なのだ。如何なる者であろうと御する事叶わぬ黒き騎士、だからこそ彼しかいないのだ」
「クロムさんを監視していた...という事ですね」
ティルトの声のトーンが一段階低くなる。
クロムはこの会話を聞いて、オランテ伯爵の手勢が思った以上に広範囲に散っている事を理解した。
恐らく冒険者ギルド、そしてウィルゴ・クラーワ騎士団にも内通者がいるとクロムは判断する。
― そうなると先日のメイドもか...いや余りにも行動原理に違いがあり過ぎる。密偵の行動基準を超えている ―
クロムはオランテ伯爵の性格や行動理念から、情報収集には目的の種類はあれど、密偵に実力行使を行わせる人物とは思えなかった。
この伯爵は、必要であれば人命の価値を任意に下げられる人物だと評価しており、必要と判断すれば密偵では無く暗殺者をクロムに差し向けるだろうと。
クロムはここで初めて口を開いて、オランテに問う。
「オランテ伯爵、俺は監視に関しても、そして娘を殺害する意図を持っている事に関しても、特に思う所は無いと先に言っておく」
突然のクロムの言葉に、オランテは驚き、そしてデハーニとティルトは眼を伏せてその声に耳を傾けている。
「オランテ伯爵、その対価としてお前は何を提示する」
「貴殿の望む物ならば...いや、これは失言だな。忘れてくれ。私が提示するのは情報だ。国内外において私のみが知り得ている情報。その中でも“遺物”に関する情報だ。必要であれば、クロム殿が望んだ分の情報を開示する準備がある」
オランテはそう言って背を向け、再び家族の肖像画を力無く見上げた。
「...クロム殿、情報を対価に娘の命を奪ってくれと願う、この私は貴殿にどう見えている...」
3人に震える背を向けたまま、ソファーの背もたれに腰を下ろたオランテがクロムに問い掛けた。
「貴族と言うのはそうでなくてはならないのだろう。10の命を救う為に、1の命を犠牲にする。娘1人の為に、己の心を犠牲にする」
オランテはクロムの言葉を聞いて、背筋を伸ばし、白髪の混じった乱れた髪を手櫛でかき上げ整えた。
そして、クロムに向き直り、改めてクロムに願い出る。
その瞳の色は娘を思う父親のものではなく、貴族のものだった。
「私はこの場において、我が娘ヒューメ・ファレノプシス・ソラリス・オルキスを領民に害をなす魔物と認定し、クロム殿にその討伐を願う。対価は私が持つ情報、貴殿の欲する情報全ての開示だ」
「了解した。ただ一つ伝えておく。俺が提供するのは戦力では無く、暴力だ。一切の慈悲も哀れみも無く振り下ろさせる純粋な力だ。お前は自分の眼前で愛した娘がその暴力に嬲られ、無残に殺されていく光景を受け止める事が出来るのか」
オランテの心の中に残っている僅かな父親の感情が、その問いに対する返答を遅らせる。
クロムのその言葉が、決断を撤回する為の最後の慈悲なのかも知れないと、オランテは奥歯を噛み締めた。
だが、既に事態は動き始めている。
オランテが自ら動かしたのだ。
― もう後戻りは出来ない ―
「わかっている。私はそれを見届けさせてもらう。貴族として、父親としても目を背ける事は許されない」
オランテは貴族であり続ける事を選択し、クロムは一言、了解したと返した。
「ちっ、腐ってやがるな。この国も、貴族も、何も出来ない俺も」
デハーニが、激しい雨が打ち付ける窓の外を見ながら言葉を吐き捨てる。
沈黙を貫くティルトの青い瞳が、カップの中の紅茶の表面で揺れていた。
長らくゼンマイを巻き忘れられていた時計の鼓動が、偶然にもここで力尽きて部屋の時間が止まる。
ティルトはその後、伯爵に要請されてこの部屋を出て行った。
オランテ伯爵は、ティルトにこの伯爵邸の敷地内に幾つか設置している魔法障壁を展開する魔道具を、錬金術の術式の応用で改造して欲しいと要請。
気持ちの整理自体は付いて無いものの、クロムがその願いを受諾した事を受け、あくまでクロムの行動を補助する為に協力するという意思を示していた。
オランテはその魔道具にピエリスが持ち帰った高純度の魔力結晶を接続し、高濃度の魔力で満たされた空間を作る事を提案。
ヒューメが軟禁されている屋敷ごとその障壁で覆い、その中でヒューメを討伐する作戦をクロムに伝えた。
その際、クロムにも魔力飽和の影響が出るとオランテが言ったが、クロムは何時もの様に問題無いの一言で済ませる。
オランテはギルドに潜入させている諜報員の情報から、クロムの特殊性の報告を受けた上で、この作戦を立案している。
その特殊性とは、ギルド等の重要施設に設置されている魔力感知の魔道具がクロムを感知一切しないというものだった。
― 魔力に対して何らかの特性を持っている ―
その原因がその鎧にあるのか、それとも
それでもティルトも疑念を抱いていた、魔力を一切感じないというクロムの特性は本人の預かり知らぬ所で曝露されつつあった。
問題があるとすれば、現在、ヒューメとファレノプシス伯爵家を監視している
誰の命令で派遣されてきたか不明な状況で、強制的に排除する事はかなり危険な賭けでもあった。
その実力は本物であり、オランテはクロムであっても、高濃度の魔力に晒されながらヒューメと護衛騎士4人を同時に相手するのは流石に不可能と考えている。
「問題無い。こちらに剣を向ければ敵というだけだ。お前は魔道具を起動し、貴族当主として大義名分を宣言するだけで良い。その後は俺の邪魔をしない事を最優先で考えていろ。邪魔をした時点で娘共々容赦はしない」
「...わかった。後現場にはピエリス騎士団長が来るはずだ。既にクロム殿の事は理解している筈だろうから、邪魔にならないと判断した。彼女の背負った役目もあるが故、それは了承してくれ」
「了解した」
ピエリスはまだこの事を知らない。
知れば自身の立場も顧みず、必ず何かしらの行動を起こすだろうとオランテは確信していた。
ヒューメの引き起こした失態、その責任を供に背負う事を義務付けられた
ヒューメによって潰された命は、覚醒した日の2人だけでは無い。
貴族の娘が犯した快楽殺人。
そんな娘を主とし、敬愛してしまった騎士団長は、先日その短剣を抜く事が出来なかった。
このピエリスの失態が、オランテの作戦決行を決意する引き金となったのだ。
― 出来ればピエリス騎士団長に、ヒューメの見送り人になって欲しかったという想いもあるが ―
魔力結晶を持ち帰った日、オランテにその戦果報告をする際に彼女が持っていた希望の光。
主を救えるという未来を見た彼女の歓び。
ピエリスはその魔力結晶が、主であるヒューメの命を刈り取る戦場を作り出すとは夢にも思っていないだろうと、オランテはあの日を振り返る。
もしヒューメ討伐戦にてピエリスが抗命の行動に出た場合、オランテはヒューメに続いてピエリスも反逆罪で裁かなくてはいけない。
― 全く度し難い生き物だな貴族という物は ―
オランテは首から掛けているロケットを手に取り開くと、そこには亡き妻とヒューメが笑っていた。
クロムは、オランテから事前にヒューメの身に起こった事態の内容を聞き、更に彼女の診察結果や昏睡時の検査結果等のデータを提供させた。
手書きの報告書であったが、この事態を解決しようと様々な方法を考案し、実行に移した事がわかる。
クロムは一人になれる別室を用意され、ヒューメに関する情報は惜しみなく公開するとオランテより言われている。
クロムは机の上に大量に乗せられた資料を片っ端から目を通し、コアに記録させていく。
その中で、偶然にもこの件に関するティルトの意見書と薬剤の効能に関する報告書を発見した。
それは人間の魔力の保有量を決定しているのは、肉体では無く、生まれた時から本質が変わらない血液にあるのではないか、という疑問から考察が展開されている。
この世界における人体構造の知識や医学の技術の発展は、これまでクロムが読んできた書籍で判断すると、非常に遅い事が判明している。
その中で、魔力保有量と肉体の関係は、体内を流れる血によって決まるのではないかという疑問。
ただしその理論は、血縁至上主義と選民思想をさらに加速させる側面も持ち合わせていた。
「血と魔力か」
クロムは未だに魔力と言う存在を感知出来ないという理由で、この存在の理解度が全く進んでいない。
原因として、この世界には化学の分野における魔力の定義自体がなされていない事が挙げられた。
怪我をすれば血が出る。
人間は魔力を宿し、それが無ければ生きていけない。
魔力はこの世の理に干渉し、神の力を模倣させる力の源。
最終的に行き着く神と言う存在が、全ての理論に蓋を被せていた。
敵であれば何者であっても容赦はしないクロム。
だがこの世界の強さの根源が魔力にある以上、クロムにとっても魔力という存在の解明は急がなくてはいけない問題だった。
今は問題無い。
されど未来は分からない。
基本的に肉体の成長というものが存在しないクロムは、鍛錬にて成長を見せる存在には一定の敬意とも言える評価を持っている。
ベリスやウィオラは鍛錬により劇的な成長をクロムに見せ、クロムはいずれは自身の強さを超える可能性を彼女達に感じていた。
― 成長と言う現象を魔力によって実現可能であるならば ―
クロムは現在、取得した情報を元にコアに1つのとある仮説を提唱し、その結果をありとあらゆる想定の下で演算させている。
現段階では、その全てが途中でエラーや不可能と言った文字が並んでいた。
「コア出力45%に設定。演算に割り振る出力を最大にする」
クロムは通常時におけるコアを最大稼働させ、その予測演算に最大負荷を掛けていた。
周辺警戒と資料からの情報収集のタスクを最低限残して、クロムは思考の海に飛び込む。
― 自動迎撃プログラム 稼働中 戦闘システム 起動準備 待機中 ―
― 敵対除外 設定中 識別対象 個体名登録 外見データ 照合完了 ―
薄暗い部屋で黒い騎士が身動きせずに、その場で停止している。
オランテはこの部屋に間者も含めて、一切の人間の接近を許可していなかった。
もし仮にクロムが設定した条件に合わない人物が部屋に侵入し、この状態のクロムに接近すれば間違いなくこの部屋に外の雨とは違う色の雨が降っただろう。
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