第73話 伯爵の慟哭と願い

 伯爵との会談が予定されたその日は、灰色のに覆われた薄暗い日だった。

 雨を予感させる纏わりつく湿気と、どこからともなく香ってくる石畳の据えた臭いが、これからの天気を容易に予想させる。

 風が窓のガラスを乱暴に撫でる音の中、クロムは読書をしながら出発の時を待たされていた。


 ゴライアが特注で製作した背嚢を装備し、ティルトが錬金術で丁寧に浄化した黒い外套も既に羽織っており、それが艶やかに光沢を帯びていた。

 外套の留め具にベリスから贈られた緑色の魔石のブローチ、そして新しく届けられたレピ製作の白と赤が組み合わさった組紐を肩掛けし、飾緒しょくしょとしてアレンジして飾り立てられている。

 ティルトはそのクロムの姿を見ていたく感動した様子で、曇り空の今日の天気が恨めしいと言っていた。



 そこに扉が静かにノックされ、扉の外から声が掛けられる。


「クロム様、お迎えの馬車が到着しております。お連れの方も玄関ロビーに来られているようです」


「わかった」


 そう言って、クロムが部屋を出ようとすると使用人らしき2人が外から扉を開け、クロムを出迎えた。

 締めきっていた部屋に廊下から新鮮な冷たい空気が流れ込み、クロムの外套をふわりを靡かせる。


「おはようございます。クロム様」


 執事服の初老の男が深々とお辞儀をし、ロビーでクロムを先導していく。


「装備品を預かって貰いたいが、出来るか?」


「承知致しました。厳重に保管させて頂きます」


 絨毯をサクサクと踏みしめながら歩くクロム。

 そして、玄関で左腕に巻かれた鎖を解き、蜷局を巻かせるとそれを預けて馬車に乗り込む。

 既に中には正装のデハーニとティルトが乗り込み、クロムを待っていた。

 クロムが乗り込んだ瞬間、馬車が大きく軋み、御者がかなり不安そうな表情を浮かべている。


「あれがギルドマスターをボコった鎖か?」


 デハーニは馬車の窓から、玄関で数名の警備兵が何とかクロムの鎖を持ち上げて、保管庫に持っていこうと奮闘する姿を覗き見ていた。


「試験運用といった所だな。連携には不向きとわかったから今後どう使うかはわからん」


 御者が4頭の馬に鞭を入れ、ゆっくりと馬車が動き始める。


「なるほどな。確かにあれを振り回されたら俺でも近づきたくねぇわ。第一その金棒だけでも相当な威圧感があるぞ」


 デハーニはクロムが背中から降ろし、脇に置いている金棒を見て言った。

 昨日、この金棒を実際に持ったデハーニは、信じられないといった表情でその重量を直に体感している。

 勿論ティルトも挑戦したが、床から浮かす事すら出来ず、涙目になっていた。




 その直後に、扉の外から騎士団の騎士が到着したという事で、メイドの引き渡しを行ったが、その時にやって来たのはベリス副団長とその部下数名だった。

 しっかりと面と向かって相対するのが久しぶりのベリスは、大声でクロムの名を呼び、鎧が擦れる金属音を発しながら駆け寄って来た。

 魔力を見る事の出来ないクロムでもわかる程に、ベリスの肉体が鍛え上げられ始めていた。


 クロムがそれを一言褒めると、ベリスは感極まった様子で涙目となり、何やらクロムに対する熱い想いを語り始める。

 埒が明かないので、クロムはベリスの手を突然握り締め、慌てふためく乙女を無視して一言、まだ足りんと言い放ち、腕の力のみで身体強化全開のベリスを床に押し倒し黙らせた。


 メイドはこのまま騎士団の本拠に移送され、監視付きの軟禁状態で預かられる事になるとクロムは聞いた。

 輸送直前にクロムはメイドの耳元で、余計は事はするなと釘を刺すとメイドは青い顔で何度も首を振っていた。

 ピエリスは、ベリスに対しクロムの要請でメイドは騎士団預かりで対応するが、その詳細は聞かない事という指令を受けており、護送自体も問題無く行われるとの事。


 ― さて、どう動くか ―


 昨日の尋問の内容を思い出しながら、クロム達は馬車に揺られて伯爵邸に向かう。

 会談の内容やデハーニの意図を知らないクロムは、昨日の尋問の結果から判明した洗脳に関して気になる事があると、クロムの隣に移動してきたティルトに様々な質問をぶつけていた。





 伯爵邸に到着する頃には、馬車の窓から見える風景が徐々に水滴に浸食され、歪み始めていた。

 屋根を水滴が叩く音も次第に主張を強めている。

 そして中に邸宅があるとは思えないほど堅牢な城壁を潜った馬車が、伯爵邸玄関前で停止した。


 玄関前には紋章旗を掲げた騎士団が左右に展開し、完全武装の騎士が騎士礼で客人を出迎えた。

 街から吹き上げてくる風が紋章旗を激しくはためかせ、降り始めた雨が騎士達の鎧を打っていた。


 外で待機していた騎士が馬車の扉を恭しく開き、足置きを展開させ降車を促す。

 まずはデハーニが先に馬車から降り、周辺を警戒した後でティルトに降りるよう眼で合図をした。

 そしてティルトが曇天でも輝きを失わない純銀の杖を持ち、ゆっくりと降車する。

 そのティルトの持つ儚さと幼さが共存する中性的な美しさが、その場に居た者全ての視線を釘付けにした。


「クロムさん、どうぞ」


 ティルトが馬車に残っているクロムに声を掛けた。


「ああ」


 クロムは短く返事をすると、馬車から出る。

 ティルトの時とはまた別の意味で、その場がの注目が集まる。

 馬車が大きく軋み、黒い騎士が暗雲が立ち込め始めた空の下、伯爵邸の前に降り立った。

 風に煽られた黒い外套が音を立ててはためき、その隙間から漆黒の鎧が見え隠れする。

 余りにも悪天候と似合い過ぎている黒い騎士の登場に、事前に通達があったにも関わらず緊張を走らせる騎士達。


「行こうぜ」


「そうですね。雨も降っていますし」


 デハーニとティルトが歩き出すと騎士団が鎧を打ち鳴らして、再度騎士礼で出迎える。

 その後をクロムが2人を護衛するように続いた。

 クロムだけその足音が重々しく響き、歩くだけで石畳を削っていく様子は、騎士達に強烈な印象を残した。


 そして玄関前まで到着すると、それに合わせて先回りするかのように、ファレノプシス伯爵家の紋章が描かれた両扉が開き、中には使用人達が列を成して頭を下げていた。


「深度1錬金術式 範囲指定ワイドレンジ 渇きの風エア・ブロワ


 ティルトが銀世界の宿り木シルバ・ミストルティを軽く掲げて、自分を含めた3人に錬金術を発動させた。

 少年は簡単にやって見せるが、これも錬金術としては複雑な術式を必要とし、効果と釣り合わない魔力消費量から考えて、かなり非常識な使い方である。


 乾燥した柔らかい風が3人を包み込み、一瞬にして纏わりついていた水分を蒸発させた。


「感謝するティルト」


「はい。お役に立てたなら良かったです」


 クロムの礼にティルトは微笑で返す。




「相変わらず見事な錬金術ですな、ティルト殿。それにデハーニ、よく来てくれた」


 この屋敷の主、オランテ・ファレノプシス・ソラリス・オルキス伯爵が奥から騎士と魔法師を一人ずつ連れ立って姿を現わした。

 頭を下げながら並んでいる使用人や執事が、更に深く頭を下げる。


「お久しぶりです。オランテ伯爵閣下」


「勿体ないお言葉で」


 2人はそれぞれ頭を下げて、特にデハーニは苦々しい口調を隠さずに言葉を返す。

 当然の事ながらクロムは頭を下げる様子を一切見せない。


「貴殿が噂のクロム殿か」


「そうだ」


 短くそして敬意と感情が一切込められていないクロムの返事に、僅かにロビーの空気の緊張感が増した。

 壮年の伯爵と黒い騎士の視線が、沈黙の中でぶつかり合う。


「...なるほどな。立ち話はここまでにして部屋を移して早速会談を始めよう。案内させる。では後ほど」


 そう言って、その場を後にするオランテ。

 騎士と魔法師もその後に続いて奥に消えていった。


 ― 魔法師らしき者の実力はわからないが、あの騎士はかなりの実力者だな。レオントと同程度かそれより上か ―


 クロムはオランテよりも傍らにいた騎士に興味が湧き、その動作を逐一データとして収集していた。


「それではデハーニ様、ティルト様、クロム様、お部屋に案内致します。どうぞこちらへ」


 執事と思われる初老の男が列から進み出て、3人を部屋まで案内する。

 クロムはその歩き方や身体の外見的構造から、この執事もまた訓練された優秀な戦士だと判断した。


 ― 爵位を持つ人物に使える使用人は、一様に高度な訓練を受けるのだろうか。そうなるとあのメイドの正体がますます掴み辛くなるな ―


 クロムはこの伯爵邸に入った時から、聴覚を鋭敏化させ心音を拾っていたが、あの緊張感が高まった時以外は、皆一様に心音が常に落ち着いていた。

 そしてクロムは屋根裏と思われる位置から気配を消して、3人の背後から追跡している存在も感知している。

 これは防犯上仕方の無い事だと、クロムは納得しているが敵意を見せた瞬間に潰すという方針は変わらない。




 3人は執事の案内で絵画や骨董品が飾られ、美しい文様が描かれた絨毯が敷かれた廊下を歩いて行き、一際厳重な両開きの扉の前に立つ。

 執事がゆっくりと扉を開くと、花の香りが混ざる空気が部屋より飛び出してくる。


「では、こちらで少々お待ち下さい。お茶を用意させて頂きます」


 執事はそう言って、合図をすると2人のメイドがティーセットを持って部屋に入って来た。


「何かあればお申し付け下さいませ」


 メイドの一人が訓練されたお辞儀を披露する。


 その部屋は中央に大きな机、そして対面で設置された重厚なソファーが置いてあった。

 その他、絵画なども飾られてはいるが、伯爵の応接室と思えば豪華さに欠け、良く言えば一切の無駄を省いた部屋といった印象を受ける。

 柱時計の音が時を刻み、大きな窓からは更に分厚さを増した雨雲が伺い知れた。

 雨風も先程より強くなっているようで、時を風の唸り声が窓の外から聞こえてくる。


 デハーニとティルトはそのままソファーに腰掛けると、それに合わせてメイドが紅茶を用意した。

 デハーニがまずその紅茶を口にし、その次にティルトもそれに倣って紅茶を一口飲んで、ほっと小さくため息を付いた。


「騎士様は紅茶はお飲みになられますか?」


 メイドの一人がソファーに座らず、ティルトの後方で立ったままのクロムに声を掛けた。


「いや、俺に対するもてなしは一切必要が無い」


 目線を合わせようともせずに、クロムがメイドの奉仕を断った。


「大変失礼致しました」


 メイドはそう言って、すぐさま下がっていく。


 そして暫くの間は、メイドが紅茶と茶菓子を用意する音、そして次第に強くなる雨風の音が部屋に響いていた。




 暫くして、クロムの聴覚がこの部屋に向かってくる3人の足音を検知する。

 それと同時に部屋の周辺に複数の気配も察知した。

 その気配と音の消し方から、恐らく護衛もしくは暗殺者の類のものだとクロムは判断出来た。


「ご領主様がお見えになられました」


 扉の外から、先程の執事の声が聴こえると、メイド2人が扉を開いた。


 そこにはオランテ伯爵が先程の騎士と魔法師を連れて立っており、オランテは2人に外で待機するように命じると、1人で部屋に入って来た。

 そしてメイドにも退室を命じ、オランテは対面のソファーに腰掛けた。


「そのままでも良い。早速話を始めよう」


 デハーニとティルトが形式上、立ち上がろうとしたが、それを手で制し会談の開始を促した。




「まずは協定を破る形で、騎士団をあの区域に派遣した事を謝罪する」


 オランテは開幕、自らの非をデハーニ達に詫び、目を閉じて僅かに頭を下げる。

 それに驚いたデハーニは、一瞬心を揺らすもすぐさま平常心に戻り、オランテに質問をぶつける。


「何故協定を破ったんだ?そもそもアンタは簡単にそういうのを破る人間じゃねぇことは俺も知っている。一体何があった?」


 デハーニは厳しい口調と表情で、今回の事情の説明を求めた。

 ティルトは紅茶を一口飲みながら、静かにそのやり取りを眺めている。

 クロムは終始、ティルトの斜め後ろで仁王立ちしながら、部屋に潜む護衛の動きとオランテを監視、情報収集に努めていた。


 オランテの表情に曇りと疲れが一気に現れた。


「ここまで来たら全て正直に話す。今まで我が娘ヒューメに使っていたティルト殿の製作した薬剤の効き目がここ最近になって効かなくなってきたのだ。投与量を増やして対応してきたが、限界を迎えてきている」


「おいおい、あの薬はヒューメ嬢にかなりの負担が掛かるんじゃなかったのか?もしかしてあの騎士団が必死になって魔石やらを集めようとしてたみたいだが、魔力供給も足りなくなってきているのか」


 その話を聞いてティルトが目を細めて、オランテを見つめていた。

 オランテもその視線に気が付いたのか、それに合わせる様に言葉を続けた。


「そうだ。今までは中級魔物の魔石程度の魔力で何とか眠らせる事が出来ていたが、日に日にその期間が短くなってきている。サイクロプスレベルの魔石でさえ10日が限界という状態だ。魔力飽和の影響が積み重なった為か、効き目自体もかなり不安定だ」


 オランテの娘、ヒューメの血の渇望を抑える為、ティルトは錬金術で血液の魔力親和性を引き上げ、身体の魔力保有量の限界値を高める薬剤を製作し、オランテに提供していた。


 ヒューメに薬剤を投与し効果を発揮している時に、魔石等を使って魔力を限界まで彼女の身体に供給する。

 そして薬剤の効果が切れた時、血液の魔力保有量が元に戻ると同時に通常では実現不可能なほどの魔力飽和オーバードーズがヒューメの体内で起こり、彼女は瞬く間に昏睡状態に陥る。

 それでも昏睡状態の間は、血の渇望による狂気を抑える事が出来ていた。


 ただ一歩間違えるとヒューメは瞬く間に命を落とす綱渡りの処置だった。


 しかし薬剤の効き目が薄れると、当然ヒューメに供給出来る魔力量も下がる。

 そして結果的に強制的な魔力飽和の影響も小さい物となり、仮に昏睡したとしても回復が早くなる。

 それを解決する為には、強力な魔力を保有する魔石を用いて強引にヒューメの身体に魔力を浴びせる方法しか無く、それには一般的に入手出来る魔石では既に不可能な段階に来ていた。


 そしてそれを繰り返していたヒューメの魔力耐性も、類稀なる魔法師としての才能と能力の影響で徐々に上がって来ていた。


 そこで追い詰められたオランテは、デハーニとの協定を破る形になろうとも、底無しの大森林の奥地に騎士団を派遣し、より強力な魔物の討伐を無理を承知で命じたのだった。


「それで一体どうするつもりなんだ。今回の魔力結晶で何とか解決の一口は見つけられないのか?大事な愛娘だろうが」


 その言葉を聞いて、オランテは拳を血が出るほど握り締め、俯いた顔を震わせる。


「あの魔力結晶を使って解決する方法は...ある」


 すると突然オランテは立ち上がって、クロムに向き直り深々と頭を下げた。


「「!?」」


 デハーニとティルトが驚いて目を見開く。


「クロム殿、貴殿の強さを信じて頼みがある。我が娘ヒューメを...ヒューメを殺してくれないか」


 オランテの静かな慟哭がクロムに向けて吐き出された。


 空の暗雲がその濃さを増し、雨の勢いが激しくなってきた。

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