第70話 その目覚めは鮮血と共に
ヒューメはファレノプシス伯爵家現当主オランテの娘であり、魔法師の才能を持つ才女として大切に育てられてきた。
特殊な光沢を持つ髪は、彼女を産んでその直後に命を落とした側室の母親譲りのもの。
現在14歳であり、本来であれば婚約者の選定を行い、本格的な貴族階級の教育を受け始める年齢である。
側室の子でありながら、オランテは亡き妻の忘れ形見としてヒューメを深く愛し、その成長を見守って来た。
約4年前、ヒューメが10歳の時、彼女は既に魔法師としての才覚に目覚め、貴族の上級教育の成果もあり、その年齢に似合わぬ明晰な頭脳と心を持ち合わせた令嬢として育っていた。
そして彼女の世話を任されていた熟練のメイドとその見習いが、いつものように午後のティータイムに紅茶を用意していた時の事。
あろうことか、ヒューメの前で見習いがカップを落として割ってしまった。
メイド2人は頭を地面に付けて謝るも、ヒューメは寛大な心でそれを許し、後片付けを命じる。
しかし気が動転した見習いメイドが、割ってしまったカップの破片で指を切ってしまったのだ。
メイドの血で主人の部屋の床を汚すなど合ってはならないと、慌てて退室の許可を取ろうとするメイド達。
しかしメイド達はその部屋から退室する事は、二度と無かった。
見習いメイドの指から流れ出る血を見た瞬間、ヒューメの中の何かが完全に目覚めたかのようにグレーの瞳が赤く染まる。
今までヒューメは血は何度か見て来た。
その度にどこかその赤い液体に美しさを感じる事はあれど、それは日頃熱心に勉強している魔力に関する学問への探究心や学術的な魅力から来るものと断じて、本人は気にしていなかった。
そしてそれを初めて“衝動”として感じられたのが、ヒューメが大人の女性としての階段を上った日。
自分の身体から排出される血を目の当たりにしたヒューメは、失った血液を取り戻したいという明確な血への渇望を覚え、初めて味わう強烈な感覚に襲われ倒れてしまう。
ヒューメを襲った衝動の事を知る由もないオランテ伯爵や医者は、初潮を目の当たりにした精神的ショックと、連日の魔法の研究や鍛錬で引き起こされた魔力欠乏が原因と判断し、魔力の補給のみで治療を終えていた。
しかしその日からヒューメの血への渇望は徐々にその大きさを増していく。
肉料理はあまり火を通さないレアを好むようになり、視察として訪れた冒険者ギルドでの魔物の解体現場では、その場に流れる血の香りに劣情にも似た感覚を覚えるようになってしまっていた。
10歳の少女には似合わない聡明な思考と精神を持ったヒューメは、それを明らかな自身の異常だと判断し伯爵家の名声に傷を付けまいと、彼女は誰にもこの事を話す事は無かった。
ますます高まっていく血への渇望。
それを何とか強い精神力で抑え、誤魔化し、生活を続ける少女。
そして今まで抑えていたそれが、ヒューメと同じ位の年頃のメイドの流す血の匂いで一気に解放された。
― 貴方の血はとても美味しそう ―
見習いメイドの指を取り、その指を咥えて、その傷口に舌を這わせゆっくりと血をしゃぶり取る。
口の中に広がる少女の血の味と香りが、脳を痺れさせるほどの快感を呼び起こし、もはやヒューメはその欲望と渇望に抗う事は不可能だった。
血色に染まった彼女の瞳に映る、人間の形をした赤い紐の集合体が、とてもとても愛おしい。
美しく脈打つ鼓動の前に、ヒューメは自身が造り替えられていく感覚を覚えた。
― お父様、ヒューメは悪い子です ―
そう心で呟いて、彼女はそのままメイドの指を噛み千切った。
10歳の少女に出せる力では無い。
だが、血の渇望と歓び、そして彼女の持ち合わせた魔法師としての才能が、未だ一度も学んでもいない身体強化を本能的に実現する。
ヒューメは嚙み切ったメイドの指を口の中で転がしながら、傷口から血を吸い続け、そのまま激痛に泣き叫ぶメイドに抱き着いた。
メイドの全身の骨が、加減を知らないヒューメの抱擁によりいとも簡単に砕ける。
その音を聞きながら、銀髪の少女はメイドの首筋で脈動する頸動脈目掛けて、嬉しそうに齧り付いた。
― !? ―
ヒューメの口の中で弾ける芳醇な香りと味、そして命の温もり。
もっと欲しい、もっと吸いたいと彼女は絶叫するメイドを絞る様に抱きしめる。
それを震えながら見ていたもう一人の熟練のメイドは、部屋を血では無く失禁で汚していた。
貴族の屋敷の中の、令嬢の部屋で突如誕生した怪物。
その怪物がどさりと先程まで愛しそうに抱きしめていたメイドを、飽きた玩具のように投げ捨てた。
それは鮮血を撒き散らし、部屋に床に赤い線を引きながらドチャリと音を立てて転がっていく。
「貴方もとてもいい香りがするわ。とても甘い、これは魔力の香りかしら」
そう言って、深紅の瞳を輝かせもう一人のメイドを愛でようと、ヒューメは瞬間的に哀れな犠牲者に躍り掛かった。
― 私は一体どうなってしまったのでしょうか。血の香り、魔力の味、心も身体も満たされていくのが良くわかります ―
ヒューメの血生臭い吐息が、組み敷かれたメイドの顔を撫でる。
助けを求めようとメイドが口を開いた瞬間、ヒューメの小さな口が開かれ、メイドの口に重なった。
その口づけは血の味がするものの、優しくそして艶めかしい。
そして彼女は口の中で暴れるメイドの柔らかい舌を味わうように、自分の舌で絡めとり、ゆっくりと吸い出すと、それを愛情を込めて噛み千切る。
メイドは眼を見開いて叫び声を上げるも、塞がれた口から洩れるのは呻き声。
身体を必死に捩って逃れようとするも、身体はヒューメの強化された細い脚に絡め取られ、締め上げられている。
その頭もヒューメのか細い手に掴まれて、動かす事すら叶わない。
メイドの脚が空しく絨毯を踵で蹴るも、帰ってくるのはそれを擦る音のみ。
ヒューメは恍惚とした表情で、渇望が満たされていく幸福感に酔いしれていた。
― 赤い赤い世界が赤い。黒い黒い私の中はもう黒い ―
それでもヒューメの精神は冷静に自分自身の変貌を分析し、それを受け入れていた。
自身が何かに堕ちてしまったという絶望。
血の快楽に目覚めてしまったという歓び。
目の前の景色と価値観の急激な変貌を、赤い瞳と黒い精神が歪みなくその事実を受け止める。
― お父様、ヒューメは悪い子です ―
2人のメイドを命もろとも吸い尽くした令嬢は、爽やかな頬笑みを浮かべながら、静かに立ち上がり、指に付いた血をその小さな舌でぺろりと舐め取った。
窓から差し込んだ陽光が、皮肉にもその血塗られた少女を祝福するかのように降り注ぐ。
そして騒ぎを聞きつけて部屋に飛び込んで来た護衛騎士とオランテが見た物。
それは血塗れで床に投げ捨てられ、。苦悶の表情を顔に張り付かせまま事切れた2人のメイド。
そして着ている白いドレスを鮮血で染め上げ、飛び散った血が入った紅茶を優雅に飲む娘の姿。
急激な身体強化の反動で関節を腫れ上がらせ、深紅の瞳でこちらを見る少女の微笑だった。
月明かりのみの部屋に白い衣装の騎士と少女。
開かれていた窓から夜風が強く舞い込み、白いレースのカーテンが大きく舞う。
その夜風に煽られたヒューメの髪が乱れる。
「窓の方を閉めさせて頂きます」
「久々の夜風だから、もう少し浴びさせて」
そう言って風の中を躍る様に身を回す金髪の少女の髪が、風で舞う度に月明かりを薄桃色の光に変換する。
暗がりに光る深紅の瞳が、赤い軌跡を空間に描いていた。
しかし起きたばかりで足元がふらついたのか、体勢を崩し転げそうになるヒューメ。
ピエリスは血相を変えて、主であるヒューメを抱き留める。
互いに薄い衣装を着ている為、素肌のぬくもりが直接伝わってくる感触にヒューメは嬉しそうな表情でピエリスを見た。
「お気を付けください。心臓に悪いです」
「ふふ、ごめんなさい。つい...」
そう言ってヒューメはピエリス首の両腕を回すと、彼女の胸の谷間に顔を埋めて、満足げに瞳を閉じる。
まだ若干の湿り気を残すピエリス肌。
香る石鹸と香水の匂いがヒューメの鼻腔をくすぐった。
ピエリスはそのまま彼女を抱き上げると、窓の傍にある椅子に主を抱いたまま座る。
騎士の力からすれば、彼女の体重は羽のように軽かった。
月明かりがヒューメの髪を桃色に染め上げ、夜風が湿った森の香りを運んでくる。
「血の匂いはしないのね。残念だわ。貴方の血の香りはとても良いのに」
「...はい。身体に怪我は無く、清めも済んでおりますので。主の期待に沿えない悪い騎士でございますね、私は」
主の声のトーンが一段階下がるも、ピエリスは変わらぬ口調でそれに返答した。
ヒューメの鼻がピエリスの首筋を這い、吐息がその皮膚を撫でる。
「意地悪な事をいうのね。その通りです。そんな事を言う貴女は悪い騎士です、ふふ。そう言えばピエリスが私の為に、とても大きな魔力結晶を持って帰って来たって耳にしたわ。久しぶりに美味しい食事が頂けるのかしら」
「はい。きっとご期待に沿えるものかと思います。今回の遠征は本当に、本当に色々な事が起こりました...」
ピエリスが色々と思い出して、少し疲れた表情を浮かべてしまう。
「何があったの?聞かせて頂戴。ピエリス、貴女とても話したそうな顔しているわよ」
ピエリスは自分の顔を手で触り自分の表情を確認しようとするが、それを更に小さい主の手が止める。
「さぁ話して」
「仰せのままに。我々は底無しの大森林と言う場所で...」
月明かりの下で、ピエリスは今回の遠征の出来事を順を追って話し始めた。
血生臭い表現は避け、クロムやデハーニとの出会いから今までの事を御伽噺の様な話しぶりで紡いでいく。
あの騎士団の情けない体たらくも含めて。
そしてふとピエリスは気付く。
― 話の内容の殆どがクロム殿の事ではないか ―
そこでピエリスはクロムとの出会いによって動かされた事の多さを、改めて実感するのであった。
話せばまだ幾らでも出て来るだろう。
そう思いながらも、ピエリスは話を最後まで責任を持って紡ぎ、締め括る。
ヒューメはまるで英雄譚の一幕を聞いているかのように、驚き、そして未知の体験談に心を躍らせていた。
話しを聞き終えたヒューメは、ピエリスを労うように小さく細い指先を彼女の頬に這わせてその頬に口づけをする。
「私の為に...ありがとう」
ヒューメはその特殊な身の上の為か、何かと肉体的な接触を行う事が多い。
現にヒューメのもう片方の手は、ピエリスの首筋や背中、乳房に太腿とありとあらゆる温もりを求めて彼女の身体を旅している。
そしてこの行為はある種の危険なサインであるという事も、ピエリスは分かっていた。
ただピエリスは自分の話した冒険譚の何が彼女を刺激したのか、分からなかった。
不意にピエリスの指先に小さな痛みが走った。
とは言っても、表情にその痛みの影響が出るものでは無く、騎士として訓練していれば何ら問題無い程度の痛み。
だが、この場においては最も起こってはいけない感覚。
ヒューメがピエリスの人差し指の先を鋭く嚙んだのだ。
乙女の柔肌とは言え、騎士のピエリスの魔力と鍛錬で強化されたその肌は少女の力では傷をつける事は難しい。
それでも痛みを感じたという事は、膝の上に座り抱かれている少女の噛む力が純粋にピエリスの防御を貫いたという事。
そしてその傷からほんの少し血が滲み出て来る。
その小さな流血に、ヒューメの深紅の瞳が吸い寄せられ、騎士の指先に少女の小さな舌が伸ばされていった。
「我が主、それ以上はいけません」
ピエリスは少女の前に左腕を割り込ませ、主の愚かな行為を身を挺して止める。
ヒューメの前に割り込ませた左腕が、少女の出す力に拮抗しようと震えていた。
― なんて力だ。このままでは...しかし...! ―
身を捩ろうとするが、ヒューメに掴まれた箇所にその指が食い込む程の力で抑えられるピエリス。
令嬢の吐息と共に舌が、力勝負で敗北したピエリスの血をゆっくりと舐め取っていく。
ヒューメの唾液が絡み付いた指を月明かりがぬらりと照らし出す。
「我が主よ...このままでは私はっ」
ピエリスが顔を歪めて、ヒューメの行動を諫め、これ以上の暴挙を止めようと声を絞り出した。
その手がピエリスの太腿に括りつけられた猛毒の短剣の柄に伸ばされる。
「貴方の血を飲めるのであれば、その短剣で刺されても構わないわ」
ピエリスの指を愛おしそうに赤い眼で見つめるヒューメが、うわ言の様に呟いた。
「
そう言って、ヒューメはその指を名残惜しそうに一度だけ口づけをして離すと、ピエリスの膝から降りる。
ピエリスは短剣の柄に手を伸ばしたまま、再び主に向かって跪いた。
「ふふ。ピエリス。貴方は止めるのではなく、そのままその短剣で主である私を刺さねばならなかったのよ」
ワルツを踊る様に素足で絨毯の上を歩くヒューメ。
その身体からは濃密な魔力が立ち上る。
暗い部屋の中でその魔力の光は少女の身体の輪郭を露わにし、赤い瞳と共に空間に光の尾を残していた。
「貴方は私が間違いを起こせば迷いなくその短剣を振るわなければならない。私の愛しい
主を守る騎士に与えられた、主を討つ
今のピエリスにはその短剣を抜く事は出来なかった。
「もし貴方が先程語ってくれた黒騎士様であれば、私はどうなっていたでしょうか。ふふふ、こんな事を己の愛しい騎士に問うとは、私も悪い主のようですね」
その主の思わぬ言葉に、ピエリスは顔を上げる。
そして初めてその心の中に、クロムに対する嫉妬という感情を彼女は覚えた。
「ふふふ...」
見る物全てを魅了してしまいそうな、愛らしくも美しい笑顔で闇の中で1人舞い踊るヒューメ。
白いドレスがふわりと浮いて、剥き出しの白い太腿が露わになる。
その身体から絶えず溢れる魔力の光が、部屋に満ちた暗闇を駆逐する。
深紅の瞳を輝かせた
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