第31話 新しい扉が開く
ベリスは、鎮静剤で眠っている自分と同じ副団長であるウィオラを横目に天幕を出た。
騎士団長は一人専用の天幕、二人の副団長は共用で天幕の使用が認められている。
月が頂点に位置する深夜、撤収作業の殆どは既に完了しており、今は作業で夕飯が遅れた数名の騎士達が、特別支給された少量のワインを片手に静かに歓談していた。
後は歩哨の任に当たっている騎士の足音と鎧の金属音が、時折キャンプ外から聞こえて来るのみ。
普通であれば、静かな夜。
衛生兵の話によると、ウィオラの手は無数の指の関節が外れる程にクロムに握られていたものの骨が砕けたという事は無く、ポーションの効果が上手く作用すれば数日後にはスプーンくらいは握れるまで回復するとの事。
10日も経てば、問題無く剣もまた振れるだろう。
診察した衛生兵は、見た目からの予想よりも怪我の程度が軽いと思ったのか、流石は副団長は鍛えられてますねと感心していた。
「そんなわけがないでしょう」
月明かりの下で、自分の手を見つめるベリスは呟く。
魔法武具を素手で握り潰すクロム殿ですよ、手加減されていたに決まっているではないですかと握り拳を作った。
あの時の天幕でのクロムの所業を目の当たりにして以降、ベリスの心に言いようのない不安感と違和感が棘となって刺さっていた。
当のクロム本人は、ピエリスと幾つか短すぎるやり取りの後、何事も無かったかのように天幕を出て、そのまま夜に溶けこむように姿を消している。
何よりも大変だったのは、無残にひしゃげた手甲と鎧の肩パーツの取り外しだった。
双方ともウィオラの肉体に噛み込む程に歪んでおり、隙間からランプ用の油を大量に肌と鎧の間に流し込んだ後、力に自信のある数名の騎士を使って割り開き、ようやく外す事に成功する。
事情をよくわかっていない武具管理を担当している者は、その鎧の状態を見るなり、どんな魔物に襲われたのかと青ざめながらに聞いてきた。
診断の結果、その肩部に刻まれた魔法陣の術式と放出回路が千切り飛ばされるような形で寸断され、その箇所からの防御魔法の発動が不可能になっていたという。
「クロム殿、貴方はなんという恐ろしい...」
ベリスはそう言って、共に持ち出した再支給品の真っすぐな槍を握り締める。
恐ろしい。
あの時のベリスがクロムに抱く感情はこの一点のみだった。
怪物を一方的に嬲り殺した戦闘力。
赤く燃え盛る右腕。
かの英雄譚から飛び出してきたような漆黒の鎧。
クロムに一言「槍を」と言われて、騎士としてあるまじき命乞いをしてしまったベリス。
戦う事もせずに、両手を上げて武器を手渡し、膝をついてしまった無様な自分自身の姿を思い出し、ベリスは奥歯を噛み締める。
目の前に現れた圧倒的な暴力の前に、全ての出来事が、問題が粉砕され地ならしされていく。
ベリスが騎士として信じる正義を掲げ、弱き者の為に追い求めた強さとは根本的な部分で異なるもの。
この世界にあってはならない、何者にも介入できない巨大な力。
誰にも止められない暴力の化身。
しかしクロムによって振られたベリスの槍が、巨大な魔力結晶を叩き割ったその時、ベリスの中で心の中で渦巻いていた感情の歯車が僅かにズレ始めた。
舞い散った結晶の欠片の中で、歪んだ槍を持ち佇む黒い騎士。
何者も寄せ付けない強さ。
正義の名の元で強さを求める騎士が望んではいけない慈悲無き強さ。
― そうなのでしょうか ―
ベリスはデハーニという男達が去った後に、恐る恐る森から這い出て、その場で捨てられていた歪んだ槍を拾い上げると自問自答を繰り返した。
― 正義の名の元にこの力を振るえるのであれば?...違う ―
― この力があれば、何時如何なる時でも弱き者を護り抜ける?...違う ―
― では、私はこの強さを求めてはいけないのですか?...違う! ―
そこからキャンプ地まで戻るまでの道中、自分自身が何を想い、どのような感情で結晶を運ぶクロムの背中を見ていたか、ベリスにはどうしても思い出せなかった。
気が付けば、ベリスは指の関節に鈍い痛みを感じる程に槍を握り締めていた。
― 勝者が正義を掲げれば、敗者の正義など紙くず同然 ―
ウィオラにクロムが言い放った言葉がベリスの脳内に響く。
あの時、クロムに騎士として立ち合いを挑んだウィオラ。
ベリスはそれに苛立ちを覚えると同時に、恐怖に支配され命乞いをした自分自身とは違う、騎士としてのプライドを持ってクロムに挑むウィオラに嫉妬に近い醜い感情を持った。
当然の様に、成す術も無くクロムの力に押し潰されていくウィオラ。
余りにも無慈悲で、誇りある騎士という立場が空しく感じる程の力。
ベリスはウィオラを痛めつけているクロムから、悪趣味な劣情も、自身が感じる怒りや苛立ちも、ましてや憎悪ですらも感じ取ることが出来なかった。
そこでクロムの圧倒的な力の前で、苦悶に身を捩るウィオラの姿を見つめていたベリスの心に小さな火が灯る。
ベリス自身、自分の顔に浮かんでいた薄い笑みに気が付いていなかった。
小さな小さな感情。
― あまりにも純粋無垢な暴力 ―
決して騎士が持ってはいけない感情。
― 純粋で、何者にも侵される事の無い穢れの無い暴力 ―
「ああ...そうなのですね」
月を見上げながら、一連の記憶をまさぐるベリス。
あの時の感情を何度も何度も再確認したベリスは、騎士として決して許されない感情を受け入れつつある自分の心を責めようとした。
だがあの時感じた、自身の中で何かの扉が開きかけた瞬間のその心に宿った小さな残り火をベリスは吹き消す事が出来なかった。
― 何も存在しない白い心で、平等に行使される理不尽な暴力 ―
― 己だけが信じる正義が振り下ろす、呆れる程に美しい暴力 ―
「はぁ...」
ベリスは短く吐息を吐くと槍の末端を片手で握り、あの時のクロムの様に槍を持つと月夜の空に向かって振りかぶった。
「クロム様、貴方様こそ...」
渾身の力で槍を振り下ろすベリス。
空を切り裂く鈍い風切り音、重さを受け止め切れず槍の先端が地面に叩き付けられた。
その手に剣とは比べ物にならない荷重が加わり、ベリスの手首、肘、肩に鋭い痛みが走る。
だがベリスの顔はあろう事か月明かりでもわかる程に紅潮し、興奮が息を荒くしていた。
「クロム様こそ、貴方様の澄んだ暴力こそ私の目指すべき正義なのですね...!見て下さい。弱き者と罵ってください。痛みで心をこんなにも悦ばせている醜い私を...!」
ベリスの高揚は、未だ穢れを知らない下腹部に猛烈な熱を宿らせる。
その熱を猛烈に感じたベリスは、そこにあの赤く燃え盛るクロムの右腕を想起して、更なる火を燃え上がらせた。
「見たい。感じたい。きっとクロム様の正義がこの私を導いてくれる」
再び笑みを張り付けたベリスが槍を掲げる。
そして振り下ろす。
夜の森に、ベリスの荒く湿った息が呻きと共に断続的に吐き出されては、夜に溶けていく。
熱い液体が額から腕から鎧の隙間から、大腿部の付け根からも絶え間なく流れ出る。
熱く熱く火照ったベリスの全身から蒸気が立ち上り、やがて意識の糸が切れるまでベリスは槍を一心不乱に振り下ろし続けた。
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