第16話 存在が無い亡霊

 暗闇に包まれた静かな森の気配が村を覆い、その中心にある広間から溢れた揺らめく火の光が木々の表面を照らしている。


水を汲みに行くと言ってしまった手前、ティルトにそのような予定は無かったが玄関脇にある汲み桶を片手に広場に設置されている井戸へと向かった。

 まさかあんな事になるとは想像していなかったティルトは、未だに背筋を冷やす汗の感触を感じていた。

 広場の宴の喧騒は、ようやく沈静化の方向に向かっているようで、今残っているのは深酒を好む一部の戦士や酒好きのみ。


「あー...失敗しちゃったなぁ...」


 空の桶がいつもより重く感じながら、ティルトは足取り重く井戸へ向かう。


「よぉ、どうしたんだ?夜更けの水汲みにあまり相性の良くねぇ雰囲気だが?」


「え?あぁデハーニさん。あまり飲み過ぎないでくださいよ。まだ明日も色々忙しいんですから。それに飲み過ぎは...」


「わーってるって!ったくお前は俺の母ちゃんかよ...んで、クロムの様子はどうだ?」


 その問いかけにティルトの表情が僅かに曇ったのを、夜とは言えデハーニが見逃す訳はない。


「ん?やっぱ同じ屋根の下だと流石に不安か?それなら別の...」


「そうじゃないんです。ちょっと失敗しちゃって...」


 そう言いながら、表情を硬くしたティルトは近くにあった切株に腰を下ろす。

 地面に降ろした水の入っていない桶の乾いた音が空しく聞こえた。

 デハーニもその横の地面に腰を下ろして、酒盛りをしている村人と未だに盛り続けている大きな焚火に目を向ける。


「クロムさんはあれからずっと本を読まれていて、気が付けば信じられない量の本を床に積み上げられています。しかも文字が読めない箇所はあるものの、その殆どを理解して記憶されているようです...」


 読書という行為を全身全霊で嫌うデハーニは、読書への嫌悪感とクロムへの驚きの感情を一緒に乗せた表情を浮かべた。

 デハーニは会話と時間を積み重ねる度に、クロムの言語能力が上がっていくのを目の当たりにしている為、さもあらんと思うと同時に底が知れないクロムの存在に夜の闇に対する恐怖の様なものを感じていた。


「それで先程、クロムさんにお願いしてあれをやったんです」


「あれ?...あぁ、あの銀の棒でコツンやるやつか」


 ティルトの手のジェスチャーで何をやったのかを察するデハーニ。

 デハーニはその穏やかな性格と鋭い知恵を持つ者として、ティルトに全幅の信頼を置いている。

 そして錬金術師という職業においても高い能力を有しているという点で、彼の言葉には殆ど疑いを持っていなかった。


 そのティルトのオリジナル魔法の打点探査タッピングには、何度も命を助けられている。

 自身が使用する剣や鎧の状態を前もって知れるというのは、デハーニにとって正に天からの神託に等しい程の価値がある。


「で?何かわかったのか?あのバカげた頑丈さの理由とか。お前ならある程度の事ならわかるあろうに」


 ティルトは僅かに自嘲の表情を浮かべながら、静かに首を横に振る。


「いいえ。全くわかりませんでした。それ以前にその失敗の余波でボクや家が壊れる寸前なんていう事になってしまいましたから」


 その言葉にデハーニがギョッとして、慌ててティルトの肩を掴む。


「おいおい!ボクもって怪我は無いのかよ!?」


 そのデハーニの慌てぶりに面食らいながらもティルトは大丈夫ですよと返した。


「おっと、すまねぇ...ここ数日よ、現実感の無い時間を過ごしちまってたからどうにも心が落ち着かねぇんだよな...てか今までそんな事無かっただろうに。何があったんだよ」


 デハーニ自身、村に無事帰還し久しぶりに深酒が出来る環境が整っているにも関わらず、どこか小さな不安感に似たものが心の中から消えてくれない。

 その原因も何となくではあるがデハーニはわかっていた。

 あの現実から切り離されたような存在のクロムが、デハーニの心に悪感情を伴わない不安を去来させている。


「結論から言うと、さっき言ったようにクロムさんのあの黒い鎧の事は何一つわかりませんでした。聞いた事の無い凄まじい音でタクトの魔力が、全く浸透出来ずに反射されてきましたから。ボクの知らない材質であるという事しか...」


「ティルトですら知らないってなると、もう伝承レベルのアダマントとかになっちまいそうなんだが...あの桁外れの防御力はミスリルや魔鋼とかそんなレベルじゃ説明がつかんぞ」


「いやいや、自分の知識なんて未熟も良いところです。未だ見ぬ金属や鉱石なんてまだ山程ありますよ。ただそれ以上に...」


 ティルトはデハーニとの会話で徐々に心が軽くなっていくのを感じる。

 そこでもう一つ、ティルトが気が付いた事であの時にクロムには伝えていなかった情報をデハーニに話す事にした。


 ティルトはこの事を当初はクロムに伝えるつもりではいたが、この世界の常識ではありえない、結論付けるには早すぎるとあえてクロムには伝えなかった。

 しかもあの失敗をした直後、更に不確定な情報をクロムに告げるという事自体がティルトにはどうしても出来なかったという理由もある。


「タッピングした際、クロムさんから魔力を全く感じませんでした。あの人の全身から魔力が一切漏れ出ていないんです」


「はぁ?いや...そんな事ありえるのか?でもいや待てよ。アイツの横に並んだ時の違和感はもしかしてそれか?」


 デハーニは魔力自体は人並みかそれ以上に持ち合わせているものの、それを取り扱う資質に大きな欠点を抱えていた。

 故に常人よりも多い魔力を持ちながら、ティルトの様な魔力を眼で認識する“魔力視”が上手く使えない。

 非常に珍しい事例ではあるが、一般人でも普通に扱える生活魔法も上手くコントロール出来ない、もしくは使えないという物だった。


 それでも長い年月をかけて、仕事の合間にティルトから指導を受け、最近ようやく多少はマシなレベルで生活魔法が使えるようになっている。

 そういった意味でもデハーニにとってティルトの存在は大きい。


「それが本当ならクロムさんは一切魔力を外部に漏らす事無く、身体の中で循環させながら消費しているという事になります。そんな事を人間族が出来るなんて聞いた事もありません。そもそも他の種族でもまず不可能な筈です」


「クロムが持っている魔力が元々少ねぇから、お前でも感じれなかったとかはないのか?だけどそれじゃあの化物じみた力は出せねぇし、そもそも生きていけないわな」


 この世界で魔力というものは、生物にとって生命と同義という認識が常識として浸透している。

 体内から魔力が無くなると、人間であればその場で卒倒、魔力の影響下で活動している臓器が不全を起こし、魔力の補充やその他の適切な処置を施さなければ確実に死に至る。

 魔力の大きさ、保有量がそのまま基本的にその存在の強さと結び付けられていた。

 それゆえにクロムがあの強さでありながら、その身に内包する魔力を一切感じないという事自体が異常なのである。


「聞いた話では、身を隠したりする際に魔力の気配を消せる魔道具があるとの事ですが」


「まぁ確かにあるっちゃあるがなぁ...有名処では「夜纏いよまとい」で編まれた衣だな。でもそんなの一握りの暗殺者とか王家の間諜くらいしかしか持ってねぇぞ。しかも持っているだけで普通なら問答無用で牢獄行きのアブねぇ代物だしよ。あとどんなに出来が良くても小動物程度に抑えるだけで、完全に魔力の気配は絶てねぇって話だ」


 夜纏いは隣国との国境に広がる森林地帯、通称「闇喰いの大森林」の奥深くに生息する月の無い夜にのみ蛹になるという蚕の魔物から採取する糸の事である。

 伝承では夜の闇を吸収したその糸で編まれた衣は、常に夜の魔力を宿していると言われていた。


 しかし、蚕の幼虫が糸を吐いた直後の物で無ければ目的の特性を得られない為、月の無い完全な闇で閉ざされた森の奥に侵入し、他の魔物の脅威に晒されながら繭を探し出さなくてはならない。

 その入手難度やそれを素材とした魔道具の危険性も非常に高い為、それ故に厳しく取り扱いが制限されていた。


「ボクはクロムさんがふとした拍子に、霧の様に消えてしまうんじゃないかと感じる時がありました。まるで目の前のあの人が現実のものではないような。多分、それは魔力を感じ無いという事が原因だったのかなと」


「確かに俺もたまに目の前のアイツが幽霊の様な、どうにも掴み処の見つからないフワフワしたものに見える事があったが、それもそういう事だったかもしれねぇな」


 そんな会話が何回か交わされた後、ティルトとデハーニはクロムの事は何一つ解らず謎が増えたという結果だけ残して立ち上がった。


「今は何事も無く時間が過ぎる事を祈りましょう」


 あどけない姿に似合わないどこか達観した台詞と共に、何かを吹っ切るように大きく伸びをするティルト。

 深い夜の気配を含んだ森の風がそっと二人の間を駆け抜けていった。


「まぁいずれ向こうから話してくれるかも知れねぇしな。その為にも仲良くやって貰いてぇもんだな。ティルト、クロムの事で何かあればまた連絡くれ」


 ティルトよりも余裕を感じさせる、落ち着いた様子で多少酔いが醒めたのか少し真面目な口調のデハーニ。

 しかしティルトは最後の言葉に引っかかりを覚えたのか、ほんの僅かに目を細めてデハーニに目線を向ける。


「予めお伝えしますが、ボクはクロムさんに対して間諜まがいの事はしませんよ。ボクはボクなりに出来る事をして村を守るお手伝いがしたいだけですから」


 先程の事故の余波で魔力が昂っているのか、ティルトの青い瞳が魔力を含み夜の闇で小さく光を放っていた。

 デハーニはその瞳から発せられる鋭い視線を、真っ向から受け止める。

 この錬金術師の少年は時折、こういった強い意志を持った瞳を向けてきた。

 歴戦の戦士であるデハーニと正面から衝突出来る程の強い視線。


「わーってるよ。別に探りを入れろとかそんな事は言っちゃいねぇんだから、そうカリカリすんなって。ティルトがクロムに嫌われるような事は絶対にさせねぇから心配しなくて大丈夫だ」


「んなっ!べ、別に嫌われるとか、そんなんじゃなくて!そりゃ...嫌われるのは...なんですけど...」


 腰に手を当てながらニヤニヤと慌てて弁明しているティルトを見るデハーニ。


 ― いっちょ前に殺気じみたもんを俺に飛ばしてきた仕返しだ ―


「一緒に暫く暮らしてみりゃ多少距離は近づくし、話す事も増えてくるだろうよ。まぁクロムが万が一その気になって何か良い雰囲気になったんなら、そんときゃ村総出で応援してやるからよ。にしし」


「ボ、ボクは男ですっ!そんな事にはなりませんから!い、いや......ども...」


 顔を両手で覆いながらティルトがしどろもどろになりながら反論する。

 語尾に何か幾つか言葉が続いていたが、デハーニには聞き取る事は出来なかった。


「もっと自信を持っていいんだぞティルト。お前なら十分イケる!」


「何に自信を持たせる気ですか!お前ならイケ...って...デハーニさんの...ばかっ!!」


「うおぃ!?魔力で強化した桶をぶん投げるんじゃねぇっ!!当たったらどうするっ!!」


 いつの間にか拾い上げられた木桶がティルトの錬金術で魔力強化され、ほんのりと青い光を纏った状態でデハーニに向かって全力で投げ付けられた。

 木桶がデハーニの顔の真横を青い曳航を伴って通り過ぎると、後ろにあった岩に激突し盛大な音を立てて無残に砕け散った。

 デハーニはクロムの投石を思い出して、背筋が一瞬冷たくなる。


「デハーニさんのおばかっ!当たって鼻血がいっぱい出れば良かったのに!」


 ティルトはそう言い残して、自分の家に向かって駆け出した。

 そんな後姿を見てデハーニは小さく呟く。


「もし俺達に何かあっても...アイツだけは何とかしてくれるようにクロムに頼み込んでおくか...厳しいかねそれは」


「頭ぁ、また酔ってティル坊をからかったんですかい?」


 焚火を囲み、酒盛りで盛り上がっていた男達が酒瓶を片手にデハーニを呼んだ。


「いや、つかの間の平和を楽しむ為のお遊びみたいなもんよ」


 そう言いながら、デハーニは再び朝まで続くであろう宴に戻っていった。



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