第9話 その瞳に映るモノは
クロムが自分の名前を口にした事で、張り詰めていた状況が再び動き出す。
意思疎通が出来たという事、そしてデハーニにとって事態が好転し始めた事を確信したのが、クロムが名前を告げる直前、その身に纏う瘴気にも似た空気が瞬間的に搔き消された錯覚に陥ったからだ。
ただその直後、クロムの後方から発せられるサイクロプスの死臭に混じり、元の雰囲気に戻ったのだが。
それでもデハーニの心の中の緊張が、確かに少し和らいだ。
何よりクロムの言葉が、時間が経つにつれてハッキリと聞き取れる事、これにデハーニはクロムは何かの魔法を使っているのではと推察する。
するとクロムの口から思いもよらない言葉が飛び出た。
「言葉いま覚えている。言葉を交わす。覚える。使えるようになる。だから会話が必要だ」
― 今、覚えているって言ったか!?会話する度に...いやもしかしたら ―
長年、数多くの戦場を何とか生き延びさせて来たデハーニの直感と推測が自然と幾つかの答えの候補を導き出し、その結果、顔を後方で固唾を飲んでこちらを見守っている仲間達に向けさせた。
眼を離してはいけないと深層意識レベルで擦り込まれていた戦士としての本能は、この窮地からの脱出の光明が見えた安心感と、未だ理解出来ない目の前の男と状況によって脆くも消し去られてしまった。
そしてデハーニはその疑問を解決する手段の一つを思い浮かべた瞬間、背筋に氷の槍が縦一本突き刺さる様な感覚を覚えた。
もしかしたら...クロムは周囲の全ての会話を盗んでいるかも知れないという結論。
範囲はわからない。
むしろデハーニにとってこれが一番正解に近いと根拠も無く確信してしまった。
― 不味い。不味すぎる。どうやってとかはこの際どうでもいい。今一番ヤバいのはこの中で一人でもコイツに敵意を向ける奴がいたとすれば...あぁ!どんな事になるのか想像もしたくねぇ!! ―
安堵の汗が瞬間的に冷や汗へと変貌するデハーニは、再びクロムを見据えた。
仮面に見える装備に浮かぶ緑に揺らめく双眸は、明らかにデハーニを捉えていたのはわかるが、その光の揺らめきがどこまでの景色を映しているのかは全くわからない。
デハーニは目の前に垂れた奇跡の光明の糸を皆で全力で掴みに行く為に、全力で思考を回す事を決意した。
デハーニは相手に攻撃の意思はないという意味を込めて、あえて剣を掴める筈の腕を胸に当てながら立ち上がる。
そして後ろを振り返って、クロムに非武装状態で無防備な背中を向けるとおもむろに叫んだ。
戦士としての本能を決意で必死に抑え込んだ、これだけでも称賛される行動かも知れない。
「おい!ティルト!こっちに来れるか!?今すぐこっちに来てくれ!」
決死の交渉に挑み、何を話したのか全く状況が掴めない他の仲間達は、急に動き出した事態についていけていない。
皆一様にあの歴戦の剣士であるデハーニが剣を携えず、相手に背中を見せた姿は普段から魔物と戦い、野盗の集団を次々と切り伏せている姿、その皆が見てきた彼の生き様からは想像が出来なかった。
そしてあの危険な交渉場に、村で唯一の希少な職業を持つ貴重な人材を向かわせるのか。
何よりあの無垢でいたいけな14歳の少年を一人で死地に向かわせる事が出来るのか。
ただそれでも、あの場を漂い支配する重く形容し難い空気に気圧され、足が動く者は一人もいなかった。
その中で、馬車からこちらの状況を終始注意深く伺っていた少年が馬車から飛び降り、なんの躊躇も無くこちらに金色の髪の毛を風で靡かせながら走ってくる。
少年には安全や安心を後押しする根拠は全くない。
あちらでどのようなやり取りがあったかもわかっていない。
だが、この状況で自分も含めた皆が厚い信頼を置いているデハーニが自分の名を呼ぶという事、そこから推察される事、その他を一切をひっくるめて自分が呼ばれる事がこの状況において最善の選択だと彼は判断したと理解していた。
それでも緊張していないわけでは無い。
仲間が数名命を落とし、あのままでは全滅不可避の状況だった。
突然、暴風の如く現れた黒い謎の戦士の事も全くわかっていない。
強い意志の成す行動とその少年の心境の齟齬は、少年の息を瞬く間に上がらせた。
この少年が動いたことによって、周囲の会話も再び活発に動き出し言語翻訳の精度が上昇している事を確認したクロム。
やがて少年がデハーニの隣まで駆け寄って来た。
「はぁっはぁっはぁっ...!ゴホゴホッ!お、お待たせしました...」
「あ、あぁ...大丈夫かよ」
少年の余りの息の上り様に、思わず状況にそぐわない心配そうな声をかけてしまったデハーニは、すぐさま口調と緊張感を取り戻して言葉を続ける。
「ティルト、すまないがこの状況に一番的確に対応出来るのはお前しかいねぇ。簡単に状況を説明すると、まず第一に俺達は無事に生きて村に帰れそうだ。ついでに目の前の男は敵じゃない...と言っている」
クロムとティルトの目線が合う。
ティルトは改めて間近で見るクロムの姿に驚愕と畏怖の表情を浮かべたが、それもすぐに真面目な表情に変わった。
― よくこの状況で瞬時に自分を殺して、状況の流れに身を任せられるな ―
クロムはティルトと呼ばれた金髪の少年に対して素直に意識内で褒めた。
肩まで伸ばされた美しい金髪が風に掴まれ、それによって細められた目の奥には青い瞳孔が見える。
デハーニの茶色の瞳が物語るのが武勇であれば、こちらの青い瞳はさながら深い知性と言った所だろうか。
もしかしたらデハーニとはまた違う分野での戦場を渡り歩いてきたのかも知れない。
背丈は150㎝に満たない小柄な印象を受け、年は12~15歳位だとクロムは勝手に予想する。
身体の線も細く、およそ戦闘向きの肉体では無い事が容易に見て取れ、仮に女性の衣服を着用していれば、男性よりも女性として判断するかも知れない。
「この男の名はクロム。どうやら何か訳があるらしく俺達の言葉が喋れない...筈だったんだが本人曰く、信じられないかも知れねぇが会話を聞きながら今も進行形で覚えているらしい」
「す...凄いですね...一体どんな魔法で...いや、すみません。ではボクはこの方と話をしながら情報交換をすれば宜しいですか?」
「やっぱティルト、お前さんは流石だな。無理はしなくていいからな」
そんな互いに長年時間を共にした事を感じさせる、クロムには今まで経験した事のない雰囲気を漂わせる二人の会話で、一つの言葉が猛烈に引っかかった。
― 魔法? ―
こちらの言葉でも魔法という単語は、色々な場面で使われるがこちらの世界の住人にとっての魔法という言葉はどのような意味があるのか、クロムは思考を巡らせる。
その思考を遮る形でデハーニがクロムに声をかけた。
「クロムさんよ。ここにいるこいつはティルトっていう。お前さんの今の目的に一番役に立つはずだ。そばにいかせても大丈夫か?」
クロムが受け取るデハーニの言葉の理解度が高まっているのか、クロムが聞き取る言葉の内容に彼の感情の起伏や、口語のニュアンスを僅かながら含まれるようになってきている。
「問題ない。敵で無いのであれば危害は加えない」
あくまでもクロムの意思表示であって、口から出た言葉は違ったニュアンスになるかも知れないが、それでも言葉を飾ることはない。
この辺りも時間を掛ければ解決出来るだろう。
「そ、そうか。ティルト、すまないが頼んだ。あとクロム。そのサイクロプスなんだが厚かましい願いは承知で頼みたい。それを俺達に譲ってくれないか?こいつの素材は色々と使えて皆にとっても有難いんだが...その代わり俺達に出来る事があれば言ってくれ。協力する」
またも頭を下げてクロムに問うデハーニ。
再び驚くティルトと遠巻きに見守っている仲間達。
デハーニが無理を言って頭を下げたのには訳がある。
まずサイクロプスの素材が丸ごと手に入ること自体がまず滅多に無い。
その討伐に騎士団一個小隊の戦力が必要なのだから、村の自警団レベルの戦力ではほぼ無理と言っても過言ではないだろう。
魔石は当然の事だが、サイクロプスの皮や骨、内蔵の一部等も素材としてかなり価値のある物だ。
特に戦士系の職業に就く者には、サイクロプスの鞣し皮を使った防具やインナーは非常に頑丈で、耐久力もかなりのある防具に仕上がるので非常に需要が高く人気なのだ。
1体討伐出来て素材にする事が出来れば、村全体が相当に潤う上に、それは皆の安全な暮らしの維持にも反映される。
「理由は今話せないが、肉を一切れ俺にくれ。後は好きにしてくれて構わない。あと解体を見せて欲しい。出来れば同時に言葉も覚えたい」
複雑な言葉になると、まだ拙い意思表示になる事も考慮し、クロムは多少の身振り手振りで応対した。
それでもデハーニには、問題無く伝わったようだ。
「本当か!?ありがたい!よしそうと決まれば動ける者でこいつを解体するぞ。ティルト重ねてすまないが、しばらくクロムの相手をしてやって欲しい。ただこれだけはわかってくれ。俺達は今、これまでで一番ヤバい瀬戸際に立っているんだ。まだ本当の意味で戦いは終わっちゃいねぇ。それを解決して一番良い状況に持っていけるのは、ティルトお前さんだけなんだ」
そう言ってデハーニはガシリとその筋肉質の重い両腕を、ティルトの華奢な双肩に落とした。
ティルトはその言葉の内容から来る困惑と、肩を襲った重く鈍い痛みで顔を顰めながらも続いて柔らかい笑顔を浮かべる。
「イテテ...わかってますよ。任せて下さいとは言えませんが、精一杯やりますし、やれないとは言いませんから。クロム...様で宜しかったですか?ボクはティルトと言います。お相手が礼儀作法が足りていないボクで申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
デハーニの期待を込めた両腕を何とか外し、両手を前に重ねてペコリと効果音が鳴りそうな丁寧なお辞儀をクロムに向けた。
「クロムでいい。言葉が上手く伝わらないかも知れないが宜しく頼む」
「それではクロムさんと呼ばせて頂きます。ボクはティルトと呼んで下さい」
そう言って確かな足取りでこちらに歩いてくるティルト。
クロムは意識内で胆力だけであればデハーニを上回っているのかもしれないなと分析した。
クロムの傍らに立ったティルトは、首に痛みを感じるのではないかという位の角度で彼の顔を見上げていた。
ティルト達からすれば全くの未知の素材と意匠で造られた装備品。
表情を伺う事も出来ない仮面で覆われた漆黒の戦士。
沈黙が二人の間に流れる中、ティルトの青い瞳の中にクロムの眼から発せられる淡い緑の光が潤みの中に反射し浮かび上がり、まさしく宝石の様相を見せていた。
ティルトの中を駆ける僅かな恐れや緊張がクロムの眼によって捉えられ、その華奢な身体は小さく震えている。
それはクロムに相対した恐れから来る物か、それとも...。
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