第8話 数字言葉が与えたもの
未だに風が運びきれない程の血の臭いが辺りを漂っている中、966より5メートル程離れた場所に剣士の男が地に座り込んだ。
腰履きの剣の鞘の留め紐を解き放ち、脇に置く。
その眼には何か強い決意とほんの僅かな諦めの色が入り混じっている。
物言わぬ圧力を発する966に相対するその男は短く切り揃えられた赤毛、見るからに戦闘、しかも死と隣り合わせの激しい戦闘で鍛え上げられた肉体。
消え切らない戦傷が腕や首、顔に走っていた。
衣服や鎧で隠されている他の部分も同じなのだろう。
粗野な男性特有の低い声色から容易に想像しやすい容姿の剣士の年齢は、966の常識内で予想すれば30半ばといった所だろうが、永遠に続くと思われる戦闘に身を置く者はには当てはまらない事も知っていた。
そして何より966が意識を向けたのはその座り方だった。
その座り方は亡国となった日本の「正座」という座り方に良く似たもので、座り方によっては礼儀と警戒が一体化した興味深いものだ。
その男の眼光は立っていた時よりも鋭く眼前の966を、その間にある死臭漂う空間ごと凍らせてしまいそうな程に凍てつかせている。
大きく割り開かれ地面に付く膝を折った脚、その足先は地面に立たたせてある所謂、
966が過去に戦場に身を置いていた時、彼の率いる小隊の通信兵を担当していたウエスギ曹長という男が、とある小康状態の戦況の中、雑談で教えてくれた知識だった。
何でも非常に珍しい日本人の血を半分ほど残していたハーフで、日本発祥の古流武術等に詳しい、話し上手な好青年という記憶を966は残している。
その話の中でこの跪座の話があり、相対する者への礼儀を現しつつも即座に剣を抜き攻撃態勢に移行出来るという物。
966はこの剣士の跪座に、死が目の前に座っているという現実に決してまだ屈してはいけない意思、そして何よりも戦士しての覚悟と矜持を見たような気がした。
気高い戦士。
もし966が言葉を発していたなら、この言葉が呟かれていただろう。
そんな張り詰めた空気を切り裂いたのは、意外にも男からの動きだった。
「きゅうえん、感しゃする。おかげでぜん滅することはなかった」
そう言って、握り拳を両膝に置き、ゆっくりと頭を下げた。
視線は離せど、966に向ける意識は途切れない。
現在、かなりの稼働率でコアが言語翻訳機能が周辺の会話を盗み取りながら、学習を繰り返している。
その為、片言だったり妙にたどたどしい口調にはなるが、相手の伝えたい事の内容が翻訳、情報化され966に伝えられていた。
いずれにしても966は相手の動作や表情、感情の機微等から会話の内容を先んじて想定する事もある程度は可能である。
「問題ない。突然ですまなかった」
966は立て膝に肘を置いた姿勢で、ほんの僅かに顔を下げた。
正座の人間に相対する者としては、非常に尊大かつ無作法と思われるだろうが、死と血を纏う黒い戦士は気にも留めない。
その966の動作と言葉に男の表情が一瞬、驚きに変わった。
― ほんの少しだが頭を下げ、その上謝罪だと!?言葉は伝わりづらいが...一体こいつは何なんだ!? ―
男は圧倒的強者の立ち位置に存在する者の行動に、脳内が混乱と驚きの渦に飲まれかける。
しかしその脳裏にはハッキリと帰りを待つ村人、馬車の中で震えているであろうか弱き女子供の姿が、その思考の激流に飲まれる事無くその存在感を放っていた。
そして男はふと脳内に湧いた一つの行動を実行する。
ゆっくりと剣の置き場所とは反対の手を胸に当てた。
そして真っすぐに966を見据えてこう口にする。
「デハーニ。俺のなまえはデハーニ。デハーニだ」
ゆっくりとした口調で、デハーニは自身の名前を告げた。
その名前に誇りを持っているわけでは無く、ただ目の前の者に端的に自分の立ち位置を教える為にはこれが最適解だと、咄嗟に思い付いただけだ。
そして今、この状況で相手に手渡せる者はこの名前しかなかった。
966はデハーニの身振りと言葉を確かに聞き取って、最低限の意思疎通と今後の関係の期待値が良好な事を悟る。
彼はまず自身の名前をこちらに告げた。
966にとって戦場における一兵卒の名前など不必要な情報であり、相対する者は敵味方分け隔てなく彼にとって姿形の異なるただの意思を持った肉袋であった。
それ故に966は何らそのデハーニの差し出した“貢物”に価値は見出さない。
それでも言葉も理解出来ない異国の戦士とあの戦いを通じて、何かを通わせる事が出来るのであれば、名前を返すのが正当な返礼であると966は結論付ける。
そして彼もまた一瞬ではあるが、不本意ながらも思考が停止してしまった。
その原因は966自身の名前である。
伝えるべきは「個体識別番号」では無く「名前」なのだ。
会話する度に「ユニット966」と呼ばれるのは、流石に会話が凡雑過ぎる。
そこで966は再び先程の日本人ハーフのウエスギ曹長が教えてくれた会話の内容を思い出した。
日本語という言語自体が966が好んでいた物なのだが、その中に数字の読みと日本語の単語の読みを合わせた言葉遊びの様な文化要素があったらしい。
日本語を中心とした単語を0から10までの数字の読みに置き換える。
もしくはその逆でも置き換えるとの事だった。
これを「数字言葉」というものをウエスギ曹長から教わった966はまず最初に、簡易暗号通信でとっさに使えないか真剣に当てはめ候補を解析し始めた所
「こんな時くらい一旦戦争から離れましょうよ」
と呆れた顔で返された記憶が同時に蘇った。
966は目線を僅かに、ふと空に移す。
― 名前か。流刑囚であり廃棄兵器の俺に必要な物なのだろうか ―
もう思う出す事の無かったであろうウエスギ曹長の姿を虚空に見て、彼が当時の966に与えられていた今とは別の識別番号を日本語に直して、最期まで966をその呼び名で呼んでいた事を思い出した。
「俺は
変換候補の中で出てきた殺戮兵器としての自分の存在を「クロム」という名前で固定した966は、デハーニと全く同じ動作で名前を返す。
「俺はクロムだ。デハーニ」
クロムは噛み締めるように、先程決めた名前を目を丸くしながら相対しているデハーニに告げた。
― ウエスギ曹長、お前の知識を生かさせてもらった。今更とは思うだろうが感謝する ―
クロムは目の前にかつての戦場を映し出していた。
ほんの一瞬、あの戦場にあの情景に意識を舞い戻していた。
クロムは嘗ての戦場で、もはや助からない血塗れのウエスギ曹長を抱き起していた。
彼の携帯していた戦闘強化薬の予備カートリッジを回収する為だ。
―
記憶の中の彼はそう言って事切れた。
その時のクロムは瞼を開けたまま光を失った彼の眼を、黒い指でそっと閉じさせる事もせずに、まだ使用可能なカートリッジを数本回収すると彼を地面に下ろし、終始無言のまま振り返ること無く眼前の戦場に駆けていった。
もう既にクロムの意識には彼はおらず、情報として格納された記録を残すのみ。
― クロム。これはお前が付けてくれた名だ。覚えておいてくれ ―
記憶の中のクロムの時間が一気に巻き戻り、抱き起したウエスギ曹長の最期の言葉を待たずに、今度は被せるように彼にそう告げた。
命が急速に抜けていく身体を細かく震わせながら、光が失われつつある彼の眼が驚きの色を見せる。
― クロ...ム......へへっ...カッコ...イイ...なま...えじゃ...すか......なま...え...さい...ご...に...... ―
彼は口から血を吐き出して、口角を上げて作った最後の小さな笑顔のまま動かなくなった。
クロムはおよそ物を優しく扱うには程遠い凶悪な造形の指で、ゆっくりと彼の瞼を閉じさせ、再び先程と寸分変わらぬ動作で戦場へと駆け出していく。
変わらぬ結末。
ただそこに至る道筋が変わった。
過去は変わらない。
それでも、クロムの明確な意識が過去の、記憶情報の中にある小さな情景の一部を自らの意思で改変した瞬間であった。
この時、故郷から遠く離れた未だ場所もわからない異界の地で、966は自身の過去の未来を変えた名前を手に入れた。
そして噛み締めるようにもう一度、デハーニに告げた。
「俺の名はクロム。そのままクロムと呼んでくれ」
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