第6話 対峙と意思と
右手に握られた物の正体は赤く透き通る球形の物体は、記憶の中で近い物と言えば、水晶玉といった所だろうか。
― 構成成分 不明 該当データ無し 現段階での推測不可 要サンプル回収 ―
「サンプル回収方法を提示」
― 口腔内 成分分析機能 有効化 ―
コアが提示したサンプル回収方法は単純明快、殺した敵を「喰え」との事だった。
長らく食事という行動を行っていない966は一瞬思考が停止しかけたが、すぐさま行動に移すために巨人の躯の脇にしゃがみ込む。
ただ肉片を摂取にする為には、マスクを外す必要がある為、不測の事態と何より安易な正体の暴露は可能な限り避けたい状況であった。
966がコアにその是非を判断材料にしようと考えてながらサンプルとなりそうな肉片を入手しやすい、千切り取りやすい胸部の傷跡に手を伸ばしたその時、センサーがゆっくりとこちらに向かって接近する物を捉えた。
その方向に視線を向けると、リーダー格と思われる剣士の男が剣を構え、警戒を緩める事無くこちらに向かってきている。
構えているのは先程の戦闘で折れ曲がった直剣では無く、僅かに湾曲した曲刀に似たもの。
966が立ち上がると男は身を強張らせて曲刀を構え歩みを止めた。
そして10メートル程の距離を開けて対峙する。
「Ποιος στο διάολο είσαι εσύ !!!」
― 言語予測翻訳 起動 学習開始 音声収集開始 ―
サンプル分析機能と共にこの言語予測翻訳という物も新たに埋め込まれている様だが、これは様々な状況、環境から推測される単語を不明言語の各単語使用頻度等から推測する物のようだ。
相手の心理的状況等様々な環境を考慮し、未知の言語を収集しそこから文法も含めた言語の解読を行うシステム。
966は地球上で使用されていた言語に関しては既にコアにインプットされているが、兵器としての運用上、このような機能が自身に必要とされるとは思えなかった。
何を求められているのだろうかと思考を巡らせる。
ともあれ、情報収集に言語によるコミュニケーションは必須である為、可能な限り会話を試みてシステムに学習させることにした。
「言語予測翻訳 コア演算分配 上限20% 全体稼働70%に設定 警戒態勢を維持」
「すまないがそちらの言葉が理解出来ない」
966はあえて「こちら側」の言語で返答を行う。
それは今や使う人間は殆どいなくなった消滅した国の言語「日本語」だった。
ニュアンスはほぼ同じ意味でありながら複数存在する読み方の異なる単語を使い分ける事によって、端的にかつ柔軟に意思を伝える事が出来る言語。
元々言葉数の少ない966にとって非常に魅力がある言語だった。
「Τι γλώσσα μιλάτε !? οια χώρα ανήκετε !?」
突如として戦場に現れ、圧倒的な力で単眼の巨人を屠った目の前の黒い怪物に向かって男はある種、僅かな願いに近い気持ちを込めて叫んでいた。
― 敵であって欲しくない ―
当然である。
自分達を壊滅状態に追い込む強さの巨人を圧倒的な力で屠った謎の存在。
勝てる予感すら湧いてこない。
言語予測翻訳はそのような事を考えている目の前の男の会話のみならず、男の背後や更にその奥の馬車の近辺まで可能な範囲でセンサーの範囲を広げ、音声データを収集しており、その効果が少しずつではあるが効果を見せ始めた。
「言葉がわからない」
「言葉...Δεν ξέρω...お前...Ποιος είσαι εσύ...Σκοπεύετε!」
思考に断続的に翻訳されたこの世界の言語が流れこみ、同時に966の発する言葉もまた無意識に言語が変換される。
それでも対峙する男の警戒心は当然ながら解除される事は無く、966はこのままでは張り詰める緊張が決壊し望まぬ戦闘に発展すると予想。
瞬間的に思考を巡らし、コアの判断を待たずに966は行動を起こした。
汗を大量に額に浮かべ、こちらに向けて叫び続けている男に向かって赤く煌めく物体を乗せた右手を向ける。
その行動に男はあっけに取られた様子で口を噤むと、曲刀を握る手に力を込め、冷や汗が男の頬を伝って顎先から落ちる。
その様子から966は状況の流れを変えるきっかけが出来たと判断し、おもむろにその赤い物体を男に向かって放り投げた。
先程の戦闘で見せた投石のような破壊的な勢いでは無く、緩やかに放物線を描き投げられ宙を舞った球体はトサリと柔らかい音を立てて男の足元に落ちて転がった。
男は驚きの表情で目線を966と赤い球体を往復させる。
更に966はその場にゆっくりと座り込み、敵意が無い、危害を加えるつもりが無い事を伝えた。
そして先程ある程度効果が確認されたジェスチャーを使い、巨人の血で今もなお汚れた人差し指を地面に転がる球体に向け、拾うようにその指先を男の顔に移す。
「...Θα μου το δώσεις αυτό...」
溶けない緊張から生唾を飲み込み、目線は外さず片手で曲刀の切っ先をこちらに向けながら、球体を拾い上げる男。
「サイクロプス...ια αρκετά χρήματα...」
「俺...敵...違う」
966は徐々に使える単語が増えていくのを感じ、男に向かって更に言葉を紡ぐ。
「言語予測翻訳 コア演算分配 35%に再分配」
― 了解 ―
「言葉...わからない...敵...違う」
「場所...知らない...敵...違う」
今の立場を誤解させる意味であまり良い選択肢では無かったが、両手を上げて降伏の姿勢を取る966。
「敵ではない」
言語予測翻訳に使用する演算能力を再分配し、処理速度を引き上げる事によって凄まじい勢いで情報を収集、学習し予測していくシステムがついに明確な意思を男に伝える事に成功する。
「敵ではない?」
僅かながら緊張感が溶けた声色と隠し切れない安堵の表情を浮かべ、その言葉をオウム返しに発した男を見て966は大きく頷いた。
「殺さない」
この状況において966が選択したこの言葉は内容こそ物騒な物ではあったが、反面この単語が秘めた威力は想像を遙かに超えたようだ。
口を真一文字に引き締め決意を固めた眼光を覗かせてた男は、力を抜いても収まらない震えを何とか制御しつつ剣をゆっくりと下げ鞘に納めた。
疑いだしたらきりが無い事は男も十分に分かっている。
その上、目の前の緑の眼をしたおよそ人には感じられない黒い存在は、その気になれば自分のみならず、仲間も含めて一瞬で死体に変えられる存在だと確信していた。
“敵ではない”
“殺さない”
たどたどしくも発せられたその言葉にはあの巨人を屠った時と同じ、脇から見ていても感じた明確な強い意思が乗っていた。
信用する、いや信用せざるを負えない。
今、男に出来る事は己の身を犠牲にしても仲間を安全に逃がす事。
この黒い戦士が戦いに乱入しなければ恐らく全滅していただろうと、既にこと切れた仲間の遺体を見やり、そして周囲に目を向けた。
目の前に座る戦士の後ろに倒れているサイクロプスと呼ばれる巨人の死体。
サイクロプスは単純な肉弾戦闘ではそれなりに腕に覚えのある戦士達が数十名で対処しなければ倒せない上、加えて一度覚えた獲物の臭いを辿ってどこまでも体力の続く限り追いかけてくる程の執念深さを備えていた。
例えあのまま逃げたとしても、負傷した仲間や女子供を乗せた馬車を帯同していれば決して逃げられないだろう。
逃げ切れたとしても、辿り着いた男の集落にサイクロプスが襲い掛かってくる。
あの時、仲間共々サイクロプスに殺されていたか、もしくは更に強力な目の前の存在に殺されるか。
いずれにしても相手が多少なりとも対話が出来る以上、仲間の命を守る為に自分が命を懸けて交渉する必要があった。
― 恐怖は捨てろ ―
未だ希望の先が見えない男はそれでもその光を掴むため、剣を収めて目の前の脅威に向かって歩き出した。
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