久美子の不思議な小休止

山門芳彦

久美子の不思議な小休止


 昼前の中央線下り電車。ドアの前。

 就活生の久美子の目の前に、その男はいた。久美子は率直に思った。


(有り得ない)


 仕草も、見た目もだ。

 一々の挙動が鈍い。猫背で手元のスマートフォンを見ている。その垂れ目には精気が抜けている。ドア前で突っ立っていて、降りる人の邪魔になっている。さっきも三鷹駅で降りようとした中年男性に悪態を吐かれていた。それでもなお、呆然としている。久美子は、その様に気が立ったが、ある意味では感心していた。その男をよく見ると、なるほど彼の見た目は冴えない男のそれだった。

 髪は整えずに、もじゃもじゃと広がっている。ノーネクタイで、第一ボタンを開けていて、開けっ広げな胸元から黒いアンダーシャツが覗く。ジャケットのボタンは二、三留めただけ。上着やカバンのジッパーすら空いている。もしや社会の窓まで……と思ったが、流石にそこは閉まっていて、代りに股下には情けないが付き、ズボンの縦縞のラインは、影を伴って歪んでいる。

 久美子は、もう一度視線を上げて彼のぼーっとした顔を見た。


(何をしている人だろう?)

 

 久美子は、その男が何をして生活しているのかが、無性に気になっていた。


(どれだけキッチリ服装を整えても面接に落ちるのに、どうしてあんなダサい男が仕事に就いてるんだろう。男尊女卑? それはないかぁ……じゃあ何だろう。こういう人は、何を仕事に生きているんだろう?)


 電車は、東小金井駅に着いた。ドアが開くと、男は電車を出た。久美子は、午後の予定をすっかり忘れて、男の後を追うことにした。


 駅の北口を出た男に続き、久美子はさりげなさを装いつつ本屋の角を曲がった。初夏の涼しげ爽やかな日差しが、久美子が入った木立の道に涼やかな影を浮かばせる。久美子は一瞬、ここが東京であることを忘れた。駅からさほど離れていないのに、閑静な住宅街とは違う武蔵野の面影を残す小道だった。先を歩く男は、さして驚くこともなく歩いて行く。一方、久美子は予想外の建物を前に、足を止めた。


 新緑の爽やかな香りの中に、木組みの家があった。家の前には、石畳の駐車スペースがあり、二人乗りのレトロな外車が佇んでいる。久美子に車種は分からないが、昔、金曜ロードショーで見たアニメに出ていたような気がする。ナントカ三世とか、紅の某とか、そんな雰囲気の作品だったか。

表札の代わりに「二馬力」と書かれた板があった。意味はよく分からない。ただ、この「二馬力」という屋敷は、心の原風景と言えるような、どこか懐かしさを覚える何かがあつた。

 久美子が立ち尽くしていると、となりの幼稚園から、にこやかな女性の先生と、十数人の園児たちが、散歩がてらに久美子の傍を通った。

 その幼稚園もかなり凝った造りで、童話の世界に出てきそうな可愛い建物だった。

そこから出て来る園児たちは、さながら妖精か小動物で、ぴょんぴょんと眺ねて先生の後についていた。


「こんにちはっ!」


 その妖精の一人が元気いっぱい、久美子にあいさつしてきた。

 三つ編みの妖精ちゃんだ。


「……こんにちは」


 久美子は園児よりずっと小さな声で返した。同時に小さくやった会釈に、久美子は無性に恥ずかしくなった。


(何やってんだろ、私)


「お姉ちゃん、知ってる?」

 三つ編みの園児が、二馬力を指さした。

「な、何を……?」


 園児一人におどおどする自分に、思わず、心臓の鼓動が早くなり、頬が紅潮して熱くなる。


「あのおうちにね、えのじょうずなね、めがねのね、しろひげのおじいちゃんが、いるんだよ」

「へぇ……そうなの?」

「うん。まなちゃんね、かいてもらったんだよ。ばいばい」


 三つ編みの園児は、話すだけ話すと、先生に手を引かれて久美子の前から去っていった。

 久美子は、知らず知らずのうちに何か不思議な気持ちになっていた。ヒールを脱ぎたくなるような、足先がムズムズするような感覚。どことなく甘いような、泣きたくなるような臭い。幼い記憶と重なるような、二馬力の憧憬。

 久美子が、園児たちが歩き去るのを見送ったのち、二馬力の前には静寂が訪れていた。

 その一時の静寂に、久美子は茫然としていた。

 湖面を震わす風のように、近くの高架線を走る中央線の音が流れ込んできた。そして、一迅の風が頬を撫でて、久美子は我に返った。


「……あっ、あの男のこと忘れてた!」


 そう。久美子はあの男が気になって歩いてきたのだった。園児たちが曲がっていった交差点を通り過ぎ、久美子は北へ伸びる道を真っ直ぐに歩き出した。

 二馬力を過ぎてから、郊外らしい閑静な住宅街を無感動に抜けていく。そうして早足で進むこと十五分。久美子の目の前に玉川上水沿いの大通りが進路を横切る形で現れた。通りの向こうに、あの男の影を見つけた。男は道沿いの喫茶店に入っていった。

 一瞬、急いで彼を追おうと迷ったが、一度喫茶店に入ったのなら暫くはそこにいるに違いないとも思った。久美子はそれよりも玉川上水に目が行っていた。

1号が青に変わり、久美子は玉川上水を渡る小さな橋の上で足を止めた。玉川上水沿いの砂利道は、平日の昼ということもあり、人通りはほとんどない。川と並走する車もない。

 新緑が作る木痛れ日混じりの影の下で、上水のせせらぎは、自然な音律を奏でていた。

 小さな音だが、決してか細いものではない。


(ヒーリング効果、とかありそう?)


 久美子は、橋の柵に背中を預けて、暫く瞳を閉じた。

 ……午前中の嫌なことが、水と共に流れていく。

 無機質なビルの中。有機的なおびただしい人波。同じ人間とは思いたくない面接官の眼光。そういう場所で、生きる人たちがいる。彼らはそこで働く見返りに、それなりの享楽を得る。そしてまた人波にもまれていく。久美子の父はそういう生き方をしていた。


(自分は、そう出来るのだろうか)


 性に合わない、と一度誰かに言ったことがある。その時何て返されたか。誰かの鬼面を思い出していた。


「甘えるな』か……」


 独り言は自ずと続いた。


「今まで散々子供扱いして来たくせに、ここにきて自立だ就活だって言われても……私、別に働くために生きてないのに。……そういえば、私は何のために生きているんだっけ」


 久美子の子供の頃の夢は魔法少女かお姫様だった気がする。ディズニーランドに行ったときの興奮をいつまでも味わいたかった。久美子が夢を無くしたのはいつ頃だったか。今では、「平穏に暮らして、適度に楽しいことが起こればそれでいい」ということが当分の目標に思える。そのためには先ずはお金、お金のためには就職……。


「よく『人のため』とか『お客様の満足のため』なんて言えるよね」


 それは他者批判と自虐を併せた言葉だった。世の中の大企業の理念を見た時、存外感動したものだった。しかし今となっては、あまり心地のいいものではない。不快というのが正直な気持ちだった。現実的なアレコレに幻滅しながら就活の準備を友人と渋々してきた。


「今日はなんて言ったかな、私。たしか『自分にはコミュニケーション能力があります。グループ討議でリーダーを務め、意見をまとめ上げてグループのプレゼンテーションを成功させました』だっけ。そしたら面接官はなんて言ったつけ。『それは我が社でなければいけないのですか』的な感じだっけ……なんでそんな訊き方するんだろ。ホント、意味わかんない」


 けれど、そんな不満を玉川上水は流してくれる。愚痴をこぼしたからだろうか、久美子は心なしか気が楽になった。だが、あの男への感心は健在だ。


「行ってみるかぁ」


 久美子は再び青に変わった信号を渡り、例の喫茶店へと足を運んだ。

またもや木組みの家だった。ドアに「ガラクタアイス」と書かれた不可解なポップがあった。


「変わった店名……」


 お洒落な、というより単に古臭い空気がするドアを開けた。予想通り、というかそれ以上の陰気さが薄暗い店内から漂うのを久美子は感じた。

 久美子が、その古臭い店に戸惑っていると、しわがれた店主の声がした。


「いらっしゃい」


 おかげで、更に戸惑った。慣れない場所に、慣れない声。企業の面接が神判の如き緊張感なら、これは混沌に棲む悪魔への恐れ。久美子は無言で立っていた。


「お好きな席へどうぞ」


 そんな言葉も耳に届かない。久美子は、何か多くのものに睨まれるような気がした。その原因は、店の壁の棚に飾られた二、三十体ほどあるブリキの人形だった。店内の微かな光源に照らされた輝きが、久美子には蝙蝠の眼光に見えた。

 もの言わぬブリキに、嘲笑われたと思ったとき。店の奥に、例の男を見つけた。薄暗い店に似合う男だった。久美子は、自分がこの店の雰囲気から浮いているのを悟った。


(こんな店にいる男が、まともな訳ないじゃない。そもそも私がここに来るのは間違いだったんだ)


 久美子の背後でベルが鳴った。来客を知らせるドアが閉じたのだ。外からの光が弱くなり、いよいよ魔窟に呑まれる気がした。

 一歩、たじろぐ。


「お客さん、どうされましたか……?」


 カウンターの奥から、店主が呼ぶ。久美子は聞こえないフリをした。


(帰ろう……!)

「あの、ごめんなさい。失礼します!」


 久美子は頭を下げながら背後の取っ手に手をかけた。振り向いて、ドアを開ける。

 爽やかな風と光の、玉川上水があった。

 美しい。久美子は、この景色が好きだ。だが――


(振り向いてしまって、いいのかな)


 玉川上水の先には、住宅街と二馬力がある。東小金井駅もある。線路はどこまで繋がっているのか。久美子の頭の中に、線路がどこまでも続いて、あの都心の中に入り込んでいく映像が浮かんだ。また、あの中に戻ると思うと気が滅入った。

青い匂いが風に運ばれて、染み入った鼻孔が震えると、久美子の目頭が熱くなった。


(帰りたくない? だから泣いてるの? 今、私はどう思ってるの?)


 久美子は、立ち尽くすよりほかになかった。


「おい」


 はじめて聞いた声が久美子を呼び止めた。

 久美子は「はいっ」と、萎縮しながら返した。


「あんた、駅から俺の後つけてたろ?」


 声の主は、久美子が気にしていた例の男だった。久美子の心臓はドキリと跳ね上がった。嘘や隠し事がばれた時のように。


(本当に逃げよう)


 と、久美子は、まだ握っていた取っ手をさらに強く握った。が、なぜか足は動かなかった。男は言葉を続けた。


「見た感じ、新卒か就活生みたいだけど。少しはゆっくりしたらどうだ? あんたみたいな若い客は珍しいからね。マスターが、コーヒーの一杯ぐらいサービスしてくれるさ」


 男の声は妙に馴れ馴れしい。そこに店主が口を挟んだ。


「そう勝手に決めんでくれないか、カオル。まあ別にいいのだが」

「ほら、お嬢さん。どこかに座ってゆっくりするといい」

「はあ」


 今一つ、この二人との距離感がつかめないまま、久美子はドアに一番近いテーブル席についた。カオルと呼ばれた例の男は相変わらず奥のカウンター席にいる。


「お嬢さん」


 今度は店主が久美子を呼んだ。もっと近くに寄れ、とでも言われるだろうかと久美子は予想し、鞄を持ちながら返事した。


「はいっ?」

「アイスとホット、どちらにするかね?」

「え、っと……ホットで」

「じゃあ、豆はどうするかね? ブレンド、キリマンジャロ、ブルーマウンテン、期間限定ならサクラというのもあるよ」

「サクラ?」

「うむ。丁度このくらいの時期に獲れる豆の一種をそう呼ぶんだよ」

「じゃあ、そのサクラで」

「はい、サクラのホットね。お待ちください」


 慣れない会話の後の、反省のような思考が久美子の頭をめぐる。


(席のことなんて訊いてこなかったなぁ。勘違いしちゃった。それよりも、サクラってどんなコーヒーだろう?)


 無言の時間が続く。自然と久美子は店主の作業を遠目に見ていた。

 小瓶の中のコーヒー豆を箱型のハンドミルに入れていく。蓋をして、ハンドルを一定の速さでゆっくりと回すと、ゴリゴリと豆が挽かれていく。二十周くらいすると、店主は回す手を止めて、マグカップくらいの大きさのガラスビーカーの上に、木製のホルダーを乗せた。それから茶色いフィルターを広げて、ホルダーに収めた。フィルターの中に挽いた豆を入れると、店主は熱湯入りのポットを持って、その細長い注ぎ口からほんの少しお湯を注いだ。実に慣れた手つきだった。久美子はスタバ以外でコーヒーを頼んだのは初めてだったので、機械に頼らない作り方に見入っていた。

 

 三十秒くらい経つと店主は再びポットを持って、豆にゆっくりと注いだ。遠目の久美子には分からなかったが、挽きたての豆はフィルターの中で実に良く膨らむ。こんもりと盛り上がった豆から芳しい香りが漂う。

 ビーカーに半分ほどコーヒーが淹れられると、店主は注ぐのを止めた。口の広いカップとソーサーの上に乗せて、ビーカーの中身をカップに注いだ。店主は、


「お嬢さん。そちらに持っていくのは面倒だ。こっちに来てくれないか」


 と久美子を呼んだ。

 久美子はわざとらしくため息を吐いてみせ、カウンターに足を運んだ。

 ソーサーを持つと、陶器同士がかちりと擦れ合う音がした。サクラという名でもやはりコーヒーで、枯れた花びらと同じく、カップの中身は焦げ茶色だった。

 元の席に戻ろうとすると「ここに座らないかね」と店主が呼び止めた。


「何かお話でも」

「いえ……」


 そう言いかけて、久美子は口を噤んだ。


(ただでさえ慣れないのに、店主と距離をおいたら、コーヒーを飲む前にお腹を壊すなぁ……気まずさで)

「分かりました」


 それに、カオルがどんな男かまだ分かっていない。あれほどボケていた男が、この店ではホームズのようにやけに冴えたような態度をとっている。

 久美子はソーサーをカウンターテーブルに置くと、さっきの席に置いていた鞄を取りに行ってからカウンターに戻った。 

 カウンター席の背後には、無数のブリキ人形がいる。カウンター越しの店主は、一仕事終えたとばかりにマッチ棒で煙草に火をつけていた。美味しそうに深く吸ってから、煙を吐く。彼の瞳は、楽しそうにブリキ人形に向けられていた。


「あの、好きなんですか?」


 久美子は、背後の人形を指差してみた。


「ああ。玩具というのは夢を与えてくれる。人にはアレがガラクタにみえるかもしれん。今の時代に、こんな物に執着するのは、マニアか病人だろうさ」

「病人ですか?」

「ああ。古い物、見向きされなくなった物。色褪せた玩具の箱絵さ。そんなものを愛してしまうのは、ある種の病気かもしれない。まあ、私も彼も治す気はないのだがね」

「彼?」


 久美子の問いに、店主は端にいる男に目配せした。

 カオルもまた、ブリキ人形を見つめている。


「えっと、カオルさんでしたっけ?」

「ああ、そうだが」

「私、あなたに聞きたいことがあったんです。あなたのお仕事って何なんですか?」

「俺の仕事は店の仕入れの担当だ。豆を取り寄せたりしてるのさ」

「へえ……」

「何をしてると思ったんだ?」


 久美子は、目をそらした。


「言っとくが、人は見かけで判断しない方がいいよ」

「そんなこと……」


 久美子はムッとした。


「これでも、昔は大手の企業に勤めてたんだ」

「……え?」

「いわゆる脱サラさ。そうだな、サラリーマン時代は今の収入の三倍はあったかな」

「三倍……! どうして辞めたんですか?」

「大した理由じゃないさ。前の仕事が嫌いで、この店が気に入ったからさ」

「そんな理由で、ですか?」


 久美子には信じられなかった。この陰気な店のどこがいいのだろうか。


「何か可笑しいか?」

「可笑しいですよ。だって、医者でもないのに病人に尽くすような感じじゃないですか」

「そうかな」

「私はそう思います」

「そうか。じゃあ訊くけど、君は何がしたいんだ? 今、何のために就活をしているんだ?」

「それは……」


 人のため、社会のため。という言葉は出なかった。


「なんでだろ」

「どんなものでもいいんだ。自分の幸せのためでもいい。人身御供になることを自ら求めることはない」

「ひと、み?」


 久美子は知らない言葉を反してみた。だが、カオルにとって大事な意味ではなかったらしい。彼は言葉を続けた。


「結局、何がしたいかだ。何もできないのならそれでもいい。出来ることを見つけることだ。大学生にもなって定まらないことは恥じゃない。もっと歳を取ってから気づく人たちが、世の中にはたくさんいる。今、迷っていることは、俺からすれば十分早いよ。よくよく考えて決めたらいい。ほら、話もいいが、冷める前に飲まないとマスターが残念がるぞ」

「あ……はい」


 久美子は、まだ温かいコーヒーを一口飲んでみた。少し酸味の利いた、飲みやすいコーヒーだった。


「美味しいです。マスター」


 久美子は、店主に微笑んだ。

「うん。それは良かった。この豆を仕入れたのは彼だ。お嬢さんが笑ってくれたなら、いい仕事をしたってことだ」

「いい仕事……」

 

 この店を陰気と思ったのは久美子の間違いだったのかもしれない。むしろ、暖かな懐かしさがこの店の良さだ。こういう喜びを与えられる仕事もあるのだ。


「私にも、いい仕事ができるでしょうか?」


 カオルは、おとぎ話を夢見る子供と接するように久美子に言った。


「できるさ。目的を失わず、努力を続ければ、誰にだって」


 ありふれた言葉の連なり、と言えばそうだ。それが、今の久美子にとって一番の言葉だった。子供のとき、「できる」というありふれた言葉からもらった喜びは、同じように大きなものだった。

 久美子はブリキ人形たちを見つめてみた。ロボット、電車、ピエロ、小鳥……どれもありふれた物だ。ありふれた物の、夢売る姿だった。


「また来ます。マスター、カオルさん。その時は、私の夢を語らせて下さい」

「ああ。待っているよ。その時はまた、美味しいコーヒーを淹れるからね」


 店主はにこやかなに久美子を見送った。カオルも、ぐしゃぐしゃなままの髪をいじりながら、店の外まで送ってくれた。

 久美子は玉川上水を渡った。また二馬力の前に行けば、めがねの、しろひげのおじいちゃんに会えるかもしれないと思いながら。

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