胡蝶夢跡綺譚
夢鳥瑶乳
第0話
「準備はいい?お兄ちゃん」
ふわりとウェーブがかかった猫っ毛の白髪を無邪気に揺らした、凛々しい顔つきの少女は、
正面で筆を手にもつ少年に問いかけた。少年は少女と鏡あわせのような顔立ちだが、明るさを持ち合わせた少女とは違い、人生に疲れたような憂いを帯びている。いや、これは少女の明るさにやや疲弊しているような感じである。むしろ単ではなく狩衣を少女も着ていたら少女の方が男性らしく見えるだろう。
「ああ、始めてくれ」
それを聞くと、”少女”は「すう」と小さく呼吸をし、低めのしとやかな声でこう謳う。
「安倍泰成と玉藻の前が”息子”、安倍安行が申します-----」
これは彼らの父と母の名誉を取り戻すためのふることぶみだ。
ーーーー
後白河院の御時、陸奥国刈田郡にとある小童がいた。
「千枝松、今日の陰陽道はここまで。外で遊んでいらっしゃいませ。」
涼やかな顔立ちの美女はそう言いながら立ち上がる。
「葛の葉大ばあ様も一緒に!」
「分かりました。」
小童、もとい千枝松の可愛らしい要求には乳母の葛の葉も逆らえない。
「生き物は触らないでくださいね。弱ってしまいますから。」
「うん」
その聞き付けを守りせっせと花で王冠を作る。
遠くから狐耳と尾のついた女房が走りながら二人に呼びかける。
「千枝松殿~!葛の葉の前~!こちらをどぉ~ぞ~!」
その女房が差し出してきたのは水菓子であった。
「貴方、気遣いは有難いけども走りながら大きな声を出すなんてねぇ~!!!」
葛の葉の女房にガミガミ𠮟りつける日常茶飯事をよそに千枝松はその水菓子を口に運んだ。
「…あれ、これこんな味だったっけ」
甘酸っぱくて美味しい。でも、千枝松の記憶ではその水菓子は甘味だけ溢れたものであったのに。
「!? もしかして腐ってましたか!?」
女房は慌てて千枝太郎の食べかけの水菓子に被りついた。
「あら、美味しい桃ですわよ。」
その反応に葛の葉も安堵のため息をついた。
「いっぱいありますから、お二人共どうぞ沢山召し上がれ」
ドバドバと桃を袖から出した。
「あら、こんな高級品沢山あるならわたくしの分はいいから女房たちで分け合いなさいな」
「! さすが葛の葉の前!私達︎︎ ︎︎ ︎︎"︎︎神使”の鏡!大好きですわ~!!!!!」
ガバっと葛の葉に女房は抱きつく。
「ちょっと、はしたないわよ!」
といいつつもまんざらでもなさそうな表情をする葛の葉を微笑ましく眺めた。
「ん。皆でいっぱい食べてくれ」
花の王冠を女房の頭に載せながら千枝松は言った。
「やだぁ!千枝松殿も!!!」
女房は千枝松にも抱きついた。いつまでもこんな温かい日常が続けばいいなと願いながら。
「葛の葉御前!」
するとまた別の女房が走りながらやってきた
「緊急事態なので失礼いたします。先程、夕顔が倒れたので帰しました。」
「呪符はきちんとつけていた?」
「はい。しかし呪力を貯めこみ、使えない状態になっていました。」
「女房たちに自分の呪符が呪力を吸収仕切っていないか確認させるようにして」
「はい。」
そう葛の葉が命令するやいなや、事態を告げた女房は足早に他の女房のところへ向かった。
また水菓子の女房もそれについて行った。
「思った以上に呪力が成長して言っている...」
葛の葉は重い顔で呟いた。その隣で同じ顔で俯いていた千枝松も呟いた。
「...吾のせいだ」
「違います!貴方は何も悪くありません!貴方はただそういう体質で生まれてきてしまった
だけ!」
そう千枝松の肩を掴んで説得していると、その肩に蝶が舞い降りてきた。そしてその蝶は方に触れるやいなや溶けてなくなった。
「こうやって生き物を殺す吾が?
家族は京にいるのに人に危害を与えてしまうために人里離れた境内に居て、呪力に多少耐性のある、神に仕えし狐を女房にしている吾が?」
「でも悪いのは呪力で...!」
「その呪力を持っているのは吾だ!吾は1人になるしかないんだ!」
「お黙り!」
葛の葉は千枝松をギッと睨みつけた。
「わたくしは絶っっ対に貴方から離れません!呪力なんか効かない体にあともう少しでなる
んですから!!!現に私は他の女房よりずっっと耐性あるんですからね!
それに皆、貴方を邪険にしてここに置いている訳ではありません。貴方の父、安倍泰親は貴方の呪力が外に漏れない場所を見つけ、我々神使なら耐久性のある呪符を開発しました。女房達だって呪符をつけながら甲斐甲斐しく貴方の世話をしています。これに愛以外の何があるってんですか。」
ふぅと葛の葉は一呼吸を置いた。
「いいですか、それに私は、貴方の大ばあ様は貴方が望む限りずっと傍にいますから」
「...うん。ぜったいだよ」
ボロボロ2人は涙を流した。千枝松にとっての光は葛の葉だけだった。
しかし数日後、ばたばたと女房達が暇を出した。原因は千枝松の呪力に耐えられなくなったからだ。皆、涙ながらに最後千枝松に挨拶をするのだ。
「千枝松殿、貴方は父上(やすちか)のように立派な陰陽師になって安部家を支えるのです
よ。貴方はお優しい子。私、貴方にもらった花の王冠、今でも大事に持っていますのよ。」
そう鼻声で、最後に水菓子を与えた女房は千枝松の頭を愛おしそうに撫でた。
「いつか、花の王冠毎日届けるから・・・」
その言葉を涙に溢れながら聞き、女房は去った。
これでもう残ったのは葛の葉だけだった。
葛の葉は千枝松の身の回りをすべて管理した。(千枝松が転んで助ける描写、勉強を教える描写、遊ぶ描写を挿入?)本当に宣言通り彼女が千枝松の傍を離れることはなかった。
「ばあ様、汚れたから着替えてきます。」
「ええ。洗って着替えてらっしゃい。わたくしは夕飯を用意しますから。」
そしてそれぞれ向かうべき場所に向かった。
「ええと着替え・・・」
女房がいたころは女房や葛の葉がしてくれたが、葛の葉がしかいない今、最低限は自分でやらなくてはいけない為、自分の着替えの場所などは把握していた。
「あれこれは」
葛の葉が使っている机が珍しく散らかっていた。そこには細々と千枝松の呪力について記載がされていた。そしてその予防や対策についても研究がなされていることが伺われ、父の泰親との呪力についての手紙もあるようであった。
「ばあ様・・・」
その葛の葉の胆力に千枝松は感動した。本当に彼女は千枝松の呪力を克服しようとしているのだ。
「どれ、さすがに狩衣を一人で着るのは大変でしょうから手伝いますよ」
突然葛の葉がやってきて、千枝松が机の上の物を見ているのを発見した。
「あら。散らかっていますね。すみません。」
葛の葉は淡々と片づけた。
「ばあ様、いつもありがとう」
「はいはい、どういたしまして。」
そうそっけなく言いながら千枝松の頬をつく指はほんのりと熱を帯びていた。
こうして14年の月日が経った。
「葛の葉」
「重い!!!あなた大きいんだからおどきなさいな”泰成”殿」
14年の間に千枝松は元服して泰成という名になり、身体も大きく成長していた。
そんな泰成は作業をしている葛の葉の背中に背を持たれている。
「ええだって」
「ええだってもありますか。わたくしも大柄ですが、さらに大柄な貴方を支えるほど私の体
は大きくありません」
「...そうかすまなんだ」
葛の葉から離れ、姿勢を正した泰成は悲しそうに俯いた。泰成は葛の葉しかいなくなって以降、極度に甘えたがりになってしまっていた。
「あーもう、ここ!わたくしの横にいなされ!」
「!やはり葛の葉は優しいなぁ」
「もう、あの子のような子供は出したくありませんから」
葛の葉は泰成の肩を抱き寄せた。
「あの子とは?」
「...貴方の先祖であり、私の息子清明です。わたくしは実の子を諸事情があり育ててあげられなかったのです。だから泰成、せめてあなたには孤独な思いをさせたくないのです。」
清明は泰成の6代前の先祖である天才陰陽師であった。泰成を見つめる葛の葉の目は泰成を通して清明を見ているようだった。
「何があろうとも」
その言葉は泰成にとっては希望の光だった。対して葛の葉にとっても泰成は自らの息子にできなかったことを果たせる存在であった。
ばたり
葛の葉が音を立てて倒れた。
その瞬間昔駆けてきた女房が発した「先程、他の女房が倒れた為に帰した」という旨の発言が
フラッシュバックした。
「葛の葉!」
倒れた葛の葉はゴフッと咳をしながら吐血した。
「すまない、見るぞ!」
泰成は葛の葉の呪符を確認する為に彼女の服の襟を開けた。すると彼女にはおびただしい数の呪符が貼られていた。そしてその呪符は全て黒く染まっていた。
泰成は直感的に感じた。自分の呪力はもう、葛の葉でも耐えられないほど強力になっているのだと。
絶望を感じた泰成を見て葛の葉は真っ先に否定した。
「違います、これは私が呪符を新しくするのを忘れていただ」
「そんなわけないだろ」
「貴方は悪くないのです。ただ呪力が強いだけで」
あの時と同じ台詞を葛の葉は言った。
「こんなに血を吐かせるような人間が悪くないわけなかろう!」
泰成は顔をぐちゃぐちゃにしながら葛の葉に言った。
「ばあさま、もう、京にお戻りください。貴方と居られないことよりも、貴方がこの世からいなくなることのほうがずっと嫌だ。」
これを聞いた葛の葉は京に帰ることしかできなかった。
「…さよならなんて言いませんよ。でも絶対に帰ってきます。絶対に。」
そう言い残し、この刈田の馬頭山から出ていった。
「さようなら葛の葉ばあ様」
葛の葉の小さくなった背中を見ながら、一人そう呟いた。
だってあの状態から察するに彼女は自分の呪力を克服できるわけがない。
「…それに吾が自害するのですから」
唯一自分の呪力に耐えられた愛しい家族が居なくなってしまったのだから、このまま孤独に暮らして何の利点があるだろうか?ましてや他人に取ってみればこの生ける毒のような存在は死んだほうがいいだろう。自分なんか死んだほうがいいのだ。
守り刀を取り出して首筋に当てがる。
「さようならばあ様」
再度この言葉を口にした。今度はある意味絶望から解き放たれた安らかな声色で。
その瞬間泰成の鼻に小さな蝶が止まった。その蝶は溶けることなく鼻の上でヒラヒラと羽を揺らしている。
「何故?」
泰成はその蝶が自身についても溶けないのかが不思議だった。しかしその蝶はヒラヒラと優雅に泰成の鼻を去り、空へ舞った。
「まて!」
泰成は首にあてがった短刀を捨て、つかさずその蝶を追いかけた。あの蝶が自分の体質の解決への糸口かもしれないと思いながら。
蝶は山の奥へ奥へと向かった。そこは天然の湯が湧き出る場所であった。
ゆらゆら揺れる蝶が止まったのはその湯の中で寝ている大柄な女の鼻の先であった。
あまりに死んだように眠っているので泰成は女を湯から出してやろうか、と思ったが自分の体質もあるからどうしようかとあたふたした。
一方、鼻に蝶が止まった途端その女はぱっちりと目を開け、泰成の方を見た。
その瞳はその湯の水色と浮かぶ藻の緑を混ぜ合わせたような綺麗な色、所謂浅葱色であった。
泰成はその女の瞳を見るととてつもなく魅了された。そんなわけで泰成は口を滑らせてしまったのだ。
「吾と結婚してはくれないか」
浅葱色の瞳の女はもちろんこう答えた。
「何言ってんだお前」
これが後世、大罪を犯したと記述される安部泰成と玉藻の前の出会いであった。
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