何も知らない彼

口十

初めまして。幻想的な恋でした

「綺麗な声をしているね」

 不意にそんなことを言われた。バーでのアルバイトの日のことだ。酷い酷暑で、クーラーの機械的な匂いが鼻につき始めた日だったことを覚えている。

 ありがとうございます、と素気なく返してしまったけれど、内心驚いてしまって、アイスピックが手に刺さってしまうのではないかと少し不安にもなった。

 今まで声を褒められたことなどなかった。モデルの母親から生まれた私は体形にも顔つきにも恵まれて、学生生活の中では、自分で言うのも何だが花形のような気でいた。彼氏と喧嘩して別れた数日後にはその噂を聞きつけた別の男が寄ってきて、それでまた繋がるの繰り返しでどの男に聞いても、顔が良い、が第一声に来た。だから声なんて二の次だったのだ。

 その男性をよぉく見ると、右手にはテーマパークのキャラクターのストラップのついた白杖はくじょうが握られていた。嗚呼、成程な。と私は意外にも冷静に心の中で納得した。と共に、初めてときめきのようなものを感じた。初めて顔や体形以外を褒められたからだろうか。最初は胸中きょうちゅうに些細な違和感があっただけで、彼のところを知ろうとする欲求のようなものがうごうごとうごめいていたのだ。

 また別の或る日。飲みに来た彼は前の人同じ席に座り、前と同じカクテルを頼まれた。

「お好きなんですか? ホワイトルシアン」

「えぇ。昔から珈琲コーヒーが好きで、その延長線上にあるので」

「大人なんですね」

「はは。こう見えても三十超えたからね」

 わぁ! と大仰に驚いてみせる。落ち着いた雰囲気は年相応だが、比較的幼い顔つきから勝手に二十代後半だと思っていた。

 それからも他に客が少ないことをいい事に私は彼について次々と質問を重ねた。

 しばらく話していると、自然と連絡先を交換することになり、店長には内緒でということで交換をした(今思えば、バレていたかもしれない)。ロミオとジュリエットは名前しか知らないけれど、屹度きっとこんな気分だったんじゃないかしら、と思った。そんな禁断の恋を演じているようで、どうしても心は浮かれていた。

 私は何か事あるごとに彼に連絡を寄越した。綺麗な花を見つけた時、何とか言葉だけで説明できないかと必死になって語彙を集めた。すると彼は「美しいね」とだけ返してくれた。その裏にある気持ちも知らないで、私は綺麗なものを見つける度に彼に突き付けた。素敵な曲を見つけた時なんかはもう、心臓が跳ねる思いで彼に伝えた。

 それから幾週間もの夜が過ぎた日のことである。私が陽炎の先に何某なにがしかを浮かべていると、不意にスマートフォンが鳴った。彼かもしれない、と暑さも忘れ手に取ると、確かに彼ではあった。彼ではあったのだが、何処か様子が可笑しい。

「彼女さんですか?」と問われたのだ。彼とはそんな間柄ではないし、それは彼が一番理解しているところだろう。そもそも本人だったら聞く必要がない筈だ。であれば次に思い浮かぶのは、彼には本命の彼女かそれに近しい間柄の女性がいて、その彼女が携帯を盗んで連絡先の一番上にいた私に話しかけたか、といったところだろうか。

「いい絵違います」と返すと、少しして「おはなししておきたいことがあるんです」と返って来た。思えば、その時よしておけばよかったものを、私は何ですか? と尋ねてしまったのだ。誰でも尋ねよう。仕方のないことだ。仕方のないことなのだが、そこで一言断っておけば、私は降下しの坩堝るつぼに迷い込むことは無かったのだ。悔恨の念も抱かずに、素晴らしく学生生活を終えることが出来ただろう。

 電話越しに聞こえたのは、鼻声の年増の女性だった。どうやら彼の母親らしい。

 母親が伝えてきたことは、これからずぅっと忘れることは無いであろう、私の存在すらも揺るがす、非道ひどい非道い話であった。

 彼が昨日、自殺をしたそうだ。線路に飛び出し、遺骸は無残にも散った。最初は事故か自殺か分からなかったけれど、スマートフォンに音声メモが残っていて、それ曰く、数週間前から気分が悪いそうだ。それは目が見えない自分への悲しみや世の中への不満から始まり、自分を産んだ親を憎しみだし、だが彼は誰かを傷つけることもなく「貴女へ、此の世へ、感謝と悲しみをばら撒きます」と音声メモを残して身を投げた。

 これを聞いた時、私は現実味が無さ過ぎて「そうですか。お悔やみ申し上げます」とだけ言って(いや、実際はそれから二言三言喋ったが、覚えていない)、電話を切った。

 私が私を殺したい程悔やむことに気づいたのはそれから数時間後のことであった。ふと思ったのだ。そういえば、連絡先を交換するようになったのも、丁度そのぐらい前であったこと。彼が店へ来ることが、少なくとも私と会うことがなくなったこと。そしてそれらが教えてれたのは、私が彼を殺したのも同然ということ。

 私が彼に世界の美しさを教えなければ、彼は散り散りになることはなかった。そうではないか? 三十年も全盲だったのだ。そんな彼に私が気紛れで色を、景色を教えてしまったから、彼はそれを見れないことを悔やんで悔やんで、終いには私を呪いたくなってしまったのではないか?

 私がバーの店員で済んでいれば、もし私が景色を彼に教えなければ、彼は今も生きていたのではないか?

 私は一言音声メモに残して、家を飛び出した。

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何も知らない彼 口十 @nonbiri_tei

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