猫と嘘つき少女

ぬりや是々

𓃠

 乱筆をお許しください。

 幼い頃から数年、自宅の裏にあった書道教室に通い、段位まで頂いたというのにわたしの字はとても乱れています。

 筆を置いてからの期間が長すぎたのでしょうか。それともあの頃書いた字こそ、嘘つきだった幼いわたしのついた嘘だったのでしょうか。

 いえ、きっとスズキ先生のご指導が素晴らしかったのだと思います。

 手書きで文を書かなくなって久しい、それでもこうして書き残そうと考えました。

 それは、わたしが先生に頂いた美しい字を失うだけの時間が、わたしの生まれた家や、先生の書道教室や、ニャン太の縄張りをも失わせようとしているからです。

 その前にどうしても書き直したいお話があるのです。



 ──裏のスズキ先生の土地に新しく家が建つそうです。それに伴い土地の境界確定測量に立ち会います。事務所から委任状が届きますので貴方の記名をおねがいします。


 それは遠く離れた地元の母からでした。


 ──分かりました。


 わたしはその返事をメールで送信しながら、実家の裏で書道教室をしていたスズキ先生と、シャム猫のニャン太を思い出していました。


 正直なところ、スズキ先生やニャン太の事を今まで思い出すことはありませんでした。

 しかし母からの連絡をきっかけに、そういえばこうだった、あれはああだったといった他愛もない思い出が、日常のふっとした瞬間に浮かぶようになりました。

 そんな記憶巡りはひとつの出来事に辿り着き、寝入り間際のわたしの胸をひどく締め付けました。


 

 生まれ育った家の裏には、スズキ先生という老齢の女性の営む書道教室が、表側にはタナカ夫妻の珠算塾がありました。町内の子供たちは中学に上がるまでそのどちらかに通うのが慣例でしたが、わたしはそんな立地からか両方に通っていました。習字教室は日曜日の朝一時間程度、そろばん塾は平日週二回、下校してすぐです。


 当時のわたしは内向的でいじめられやすく、今思えばそれは心因性のチック症だったのかもしれません。

 爪や指の皮、鉛筆の頭を噛む悪癖があり授業中に何か食べているとよく注意されており、そろばん塾に行くのがとても苦痛でした。いえ、算数が苦手、とかそうでなければ単純に平日週2回というのが嫌だっただけかもしれません。


 一方の書道教室は好きでした。

 時々お菓子が出るとか、お正月にくじ引きがあったとかそんな理由です。中学に上がるまでの数年間のくじ引きで、先生から頂いた本物の孔雀の羽根で作られた小銭入れ、花を封じ込めたガラスのパンダの置物のことを今はよく思い出せます。


 そしてもうひとつ、たまに顔を覗かす綺麗なシャム猫に会う事が書道教室の一番の楽しみでした。


 ニャン太はスズキ先生の猫でした。

 彼が教室に顔を出すと、子供達は挙って迎え入れました。しかし彼はわたし達の歓迎には目もくれず教室の中を見廻ります。


「邪魔しちゃダメよニャン太」


 スズキ先生が声をかけた時にだけニャオンと鳴きますがすぐに教室を去りました。看板猫というより監督官のようでした。


 ニャン太が教室に顔を出すのは稀でしたが、わたしは彼の姿を隣近所ということもありよく見かけました。

 同じような時間に庭をのっそり通り抜ける彼、塀の上でぼうっとしている彼。

 教室で人気者な彼の知られざるプライベートをわたしは知っている、という優越感を他の子供達に持っていました。


 ある平日の午後に庭で遊んでいると、花の手入れをしていたスズキ先生が挨拶をくれました。

 何か話さなければと焦りますが、年上の先生と書道を介さず何を話したら良いのか分かりません。焦ったわたしの口をついた言葉は自分でも思ってもみない物でした。


「こ、この前ニャン太が家に勝手に上がって、わたしのおやつを、ぬ、盗んだんだよ」


 それはまったく意図していない嘘でした。

 ニャン太の事を悪く思っていた訳ではありません。むしろ、例えわたしがついた嘘の様な事実があったとしても、気軽に許す事が出来る程彼を気に入っている。ニャン太を可愛がる先生にそれを知ってもらいたい。そう思っていたのかも知れません。


「それは悪いことをしたわねぇ」


 しかしわたしの嘘により、スズキ先生の声は少し沈んでいるように聞こえました。



「先生がニャン太が悪いことをしたってお菓子を置いていったけど······」


 次の日学校から帰ると母が台所から顔を覗かせ言いました。わたしは前日、先生に対して嘘をついた事を知られていないか酷く焦りました。

 わたしは「知らない」とだけ答え、母の視線から逃げる様にリビングをあとにしました。


 先生の置いていったのは教室でもたまに出た赤い袋の甘い、わたしの好きなお菓子でした。


 

 いくつかの賞も頂きましたが中学に上がると教室を卒業し、書道も辞めてしまいました。

 スズキ先生とは登下校時たまに顔を合わせ挨拶する程度となりました。部活動や他の習い事などで生活リズムが変わると、ニャン太の事はほとんど見かけなくなり、やがて意識の外に消え、あの時のわたしの嘘も先生の沈んだ声の事も忘れてしまいました。


 いつからか見かけない猫が庭を通るようになりました。また昼夜問わず猫達の喧嘩の声が姦しく近所に響きました。


「ニャン太がいなくなったからねぇ」


 何気なくそれらの猫の事を母に尋ねると懐かしい名前を聞き、その時初めてニャン太の死と、彼が長年この一帯の絶対的ボス猫として君臨していたことを知りました。


 今でこそ海外種の猫も珍しくありません。しかし当時のわたしは、トラやミケとは違う細みの体つきや青い目のニャン太と、ボス猫という言葉が上手く重なりませんでした。

 ともかく、ニャン太が絶対的に支配していた縄張りの空位の王座を巡って、しばらく猫同士の諍いが絶えませんでした。

 その後どの猫がこの空位の王座に収まったのかは分かりません。すぐにわたしは家を出ることとなったからです。


 数年ぶりに帰郷すると家の前には新しい大きな道路ができ、ニャン太がいつも座っていた塀も、ご子息が継いでいたタナカ珠算塾もなくなっていました。

 スズキ先生が亡くなられた事も母から聞かされました。


 それから地元に帰る事はほとんどありませんでした。金銭的にも、仕事が忙しかったこともあります。しかし地元に会うべき人もなく、帰る理由がなかったからです。

 母とは連絡を取り合っており、飼っていた犬が亡くなったこと、仕事を引退したこと、終活として荷物整理をしておりいずれ家を売ることを聞きました。



 ──裏のスズキ先生の土地に新しく家が建つそうです。それに伴い土地の境界確定測量に立ち会います。事務所から委任状が届きますので貴方の記名をおねがいします。


 母からの連絡にわたしは花の手入れをするスズキ先生と、塀の上の玉座で縄張りを監視するニャン太の姿を思い浮かべました。

 その姿は日常の合間に度々浮かび、やがて鮮明になりました。同時に、忘れていたわたし自身の嘘と先生の心の傷を思い出しました。


 あの日わたしは、ニャン太を愛するスズキ先生を傷つけ、誇り高きボス猫の尊厳を傷つけたのです。他人に受け入れて欲しい、それだけのためについた不用意な嘘で。



 スズキ先生とニャン太が暮した家は取壊され建て直されます。

 新しい道路ができ、わたしの実家を含むニャン太の縄張りは一変しました。

 その実家も程なく売りに出されなくなってしまうでしょう。

 

 そこに書道教室があったことも、強く美しいシャム猫がいたことも、少女の浅ましい嘘も誰も知らなくなってしまうでしょう。


 その前にどうしてもこのお話を正しく書き直したかったのです。

 先生から頂いた美しい字で。

 しかし、わたしの字は乱れたままでした。



 このお話の本当の始まりと終わりはこうです。


 むかし、美しい字を書く婦人と、彼女の愛した美しく強い猫が住んでいました。ふたりは穏やかに幸せに暮らしていました。


 本当にただ、それだけなのです。

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猫と嘘つき少女 ぬりや是々 @nuriyazeze

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