1-19 いつも見てる

「……お風呂入りたい」


 洞窟から抜け出したルーナは、ゴブリンの血にまみれた自分の身体を嗅いで、顔を顰めた。


 べたべたするし正直臭い。

 さっきまでは頭が沸騰してたから気にならなかったけど、洞窟内の臭いはスラム街に勝るとも劣らない酷さだった。


 早く帰ってさっぱりしたい。

 熱いお湯を浴びたい。


 脳裏に、宿屋のお風呂が浮かぶ。


 お風呂はいい。

 あったかいお湯に浸かるなんて、人間は凄いことを考える。


 国では水浴びしかしたことなかったルーナが、外の世界に来て一番気に入ったのがお風呂だ。


 全身の疲れが取れるあの感じ……何時間でも入っていられる。


 まぁ初めて入った時は本当に何時間も入ってのぼせてしまったのだが。


「お風呂のためにも、やっぱりお金を稼がないとよね……」


 宿屋のお風呂は一回につき銅貨十枚。チキンソテー一皿分だ。


 そのお金すらないルーナはお風呂に入るのにもアサヒにお伺いを立てなければならない。


 自分のお金で自分の好きな時に、お風呂に入りたい!


 アサヒに借金を返すのと同じくらい切実な願いだった。


「とにかく帰って、アサヒに謝って、それから……」


 ぶつぶつとこの後の予定を立てながら、ルーナは歩き出す。


 洞窟の周囲は鬱蒼とした森に囲まれていて、そこには道もなければなんの目印もない。


 普通であれば迷子になってしまいそうなほど、深い森。


 だが、森人エルフのルーナにとってはこの程度の森は草原と大して変わらない。


 自分がどうやってここまで来たのか、その道筋はしっかりと覚えている。


 あの大剣を持ったゴブリンはハンターでいうとどれくらいのランクだったのかしら……、なんて考えながら歩いていると――。



 突然、身の毛もよだつほどの悪寒が全身に走った。


「なっ……に……これ」


 突然極寒の大地に投げ出されたかのような強烈な寒気。


 首根っこを誰かに掴まれているような、首筋にナイフを押し当てられているような、そんな感覚。


 明らかに尋常ではない。


 これは、殺気……?


 だとすれば不味い。


 これは、この殺気は並じゃない。

 さっきのゴブリンなんて比じゃない。マンティコアも及ばない。


 圧倒的強者による、死の気配。


「はぁっ……くっ……」


 まるで自分の身体じゃないみたいに、息が吸えない。息の吸い方を突然忘れてしまったかのようだ。


 その時、ザッザッと背後から足音が聞こえた。


 その音は徐々にルーナへと近づいてくる。


 ルーナは震える手で剣に手をかけた。


 だが、できたのはそれが精々。

 それ以上は動くことも振り向くことも剣を抜くこともできなかった。


 迫る足音。


 それに呼応するように、強く激しく鳴り響く鼓動。


 吹き出した汗が頬を伝い、ぽたりと地面に落ちた時――。


「おやぁ、これはこれは……あなた、面白い魔力をしてますねぇ」


 ねっとりとしたへばりつくような声。


森人エルフと、それに……。あぁ、なるほど」


 背後の人物が不敵に笑った、ような気がした。


「同胞、でしたか」

「――!?」


 その言葉にルーナは思わず振り返る。


 そこにいたのは、一人の男。

 いや男と断言していいものか。


 ほっそりした身体に燕尾服を着たそいつは、山羊の頭をしていた。

 そして背中にはコウモリのような、羽根のないのっぺりとした翼。そして真っ赤に光る目。


 人間ではない。その身体的特徴から導き出される種族はたったの一つ。


 魔を産む存在として、世界中から忌み嫌われている存在。


「魔人……!」

「お初お目にかかります。私は星の守護者クースタス・ステルラが一人、ハマルです。以後お見知り置きを」


 星の守護者の一員を名乗る魔人は、にんまりと不的な笑みを浮かべる。

 その粘つくような視線を浴びて、ルーナの全身は粟立った。


「魔人が一体なんの用……?」

「いえいえ、たまたま同じ匂いがしたものですから。気になって見に来ただけですよ。ルーナさん」

「私のことを知ってるのね」

「えぇ、もちろん。星王様はあなたに期待してるのです。この世界の礎になろう可能性を秘めてますから」


 ぺらぺらとよく喋る山羊ね……。


 心の中でそんな軽口を叩くも、以前として身体の震えは治らない。


 戦えば、確実に負ける。


 ルーナの脳裏には絶命する自分の姿がありありと浮かんでいた。


 どうにか戦闘以外の方法で切り抜けないと。

 でないと、命はない。


「あいにく私はあんた達の言う星王様なんて知らないけど」

「星王様は常にあなた方を見ていますよ。この世に生きる者にはそれぞれ星から与えられた役割というものがあります。あなた方のそれは特に大事なものですから」


 あなた方……ね。


 それはつまり、ルーナだけでなくアサヒのことも監視しているということに他ならない。


「それで……本当に今日はただ挨拶に来ただけなのかしら?」

「そのつもりでしたが……私も最近退屈してましてね。どうでしょう、少し遊びませんか? ……なんて聞いたところで」


 その瞬間、ハマルから溢れんばかりの魔力が迸る。


「あなたに拒否権はないのですがね」


 ハマルはべろりと、その長い舌で口元を舐める。


 圧倒的な魔力。アサヒほどではないにしろ、今のルーナに勝ち目はない。全力を持ってしても、逃げ切れるかどうかも怪しい。

 両者の間にはそれだけの差があった。


 ルーナは震える手でゆっくりと剣を抜き放つ。ハマルは動く気配を見せない。余裕のつもりか。


 だったら、先手必勝。

 最高速度を持って攻撃を仕掛け、一撃で仕留める他に道はない。


 額から汗が流れ、顎を伝ってぽとりと地面に落ちたその時。


 ルーナは動き出した。先程のゴブリン戦士ウォーリアーとの戦いで身につけた移動術を使って。


 背後を取り、その首に向かって剣を振るうルーナ。

 ハマルの反応は、ない。


 このまま斬る!


 しかしルーナは、振るった剣が首へと迫る刹那の間に確かに聞いた。


「素晴らしい動きです。並の相手なら対応できないでしょうね」


 その瞬間、バチっと音を立ててルーナの剣が見えない何かに弾かれる。

 大きく体勢を崩すルーナの目が見開かれ、その隙だらけの胴体目掛けて、黒い影が伸びた。


 影は槍のように太く鋭くなり、ルーナに迫る。



 死。それが目の前まで迫っている。


 あの影に貫かれたら、私は死ぬ。


 死を目前にしても、ルーナの頭は酷く冷静だった。


 戦士になった日から、死ぬ覚悟は常にあった。


 別にやけになったわけでも、自暴自棄になって全てを諦めたわけでもない。


 ルーナには、覚悟があった。


 死という圧倒的絶望を前にしても、夢を叶うまでは絶対に諦めないという、生への執着。


 だからこそ、取り乱すわけでもなく、ルーナは冷静でいられた。生きるために。


「な、めないでよねっ!!」


 即座に体勢を立て直し、影を剣で打ち払う。


 驚いた様子の魔人は、それでもまだ余裕の笑みを浮かべて、


「やりますね。でも、あなたでは私に一撃加えることすら……!?」


 身体の自由が効かないことに気付き、その笑みが崩れた。


 まるで何かに掴まれてるかのように指先一本も動かすことができない様子のハマル。


 ルーナの動きは、早かった。


「でりゃあああああ!!」


 そのまま剣を、魔人の首に振るう。


 今度はなんの抵抗も受けることなく、ルーナの剣は魔人の首を斬り飛ばした。


 どさりと、地面に倒れる身体。さらさらと黒い粒子となって、首も身体も消えていく。


「ナイスアシストね、アサヒ」

「間に合ったみたいで良かったよ。見ててひやひやしちゃった」


 木の影から現れたのは、アサヒだった。

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不老不死、星の守護者になる 八国祐樹 @yakuniyuuki

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