第35話 やくそく

 ヒメロスは幼い頃から様々なものに憧れを抱いていた。彼女にとってそれは忘れがたい、大切な思い出だ――。



「ヒメロス! ここにいたのか」


 大きな一本の木が生えている平原に、若い男の声が響く。


「あ。にいさま」


 名前を呼ばれた幼き少女は、空を見上げていた視線を自身の兄でもある男の方へ落とした。口角の下がった少女の表情は、実に楽しそうだ。


 幼きヒメロスは、手を鳥の翼のように広げ、たたたーっという勢いで兄のもとへと駆け寄る。


 勢いよく走ってくる妹を受け止めた兄は、妹の頭をそっと撫でた。


 優しい手つきで撫でられている少女は、心地良さそうに目を細めている。


「集落に姿がなかったから探したぞ。いったい何をしていたんだ?」


 大好きな兄からの質問に、ヒメロスは元気ハツラツといった様子で答える。


「えっ~っとねぇ、おソラをみていたの! ねぇ、にいさま! わたしもトリさんみたいにソラをとんでみたい!」


「空を飛んでみたい……か。人には鳥のような翼がないから、空を飛ぶことはできないんだ……」 


 深い緑の髪をした青年の顔は、どこか申し訳なさそうな表情でそう答える。

 その答えを聞いたヒメロスは不服そうに頬を膨らませた。


「え~~。おもしろくないっ! トリさんみたいにじゆうにソラをとべたらどこへだっていけるのに!」

 

「ヒメロスにはどこか行きたい場所があるのか?」


「う~ん……わかんないっ! でも、こんなにまわりをみわたしても、おわりがないんだもん! みえないさきには、おヘヤのなかみたいに、どこかにおわりがあるのかなぁ? それともおソラみたいにどこまでもつづいてるのなぁ……わたし、それがとってもきになるの!」


 ヒメロスは思いを言葉する。そして、キラキラとした空色の瞳を輝かせて周りを見渡す。


 緑の平原はどこまでも先に伸びており、優しい風がどこからともなく吹いては去っていく。

 大きくて、どこまでも広がる青空には、白い雲が、気持ちよさそうに泳いでおり、まるで自由に世界を冒険する旅人のように見える。


 深緑の青年はヒメロスの視線を追いかけ周囲を見渡す。


「確かにな……私もこの集落の外には出たことがない。集落に来る商人の話を聞く限りでは、西の方には自然豊かな大地があり、南の方には険しい山脈がある。そして、東の方にはどこまでも広がる塩の泉があるそうだ」


「どこまでもひろがる、しおのいずみ?」


 ヒメロスは兄が口にした気になる言葉に飛びついた。


「あぁ。その塩の泉は、海と呼ばれているそうで、キニギドゥラで使う塩もそこから作られているそうだ」


「おシオでできたイズミ? へぇ~~! じゃあウミっていうのはおシオみたいにしょっぱいの?」


「さあな、私だって直接行ったこともないし、見たこともない。だから実際にどうなのかはわからない」


「ふ~ん……。じゃあにいさま! わたしがおっきくなったらいっしょにみにいこうよ! きっとたのしいとおもうの!」


 幼いヒメロスの思いを聞いた兄である男は、あまり表情の変わらない顔をわずかに緩める。


「ふふっ。そうだな。ヒメロスが大きくなったら一緒に見に行こう」


「うん! やくそくね!」


「あぁ。約束だ」

 

 ――――幼きヒメロスが兄であるアモスとした約束。それは成長したヒメロスの心の中に強く根づいていた。

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