第33話 追い詰められる少女

 若草色の髪をした少女が、暗い森の中を駆ける。僅かな明かりしかない森の中は、影狼から逃げるには不向きだろう。木々が風の行く手を遮り、ヒメロスの背中を押してくれていた風もだいぶ弱まってしまっている。

 

(……どうしよう。……いつの間にか森の中に入っちゃってる)


 背後からの音が迫っているのを感じながら、ヒメロスはそれでも必死に走り続ける。今更引き返すことはできない。

 視界不良の森の中。駆ける少女の褐色の柔肌を、草木は残酷にも切り裂く。

 

 しかし、ヒメロスは痛みに脚を止めるわけにはいかない。それ以上の危機が背後から迫ってきているのだから。

 


 ヒメロスが平原で弓の練習をしていたのは、お気に入りの場所というのもあるが、影狼は光を嫌う性質があるというのも理由の一つだった。

 平原は陽光を遮る場所もなく、日が暮れる前に帰れば影狼に襲われることもない。ヒメロスはそう考えていたのだ。


「ハァ……ハァッ……」


 ヒメロスは懸命に走る。しかしヒメロスは人間であり、いくら集落の中で走るのが得意な方だとしても、疲労はするし、限界も訪れる。さらに足場も良くなかった。


 ヒメロスは暗い森の中、木の根につまずいてしまった。


「きゃあっ」


 甲高い声の悲鳴を上げる少女は、その小さな体の制御を失い、宙に舞う。

 突如、風がブワリと吹いた。そのおかげで落下の衝撃は弱まったが、転けたときにりむいた腕がジンジンと痛む。

 

 ヒメロスは痛みをこらえながら急いで後ろを振り向く。一匹の影狼が目視できるほど近くまで迫ってきているのが確認できた。


(ヤバい)


 そう思ったヒメロスは背中の弓を手に取り。急いで矢をつがえる。一か八かの賭けにでた。


 パシュンッ


「当たって!」


 突然放たれた矢に影狼は驚いたのか、立ち止まって回避しようと横に避ける。


 矢はいつものようにブレた。しかし、それのおかげで影狼が避けた方向に動き、影狼の額にある小さな宝石にコツンとぶつかる。


「ギャインッ」


 影狼は悲鳴を上げる。威力は弱かったものの。影狼の弱点に当てることができた。


 影狼はヒメロスの起死回生の一撃に足を止めている。


(やった! わたしの努力は無駄じゃなかったんだ! って。今のうちに急いで逃げないと!!)


 つかの間の喜び。

 

 しかし、追ってきている影狼は一匹ではなかった。そのことを思い出したヒメロスは急いで走り出す。


 脚がズキリと痛む。転けたときに、どこかでぶつけたのかもしれない。それでもヒメロスが脚を止めることはない。歯を食いしばって必死に走り続ける。


 

 ヒメロスは暗い森の中を走り続けるが、一向に森の出口らしきものは見当たらない。道中、とてつもない異臭を感じる場所があった。ヒメロスは本能的にそこに行くのは避けた。



(いつまで逃げ続ければいいんだろう……)


 ――どれだけ走っているのか、わからない。口には変な味を感じる。

 味覚があるということは生きてはいるんだろう。


(兄さまの言うことを聞いておけばよかったのかな……)


――でも、わたしだって兄さまの力になりたい……。

 憧れの兄に少しでも近づきたい。



 ザッと音を立ててヒメロスは立ち止まった、止まらざるを得なかった。目の前が崖になっていたのだ。


「うそっ……行き止まり!?」


 背後から足音が聞こえてきて、ヒメロスは振り返った。そこには四匹の影狼がいた。絶体絶命のピンチである。


 ヒメロスは、再び背中の弓を手に取ると、影狼に向けて構えた。


 しかし、仮に矢が当たったとしても、一匹足止めできるかどうかである。先ほどの射撃を見るにヒメロスの矢に、影狼の額の宝石を砕くだけの力はない。


 影狼に表情はないはずだが、ヒメロスにはまるで、こちらを見ながらニヤリとわらっているように見えた。


「ッ!」


 とはいえ、ヒメロスは矢を放つことはできなかった。その瞬間、影狼はヒメロスに目掛けて飛びかかってくるだろう。


 影狼がジリジリと距離を詰めてくる。それに合わせてヒメロスも弓を構えながら下がるしかない。


 何か打開策はないかを考えるが何も思い浮かばない。


(わたしに鳥のような翼があればいいのに……そうすればこの崖から飛び立っていけるのに……)


 人間に翼はない。この高さの崖から落ちたら間違いなく死ぬだろう。

 

 追い詰められた少女と追う獣。その距離は徐々に縮まるばかりだった。

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