第16話

「てめえの先輩だよ!」

 黒猫はそう叫ぶとともに跳ね上がり、僕の顔面を蹴りつけた。

 バタン…と倒れた拍子に、僕の手からブラジャーを奪い取る。

「ったく、恥を忍んで、私が私だということを示すために、この服を運んできたんだぞ? 察しが悪すぎるんだよ。これじゃあ、意味もなくブラジャーの色を開示して、恥かいただけじゃないか」

「いや…、あんたの下着の色見たところで、『おお! これは東雲先輩のものだ!』とはならんでしょうが」

「パーカーを見ろ! パーカーを! ブラジャーはおまけだこら!」

 黒猫が再び飛び上がり、僕の胸の上に着地する。

 だいたい、いつも一緒にいるんだから、私のブラジャーの色くらい把握しとけよ…と洩らしつつ、黒猫が僕の顔に寄って来て、その金色の瞳で睨んだ。

「それで? 理解してくれたか?」

「ええ理解しました。先輩がAカップで、黒色の下着を身に着けているってことを」

「いつまでも引きずるな! 普段はピンク色だっつーの!」

「あーはいはい。また今度見せてくださいね」

 僕は倒れたまま頷いた。

「…それで、東雲先輩、あんた、なんでそんな恰好してるんですか?」

 改めて、僕の前に現れた「東雲先輩」の姿を見つめる。

 僕の大好きな、東雲先輩。奔放に揺れる濡れ羽色の黒髪も、生意気さを醸し出しながらも、黒曜石のように深く美しい色をした目も、通った鼻筋も、瑞々しい唇も、そして、冬風に揺れる枝葉のような肉体も何もかも、僕が愛おしいと思った先輩の面影はない。

 みすぼらしい黒猫がいるだけ。

「知らないもん!」

 先輩は声を枯らすように言った。

「なんか、急にこんな姿になっちゃったんだもん!」

「急にって…」

 どういうことですか? と言おうとした瞬間、僕の脳裏に、あの光景が過った。

「あ…」

 先日、僕がゴミ収集場で捨てた、あの紙。変化魔法…。

「あ、あああああっ!」

 突然悲鳴を上げる僕に、先輩はびくっとした。

「ど、どうした? 何か心当たりがあるのか?」

「いや、無いです!」

「いやあるだろ、顔に『動揺』の二文字が貼りついてるぞ」

「そりゃ喋る猫を目の当たりにしてるんだから動揺するでしょうが!」

 そう言ったものの、先輩の目を誤魔化すことはできなかった。

「この野郎!」

 先輩は、猫特融の瞬発力を使って僕の顔面に飛びつくと、頭をバリバリと引っ掻いた。

「知ってることがあるなら何でも話しやがれ!」

「いてててて!」

 そうやって取っ組み合いになっていると、お隣の扉が勢いよく開いた。

「何やってんだい! 子どもはもう寝たんだよ!」

 出てきたのは、お隣に住む太ったおばさん。

 部屋着姿の彼女は、目を鬼のように吊り上げると、近所迷惑な僕を睨んだ。

 そして、僕の顔面に、黒猫が貼りついていることに気づく。

「……エイリアン?」

「いや、別に卵産みつけられているわけじゃないですから」

 僕は先輩を顔に張り付けたまま、おばさんの方を振り返った。

「すみません、なんか野良猫に襲われたので、パニックになっちゃって…。大きな声を出してすみませんでした。ちなみに、2が好きです」

 そう弁明すると、おばさんは呆れたようにため息をついた。

「なんだ、そんなこと。男の癖に情けないのねえ。クイーンを宇宙の彼方に放り出すシーンは最高だよね」

 などと、ジェームズキャメロンの名作の感想を語りながら、つかつかと足音が近づいてくる。次の瞬間、僕の顔面から、黒猫が引きはがされた。

 顔中についた毛を払い見ると、東雲先輩は首根っこを掴まれ、干した洗濯物のようにぐったりとしていた。

「あ…、先輩」

「センパイ? なに? この猫知ってるの?」

「いや、知りません」

 そう言うと、東雲先輩が顔を上げ、僕を睨んだ。

「まあいいけど」

 おばさんは疲れたようにため息をつき、通路の手すりの方へと歩いていく。

 次の瞬間、まるでゴミを捨てるがごとく、東雲先輩の身体を駐車場の方へと放り投げていた。

「うぎゃあああああっ!」

 悲鳴を上げる先輩。その小さな体は、すぐに重力に引っ張られ、下の暗闇へと消えていった。

「なんか、人間みたいな鳴き方をする猫なのね」

 おばさんは首を傾げると、手についた毛を払った。

 振り返り、戦々恐々としている僕を見る。

「それじゃあね。おとなしくして眠りなさいよ」

「あ、はい」

 水鳥のように頷く。

 おばさんが部屋に戻り、バタン…と扉が閉められた瞬間、僕は尻を蹴り飛ばされたように走り出し、階段を勢いよく降りた。

 途中躓きそうになりながらも駐車場に出ると、先輩の姿を探す。

「せ、先輩…」

「おーい、こっちだ」

 彼女の間抜けな声は、すぐそばにあった植え込みから聞こえた。

 駐輪場と駐車場を横断する、小さな植え込み。そこに生えたツツジの木に、先輩の身体がめり込んで、動けなくなっていた。

「先輩、ご無事でしたか」

「…ばかやろ、死ぬかと思ったわ」

 とりあえず、先輩の首根っこを掴み、ツツジから引っ張りだす。

 だらん…と垂れた先輩は、金色の目だけを動かして僕を睨んだ。

「とにかく、知ってること話せよな」

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猫殺しに魔法は何回必要か? バーニー @barnyunogarakuta

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