第15話
その日は先輩に会うことが叶わず、僕は便秘が続いた日のような、鈍重な気を抱えてアパートに戻った。
くそ、先輩の野郎。昨日散々僕にメッセージを送ってきたっていうのに…。
小学生の餓鬼みたいな拗ね方をしながら僕は布団に横になり、積んでいた小説を一冊掴むと、おもむろに開いた。
その時だった。
カリカリカリ…と、まるで何かを引っ掻くような音が、玄関の方からした。
「ん?」
玄関の方に目を向ける。だが気のせいだと思い、すぐに本に視線を戻し、ページをめくる。
ぺらっ…と紙が捲れる音に重なってまた、あの音が聴こえた。
耳の奥で、心臓が跳ね上がる。
三秒の沈黙のあと、また、カリカリ…と言う音が聴こえた。
「なんだ?」
恐怖心を紛らわすように、おどけた声で言った僕は、本を閉じ、立ち上がった。
足音がしないよう、静かに扉に近づく。そして、息を殺し、耳を押し当てた。
「おい! 水無瀬! 私だ!」
そこから聞こえたのは、先輩の声だった。
「は? 先輩?」
まさか先輩が来るとは思わず、僕は声を裏返した。
「何やってんすか、先輩」
「とにかく! 開けてくれ!」
「いやまあ、わかりましたけど」
さっきの異音の正体が先輩なのなら話は早い。
僕はドアノブを掴むと、何の躊躇もなくサムターンを捻り、開け放っていた。
ゴツン! と、何か硬いものにぶつかる感触。
「ふぎゅあ!」
それと同時に、甲高い悲鳴が上がった。
「先輩、夜に何の用ですか? アポくらいとってくださいよ。てっきり不審者がやってきたんだと思ったじゃないですか。いやまあ、先輩は歩いているだけで不審者なんですが…。それで? 要件はなんですか? あ! そう言えば部室に、あんたの服が脱ぎっぱなしになってて…」
喜びのあまり口が達者になり、勢いよく喋る。
ふと我に返った時、目の前に先輩がいないことに気づいた。
「あれ?」
サンダルを履いて外に出て、見渡したが、やはり先輩はいなかった。
ただただ、通路の蛍光灯が、軋むように点滅しているだけ。
「あれ…」
でも、確かに先輩の声が聴こえたんだが…。
吹き付ける生ぬるい風を浴びながら、ふと見ると、扉の向かいの壁にもたれかかるようにして、猫が気を失っていた。
「…ねこ?」
一瞬、今朝のハチワレかと思ったが、模様が違う。単色の黒猫だった。
どうやら野良猫のようで、漆黒の毛は焦げたように縮れ、泥やら泥棒草やらがこびりついている。だらんと開いた口からは可愛らしい舌が見え、朝露を舐めるように微かに動いていた。
多分、こいつが壁を引っ掻いていたんだろうけど…。
「おい、大丈夫か?」
恐る恐る、黒猫に近づく。その時、足に柔らかいものが引っ掛かった。
「…うわっ」
デジャブのような感触に、軽く飛び上がりつつ見ると、それは服だった。
白を基調とした、セーラー服を髣髴とさせるパーカー。フードの部分は紺色で、青白いラインが走っている。恐る恐る触れてみると、布地には泥やら泥棒草やらがこびりついていた。
「あれ…」
この服…どこかで見たような…。
そう思いながら、なんとなくパーカーを持ち上げる。その瞬間、服の中から、黒い何かが零れ、音もなく、僕のつま先に落ちた。
「え……」
それは、ホタテの貝殻を繋いだような形の、黒い布だった。質感はポリエステルのようで、無地である。パーカーに包まれていたおかげか、これはあまり汚れていない。触れて、顔を近づけると、汗のようなすっぱい匂いが鼻を掠めた。
「…なんだ、これ」
パーカーなどより、その、サングラスのような形の薄い布に興味を持った僕は、まじまじと眺める。引っ張ったり、撫でたり、振り回したりしてみたが、それがなんであるかはわからなかった。
「仕方ない…」
僕はこほん…と咳ばらいをした。
「これは、部屋に戻ってじっくりと精査するしかない」
「この馬鹿童貞が!」
次の瞬間、聞き覚えのある声が、僕の鼓膜を揺らした。
弾丸のように、黒い気配が迫り、僕の顔面に激突する。
柔らかいような、硬いような、まるで突風に吹かれたような衝撃が脳天を穿ち、僕は悲鳴をあげつつ、背中から倒れた。
「ぐへっ」
ふわっと舞った布が、僕の目の上に落ち、視界が黒くなる。
「ったく! 大学生にもなって、君はブラジャーを見たことないのかよ!」
黒くなった視界の中で、東雲先輩が怒る声が響き続ける。
僕は彼女のものと思われるブラジャーを掴むと、緩慢に上体を起こした。
「いや、ブラジャーくらい知ってますよ。ただ、あまりにも薄すぎたので」
「Aカップで悪かったな!」
再び突風のような気配が迫り、今度は僕の後頭部を打った。
「いてっ」
大した痛みではない。でも、煩わしい痛みだった。
僕はブラジャーを強く握りしめ、振り返る。
「ちょっと先輩、なんなんですか? 人の部屋の前に服なんか落として…」
そして、そこにあったものを見て、硬直した。
僕の背後に立っていたのは、人を見下し、金の亡者で、日々二酸化炭素の排出に尽力する、最低最悪ダメ人間で、でも、顔は良くて、友達と言えば僕しかいない東雲先輩……ではなかった。
そこにいたのは、金色の目をした黒猫だった。
今しがた、開け放った扉に吹き飛ばされ、気を失っていたはずの、黒猫だった。
「え……」
僕はあたりを見渡す。
「先輩?」
「私はここだ」
また、先輩の声。その方に向き直ると、そこには黒猫がいるのみ。
黒猫は凛と立つと、金色の目で僕を見据え、言った。
「私だ」
「は?」
その声を聞いた瞬間、僕は腕を伸ばし、黒猫を抱きかかえた。
「あ! ちょっと、なにをする!」
黒猫が東雲先輩の声で言いながら暴れる。
四の五の言わせず、黒猫を引っくり返すと、手を這わせて、その柔らかな身体をまさぐった。
「あ! 触るな! 私は今裸なんだよ! あ! だめ、そこはダメ! そこ触っちゃ…、あ、あんっ!」
プリンがとろけるみたいに、猫がだらん…と伸びる。
「なんだ、これ」
黒猫を抱きかかえながら、僕は首を傾げた。
「なんで、この猫から、東雲先輩の声がするんだ?」
ブルートゥースで接続できるスピーカーか何かを取り付けているのかと思ったが、そんな様子はない。じゃあロボットか? と思ったが、身体に触れた時に感じる熱や、薄い毛皮の向こうにある肉や骨、そして心臓が脈動する感覚は、明らかに生きている動物のそれだった。
「なあ、お前、なんなんだ?」
「てめえの先輩だよ!」
黒猫はそう叫ぶとともに跳ね上がり、僕の顔面を蹴りつけた。
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