第四章 黒猫

第14話

【七月三十一日】

 翌日。

 住みつかれるのかと思いきや、猫は聞き分け良く部屋から出て行ってくれた。

 去り際、そいつは僕の方を振り返り、尻尾を振りながらひと鳴きする。

「にゃあ」

「ん、また遊びに来いよ」

「にゃーん」

 走り出した猫は、俊敏な動きで階段を駆け下り、アパートの駐車場を横切ると、角を曲がって見えなくなった。

「可愛い奴だったな」

 猫を見送った僕はそう洩らすと、部屋に戻り、支度をした。

 今日から夏休み。補講も補修も無し。いつもより軽いリュックを背負い、嬉々として部屋を出る。施錠すべく鍵を握った僕の手の中には、さっきの猫を撫でた時の感触がくっきりとした輪郭を持って残っていた。

 なんだか良いことありそう…。

なんてくだらないことを考えながら、猫の軌跡をなぞる様に階段を降りる。

 見上げると、今日も威武火市の上空には、灼熱の太陽が鎮座していて、大地の恵みを育むべく、ありがた迷惑な光を放っていた。すれ違う者たちは皆、顔を三ミリほど顰め、今にとろけんとするアスファルトに足を取られながら進んでいた。

 そういう僕も、陽炎の向こうに三途の川を垣間見ながら、大学に辿り着いた。

 実に一日ぶりに、学生会館に向かう。

 相変わらず下手くそな軽音部の演奏を横目に、四階の文芸部室の扉を開けた。

「どうもー、先輩、来ましたよ~。今日は何食べます?」

 なぞる様に言った僕の言葉は、誰もいない部室に虚しく響いた。

「…あれ?」

 気恥ずかしさを抱きながら、僕は部屋を見渡す。

 鍵が掛かっていないから、てっきりいるものだと思っていた。これは多分、鍵を掛け忘れて出て行ったんだろうな。

 なんとなく、僕は一歩踏み出し、部室に入った。

 コツン…と、スニーカーのソールが床を捉える音が、やけに目立って響く。

 壁際の本棚には、彼女が今まで集めてきた小説やら漫画やらが山ほど収納されている。ただし、整頓能力は無いせいで、背表紙が逆さになっていたり、小口がこちらを向いていたり、よくわからないDVDが紛れていたりと、小学一年生教室の本棚のような様相だった。

 片付けてやろうと思い、本棚に近づく。

 その瞬間、爪先に柔らかいものが触れた。

 見るとそこには、黒い布が落ちていた。

 拾い上げようと身を屈めた時、それが、先輩がいつも履いているロングスカートだということに気づく。

「はあ?」

 思わず、声が裏返った。

 さしずめ、この部屋で別の服に着替えたのだろうけど、まさか脱いだ服をそのままにしておくなんて…。あの人はこの部屋を実家か何かと勘違いしているのか?

「…いや、実家だと勘違いしてるよな」

 目を向けた部屋の角には小さなテレビが設置してあり、その前には、据え置き型のゲームが置いてあった。さらに、その横にはミニ冷蔵庫があって、彼女の好きなエナジードリンクが冷やされている。

 僕はため息交じりにスカートを拾い上げた。その瞬間、黒い何かが零れ、足元に落ちた。

 それを見た時、心臓が跳ねるのがわかった。

「うそだろ…」

 それは綿製の黒いパンティだった。

このスカートの中から落ちたということは、十中八九、先輩のお召し物である。

 一瞬、頭の中によからぬことが過ったが、すぐに「軽蔑」に押しのけられて消えた。

 スカートを脱ぎっぱなしにするのはまだしも、下着をそのままにしておくなんて、女性としての自覚が無いというか、そもそも、人間としてどうかしているというか…。

「もうー」

 僕は項垂れ、壁に背を持たれた。

「先輩、マジでしっかりしてくださいよ」

 とりあえず僕は、先輩のスカートを畳むと、ついでに部屋の片づけをするのだった。

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