第13話

「にゃーん」

 アパートまでもう少し…という時に、人通りの少ない路地を歩いていた僕の耳が、可愛らしい猫の鳴き声を捉えた。

 見ると、塀の上にハチワレ模様の黒猫が座っていて、その金色の瞳を僕に向けていた。

「あ、猫」

 僕と目が合った瞬間、ハチワレ猫は立ち上がり、また「にゃーん」と楽しそうに鳴いた。

「どうした?」

 何を隠そう猫好きな僕は、蜜に誘われるカブトムシのごとく、ハチワレに近づく。

 撫でようと手を伸ばした瞬間、ハチワレが跳び上がり、僕の頭に乗った。

 意外に重く、よろめく。その拍子に、猫が僕の頭からずり落ちた。

「おっと…」

 反射的に腕を伸ばし、ハチワレを抱き止めた。

「危ない危ない…。大丈夫か? いやまあ、猫だから落ちても平気だろうけど…」

「にゃーん」

 人に慣れているハチワレは、僕の腕の中で力を抜き、甘えた声をあげた。

 ふわふわの毛に、くりっとした目。心を直に温めてくれるような熱。そして、香ばしい匂い。

「おー、よしよし」

 存在そのものが可愛らしい猫に骨抜きにされた僕は、今までに発したことが無いような声をあげて、猫を抱きしめた。

「可愛いなあ。お前は可愛いなあ…」

「にゃーん」

 猫もまた、自分が可愛いと自覚しているような鳴き声を上げる。そのあざとさもまた愛おしかった。

「よし、じゃあな」

 散々撫でまわし、心労からすっかり解放された僕は、ハチワレ猫を塀の上に戻そうとした。

 だが、猫はまるで「離れたくない!」とでも言うように鳴き、僕の腕にしがみ付いてくる。

「にゃーん、にゃーん」

 その必死な形相に、少し困ってしまう。

「お前、僕と一緒に居たいのか?」

「にゃあ!」

 まるで「そうだよ!」と言うように鳴く。

「…困ったな」

 いくら猫好きだからと言って、流石に、この子をペット禁止のアパートに連れ帰るわけにはいかない。

「頼むよ、離れてくれよ…。また遊んでやるからさ」

 そう言って、無理やり猫を剥がそうとしたが、猫らしい強靭な筋肉でしがみ付いてきて、あわや買ったばかりのパーカーが裂けそうになってしまった。

「ああ、もう…」

 諦めた僕は、深いため息をついた。

「わかったよ。じゃあ、一晩だけだぞ」

 ああ…、東雲先輩に金を貸してしまうのも、こういう甘さからくるものなんだろうな…と、自己嫌悪に浸りながらも、僕は猫を抱えなおし、その丸い背中をぽんぽんと撫でた。

「本当に、一晩だけだからな。あと、お隣さんには絶対にばれないようにしろよ」

 そう言うと、日本語が通じたのか、猫は尻尾を揺らし、「にゃーん」と鳴いた。

 猫を抱えてアパートに戻った僕は、人の目を気にしながら階段を駆け上り、鍵を使って部屋に飛び込んだ。

「ちょっと待ってな」

 そう言って、猫を放つと、廊下を通って居間に入り、窓を全開にして換気した。

 散らかりまくった部屋を見渡し、適当に片づける。それから、冷蔵庫の扉を開けて、鰹節とご飯を混ぜて猫まんまを作った。

「ほら、どうせ腹減ってんだろ?」

 行儀よく机の上で待っていた猫の前に、皿を置く。案の定そいつは猫まんまにがっつき、嬉しそうな声をあげた。

「ほんと、世渡り上手なやつだな」

 嬉しさ半分、呆れ半分、僕は猫を撫でた。

「じゃあ、シャワー浴びてくるから、おとなしくしてろよ」

 炎天下の中、青村さんと一緒に歩きまわったのだ。僕の身体は汗臭くなっていた。

 羞恥心なんて抱かず、猫の前で裸になると、風呂に向かう。

「にゃーん」

 声がするから振り返ると、ハチワレが足元にいた。

「ん? どうした?」

 そう言いながら、風呂の扉を開ける。すると、ハチワレは身を滑らせ、湿気漂う風呂に入っていった。そして、シャワーヘッドを見上げ、また鳴いた。

「どうした、お前もシャワー浴びるのか?」

「にゃん」

「もしかして、部屋が汚れるの、気にしてるのか?」

「にゃん」

「行儀の良い奴だなあ」

 感心した僕は、ハンドルを捻る。

 たちまち、シャワーヘッドから水が噴き出し、ハチワレ猫の頭に掛った。

 冷たかったのか、そいつは「にゃんっ!」と悲鳴を上げると、僕の方に避難してくる。

「すぐに温かくなるからな」

 そう言ったが、なかなか水は熱くならない。

 何とも言えない、鈍い時間が経過し、ようやく給湯器が自分の仕事を思い出したかのように、シャワーヘッドに温い水が混ざり始めた。

「おー、よしよし」

 手で温度を確かめた僕は、それを猫の頭に掛けた。

 今度こそ猫は悲鳴を上げることなく、むしろ心地よさそうな顔をして、その柔らかな身体を濡らしていった。

「水に慣れてんのな」

「にゃあ」

 猫とシャワーを浴びるなんて新鮮な体験に、僕は頬を綻ばせるのだった。

 シャワーを浴びて臭い身体を洗い流した僕たちは、一緒にドライヤーを浴び、少し遅めの昼ご飯を食べた。僕はカップラーメン。猫は猫まんま。お腹が膨れた後は、椅子に腰かけ、のんびりとした時間を過ごした。後は猫じゃらしを持って遊び、一緒にテレビを見たり、本を読んだり、ゲームをしたりして、時間は流れる雲のように過ぎていった。

 そして、少し早めに、就寝することにした。

「あ…、そうだ、先輩」

 布団に入った途端、先輩のことを思い出し、スマホを手に取った。

 電源を入れて見たが、あれから、先輩から新しいメッセージが送られてくることも、電話が掛けられていることもなかった。

「拗ねちゃったかな」

 先輩らしいや…と思い、また、スマホを枕元に置く。

「にゃあ?」

 ハチワレの猫が布団に潜り込んできて、僕の胸元に額を擦りつけてきた。

「お前、誰とでも寝るの?」

 そんな冗談を言いつつ、僕は猫を抱きしめた。

「明日には出て行けよなあ…」

「にゃあ」

 まるで猫は「わかったよ」と言うように鳴き、丸くなった。

 その愛らしいフォルムを眺めながら、僕はのんびりと夢の世界へと片足を突っ込んでいくのだった。

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