ああ!昭和は遠くなりにけり!

@dontaku

第1話

信子が音大付属のオーケストラの一員となって1年が経とうとしていた。

お互い共稼ぎで忙しい時もあるのだが、信子は演奏会や練習の時以外は家にいてピアノの練習をしていた。

そんなある休日、信子と私は車で近所の大型スーパーへ買い物に出かけた。その2階にある楽器店にピアノが置いてあり、そのうち数台が自由に弾くことが出来た。2人で買い物袋を提げてその店の前にさしかかった時だった。小学生の女の子がそれぞれピアノを弾いていた。一人の子の周りには数人の女の子たちが群がっていた。

「確かに、上手だね。」私は信子に話しかけた。

「うーん。でももう一人の子・・・。」そう言いながら余り上手く弾けていない女の子の傍に寄り添うように右手で弾いて教え始めた。

びっくりしている女の子に優しく話しかける信子。

女の子はにっこりと頷いて信子の真似をしながら弾き始めた。

きっと自分がピアノを習い始めた幼い頃を想い出したのだろう。

すると、たどたどしかった女の子の演奏がスムーズになったのだ。

曲は「アマリリス」。音楽の時間に習っているのだろうか。短い曲であるがすぐに立派な演奏が出来るようになったのだ。これには驚いてしまった。当の女の子は満面の笑みを浮かべて何度も弾きかえしている。

「おねえちゃんも一緒に弾いて。」女の子のリクエストだ。

「うん、いいよ。さんはい。」二つの「アマリリス」が流れる。

簡単な曲だというが連弾すると聴こえ方が違う。

いつの間にか女の子の母親が小さな男の子を抱いて立っていた。

「嘘でしょ!何で弾けているの?」驚いた母親の第一声だった。

「ママ!おねえちゃんが教えてくれたんだよ。」嬉しそうに母親に報告する女の子。

「お母さま、ごめんなさい。一生懸命弾いていらしたからついつい・・・。」

信子が恐縮そうに詫びた。

「いえ、とんでもない。この子なかなか上手く弾けなくて。私が買い物中はいつもここで弾いているんです。迎えに来たらちゃんと弾けてるもので、もう、びっくりしちゃって。」興奮冷めやらぬ母親の様子に周りの人も釘付けになっていた。

その日はまた次の日曜日に会いましょうと約束をして帰宅した。

「うふっ、なんだか楽しくなっちゃった。」買い物袋をテーブルに投げ出すと早速ピアノの元へ。私は買ったものの片付けを済ませて後からピアノルームへ入って行った。

信子は一心不乱に「アマリリス」を弾いていた。しかも全て曲調が違う。素人の私でもはっきり分かった。

「信ちゃんは本当に勉強熱心だね。」私の問いかけに信子は微笑みながら逆に私に問いかけてきた。

「ねえ、どの「アマリリス」が良いと思う?」

そう言いながら数パターンの「アマリリス」を弾いてくれた。

「うーん。俺の好みはジャズ調?かなあ。」私が腕組みをしながら答えると信子はくすっと笑った。

「うふっ、昔と変わらないね。ジャズ好きだものね。だからジャズ喫茶でピアノ弾いて待っていたんだよ。」嬉しそうに10年ぶりに再開した時のことを話しだした。

「そう!あの時はびっくりした!まさか!と思ったよ。」私も懐かしむように言葉を続けた。

「私、こんなに幸せで良いのかなあ?」信子は小声で呟いた。

「俺は信ちゃんを幸せにするために生まれて来たんだぜ。」そう言ってピアノの前に座っている信子の肩にそっと手を置いた。

「やだあー!カッコつけてるうー。」おどけた様に信子は笑った。


次の日曜日、何時も通り近所のスーパーに買い物に出かけた。

買い物を終えて一旦荷物を車に載せてから2階の楽器店へ向かった。

先週の女の子が「アマリリス」を弾いていた。あっ!何かが違う!

私が感じるのが早いか信子が駆け出すのが早いかといったタイミングだった。

「こんにちは。上手に弾けてるね。」信子は先週教えてあげた女の子に話しかけた。

「こんにちは。お姉さん。弾けるようになってどんどん楽しくなって!だから何回も弾いているんだよ。」嬉しそうに女の子が満面の笑みを浮かべて信子に話している。

女の子が弾いてる時の指使いが素早い。子供の小さな指ではなかなか届かないところへも掌自体をすっと移動させている。

信子は見逃さなかったのだ。

「ねえ、これって弾けるかな?」そう言いながら「メヌエット」を弾き始める信子。その信子の指先をじっと見つめる女の子。

「うんやってみる。」女の子は信子を見つめて元気な声で答えた。

やってみるって、楽譜もないのに?素人ながら小学生の女の子が楽譜なしで見よう見まねで弾けるのだろうか?

しかし、なんと女の子は「メヌエット」を弾き始めたのだ。

「うそだろ!何で弾けるんだ?」思わず私は驚きの言葉を発していた。

「思った通りだわ。この子、絶対音感と指使いをきちんと記憶出来るの。本当にこんな子が近くにいたなんて。」そう言いながら信子は女の子にその先のパートを教え始めた。

「最初から続けて弾いてみて。」信子に言われて女の子が最初から弾き始めた。間違えることもなくしっかりと鍵盤をたたいて演奏を終えた。

パチパチパチ!いつの間にか大勢の人たちが女の子の演奏を見守っていた。女の子は少し驚いていたが直ぐに2度目の演奏に入った。

違う!最初の演奏と全く違う!格段に上手くなっている!

居合わせた方々からも思わず「おおっ!」と驚嘆の声が上がる。

演奏が終わると女の子は椅子から降り、集まってくれた皆さんに深々とお辞儀をした。割れんばかりの拍手が鳴り響いた。

「うそ!うそでしょ!やっと「アマリリス」が弾けると喜んでいた“美穂”が・・。」いつの間にか母親が女の子の傍で立ち尽くしていた。

「“美穂”ちゃんとおっしゃるんですね。とてもお上手に弾けましたよ。」信子は母親にそう言いながら挨拶をした。

「いえいえ、とんでもない。まさか“美穂”がこんなに上達するなんて。信じられない。」声を震わせながら母親は答えた。

「お母さま。ぜひ私に“美穂”ちゃんのレッスンをお任せいただけませんか?」

すると楽器店から一人の女性が走り出てきた。

「信子先輩!お久しぶりです!」その女性は信子に深々とお辞儀をした。

「あらあっ!優香ちゃん!お久しぶり!」信子は声を弾ませて女性の方へ歩み寄った。

「いきなり「メヌエット」を弾いてるのが聞こえたので何事かと思ったんです。まさか信子先輩だったなんて!」優香さんは驚いた様子だった。が、更に驚くこととなった。

「やだ!違うのよ。弾いていたのはこの“美穂”ちゃんなの。」そう言って信子は“美穂”ちゃんを紹介した。

「えっ?この子、何時も来てくれてるけど「メヌエット」が弾けるとは思わなかったです。何で弾けるようになったんですか?」

信子は“美穂”ちゃんの母親と後輩の優香さんに事の次第を説明した。2人とも驚いた様子で信子の話に聞き入っていた。

そんな流れで3人をわが家にお招きすることになった。


その日の夕刻に3人が尋ねてこられた。

信子と私の2人の手料理でおもてなしをした。美穂ちゃんは美味しいと言ってたくさん食べてくれた。優香さんとお母さんも美味しいと言ってくださり美穂ちゃんに負けない位にたくさん召し上がってくださった。

食後のティータイムではよもや話に花が咲いていたのだが優香さんが音大時代の話をすると美穂ちゃんとお母さんはびっくりしたように聞き入っていた。特に美穂ちゃんが目を輝かせて聞き入っていたのが印象的だった。

「先輩!ピアノ見せてください。」優香さんの一声で、皆でピアノルームへ移動した。

「わあー!すごおーい!」美穂ちゃんは真っ先にピアノの傍に駆け寄って行った。信子が幼い時の姿が目に浮かぶようだ。

「先輩!これって・・・。」驚いたように優香さんが言った。

「そうよ。私も知らなかったの。小さい頃から時々弾いていたんだけど。」信子がそう言いながらピアノのカバーを開けた。

「すごいグランドピアノですね。」母親も素人ながら置かれているピアノが普通のものでないことに気付いたようだ。

「美穂ちゃん、弾いてみて、「メヌエット」」。

「うん。」美穂ちゃんは軽く頷くと椅子によじ登るようにして座った。

美穂ちゃんの「メヌエット」が流れる。嬉しそうな美穂ちゃんの気持ちが通じたかのようにピアノの旋律が踊る。

「すごい!ピアノもすごいけど美穂ちゃんの演奏もすごい!」優香さんが驚きの声を上げる。

「本当に美穂が弾いているんですか?」母親も信じられないように驚嘆の声を上げた。

「続きはこう弾くのよ。」信子は美穂ちゃんの演奏の続きを弾いて見せた。

「うん、わかった。」今度は美穂ちゃんがそのパートを弾いていく。

「譜面も読めないのにどうして?」母親は信じられない様子だ。

「絶対音感!そうですよね!」優香さんがそう叫んだ。

「そう。併せて記憶力がすごいの。だから音階も指使いも直ぐに覚えてしまうのよ。」信子はそう答えながら母親に話しかけた。

「正式に、美穂ちゃんのレッスンを私に任せてください。」

こうして美穂ちゃんの本格的なレッスンが始まることとなった。

話がまとまると演奏会となった。優香さんがワルツを弾き、信子も独奏曲を奏でた。美穂ちゃんは目を輝かせて聴き入っていた。

今後が楽しみだ。


その日以降、毎日学校の帰りにわが家を訪れるようになった美穂ちゃん。お陰で家の中が一層華やぐようになった。

信子が地方への演奏会のために数日間留守にするとレッスンが出来ない。そんな時は家の合鍵を使ってピアノルームで練習をするほどピアノが大好きになっていった美穂ちゃんだった。

「美穂ちゃん、コンクールに出てみない?」突然信子が美穂ちゃんに問いかけた。それは信子が卒業した音大主催のピアノコンクールで、小学生の部門での一般出場だった。

「うん!やってみる!」美穂ちゃんは二つ返事だった。

その日のレッスンが終わり何時もの様に信子が美穂ちゃんを送って行った。その時に母親にコンクールの件を伝えたそうだ。

母親はびっくりして美穂ちゃんをじっと見つめていたとのことだ。


ピアノコンクールの当日、私たち4人は信子の音大に向かった。

信子は、車中ではコンクールでの身の振舞方などを美穂ちゃんにレクチャして何時も通りで大丈夫と何度も言い聞かせていた。

音大のコンサートホールは信子の勤務先でもある。しかし今日はお忍びで観客席から美穂ちゃんの演奏を聴くことにしたのだった。

「本当に誰にも言わなかったのかい?」私は信子にそっと耳打ちした。信子は何時もの様に「うふっ!」と微笑んで頷いた。美穂ちゃんと母親は控室にいる。保護者達は大きなモニターに映し出される我が子を祈るように見つめている。そんな中、美穂ちゃんの出番がやって来た。堂々と歩いてピアノの傍に行き、会場のお客様へ一礼をする。

あっ!そうだ!それは昔の信子そのものだった。懐かしい感情が込みあげてきた。

そんな私の気持ちにはお構いなく、美穂ちゃんの演奏が始まる。得意の「メヌエット」だ。フルで演奏すると結構長い。すぐに会場が騒めき出した。そうだ!美穂ちゃんは楽譜を持たず手ぶらなのだ。当然ピアノの楽譜立てには何もない。

それでも美穂ちゃんの小学生らしからぬ旋律が流れる。上手い。正直、信子の演奏を初めて聴いたあの時よりも格段に上手だ。

会場からは物音一つ聞こえない。来場者全員が美穂ちゃんの演奏に聴き入っているのだった。そして、恙なく演奏を終え一礼する美穂ちゃんに大きな拍手が起き、それは鳴り止まなかった。「とても小学生とは思えない。」そんな会話が飛び交っていた。信子の時もそうだった。私は隣の信子に目を移した。信子は目に涙を浮かべて一生懸命拍手をしていた、あの時の信子の母親の様に。レッスンを初めて約半年。やはり信子の目に狂いはなかった。

私たちが確信していた通り、美穂ちゃんは見事優勝した。優勝のトロフィーと賞状を渡してくれたのはあの学校長さんだ。優しいおじさんはマイクを持って美穂ちゃんに歩み寄り身を低くして尋ねた。

「すごくお上手だったよ。どこのお教室に通っているのかな?」

「ううん。お教室じゃないの。信子お姉ちゃんに教えてもらっているの。」美穂ちゃんは嬉しそうに答えた。

「えっ!信子お姉ちゃん?」そう言いながら学校長さんは会場を見回した。そして会場にいる信子と私と視線が合った。不可解そうだった学校長に満面の笑みが戻った。

表彰式も終わり楽屋へ向かった。楽屋では美穂ちゃんが大勢の出演者たちに囲まれていた。

「この度はありがとうございます。まさか、美穂が優勝だなんて・・・。」

後は言葉にならなかった。余りの出来事に嬉し涙を拭う母親。

「やっぱり信ちゃんだったか!」そう言いながら学校長さんが控室に入ってきた。

「お久しぶりです。ご無沙汰しておりました。」2人で挨拶すると母親は状況が飲み込めないでいるようだった。

「いやいや。信ちゃんもお人が悪い。なぜ推薦枠を使わなかったのかね?美穂君の実力なら十分推薦枠で行けたよ。」そう言って人の輪の中の美穂ちゃんを優しく見つめた。

「いいえ、推薦枠はピアノ歴1年以上じゃないと使えないんです。」信子が申し訳なさそうに答えた。

「1年にもならないのに譜面も見ずにあの演奏が出来るのか!」驚く学校長に信子は続けた。

「はい。しかも美穂ちゃんはまだ楽譜が読めないんです。」

信子の答えに目を見開いて驚く学校長さん。

「天才としか言いようがない。信ちゃん、素晴らしい子を見つけてくれてありがとう。」そう言って学校長さんは美穂ちゃんに話しかけた。

「美穂ちゃん、優勝おめでとう。素晴らしい演奏だったよ。」

「あっ!おじちゃん!ありがとう!」人懐っこい美穂ちゃんの一言に学校長さんの顔も緩みっぱなしだった。

帰りの車の中で母親からお礼の言葉を頂いた。しかし私は私たちのこと、特に信子のことを詳しく話していなかったことをお詫びした。信子が楽団員であること、在学中から学校長、理事長と懇意にしていただいていることをお話しした。

「まあ!そうだったんですか!」そう言いながら母親はシングルマザーであり一人で美穂ちゃんと生まれて1年ほどの弟を育てているとのこと。十分に美穂ちゃんの面倒を見てあげれないことを話してくれた。しかも、美穂ちゃんは前の夫との子供で弟は今度再婚する人との子供だというのだ。更に美穂ちゃんが新しいお父さんを嫌っているというのだ。話を聞く限り、どうも馬が合わないのを通り越しているようだ。このままでは美穂ちゃんが駄目になってしまうかもしれないと私は思った。すると今まで黙って聞いていた信子が徐に口を開いた。

「お母さん!美穂ちゃんを私にお任せください!」私を含む3人は耳を疑った。私は思わずルームミラー越しに後部座席の母親に目をやった。

「美穂ちゃんを私の子にさせてください!」

そうして美穂ちゃんは私たち2人の養女となった。


当時小学2年生の美穂をわが家の一員として迎え入れてからわが家は華やいでいた。あれから約半年、3年生になった美穂は完全に私たち2人と打ち解けて本当の親子になって行った。しかも、美穂は子供時代の信子そっくりでピアノだけでなく勉強も運動も卒無くこなした。ただ、私と信子が仕事の時は私が幼い頃と同様に鍵っ子だった。毎日、学校から帰ると一目散にピアノに向かい一生懸命練習をしていた。防音してあるピアノルームには来客時にはインターホンのランプが点滅し来客を知らせてくれた。しかし、私たちは美穂に対応しなくて良いよと言い聞かせていた。

小3ながら簡単な料理も出来る美穂は自分のことは自分でできた。服選びから洗濯まで。やはり信子に似て積極性があり器用なのだろう。楽団の仕事がオフの日には2人でピアノの練習をしたり買い物に行ったりして楽しそうに過ごしていた。そうして夏休みがやって来た。どこか都合のつく日に親子3人で出かけることになった。そうだ!想い出のあの神社へ行こう!信子も大賛成だった。もちろん美穂も。


そして、飛行機でやって来た思い出の地。ホテルに着くと、すぐに信子と美穂は浴衣に着替えて、散布に出かけた。そして自然と昔懐かしい参道を歩いていた。美穂は昔の信子同様に運動靴を履いて大はしゃぎだ。私はラフな甚平を身に纏っていた。

信子と2人で訪れたのは10歳の時。神社の参道は昔とあまり変わらない。懐かしの老舗のお団子屋さんも今なお健在だ。

「後で寄ってみようか。」懐かしい光景に胸を熱くしながら親子3人で境内に入る。参拝を済ませ屋台が並ぶわき道を歩く。いい匂いにつられたのか美穂はキョロキョロ何かを探しているようだ。

「美穂、何が食べたいの?」信子の問いかけに大きな声が返ってきた。

「あんず飴!あんず飴を食べてみたい!」そう言って屋台を指差す。

あっという間に時間が戻る。あの時の信子もそうだった。2人で食べたあのあんず飴の味が蘇ってくる。

「うふふ、そうだね。3人で食べようね。」そう言って親子2人であんず飴の屋台に向かって歩き出した。その後を私が続く。

「へい!いらっしゃい!お2人さん、いや3名様だね。」初老の店主が迎えてくれた。なぜ“お2人さん”なんだ?疑問に思った瞬間、信子の驚きの声が上がった。

「わあーっ!おじさんお久ぶりですう!」

そうだ、あの時の水風船釣りのおじさんだ!

「わあーっ!懐かしいです!」

「いやあ、すぐに分かったよ!そうかそうか!そのままゴールインしたのか!しかも2世ちゃんまで!」

そんな私たちのやり取りをポカンとした表情で見つめる美穂。

「はい!お待ち!」おじさんは屋台の脇から身を屈めてあんず飴を美穂に手渡ししてくれた。

「わあーっ!おじさんありがとう!」美穂の元気な声に満面の笑みで答えてくれる屋台のおじさんは次々に私たちにあんず飴を手渡してくれた。

「ありがとうございます。いただきます。」お代を払いながら私もあんず飴をほおばる。口の中にあの甘酸っぱさが蘇ってくる。

「懐かしいね。美穂はどう?」そう言う信子も満足そうだ。

「甘酸っぱくて美味しいね。」美穂も満足そうに食べ続けている。

「そうかい、そうかい。3人で幸せそうだなあ。良かった良かった。あの頃からあまり変わってないみたいだ。仲良くってさ。」懐かしむようにおじさんは話してくれる。

「お父さんとお母さんは君と同じくらいのころから仲良しでね。」美穂に私たち2人の馴れ初めを話してくれた。

「わあ!昔っから仲良かったんだあ!だから喧嘩もしないんだね!」

この一言には一同大笑いだった。

「あれっ?お嬢ちゃんが着ている浴衣って・・・。もしかして・・・。」

おじさんは当時信子が着ていた浴衣の柄や色を覚えていてくれたようだ。

「そうなんです。私のお下がりなんです。いまこの子は小3なんですけど今の子は成長が速いのかサイズがぴったりなんです。」信子は嬉しそうにおじさんと話していた。

「おっ!カメラ持ってるのかい?屋台の前で撮ってあげるよ。」こうして初めての親子3人での記念の1枚が生まれた。

「また来ます!」3人でお礼を言って再び歩き始めた。人混みの流れに乗るように参道を下っていく。

「お団子、食べようか?」信子と美穂に提案した。

「うん!」2人の嬉しそうな声が返ってきた。

店の入り口はいつの間にか自動ドアになっていた。3人で中に入る。店の作りはあまり変わっていなかった。

「いらっしゃいませえーっ!」元気な声が聞こえたと同時だった。

「ひゃあーっ!もしかして!あの時の!」初老のおかみさんの驚いた声だった。

「覚えていてくださったんですね。あの時は優しく見守ってくださりありがとうございました。」信子と2人でお礼を言った。

「そりゃあ覚えてますよ。お行儀の良いお子さんたちでしたから。」飛び切りの笑顔で奥の席に案内してくれた。

「まあ、まあ、可愛いお嬢さんもご一緒で。」そう言いながらお茶を出してくれる女将さんだった。そんな女将さんを事情を知らない他の店員さんたちはポカンと見守るばかりだった。

懐かしい“抹茶とお団子のセット”をお願いした。美穂がお抹茶を頂けるか不安であったが私が2椀頂けばよいだけの話だ。

「はい、お待ちどう様でした。」3組の“抹茶とお団子のセット”が運ばれてきた。美穂は初めてのお抹茶に興味津々だ。信子が頂き方を美穂に教える。美穂は教わった通りに椀を持ち、そっと口を付ける。

「まあーっ。可愛い!」他のお客様からの歓声に動じることなく一口目を口に含む美穂。

「うん。苦いけどお抹茶の味と香りが好き。」美穂は隣に座る信子に初めてのお抹茶の感想を告げた。

「あらあ、嬉しい。お口に合って。」にこにこ顔のおかみさんだった。

散々お世話になって、お店を出た。

「あのもくもくはなあに?」ふいに美穂が何かを見つけて指を差した。遠くの方で湯気が立ち登っている。

「なんだろうねえ。」美穂の手をしっかり繋いで歩く信子。

「ああーっ!あった!」美穂が大きな声で私の方を向いた。

「お饅頭だよ。熱々だから気をつけようね。」そう言いながら3人で店先の湯気を上げている大きなせいろの傍に近づいた。

「うわあーっ!おっきいーっ!」初めて見る大きな業務用のせいろに感激している小3女子。

「お嬢さん、はいどうぞ。」お饅頭を蒸かしていたお兄さんが美穂に小さなお皿に乗った試食用のお饅頭を差し出してくれた。

ちらっと美穂は私たちを見た。

「頂いてごらん。」私が促すと、こくりと頷いて嬉しそうに手を伸ばした。

「お兄ちゃんありがとう。」そう言って受け取ったお饅頭をパクリとほおばる。嬉しそうだ。

「お味はどうかなあ?」お兄さんが微笑みながら美穂に問いかける。

「うん。あんこが甘くて美味しい。」そう言いながらぱくぱくと食べ進む美穂を周りの人たちもじっと見つめ微笑んでいた。

お土産のお饅頭をしっかり持った美穂の手を握って駅の方へ向かって歩く。横で見ていると信子は良い母親になったものだと感心する。美穂が来てくれて信子も私も何かが大きく変わったという実感が持てた。おそらく信子も私同様にそう感じているに違いない。

宿泊先のホテルに戻ると美穂は大はしゃぎだ。家の寝室とは違う雰囲気が気に入ったようだ。夕食の前に大浴場に出向いた。大きなお風呂にびっくりしていたようだ。お利口さんでいられたのだろうかと心配したが、どうやら信子の仕草をしっかり真似て大浴場を満喫出来たようだ。

ロビーで2人と合流し、お風呂上りに冷たい“フルーツ牛乳”を3人でいただく。美穂には初めての“フルーツ牛乳”だ。喉を鳴らしながら美味しそうに飲み干した。私たちも懐かしい“フルーツ牛乳”を楽しんだ。懐かしさで昔のことが次々に蘇ってくる。明日はその懐かしい場所へ出かけてみることにした。

夕食はバイキングだった。信子と美穂を先に料理の元へ行かせ何を取ってくるか楽しみに待っていた。すると2人がきゃっきゃと嬉しそうに席に戻ってきた。美穂のお皿には大量のローストビーフがこれでもか!と言わんばかり乗っていた。信子はお刺身コーナーで海鮮丼を作ったようだ。

「美穂はお肉だけじゃないか!」笑いながら私が言うと「また、お替りして、今度は海老フライを食べるの!」と無邪気に笑う。それにつられて信子と私も思わず笑みがこぼれた。

こうしてディナーを済ませた私たちは最上階にある展望ラウンジへ移動した。20年の月日は街を大きく発展させていた。夜景が素晴らしく、特に美穂は飲み物を頼んだことを忘れて美しく輝く夜景に見惚れていた。

「美穂にはちょっと大人過ぎたかしら。」信子が優しい眼差しを美穂に向けながら私に話しかけた。

「何事も経験だよ。美穂はしっかりして分別もあるから大丈夫さ。」私はそう答えると美穂の方へ目をやった。

「美穂!どこへ行った!」思わず立ちあがる信子と私。するとラウンジ中央に置いてあったピアノが鳴った。

「あっ!勝手に!」そう思いながら2人でピアノの傍まで小走りで向かう。するとそこではお店の方数名が美穂を見守ってくださっていた。そんな中、美穂の旋律が流れる。いつの間に練習したのだろうか、「エリーゼのために」を美穂が弾いているのだ。ちょこんと椅子に座った美穂の身体が演奏と共に大きく前後左右に揺れる。まるで信子が弾いているようだ。

「すごいわ!楽譜もないのにここまで弾けるなんて!」ピアノの演奏を担当する女性が驚きの声を上げる。

「おいおい。演奏開始はまだ・・・・。ええーっ!」開始時間前にピアノの演奏が始まったのに驚いて駆けつけたラウンジの責任者だった。「何で子供が弾いているんだ?しかも上手すぎだよ!」そう言って立ち止まり、他の従業員さんたちと美穂の演奏に聴き入っていた。

曲が終わるとラウンジのあちらこちらから拍手が上がった。

「すみません!本当に申し訳ありません!」美穂を抱きかかえて二人で皆さんに頭を下げてお詫びした。

「美穂!駄目だよ!勝手によそのピアノを弾いちゃあいけないよ。」私がそう言い聞かせると美穂が答えた。

「ごめんなさい。美穂、今日は一度もピアノさんを弾いてなかったから。」

「そうだったの。ピアノが大好きなのね。お姉さんと一緒に弾こうよ。支配人さん良いでしょ、お願いします。」演奏予定だったお姉さんが美穂を誘ってくれた。

「わあっ!ありがとう!お姉さん!」美穂は私の腕を振り切りピアノの傍へ。美穂が椅子に座るとお姉さんが尋ねた。

「この曲弾けるかな?」お姉さんは最初のフレーズを弾き始めた。

「ううん、知らない曲。でもお姉さん弾いてみて。」美穂にそう言われて少し不思議そうに演奏するお姉さん。

「いくらなんでも・・・。」心配する私の傍で信子が言った。

「この時点での美穂の実力が良おーく分かるわ。」

お姉さんの演奏が終わった。

すっと美穂の指が動く。

「えっ!」その場に居合わせた人たちが驚きの声を上げた。

美穂は先ほどのお姉さんの演奏通りに鍵盤を叩いていく。

お姉さんは両手で口元を覆って目を見開いたように唖然としている。

「うふっ。思った通りだわ。確実に成長している。」信子は演奏する美穂を満足気に見守っていた。

「ピアノの周りの人たちから驚きの声が上がる。

「知ってた曲なのかな?」スタッフの一人が首をかしげる。

「知ってたとしても、あの曲をあんな小さな子がここまで弾きこなすなんて!」お姉さんの驚きの声に応えるように美穂の演奏はクライマックスに向かっていく。もはや美穂の演奏会と化していた。

演奏が終わると拍手喝采だった。

信子が美穂の傍に歩み寄り演奏を褒めた。美穂は少し不可解そうに言った。

「ねえ、ママ。これ何て曲?何で美穂は弾けたの?」

「それはね、美穂はピアノさんが大好きだからピアノさんが教えてくれているのよ。」信子はそう言いながら美穂をしっかり抱きしめた。

大勢の方から拍手を頂いた美穂は嬉しそうにホテルの廊下を歩いていた。私も美穂の実力が知れてかなり興奮していた。

部屋に戻り疲れて寝入っている美穂を2人で目を細めて見つめていた。

「早く楽譜を勉強させなくてはいけないみたい。」信子がぽつりと呟いた。私も危惧していたのだが、美穂の能力は幼児期特有のものだと思われたからだ。ある程度成長が進むとその能力が著しく低下する可能性があるのだ。そのことを危惧しての信子の呟きだと思った。

「そうだね。楽譜を理解してそれに沿って演奏出来れば言うことないよね。」私が言うと信子は大きく頷いた。それにしても美穂の「エリーゼのために」は見事だった。わが娘ながら末恐ろしい子だと改めて認識出来た一夜の出来事だった。

信子は寝息を立てている美穂に添い寝をして柔らかい髪を撫でていた。そんな二人の様子を見ていると自分は本当に幸せ者だと心から思った。


翌朝、朝食を頂きにレストランへ向かった。その途中、すれ違う他のお客様から数回ご挨拶を頂いた。

朝食もバイキングだった。

美穂と信子は今朝も前日同様2人でお皿を持って料理の並ぶエリアをぐるぐる回っていた。やがて2人できゃっきゃと言いながら席へ戻ってきた。美穂のお皿には大盛りのスクランブルエッグが乗せられていた。その脇に申し訳程度に2本の赤いウインナーが。主食のパンも取らずに戻ってきたようだ。入れ替わるように私が料理のエリアへ。焼きたてのフランスパンと小さな丸いバターを持って一旦席に戻った。それを美穂の目の前に置き再び自分の朝食を取りに出向いた。

「フランスパン、美味しいんだよ。」信子はスライスされたフランスパンを一切れ摘まむと小さく丸められたバターを塗って、それを美穂の口へ運んだ。

「わあっ!おいしい!」美穂の顔がほころぶ。その何気ない母娘の姿に周りの方々から「まあっ!」と思わず声が上がる。私は料理を選びながら少し離れたところからその様子を眺めていた。

美穂は伸び伸びと育っているのだなあとつくづく思った。

その後、私たち3人は昔住んでいた場所を訪れた。路面電車は既に廃止されていたがバス路線は健在だった。綺麗に舗装された道をバスは軽快に進んでいく。昔はでこぼこ道だったことを信子と想い出して大笑いした。美穂は初めて訪れた私たちの故郷に興味津々だ。最初に信子が住んでいた家へ行ってみた。かなり古びていたがちゃんと残っていた。懐かしい玄関周りを見ていてふと想い出したことがあった。

「信ちゃん家ってピアノは何処にあったっけ?」信子に尋ねた。

「えっ?ピアノ?なかったよ。」意外な答えが返ってきた。

「えっ!本当に?うーん。確かに見たことなかったかなあ。」

「あの頃習い事が多くて。ピアノだけってわけにはいかなかったのよ。」遠くを見るように信子は笑っていた。

「ママは色々お勉強していたんだね。」美穂が感心したように信子に話しかけた。

「そう。毎日走って学校から帰っていたんだよ。」当時を懐かしみながら私は美穂に教えてあげた。

「うわあーっ!運動会の親子リレー、楽しみだなあ。」美穂は早々に信子と走ることを楽しみにしていた。

「ママはすっごく速いんだよ。パパもかなわない位。」そう美穂に教えると信子は笑っていた。

「それは昔のことだよ、美穂。」そう言う信子はまんざらでもないというような横顔を見せた。私はあの時のクラス対抗リレーを想い出した。あの信子の4位からトップへ躍り出た怒涛の走りは私の脳裏にしっかりと焼き付いていた。

バス道を挟んで反対側にあった私が住んでいた家は建て直されて無くなっていた。少しがっかりしながらも3人で手を繋いで小学校へ向かった。さすがに木造ではなく鉄筋コンクリートの3階建ての校舎に生まれ変わっていた。周りには家が立ち並び昔の田園風景はそこにはなかった。夏休みと言うことで子供たちの姿はなかった。

「あれ?もしかして!」私たちの後ろで聞き覚えのある声がした。

「ああーっ!加藤先生!」信子と私は大きな声を上げた。

「やっぱり!君たち2人だったのね。」目を輝かせてにこにこと私たちを見つめているのはお世話になった加藤先生だった。

「まあ!可愛いお嬢さんだこと!」加藤先生は腰を落として美穂に話しかけてくれた。

「こんにちは。美穂と言います。3年生です。」美穂は少し照れながら自己紹介をした。

「そうなの!初めての人にもしっかりお話しできるのね。偉いわねえ。」そう言って校舎の中を案内してくれた。そして通されたのは何と“校長室”だ。

「加藤先生!校長先生になられたんですか?」信子の驚く声が“校長室”に響いた。

「そうなの。去年から久しぶりにこの学校に赴任しているのよ。それにしても懐かしいわあ!あの頃が蘇るわ。」そう言いながら加藤先生は美穂に話しかけた。

「美穂ちゃん、お父さんとお母さんはとっても仲が良かったの。でもお互いに転校して離れ離れになってしまったのよ。それでも、お互いに想い合っていたからまた結ばれることになったのね。」加藤先生はそう言いながらお茶を入れてくれた。

お茶をいただきながら昔話に花が咲いた。林間学校のカエル事件、運動会の信子のごぼう抜きのぶっちぎりの足の速さ、お昼の校内放送での信子アワー、ピアノの演奏などなどだ。懐かしい出来事ばかりだった。

「美穂ちゃんは何か習い事はしているの?」

「はい。信子先生にピアノを習っています。」にこにこと答える美穂。

「信ちゃんが教えてるの?きっとお上手なんでしょうね。」

加藤先生の案内で体育館のステージにあるピアノの元へ。

「わあーっ!懐かしい!あの時のピアノだ!」信子が思わずピアノに駆け寄った。それに美穂も続いた。

「先生!校歌を弾かせてください!」信子は椅子に座りながら佐藤先生に声をかけた。

「良いけど、あの当時は未だ校歌は無かったわよね。でも今の譜面ならそこの棚に。」加藤先生は棚から校歌の譜面を持ってきてくれた。

信子は譜面を一読してから、おもむろに演奏を始めた。

「美穂ちゃん、楽譜が読めると知らない曲でも演奏できるの。」微笑みながら傍に立っている愛弟子に声をかけた。

信子の演奏が始まった。驚いたように見守る美穂。美穂だけではない、加藤先生も私もだった。

「うそっ!プロみたい!」加藤先生はそう言いながら信子の演奏に聴き入っていた。

「美穂ちゃん、2番をどうぞ。」信子は席を立って美穂に譲る。

「2番どうぞって!弾けるわけないでしょう!」加藤先生が思わず口走る。しかしそれはさらなる驚きの前触れに過ぎなかった。

美穂は信子の旋律を一瞬で覚え同じように演奏しているのだ。

「し、信じられない!あなたたち親子って!」誰もいない体育館に美穂が演奏する校歌が流れていく。加藤先生はこの現実が直ぐには受け入れられないのだろう。

「実は、信子はプロのピアノ奏者で美穂はその愛弟子なんです。」私は加藤先生にそう説明した。アメリカで11歳から18歳まで暮らしていたこと、音大を特待生で、しかも首席で卒業したことを話した。

やっと「なるほど!」と納得していただいた。

「美穂は未だ楽譜が読めないんです。だから楽譜のお勉強のきっかけになればと思って。でも、校歌が弾けて良かった。」目を潤わせる信子の顔を演奏を終えた美穂がじっと見つめていた。

「美穂ちゃん、何か弾いてみて。」加藤先生のリクエストだ。

「うん。今練習している曲なんだけど。」美穂の演奏が始まる。

「えっ?この曲って「トルコ行進曲」だよね・・・。」驚く加藤先生をよそに素速い指使いで曲を奏でていく。

「やだ。美穂ったら。いつの間に。」信子が微笑みながら美穂を見つめる。どうやら信子の留守中に練習をしていたようだ。

「信じられない!3年生だよね。何時から習っているの?」加藤先生は私に問いかけた。

「去年の春辺りからです。」私の答えに絶句する加藤先生だった。

ふと気づくと何人かの先生方が体育館に集まっていた。誰が弾いているのだろうと気になったようだ。先生方も美穂の演奏に唖然として聴き入っていた。

曲が終わった。

「信子先生、上手く弾けました。」美穂の可愛い声が体育館に響いた。

加藤先生を始め、居合わせた先生方から盛大な拍手を頂いた。美穂は深々とお辞儀をしてお礼の言葉とした。

「それにしてもすごい子だなあ!」先生方は未だ興奮冷めやらぬようだ。

「こんな子がわが校にもいてくれたら、全児童のお手本になってくれるのに。」1人の先生から声が漏れた。

「いえいえ。うちの美穂は学校ではピアノを弾いてはいないんです。だから学校の皆さんは美穂がピアノを弾くって知らないんです。それに、私たちは皆と同じカリキュラムで勉強させたくて。」信子の話に大きく頷く加藤先生。

「そうね。信ちゃんは週5の習い事で忙しかったからね。」加藤先生の言葉に居合わせた先生方からどよめきが起こった。

「だから、美穂。貴方には本当に好きなことだけをやって欲しいの。」信子は前かがみで美穂の両手をしっかり握ってその瞳を見つめた。

その日の夕刻、私たちは加藤先生のお宅に招かれた。

タクシーを降りた団地のような公務員宿舎の中の一世帯が加藤先生のお住まいだった。教わった部屋の玄関に3人で並んで立った。

「あれえ?佐藤って書いてあるよ。」美穂が表札を指差した。

「ああっ!やっぱり!」思わず信子と私は声を合わせた。そうだ!加藤先生は佐藤先生と結婚したんだ!

「やあ、いらっしゃい。お久しぶり。」出迎えてくれたのはお互いの想像通り佐藤先生だった。ご挨拶を済ませ、3人でお宅の中へお邪魔する。

「いらっしゃい。」台所からエプロン姿の加藤先生と高校生くらいの娘さんが挨拶してくださった。

部屋に入るなり美穂が声を上げた。「あっ!ピアノさんだ!」

「まあ!本当にピアノがお好きなんですね。」娘さんが料理を運びながら目を細めた。

「そうよ。さっき学校で弾いてくれたの。」加藤先生はそう言いながらビールの栓を抜いた。

「お嬢さんはピアノを?」注がれたビールに少し口を付けながら信子が尋ねる。

「あまり上手ではないんです。でも、将来教師になりたくてピアノの練習をしているんです。」

「うわあー。楽譜がいっぱい。」美穂は目を輝かせながら楽譜の一冊を取り出した。

「もう、美穂ったら。見せてくださいとお断りしてからだよ。」信子が軽くたしなめる。

「いいんです。美穂ちゃんは楽譜が読めるの?」お嬢さんは楽譜を開いてじっと見入っている美穂に尋ねた。

「ううん、全然読めないの。ドレミとかは信子先生に習ったけど。」美穂はそう言いながら何やら曲を口ずさんでいる。

「いいわ。お姉さんが教えてあげる。」そう言って美穂と二人でピアノの傍のソファーに並んで座った。

そんな2人を皆で眺めながら昔話に花が咲いた。

信子のニューヨーク行き、その後の私の転校。火が消えたようだったと話してくれた。でも、私たち2人のような生徒を育てようと努力をされたとか。光栄過ぎて大恐縮の信子と私だった。私たちは現在の仕事などの近況をお話しした。お2人ともうんうんと頷いて聞いてくださった。

宴もたけなわの頃、ピアノが鳴った。

「えっ?」4人で一斉にピアノの方へ顔を向けた。

「すごおーい!美穂ちゃんもう覚えちゃった!」

簡単な音合わせが終わるとすぐに美穂の演奏が始まった。

重厚なピアノの音が鳴る。美穂が弾いているのは「月光」だった。

「えええー!」驚いてビールを持ったまま固まる佐藤先生と私。

「うふふ。さすが信ちゃんのお弟子さんね。」加藤先生が微笑む。

「信じられない!ちょっと教えただけなのに!」美穂の傍らで立ち尽くすお嬢さん。

「まあ!もう覚えちゃったのね。お嬢さんの教え方が上手かったのね。」信子も嬉しそうだ。

曲が終わった。5人の拍手が鳴り止まなかった。いや、拍手は5人だけではなかった。公務員宿舎のあちらこちらから拍手が聞こえていた。

「すごーい!ご近所の方も聴いてくださっていたのね!」びっくりするお嬢さん。

「それにしてもすごい才能だなあ。さすがお2人の子だ。」佐藤先生は嬉しそうだ。

「信子先生。この曲楽しそうだよ。音符が踊っているみたい。」そう言いながら美穂は弾き始めた。

「あっ。やだ。それは。」慌てるお嬢さん。流れてきた曲は「ラジオ体操」の曲だった。私たちだけでなく公務員宿舎中が笑い声に包まれた。

「ねえ、お嬢さんも何か弾いてみて。」信子がリクエストした。

「うわあーっ。美穂ちゃんの後かあ。」そう言いながらおもむろに弾き始めるお嬢さん。美穂は傍らでお嬢さんの指使いをじっと見つめていた。

「美穂ちゃん、真剣ね。」加藤先生がそっと信子に話しかける。

「はい。覚える気満々です。」信子もそっと答えた。

それにしてもお嬢さんはかなり上手だ。信子は真剣な面持ちで演奏を聴いている。いつしかプロの顔になっている。信子と美穂、この2人はかなりド真面目だ。私はそんな信子と美穂に心の中で敬意を表した。

お嬢さんの「礼拝曲」が終わった。真っ先に拍手したのは美穂だった。

「お世辞でもうれしい!」大喜びのお嬢さんに美穂が言った。

「ううん。本気だよ。中盤の何度も半音下がるところ、綺麗に指が流れていたもの。」にこにこ話す美穂に私はびっくりだった。

「美穂の言うとおりだわ。お嬢さん、基本が備わっているんですね。」信子が続けた。「どちらでレッスンされているの?」

その答えに驚いた。なんと、信子が小学生の頃に通っていたあのピアノスクールだった。しかも、先生は当時高校生だったお姉さんだ。

「わあーっ!懐かしい!」声を弾ませる信子。

「そう言えば、明日はレッスン日なんです。」お嬢さんの一言で明日の日程が決まった。


次の日は午後から懐かしいあのビルへ向かった。かなり古くなっていたがよく手入れされているせいか昔とあまり変わらず綺麗な佇まいだ。

エレベーターで上がっていくと、懐かしさが漂うエレベーターホールが迎えてくれた。バザーの時、信子と手を繋いで歩いた廊下、すべてが懐かしさで溢れていた。そんな信子と私の顔を見つめながら美穂は不思議そうだった。信子はまだあの時のネックレスを身に付けていてくれている。美穂はそのネックレスを信子が大切にしていることを子供ながらに分かっていた。

昔と変わらない半円状の受付で名前を告げると程なく走ってくる足音が聞こえてきた。

「碧先輩!」信子が駆け出した。

「信ちゃん!」碧先輩も大きな声で答えた。

「お久しぶりです!」2人とも泣き出してしまった。

当時、信子は急な渡米が決まりゆっくりとお別れの挨拶も出来ずじまいだったのだ。

びっくりして2人の様子をじっと見ている美穂に説明した。信子がレッスン教室の皆から愛されていたこと、先輩からも後輩からも。

美穂は何度も頷きながら一生懸命話を聞いてくれた。

一通りの対面が終わると碧先輩に挨拶をした。

「あっ。あの時の彼。」碧先輩は私を指差すと小躍りしながら信子の両手を握った。

「良かったあーっ。てっきり離れ離れになってると思っていたの。でもどうしてまた出会えたの?しかも娘さんまで。」また立ち話が長くなってしまった。

3人でピアノ教室を見学した。信子は余りの懐かしさにうっすらと涙を浮かべていた。そんな信子に美穂が自分のハンカチをそっと手渡した。本当に仲の良い母と娘だ。

一通りレッスンが終わった。生徒さんたちが後片付けをしている。その中に佐藤先生のお嬢さんもいた。そっと近づき昨日のお礼を言う美穂。

「えっ?夏帆ちゃんと知り合いなの?」驚く碧先輩。

「そうなんです。小学校時代の恩師の娘さんです。」信子がそう説明した。

「ええーっ!そうなんだ。私と夏帆ちゃんは従妹同士なんだよ。年は離れてるけど。」驚きを隠せない碧先輩。夏帆ちゃんも同様に不思議なご縁に驚いていた。

「信子さんもここのスクールだったんですよね。」夏帆ちゃんが嬉しそうな美穂と手を繋いで信子に話しかけた。

「そうよ。皆さんに可愛がっていただいたの。今の私の原点はこのピアノスクールにあるの。」信子は目を輝かせながら答えた。

「うれしいわ。プロの信ちゃんにそう言ってもらえて。」碧先輩はさらに続けた。

「美穂ちゃん、レッスン中、しきりに指を動かしていたけど、かなりできる子なんじゃないの?」

「そうなの。美穂ちゃんすごいの。」夏帆ちゃんは昨夜の出来事を碧先輩に話した。

「わあ。さすが信ちゃんの娘さんね。美穂ちゃん、何か聴かせて。」

碧先輩のリクエストにこくりと頷くと美穂はピアノの前の椅子に座った。まだ教室には大勢の生徒さんたちがいた。

「えっ!」居合わせた全員が美穂に釘付けとなった。

「この曲!さっき皆で・・・。」驚く碧先輩。

美穂が弾き始めたのは先ほどまで皆が練習していた曲だった。

「何で譜面もなしに弾けてるの?」教室内に驚きの声が上がる。

「絶対音階と耳コピーね。すごいわ!」碧先輩を始め居合わせた生徒さんたちが美穂の演奏に聴き入っていた。

「まだ小学生なのに。」皆の口々から驚嘆の声が漏れる。

信子はじっと美穂の演奏を聴いていた。

「すごおーい!」教室内に拍手が鳴り響いた。

「美穂ちゃん、第5小節の入りが少し遅かったわよ。」信子は微笑みながら美穂にそう指摘した。

「はい。信子先生。こうですね。」第4小節と第5小節を引き直す美穂。私にはその違いがさっぱり分からなかった。

「何が違うの?」生徒さんたちもざわつく。

「美穂ちゃんの感覚と楽譜の微妙な間の違いだよね。」碧先輩が信子に問いかけた。

「碧先輩。そうです。美穂ちゃんは未だ楽譜が完全に読めないので自分の感性を優先して弾いているんです。昨日は夏帆さんに教えていただけたのですが、まだまだこれからです、ね、美穂ちゃん。」信子は穏やかな表情で美穂に話しかけた。

「はい、楽譜をもっと勉強します。」美穂の元気な声が会場を一気に和ませてくれた。

ロビーに出ると懐かしい顔ぶれが揃っていた。

「わあーっ!信子先輩!あの時の彼氏と結婚されたんですね!」

「ああっ!そのネックレス!もしかしてあの時バザーでお買い上げのおーっ!」相変わらず賑やかな面々である。同じフロアの懐かしい喫茶室で同窓会となった。約10名の団体様で喫茶コーナーは大賑わいとなった。私も美穂もその勢いに押されっ放しだった。

近くに座っていた後輩のお姉さんたちが美穂に昔の信子の話を色々聞かせてくれた。その中でクリスマスパーティーの話になり、一気に場がヒートアップした。あの時の伴奏をしてくださったバンドの皆さんと信子が一緒にジャズ喫茶のアルバイトをしていたことなど、懐かしい話が次々に飛び出してくる。美穂は目をくりくりさせてそれらの話に身を乗り出しながら聞き入っていた。

こうして滞在3日目の夜を迎えた。

私たちはホテルで毎度のごとくお風呂をいただき、バイキングの夕食会場へと向かった。相変わらず美穂はローストビーフ三昧だった。搾りたてのオレンジジュースを飲みながら美穂がぽつりと漏らした。

「美穂、こんなに幸せでいいのかなあ?」信子の口癖とそっくりだった。

「それがママとパパの幸せなんだよ。」と返事をした。美穂がそう思ってくれるだけで私たちは十分幸せだった。


翌日は午後の便で懐かしく過ごした故郷の地を離れる。流れ去る故郷の光景を飛行機の窓から眺めながら私たちは機上の人となった。


夏休みも終わり美穂は休みの間に仕上げた課題などをたくさん両手で抱え、「いってきまーす!」と元気に登校した。

信子は美穂を見送ると演奏会の自主練習を始めた。

お昼過ぎに小学校から電話がかかってきた。美穂が泣いているとのことだった。あの美穂が?と一瞬疑問に思った信子だったが直ぐに小学校へ駆けつけた。美穂は職員室でまだ泣いていた。先生方も何故美穂が泣いているのか分からないという。丁度体育の時間だったようだ。同級生たちの話を聞くと一人で体育倉庫から泣きながら出てきたという。

「美穂、何で泣いているの?」信子が美穂をしっかり抱きしめながら尋ねた。

「ママ、あのね、ピアノさんが・・・。」そう言いながらまた泣き始めた。

皆で体育倉庫へ行ってみることになった。

「あそこに、ピアノさんが・・・。」美穂が指差す先には古いピアノが埃をかぶって置かれていた。

「あのピアノさんが泣いていたのね、美穂。」信子に話しかけられこくりと頷く美穂。

「昔、運動会なんかで使っていたピアノなんですが、残念ながら古くなってしまったのと弾ける先生や児童がいなくて・・・。」古株の音楽の先生が説明してくれた。

「お家に連れて帰る!」美穂はいつになく大きな涙声で信子に言った。信子が先生方に預かっても大丈夫かと尋ねたところ帳簿からも消されており特に問題はないとのことだった。

「美穂、ピアノさん連れて帰ろうね。」信子の一言で美穂は泣くのをやめた。

皆で職員室へ戻り楽器屋さんに勤めている後輩の優香さんへ連絡を入れる。ピアノを引き取ってもらいそのままメーカーへ修理に出してほしい旨依頼したのだ。

程なく優香さんが営業車でやって来た。それに運搬車が続く。あまりの急展開に美穂を始め先生方もびっくりだった。

運送会社の人が数人でピアノを体育倉庫から運び出してくれた。

専用の運搬台車に載せられたピアノは埃まみれではあるものの特に壊れているところは見当たらなかった。

優香さんからピアノのメーカーを知らされると信子はそのままメーカーの工場へ運んで欲しいとお願いした。こうして半分粗大ごみと化していた古いピアノはもう一度息を吹き返すこととなった。

「ママありがとう。本当にありがとう!」美穂は信子にそう言って抱き付いた。

「美穂ちゃん、ピアノ弾けるんですね。」音楽の先生がそう話しかけてくれた。親子で頷いた。

さらに嬉しいことが。なんと運動会でピアノを演奏して欲しいとのことだった。担任の先生、教頭先生も加わり音楽室へ移動した。

残っていた児童たちも何事かとぞろぞろと後をついてきた。その殆どが急に泣き出した美穂を気遣う同級生たちだった。

あっという間に音楽室は満員となった。

「美穂ちゃん、この曲、弾けるかしら?」音楽の先生が1枚の楽譜を美穂に手渡した。一読する美穂。

「はい。」そう言ってピアノの前の椅子に座った。

すぐにアップテンポの力強いメロディーが流れ始めた。

「これは「天国と地獄」・・・。運動会の定番の曲ね。」信子が呟く。美穂は何のためらいもなく弾き進めていく。居合わせた者皆が美穂の演奏に圧倒されていた。次々に他の児童たちが音楽室へ詰めかけてくる。

拍手と大歓声の中、美穂はゆっくりと立ち上がり皆の方を向き深々とお辞儀をした。

「素晴らしいわ!わが校にこんな子が居てくれたなんて!」そしてこの演奏がきっかけで、古いピアノと共に美穂は運動会で演奏者としてデビューすることとなり信子との親子共演が実現する。

複数の楽譜を渡された美穂は家に帰ると直ぐに練習を始めた。

信子は何も言わず美穂を見守っていた。

それから10日ほど経ったある日、優香さんから連絡があった。ピアノが修理からお店に戻って来たとのことだった。美穂の帰宅を待って2人でお店に向かった。

「いらっしゃいませ。」にこにこ顔の優香さんが2人を迎えてくれた。

店の奥には数台のピアノが並んでいた。どれもぴかぴかに磨き上げられていて美穂のピアノがどれなのか直ぐには分からない位だった。

美穂は迷うことなく自分のピアノの傍へ歩いて行った。

「美穂ちゃん、良く分かったわね。」優香さんが驚いたように美穂に言った。そこには同じメーカーの同じようなピアノたちが多数並んでいたからだ。

「うん。ピアノさんが呼んでくれたから。」当たり前のように不思議なことを言う美穂。おそらくピアノと通じ合える何かがあるのだろう。そう、あの古いグランドピアノを引き取るときの信子もピアノと話をしているようだった。

いよいよ試し弾きの時となった。蘇ったピアノはどんな音を奏でてくれるのだろうか。美穂は椅子に座りカバーを開けた。真っ白な鍵盤が眩しい。直ぐに演奏が始まった。美穂が最初に弾いた曲は「アマリリス」だ。軽快に優しい音色を奏でるピアノだ。美穂は嬉しそうだ。「アマリリス」を弾き終えると直ぐに次の曲に移る。楽器店から美穂のピアノの旋律が流れ始める。「エリーゼのために」だ。美穂は「アマリリス」の音色でピアノの音を確認し2曲目を優しいメロディーの曲にしたようだ。いつの間にか楽器店に人が集まって来た。

「美穂さん、アップテンポの曲も弾いてみましょう。」信子が声をかける。

「はい、信子先生。」そう言いながら美穂は「トルコ行進曲」を弾き始めた。集まった人たちから「おおーっ!」とどよめきが起こる。

こうして美穂とピアノの試し弾きが無事に終了した。


数日後、美穂のピアノがわが家に届けられた。納品には優香さんが立ち会ってくださった。美穂のピアノは汎用品で古いながらも各パーツは十分揃えられていたとのことだった。グランドピアノの隣に設置された美穂のピアノ。レッスンではグランドピアノ、そのほかでは自分のピアノを使うと自分で決めたという。その日から運動会に弾く数曲の練習を美穂は始めた。わが家のピアノルームには2台のピアノの音が流れることとなった。


運動会当日、私は一人で父兄席にいた。

「やあ、お久しぶり。」不意に声をかけられた。

「わあーっ!お義父さんお義母さん!何時いらしたんですか?」

そう!信子のご両親だ。美穂の晴れ姿を見にはるばる関西からいらしてくれたのだ。早速メインの本部テントのピアノの前でスタンバイする美穂と信子の元へお連れした。

「わあーっ!おじいちゃん!おばあちゃん!」思いがけない来客に2人とも大喜びだ。早速周りの校長先生や来賓の皆様と挨拶を交わしていた。皆さんから貴賓席を勧められるが中々遠慮して座ろうとしない。そんな2人に美穂が声をかける。

「私の大事なお客様、どうぞこちらに。」

本部テント内がわっと笑い声に包まれた。

いよいよ運動会の始まりだ。美穂の演奏による全児童の入場だ。

ピアノの演奏が始まると同時に美穂と信子の紹介が放送で流れた。運動場内がどよめく。ピアノの生演奏の運動会などは当時では珍しかったからだ。

皆が注目する中、再び美穂のピアノが音を奏でた。それに合わせて児童たちが元気に入場してくる。会場は大盛り上がりだ。ピアノの生演奏での運動会は異次元の世界のような錯覚に陥るようだった。

美穂は満面の笑みで演奏を続ける。それを見つめる信子も笑顔になっていた。信子のご両親はずっと美穂の演奏する姿を見つめていた。想像以上の美穂の演奏に圧倒されっ放しだったと後で聞かされた。

競技に合わせて美穂と信子は交互に演奏を続けていく。ピアノの音が児童たちをより一層元気づける。何曲2人で用意したのだろうか。次々に演奏していく2人のコンビネーションに全員が驚くほどだった。20年ほど前に、同じようにピアノで演奏していた時期があったというのだがその時は誰が美穂のピアノを演奏していたのだろうか。昔のことを想像して胸をはせる。

あれよあれよという間に午前の部が終わりお昼の時間になった。

私が陣取りしている席に美穂と信子、少し遅れてご両親が集まって来た。皆、ジュースで乾杯し美穂と信子の労を労った。さすがに美穂は興奮冷めやらずといった感じで信子とピアノ談義をしている。それをご両親は目を細めて見つめていた。そんな中、親子リレーの話になった。その時は2人の演奏が出来ないためレコードでの演奏となると聞いていた。

「こんにちは。」後方から声がかかった。優香さんだった。

「ごめんなさ。つい聞こえちゃって。私に弾かせてください。」自己紹介を済ませる前に思わず手を上げてしまったとのことだった。

こうして親子リレーの際の演奏者は優香さんに決まった。

「優香ちゃん、お願いね。」信子がお礼を言う。

「優香お姉さん、ありがとう。お願いします。」しっかりとした口調で美穂も頭を下げた。

「まあ、美穂ちゃんの礼儀正しいこと!」お義母さんは嬉しそうにお義父さんにそう話しかけた。

「うん。立派に育っている。うん、うん。」お義父さんも満足そうに美穂を見つめていた。

親子リレーは午後の部の最初の演目だった。優香さんの入場曲に合わせてにこにこ顔で歩く美穂と信子。会場からは「ピアノの子たちだ!」と声が上がる。ある程度の予想はついていたが私はわくわく感が止まらなかった。1レースに6組が出場する。美穂は3年生。1年から3年生までのチームが児童、父兄の順で走りバトンを繋いでいく。

第1走者は美穂だ。スタンディングスタートで構える。

パンッ!スタートを知らせる乾いた音と同時に皆一斉に走り出す。トップに躍り出たのは美穂だった。「ああーっ!あの子速い!」歓声が上がる。

そう言えば私は美穂がピアノを弾いている姿しか見たことがなかった。そう思っている間にも美穂はどんどんスピードを上げて行き大きなリードを保って第2走者の信子にバトンを渡す。「わあーっ!」驚きの歓声が再び起こる。信子の健脚は健在だった。2位の走者にコース半分以上の差をつけて第3走者にバトンを繋いだ。速い!2人とも速い!会場は大盛り上がりだ。これにはご両親も思わず貴賓席の椅子から立ち上がって応援するほどだった。

親子レースが終わり美穂と信子がピアノの元へ戻ってきた。

「すっごおーいっ!2人とも!」優香さんはピアノを演奏しながら見ていたようで余りの展開に演奏する手が止まりかけたと言って笑っていた。ご両親を始め貴賓席の方々も2人の活躍を拍手で称えてくださった。

優香さんからピアノのバトンを受け取り信子の演奏が始まった。ピアノの調べは参加している児童たちを元気に、のびのびとさせていた。いよいよ最後の表彰式となった。美穂と信子は表彰を受けるため、再度ピアノを優香さんにお願いしてグランドへ向かった。

各演目の優勝者が告げられ表彰状が渡される。親子リレーの代表者は美穂だった。驚いた表情の美穂だったが信子や同じチームの皆に背を押され表彰台へ上った。わが子ながら堂々としたものだ。そんな孫娘美穂の姿を誇らしく信子のご両親は見つめていた。盛大な拍手に少し照れたように表彰状を頭上に翳し、ゆっくりと1回転する美穂。そんな美穂に拍手と声援が止まなかった。

運動会の最後の締めくくりは校歌斉唱だ。力強い美穂の演奏が始まる。児童全員が誇らしく斉唱する。こうして素晴らしい運動会の幕は閉じられた。

式が終わると美穂は自分の教室へ向かった。私と信子は優香さんにお礼を言い美穂のピアノのクリーニングをお願いした。ご両親と優香さんと話をしていると校長先生、教頭先生と音楽の先生がいらしてお礼の言葉をいただいた。信子は「演奏者冥利に尽きます。」と返って恐縮していた。周囲では後片付けが始まっていたが8人での談笑がしばらく続いた。美穂のピアノは朝持ってきてくれた運送業者さんによって梱包され運ばれていった。

私は美穂と一緒に帰ることにして、4人は優香さんの車で一足先にわが家へ向かった。

しばらく校門の辺りで美穂を待つ。昔もこうして信子を待っていた。今はわが子を待っている、そう思うと不思議な気持ちになっていった。どうしても美穂と信子とが重なってしまう。

「ああーっ!パパ!待っていてくれたんだあ!」美穂の声で我に返った。美穂はにこにこ嬉しそうに私の前に立っている。

「美穂。今日は大活躍だったね。お疲れ様。」そう言って美穂の手を握った。夕焼け空の中親子でいろいろ話しながら歩いた。ついつい信子と歩いて帰っていた頃に戻ってしまう。

「パパ!何だか楽しそうだね!」無邪気に美穂が笑う。

「うん。パパは今幸せだからね。」そう言って美穂の方を見る。

「パパ!私もだよ。私も幸せだよ!」その時の美穂の瞳の輝きは今でも忘れられない。

わが家に帰ると宴の準備が整っていた。ご両親は優香さんから音大時代の信子の話を聞かされ大喜びだった。

帰ろうとする優香さんを皆で無理やり引き留めているとお寿司が届いた。「優香さんがいないとお寿司が無くならないのよ!」と言う信子の一言で優香さんの残留が決まった。そんな大人たちの様子に美穂は大笑いだった。

一通り皆でお寿司をいただきながら談笑が弾んだ。お義父さんは明日は本社での会議とのことだった。それとは別に他の用もあるとのことだ。それは、定年後は私たちが住む東京へ引っ越したいという内容だった。お義父さんは関西にある私の勤め先の支店長なのだが定年後を見据えてのことだという。内心、ありがたいと思った。信子と私が不在の時は美穂が一人っきりになってしまうのが私たち2人の気がかりだったからだ。お留守番をお願いできるという安心感が持てる。信子もそう思ったそうだ。

「そう言えばピアノは何処にあるのかな?」お義父さんに尋ねられたのをきっかけに一同、ピアノルームへ移動する。

「すごい!立派なスタジオじゃないか!」ご両親は部屋の周りを眺めながら置かれているグランドピアノの傍へ。

「まあ!懐かしい!信ちゃんが小さい頃良く弾いていたのよ!」

お義母さんの声が部屋中に響く。

「今では美穂と2人で使っているのよ。」信子の答えに驚くお2人。

「美穂ちゃんはこんな良いピアノで練習してるの?音が良いから上達も早いのかしら。」お義母さんは美穂を見つめてそう言った。

「そうです。良い音で練習すると良い練習成果が見られると聞いております。」優香さんの営業的な発言に一同どっと笑いに包まれた。

美穂の演奏を皮切りに演奏会となった。名器である素晴らしいグランドピアノの音と美穂の力強い演奏で「カノン」の第一楽章が始まった。お義父さんお義母さんにとっては始めて聴く美穂の演奏する名器の音。

「素晴らしい。あの片田舎にこんな名器が眠っていたなんて!」お義母さんもびっくりだった。

お2人の元にワインが運ばれてきた。信子がワイングラスに注いでいく。

ワインを飲みながら孫娘の演奏を聴く。しかも最高の名器で。

「なんて幸せな時間なんだ!」お2人は満足そうに美穂の演奏を堪能され、その後タクシーでホテルへ戻られたのだった。


秋も深まりかけた頃、美穂は社会科の課外授業でとある老人ホームを訪れていた。

ホームの一通りの説明が終わりロビーにさしかかった時、大勢のお年寄りたちが歌を歌っていた。その片隅にピアノが置かれていた。

「美穂ちゃん、弾いてみなよ。」一緒に居たクラスメートたちに勧められた。ホームの職員の方も「是非弾いてみて!」と二つ返事だった。

少し何かを考えていた美穂はピアノの前の椅子に座りカバーを開けた。

「皆さんが先ほど歌われていた曲の譜面はありますか?」美穂は職員さんに尋ねた。

「あるけど、相当昔の歌ばかりだよ。」そう言って数名の職員さんが楽譜を集めてきてくださった。

「ありがとうございます。」美穂はそれらの楽譜を手に取り本を読むように捲って行った。

「知らない曲ばかりでしょ。」職員さんの一人が美穂に声をかけた。

「はい。でも。大丈夫です。」美穂はおもむろに演奏を始めた。

ホールに美穂の弾くピアノの調べが流れ始める。

すると、今まで無関心だった入居者の皆さんが車いすで美穂の弾くピアノの周りに集まって来たのだ。みな嬉しそうに笑顔で目を輝かせていた。

「この曲って何ですか?」引率の井上先生が職員さんの一人にそっと尋ねる。美穂の同級生たちも何という曲か知る由もなかった。

「懐かしいわあ。「影を慕いて」と言う曲なのよ。」入居者のお一人が皆に教えてくれた。自分で動けない方々も座ったまま身体を揺らしてリズムに乗っている。

「すごい!この子!あっという間に弾けちゃってるわ!」職員の皆さんから驚嘆の声が上がる。お年寄りの中にはうっすらと涙を浮かべる方もいらした。

「音楽ってすごいわあ!」職員の方々全員の感想だった。

「すごいお嬢さんだね。まだ強弱ペダルに足が届かないけど鍵盤を弾く強弱で上手くカバーしているわ。」年配のご婦人が職員さんに解説をした。どうやら以前ピアノに携わっておられたようだ。

その時、廊下をパタパタと急ぎ足で走ってくる足音がした。

「どなたかな?今ピアノを弾いておられるのは?」一人の初老の男性がホールにやって来た。驚いて演奏を止める美穂。そして声の方へ振り返った。

「あっ!おじちゃん!こんにちは!」美穂はその方に元気よく挨拶をした。

「えっ?」居合わせた皆が驚いて固まってしまった。

「おや?知り合いなのかい?」年配のご婦人が初老の男性に尋ねた。

「知り合いも何も、うちのオーケストラの信ちゃんの娘さんだよ、お母さん。」そう答えたのは音大の学校長さんだった。

「まあーっ!それで!」年配のご婦人はそう言って美穂に向かってお願いした。

「ねえお嬢さん、「湖畔の宿」弾いてくださらないかしら。」

「はい、おばさま。」美穂は手早く楽譜をめくりお目当ての曲を見つけた。そしてまた一読した。直ぐに前奏が流れる。

「まあ!素敵なメロディー!とても小学生の演奏とは思えないわ!」うっとりと美穂の調べに酔いしれる老婦人だった。

老婦人だけではなかった。居合わせた皆が美穂の演奏に聴き入っていた。

演奏が終わると拍手の嵐だった。拍手できない方は首を上下にゆっくり動かして美穂の演奏を称えてくれた。

「あのう、失礼ですがどちら様でしょうか?」引率の井上先生が初老の男性に恐る恐る尋ねた。

「うふっ!先生。このおじちゃんは音大のおじちゃんだよ。」美穂の説明ににこにこ顔の初老の男性だった。

「はい、私、音大の学校長を拝命しております。」


音大の学校長さんとの偶然の出会いから数週間経っていた。

美穂が何時になく物静かに帰宅した。迎えた信子がおやっ?と思い事情を聴いた。学校で何かあったのかと気になった。

「ママ、私リコーダーが上手く吹けないの。」落ち込んだ美穂がぽつりと漏らした。どうやら音符通りの音が出せないと言うのだ。

「そうだったの。確かに美穂は自分で音を作る楽器はやったことがないわね。」信子は美穂の大好物のオレンジジュースをコップに注ぎながらそう答えた。

「自分で音を作るって?」美穂はオレンジジュースを飲みながら信子に尋ねる。

「ピアノさんは音を持っていて鍵盤を叩くと音を出してくれるでしょ。リコーダーさんは指で穴を塞いで、息を吹き込むことで音が初めて出るの。でも指の塞ぎ加減や吹き込む息の加減で音がぶれたりするの。だから美穂みたいに音階がきっちりと判断できる人にはきちんとその音が出ていないことが直ぐに分かってしまうのよ。」信子は美穂にそう説明した。

「自分の指と息かあ。じゃあいつも同じように息を吹き込めば良いのかあ。」それとなく解ってくれたようだ。美穂は早速ピアノルームへ行き、ピアノの音とリコーダーの音を合わせ始めた。

しばらくして、夕飯の準備をする信子の元へ美穂がやって来た。

「ねえ、ママ。きちんと音が合っているか聴いてみて。」美穂に手を引かれてピアノルームへ。

おもむろに美穂のリコーダーの演奏が始まる。ソファーに腰を下ろし聴き入る信子。さすがの美穂もピアノの様に上手くは演奏できなかった。こういう面では美穂は普通の小学生なのだと信子は思った。

ピアノを弾く美穂を知っている周りの人は他の楽器も上手に演奏できると思っているようで、その期待の大きさに負けそうになるのだろう。信子は自らピアノでドの音を叩く。そして美穂にリコーダーで同じドの音を吹かせた。こうして自分の出す音階をより正確に覚えるのだ。やり方が分かれば絶対音感を持つ美穂には容易いことだった。が、しかし音を作り出すことに余りにも不慣れすぎる美穂はメロディーになると微妙に音がずれてしまう。

「美穂。自分で音を作って演奏する楽器、習ってみる?」信子の勧めに興味を示す美穂。

「うん、でもその楽器って?」首をかしげる美穂。

「うふっ、ヴァイオリンだよ、ママが習っている。」信子が答えた。

2人は思い経ったら即行動に移す。

「優香ちゃんに聞いてみよう。」早速信子は電話をかける。

わが家の近所で、美穂が徒歩で通える教室か先生宅が必須条件となる。しかしヴァイオリンとなるとかなり難しいとのことだった。

優香さんの勤める楽器店でもピアノとエレクトーンの教室はあるのだが、ヴァイオリンとなると中々見つかりそうになかった。

「ねえ。ママに教えてもらっちゃダメなの?」美穂の素朴な疑問だった。

「えっ?私?」信子は「あっ!」と声を上げた。良く考えると小学生のころからヴァイオリンも嗜んできた経歴があるのだ。“灯台下暗し”とはこういうことなのかもしれない。


翌日、信子は美穂を連れて優香さんの勤める楽器店を訪れた。

「やだ!そうですよね!信子先輩が教えればいいんですよね。気が付かなかったわあ!」明るく笑う優香さんと信子だった。

美穂が信子からヴァイオリンを習い始めて一月になろうとしていた。

ヴァイオリンを弾く姿も絵になってきた。しかし、初めての弦楽器に悪戦苦闘の毎日だった。

だが、信子が言うには美穂のピアノの演奏に変化が出始めたという。

私には良く分からないのだが、どうやらピアノの音が従来と違ってきたというのだ。音に深みが出てきたと信子は嬉しそうに私に話してくれた。確実に前に向かっている美穂。わが娘の成長を実感できるのが嬉しくてたまらない私だった。

年末を控えて信子はクリスマスコンサートの練習に励んでいた。

そんなある日の夕食後、美穂と私にチケットを渡してくれた。

美穂も私も大喜びだ。実は信子の所属するオーケストラの公演に一度も行ったことがなかったからだ。特に美穂は信子の職場での演奏を生で聴いたことが無いのだ。

「パパ!楽しみだね!」そう言ってはしゃぎまくっていた。

そんな美穂にも小学校から嬉しい話が届いた。それは前回社会科見学で伺ったあの老人ホームからのクリスマス会への参加要請だった。特に、学校長さんのお母さまが美穂の演奏をすごく気に入ってくださったこともあり、リクエストを頂いたようだ。しかも信子のオーケストラ公演と日程が重ならなかったのが幸いだった。また古いお歌を練習すると大張り切りの美穂に私たちは目を細めて見つめるのだった。

12月のクリスマスの1週間前の日曜日、美穂と私は老人ホームを訪れた。美穂は自分で選んだ赤いワンピースを着て出向いたのだった。

残念ながら信子は自分の所属するオーケストラの全体練習のため美穂の晴れ姿を見学することは出来なかった。

老人ホームのホーム長さんを始め職員の皆様にご挨拶をしてクリスマス会の会場へ向かった。美穂曰く、広く感じたホールだが大勢の入居者とそのご家族の皆さんで大盛況だった。芸達者の方々の手品や大道芸などが披露されている。が、控室で待つ美穂に出番の連絡が一向にこない。美穂も不安になってきたようでそわそわし始めた。

そんな時、私は演目が書かれたパンフレットを発見し美穂と開いてみた。何と!美穂は最後の出演、トリを務めることになっていたのだ。

「最後だと何の曲で締めようか?」と美穂に尋ねるとあっけらかんとした答えが返ってきた。

「うん。「東京ラブソディー」にする。」

そうしていよいよ美穂の出番となった。私は一番後ろに立って美穂を見守った。真っ赤なワンピースを着た美穂が現れると入居者の皆さんから拍手と声援が飛ぶ。ご家族の方や私はその熱狂的な理由が分からずただ見守るだけだった。

美穂がピアノの前に座ると会場内が静まった。

美穂の演奏が始まる。スタートは「影を慕いて」だ。会場内にどよめきが起こる。親である私も鳥肌が立った。いつの間にか更に上手くなっている。聴こえてくるピアノの音が重厚なのだ。とても小3の演奏とは思えない。

そんな中、美穂はメドレー形式で曲を次々と披露していく。この辺りは信子のアドバイスなのだろうか。フルコーラスで7曲を披露し最後の曲を迎える。

軽快な前奏に会場内が更に湧く。「東京ラブソディー」だ。お年寄りの皆さんは大喜びだ。どのお顔も活き活きと当時の頃に戻ったように輝いている。そんな入居者の皆さんを見てご家族の方も驚かれたようで思わず会場の全員が笑顔になっていた。

力強い美穂の演奏はクライマックスを迎え、そしてその演奏は力強いまま終わった。

会場内は物凄い拍手と歓声に包まれていた。皆口々に美穂の演奏を褒めたたえてくださった。私は思わず涙ぐんでしまった。そんな中で美穂がピアノにそっと片手を触れお辞儀をする姿が蜃気楼のように映った。美穂は何人かの方々に花束とぬいぐるみを頂いていた。満面の笑みでお礼を言う美穂はもはやアイドルそのものだった。

美穂を迎えに行き、控室に戻ると出演者の方々から称賛のお言葉を沢山いただいた。美穂は恐縮しまくっていたがそれが返って新鮮に映るのだろうか。

程なく、ホーム長さんを先頭に職員の方々がいらしてくださった。

ホーム長さんは大喜びで美穂に拍手をしてくれた。

「美穂ちゃん、素晴らしい演奏だったね。しかも古い歌ばかりで練習が大変だったでしょう。本当にありがとう。今日いらっしゃった皆さん大喜びでした。本当にありがとう!」

そんな中、杖を突きながら入ってきた老婦人。介護の職員さんが付き添っている。

「あっ!お母さま!」美穂が駆け寄る。

「お嬢ちゃん!あなたって子は!」そう言いながら泣き出してしまわれる学校長のお母さん。私は何が何だか分からなかった。

「パパ、このお母さまはね、ママの音大のおじさんのお母さんなんだよ。」美穂は私にそう言うと老婦人の両手をしっかり握った。

この行動に周囲から思わず驚きの声が上がる。

「まあ、ありがとうね。今時、こんな優しくて素晴らしい演奏が出来る子が居るなんて!」涙声で老婦人は美穂に話しかけた。

「お褒めをいただきありがとうございます。お母さまに喜んでいただけて美穂は嬉しいです!」美穂も涙声で答えた。

「美穂ちゃんっていうのね。礼儀正しいお嬢さんだこと。今度あの子によおーく言っておかなきゃあねえ。」嬉し涙を浮かべて美穂の手を握り返す老婦人だった。

こうして老人ホームのクリスマス会はお開きとなった。

翌月曜日、美穂は学校で校長室に呼ばれた。

校長先生を始め、教頭、学年主任、音楽専任、担任の各先生方が笑顔で迎えてくれた。

担任の井上先生からお話があった。

「美穂ちゃん、昨日はお疲れ様。そしてありがとう。実は授業中だったのだけど、老人ホームのホーム長さんがいらっしゃったの。昨日のお礼とお褒めのお言葉を頂戴したのよ。素晴らしかった!とおっしゃってたそうよ。」少し興奮気味に井上先生は美穂に話してくれた。

「美穂君、わが校を代表してお礼を言わせてください。演奏だけでなく入居者の方への対応が見事だったと絶賛されていたんだよ。」校長先生はそう言って美穂に感謝状を手渡してくれた。

美穂は、まだキョトンとしていたがきちんとした所作でその感謝状を頂戴した。各先生方から「しっかりしたお子さんだ!」といったお褒めの言葉が飛び出したという。

「ありがとうございました。」と笑顔で校長室を出た美穂は今まで感じたことのない喜びに浸っていた。自分の演奏で人が喜んでくれる!美穂が目指す道が鮮明に見えてきた瞬間だった。


次の日曜日。美穂と私は音大の大ホールにいた。信子のいるオーケストラのクリスマス公演だ。大きな大ホールは満席だった。その半数は音楽関係の方と思われた。客層が違う、としか言いようがないのだが、音楽やその方面の方々であろうことが容易に知れた。

美穂は初めての大ホールでの、またフルオーケストラでの演奏を生で聴けるとあって目を輝かせている。

「パパ!楽しみだね!」そう言って私の方を見つめる美穂はまだ幼かったころの信子にそっくりだった。

スポットライトが壇上の初老の紳士を照らす。

「あっ!音大のおじちゃん!」美穂が声を上げる。周りの方々がくすくすと笑う声が聞こえた。

主催者代表として学校長の挨拶の間中、美穂は「音大のおじちゃんって偉い人だったのかあ!」としきりに感心していた。そしてその事が再び周囲のクスクスを誘っていた。

やがて幕が静かに上がって行った。そしてフルオーケストラの全容が照らし出された。

「わあーっ!すごおーい!」美穂は目を見張ってステージを食い入るように見つめていた。そしてピアノの前でスタンバイしている信子を発見した。信子は真っ白のブラウスに黒いロングドレスの出で立ちだった。そこにはいつもとは違う母、演奏者としての信子がいた。遠くからでも信子の存在が美穂に通じたのだろうか。美穂は目を大きく見開き信子の一挙手一動作を目に焼き付かせようとしていた。それは母親を見る目ではなく、ライバルを見つめる様な目であった。まだ9歳の小学校3年生の美穂が初めて見せる演奏者としての一面だった。頼もしい娘だ!

指揮者の一礼の後、すぐにタクトが掲げられ、ゆっくりと振られ始めた。信子のピアノ演奏と共に次々と様々な楽器たちが音色を連ねていく。「運命」、フルオーケストラの醍醐味だ。美穂は身じろぎもせずにこの醍醐味を味わっている、いや美穂のことだ、恐らく吸収しているに違いない。他の楽器たちに負けない位力強く、存在感を見せる信子のピアノ演奏に美穂は何を感じているのだろう。目をきらきらさせてオーケストラの演奏に聴き入っていた。

あっという間に時間が流れ次の演奏「田園」へと変わった。

美穂は全く姿勢を崩さずじっと聴き入っている。

やがてコンサートは最後の曲「第九」を迎えた。奥の幕が上がり、最後部に控えていた合唱団の合唱が加わった。物凄い迫力に会場中が感動で震えた。美穂も唖然としてその感動の波を浴び続けていた。

「音楽ってピアノだけじゃあないんだ!皆で演奏する音楽もあるんだ!」その時美穂は幼いなりにそう思ったそうだ。

演奏が終わって美穂と私は受付へ向かった。そこには2つの花束が届いていた。来る途中で立ち寄った花屋さんで美穂が選んだ花束だ。

それを持って控室へ向かう。大きな控室には大勢の演奏者さんたちが一息つかれていた。そんな中真っ先に美穂が伺ったのは指揮者の男性だった。指揮者の方は驚いた表情で花束を持つ美穂を見つめていた。

「えっ?私・・・。」指揮者の方は自分を指差して美穂を見直した。

美穂はこくりと頷くと花束を指揮者の方に渡した。

「素晴らしい演奏をありがとうございました。」にっこりと微笑む小3の女の子にやや照れた様に笑みを浮かべる指揮者の男性。

「皆さん、今日は素晴らしい演奏をお聴かせいただきありがとうございました。」と一礼した。演奏者の皆さんも一礼して美穂に答えてくださった。しかも、皆さんは客席の美穂の存在を認識してくださっていたのだ。「なぜか目が行ったんだよ。彼女に。」皆さん口々に同じようなことを言われた。やはり美穂の持つ何かを感じるのだろうか。それは楽器を演奏する人同士で感じ会える何かなのだろうか。

続いて美穂は信子の元へ。そして花束を無言で渡し、信子に抱き着いた。言葉など一切必要なかった。母と娘、演奏者と演奏者にしか分かりえない強い何かで二人は結ばれている、私はそう確信した。

一通り抱き合った後美穂は信子にお礼を言った。

「ママ、ううん、信子先生!今日は素晴らしい演奏をありがとう。」

信子は嬉し涙を流して微笑んでいた。

パチ!パチ!パチ! 期せずして周囲から拍手が起った。

「いやあ良かった。美穂ちゃんのいいお手本になる皆さんの演奏でした。美穂ちゃん、皆さんの演奏、素晴らしかったでしょ。」そう言いながら控室に入ってきたのは、あの方だった。

「あっ!おじちゃん!」美穂は駆け寄り挨拶をした。

そう、学校長さんだ。学校長をおじさんと呼ぶ美穂の人懐っこさが控室に笑みをもたらす。私は美穂が何も出来ない様ならと控えていたが心配無用だった。美穂はきちんと振舞えて挨拶もしっかりと出来た。

「美穂ちゃん、先週は私のお母さんに気遣ってくれてありがとう。お母さんがすごく喜んでくれてね。」そう言って居合わせた皆さんに老人ホームでの美穂のことを話してくださった。

「うわあー!聴いてみたいなあ!」楽団員の皆様からリクエストが上がる。

「うん。」美穂が快く返事をすると急遽演奏会となった。しかもその場所は先ほどの大ホールだ。後片付けも終わった静まり返ったホールに楽団員の皆様が集まってくる。広いホールに広いステージ。その向かって左側には立派なグランドピアノが。先ほど信子が奏でていたあのピアノだ。そんな中でもいつも通りにピアノの傍に立つ美穂。そしてピアノに片手をかけ一礼した。拍手が起る。

「美穂はね、自分のピアノが出来てからあのルーティーンで演奏を始め演奏を終えるの。」信子がそっと私に教えてくれた。確かに、老人ホームのクリスマス会でもそうだった。

演奏が始まった。曲は、先ほどの演目の一つである「運命」だ。

「おおおーっ!」ホールにどよめきの声が響く。撤収作業中の方々も動きを止めてステージを見やっている。「えっ?子供?」

立派なグランドピアノから力強い「運命」の旋律が流れていく。

ピアノのソロだけでこれほどの重厚感あふれる演奏が出来るのか。

「信ちゃんが弾いてるみたい!」楽団員の女性の驚きの声が上がる。

「おい!ちょっとまて!あの子譜面もなしで弾いているぞ!」

そうか!美穂が身じろぎもせずに聴き入っていたのは曲を覚えるためだったのだ!

「まだ少し難があるが、初めてこのような曲を弾けるとは!しかも小学校3年生だぞ!」先ほど花束を受け取ってくださった指揮者の男性が思わず口にした言葉だった。

「そう、つい1年ほど前は「メヌエット」を一生懸命弾いていた子なんですよ。」学校長さんが美穂の成長ぶりを確信するかのように呟いた。

まるで一流のピアニストのような演奏を続ける美穂。開いていた各方面の扉から何人もの人が入って来て美穂の演奏に耳を傾けていた。

そして皆、ステージでピアノを演奏する小学生を見て驚きの声を上げる。あのグランドピアノを弾きこなす技量に全員が感心していた。

「信ちゃん家にはあのピアノがあるからなあ。」学校長はそう思った。

普段からグランドピアノで練習をしている美穂はその演奏に精通しているのだ。恵まれ過ぎた環境に培われた美穂の演奏は通常の認識を超えるものだった。

「美穂ちゃんが欲しいなあ。」学校長が一人呟いた。


クリスマスも終わり美穂は冬休みをピアノの練習に費やしていた。

信子と私の仕事納めまでの数日をずっと一人で過ごしていた。いつの間にか料理のレパートリーも増え、3食を自分で作っていた。小3ながら信子が書いてくれたレシピや栄養管理表を見ながら健康管理にも気をつけて過ごしていた。小さな主婦そのままだった。信子が演奏会で家を空けるときの私の夕食さえも、夜が遅い私のために作り置きしてくれていた。そんな美穂の料理を私は楽しみにして頂いた。しっかり栄養管理された信子のレシピと美穂の調理。私の不規則な仕事を見事に支えてくれていた。そんな美穂が私に話してくれた。

「ねえ、パパ。私「栄養士」の資格を取りたいの。」美穂は真剣だった。そう言われても、美穂はまだ小学3年生だ。受験資格は専門の学校に通わなければならないことを話して理解してもらった。

何にでも興味を示すところは信子そっくりだ。

「パパは美穂が美味しいものを作ってくれるだけで嬉しいよ。」そう言って食後のコーヒーを口に運んだ。

「そうかあ。大人にならなきゃ無理なのかあ。」少し残念そうに口を尖らせる美穂をみてこう続けた。

「美穂。今度、ママにお菓子の作り方を習ってごらん。ママのケーキやパイはアメリカ仕込みですっごく美味しいんだぞ。」

「えっ!そうなの!わかった、ママに教えてもらおう!」

美穂の笑顔が弾けた。


御用納めの日、私は職場の同僚の飲み会を丁重にお断りし家路を急いだ。信子が年忘れコンサートのため年末一杯まで合同練習があるため、美穂が一人でわが家を守ってくれている。だから一刻も早く美穂を手助けしたかった、つまりはピアノの練習に専念させたかったからだ。家のことを頑張ればピアノの練習時間がその分削られてしまう。美穂には好きなだけピアノを弾いていて欲しいという思いからだ。

家に帰ると美穂は夕食を作って待っていてくれた。玄関を開けるとそのにおいが鼻をくすぐる。

「おっ!カレーだね。」出迎えてくれた美穂にそう言いながら着替えのために2階へ上がる。この感じはまるで“新婚”のようだった。

信子との懐かしい新婚時代。美穂との二人での夕食も乙なものだ。

大きなお肉とお野菜が転がったカレーライス。信子の作るカレーとは微妙に異なるのだが美穂のカレーも引けを取らない位美味しい。

「美穂、いつも一人で食事させてしまってごめんね。」そう詫びながら美味しいカレーライスをお替りする。美穂は私のお皿を受け取ると嬉しそうに台所へ歩いていく。

美味しかった夕食が終わると美穂はピアノの練習だ。その間に私は夕食の後片付けを済ませ美穂のお風呂の準備だ。温めのお湯にゆっくり浸かって、特に両手をよおーくマッサージしているようだ。

そうこうしていると信子が車で帰ってくる。帰りが遅いので信子は最寄り駅まで車で通っている。そしてその帰り道にスーパーに寄って買い物をしてくれるのだ。

信子が着替えると私がカレーライスの準備をする。

「今日のカレーも美味しく出来てるよ。」そう言いながら美穂お手製のごろごろカレーを運んでくる。

「うん。おいしい。」信子はにこにこしながらカレーを頂いていた。

「あっ!ママお帰りなさい!」お風呂上がりの美穂が食堂に戻ってきた。

「よかった。ママが美味しそうに食べてくれてる!」そう言って喜ぶ美穂。

「美穂、美味しそうにじゃなく“美味しい”んだよ。」信子が答える。

「うふふ。うれしい!」そう喜ぶ美穂に冷たいオレンジジュースを渡す。

「パパ、ありがとう。」お風呂上がりの大好きなオレンジジュースを飲みながら何やら練習曲を口ずさんでいる。

「うふふ。美穂ったら、老人ホームの新年会に誘われているのよ。」信子が微笑みながら私に教えてくれた。

「おおっ!そうか、そうか。美穂!良かったね。」私は美穂に拍手をしながら喜んだ。

「うん。また違う曲を練習しなくっちゃあね。楽しくなってきちゃう。」美穂は明るく笑った。

「練習と言えば、街のレコード屋さんで見つけたの。」信子はそう言いながら大きな袋を取り出した。大きいが薄い袋だった。

美穂が袋の口を開けてその中身を取り出した。

「わあーっ!すごおーい!おっきなレコードだあ!」驚く表情がとても可愛い。

それは“懐かしの昭和歌謡”というLPレコードだった。

「これって練習用?」美穂はそう言いながらも不思議そうだった。

「どうやって聴くんだろう?」美穂はLPをいろんな角度から眺めている。

「美穂、ピアノルームに行こうよ。」

私たち二人に誘われてピアノルームへ。

LPをしっかり抱えた美穂が続く。

「実はね、ここにね。」ピアノルームの一角に隠しスペースがあることを教えた。私の宝物のオーディオセットだ。鍵を開けて久しぶりに扉を開ける。元は楽器倉庫だったようだ。

「わあーっ!すごい機械が置いてある!」美穂は目を輝かせてそれらを凝視している。

「美穂、パパとママが若い頃聴いていたステレオなの。想い出の品なので大事に取っておいたの。美穂が曲を覚えるために使って頂戴ね。」信子はそう言いながら美穂の持っているLPをプレーヤーに乗せた。ターンテーブルが回り自動で針が降りる。

直ぐに1曲目の演奏が始まる。

「当日に弾いてみたい曲を選んでみなよ。」私の言葉に大きく頷く美穂。早速メモ帳と五線譜を取り出してきた。

「えっ?美穂、五線譜なんかをどうするんだい?」驚いた私の問いに美穂が答える。

「信子先生に習ったように五線譜にメロディーを書き留めて行くの。」嬉しそうに曲を聴いていく美穂だった。

私の知らない間に様々なことを学び、身に着けていく美穂に感心するばかりだった。

大晦日は信子もお休みだった。私が大掃除をしている間に信子と美穂は連れだって買い物に出かけて行った。

優香さんの勤める楽器店の前で美穂が足を止めた。初めて信子にピアノを教わった感覚をふと想い出したのだろう。店先のピアノに指を走らせる。“アマリリス”を引き始めた。そんな美穂の傍で一緒に弾き始める信子。「懐かしいね!」二人でにこにこと弾いているといつの間にか優香さんが立っていた。

「わあーっ!懐かしい!美穂ちゃんの第一歩、原点の曲ね。」そう言いながら優香さんも加わって3人での“アマリリス”の演奏となった。

楽しそうな3人を見て人が集まって来た。

「こんにちは。クリスマス会では素晴らしい演奏を聴かせていただきました。」そう言って声をかけてくれる人が居たり、「運動会のピアノの子だ!」と握手されたりとおおもての美穂だった。

「美穂ちゃん、どこかで演奏したの?」優香さんがびっくりして美穂に尋ねる。

「うん、老人ホームでクリスマスのときに。今度は新年会なんだよ。」無邪気に話す美穂。

「うわあー!来年は是非聴きに行きたいわあ」優香さんも明るく笑った。

大晦日の夜は皆大忙しだ。

信子と美穂はお正月のお料理、と言ってもお雑煮と炊き合わせ、栗きんとん位のものだが。忙しい中そんなには作る余裕がないというのが本音だ。後はお刺身があれば言うことはない。

美穂は栗きんとん作りを担当する。お菓子作りの要領で美味しい栗きんとんを作ってくれる。

私はと言うと自分のものと信子のもの、美穂のものも若干あるのだが、そう、ワープロでの年賀状作りだ。家族皆でのお正月の準備。これがわが家の大晦日だった。さすがに20時頃になると美穂はお風呂に入り就寝する。

信子と私は除夜の鐘が鳴り始める頃まで作業を続けている。こうして新しい年を迎える。


年が明けた。“明けましておめでとう”わが家での新年の挨拶で新しい年が始まる。美穂と2人で料理を並べる。信子はお雑煮を作ってくれる。3人でのお正月。普段、信子と私が中々一緒に食事できないので美穂にとっては嬉しい食事風景となる。何故なら正月3日から新春公演を控えている信子、4日から出社する私といった具合で3ケ日をゆっくり過ごすことはなかなか難しいのだ。そんな中、美穂は第一日曜日の老人ホームでの新年会へ向け猛練習だ。と言ってもピアノが大好きな美穂にとっては何てことは無いと言って笑っている。そんな合間に年賀状を読んだ。懐かしい面々からも賀状を頂き近況も知ることが出来た。

「佐藤先生のお嬢さん、信ちゃんの音大を受験するって書いてあるよ。」私はそう言って信子と美穂に年賀状を見せた。そこには美穂の演奏に励まされた旨が書いてあった。

「ええーっ?私何かしたかなあ?」美穂は首を傾げるが美穂の演奏がきっかけなのだろうと信子と微笑みあった。

お正月の2日、朝、お雑煮を頂いて3人で初詣へ出かけた。

近所の神社に出向いた。小さな神社ではあるが大勢の初詣客で賑わっていた。銀杏並木の参道を進んでいき本殿でお参りをした。信子、美穂と共に3人で参拝を済ませお神籤をそれぞれで弾いた。さすがに信子と美穂は大吉だった。私は中吉。やはりこの二人は今年も活躍しそうだ。それぞれお守りを求めてから参道を下る。小さな神社ながら沿道には屋台がずらりと並ぶ。

「あんず飴食べようよ。」美穂の提案に乗ってあんず飴の屋台へ。

屋台と言えばあんず飴の構図が出来上がっていた。

3人であんず飴をほおばる。親子3人であんず飴を食べるのが珍しいのか次々と子供たちが屋台に吸い寄せられる。そんな光景を横目で見ながら美味しく頂いた。

また歩き始めると美穂が何かを見つけた。

「ねえ、あれはなあに?」美穂が指差す方にはカルメ焼きの屋台が。

スマートボールの様に球を上から転がしどこの穴に入るかでカルメ焼きの大きさが決まる。

「美穂!頼んだぞ!」そう言って3人分の代金を渡す。

「うん!」美穂は嬉しそうに最初の1球を投じる。球は釘の合間を弾かれながらゴールへ向かう。おお!なかなか大きいところの穴に入った。続けて2球目、こちらも同じ大きさのカルメ焼きの穴へ。

「わあっ!これが最後だあ!」そう言いながら美穂は自分の顔より大きなカルメ焼きを狙う。

「それいけ!」信子と私も美穂を応援する。そんな私たち3人を見て屋台のお兄さんから笑みが漏れる。

「おおっ!」今度は屋台のお兄さんから驚きの声が上がる。だが、まだ球は転がっているのだ。何故だ?そう思いながら美穂が投げた球の行方を3人の目が追う。すると見事に一番大きなカルメ焼きの穴に吸い込まれていった。3人で顔を見合わせて小躍りして喜ぶ。

「すごいねえ!お嬢ちゃん!中々出ないよそこは。今年は縁起がいいよ。持ってるねえ。」にこにこ笑いながら鐘を鳴らし袋に入った大きなカルメ焼きを美穂に渡してくれた。

「すごおーい!ほらっ!LPレコードより大きいよ!」美穂は大はしゃぎだった。

「ありがとうございます。そう言えば先ほど娘が投げた時に“おおっ!”と言われましたけど・・・。」私が尋ねるとお兄さんはこう答えた。

「実は、球が落ちた場所で分かるんですよ。長年やってるからね。」

美穂は大きなカルメ焼きを大事そうに抱えて家路を急いだ。

初詣から帰ると美穂は自分のピアノの傍に大きなカルメ焼きを大事そうに飾った。お茶を飲みながら2つのカルメ焼きを3人で食べた。

「甘あーい!」初めて食べるカルメ焼きの甘さに驚く美穂。慌ててほうじ茶をすする姿が余りにも可愛くて信子と顔を見合わせて笑った。一息つくともう2人ともピアノのレッスンだ。さあて、私はお風呂を洗おうかな。

お正月の3日、信子が初出勤で美穂と私でお留守番だ。

信子を送り出した私はその足で朝食の準備だ。さすがにお雑煮はもう飽きただろうとフレンチトーストを作る準備を始める。少しお寝坊をした美穂が起きてくる。「おはよう。」

「パパ、おはよう!」美穂の元気な声が返ってきた。

「もうすぐ朝ごはんだよ。顔を洗っておいで。」美穂に声をかけてからフレンチトーストを焼き始める。洗面所の方から美穂の鼻歌が聞こえてくる。どうやら昭和歌謡を口ずさんでいるようだ。

美穂が席に着くと朝食の始まりだ。娘との二人だけの食事もまた乙なものだ。美穂は小学生ながらナイフとフォークを器用に使いフレンチトーストを口へ運ぶ。

「うふっ。パパ、美味しいね。」嬉しそうにフレンチトーストをほおばる美穂。最近、喋り方が信子に似てきた。ちょっとドキッ!とすることもある。

「そうかそうか、よかった。」私も笑顔になるのだった。

オレンジジュースを飲み干すと美穂は楽譜を持ってきた。

美穂が楽譜を手に持っている間に素早く食卓を片付ける。楽譜を汚さないためだ。

「パパ、ありがとう。」そう言って楽譜をテーブルに置き鉛筆で何かを書き始めた。自分で書いた楽譜を手直しして自分なりのアレンジを加えているとのこと。美穂はそんなことまで出来るようになったのか。このお正月の3ケ日、じっくり美穂と接してみて美穂の成長ぶりを伺い知ることが出来た。よかった。美穂はまっ直ぐに成長している。

年が明けて最初の土日、信子はオーケストラのコンサートで不在だった。美穂は翌日の老人ホームでの演奏の仕上げでピアノルームに籠り演奏に励んでいた。その間、私は月曜日の会議の資料をワープロ打ちして仕上げていた。そんな時美穂が私の傍にやって来た。

「パパ、何作ってるの?」私がワープロを使っているのが珍しかったようだ。何時もは私の部屋で作業をするのだが少しでも美穂の傍に居たかったのだ。

「うん、会社の会議の資料だよ。」私がそう答えると更に疑問を投げかけてきた。

「でもそれ、日本語じゃないよね。すごーい!パパって会社で何してる人なの?」

確かにそうだ。私は家では会社の話をしない主義だ。だから美穂が知らなくても仕方のないことなのだ。

「パパはね、会社で外国にある会社の支店に品物を送ったりしているんだよ。逆に送って貰うこともあるんだ。そこには外国の人もいるから英語を使っているんだよ。」そう言って説明した。

「うーん、つまりは輸出と輸入ってことだね。」美穂は頷きながら納得してくれた。社会科でもう習っているのか、ピアノ以外でもいろいろ勉強しているようだ。

「美穂、お昼にしようか。何が食べたい?」

「うん。私、ラーメンが食べたい。」無邪気に笑う美穂のリクエストに答えることにした。

わが家では信子の健康志向ということもあり、アメリカ在住時はジャンキーな食べ物が多く自炊や手弁当が多かったと聞いていた、ラーメンも生麵を使っていた。ただ、スープだけは別売りの市販品を楽しんでいた。関東生まれ関東育ちの美穂は醤油ラーメンが大好きだった。そんな美穂のラーメンのトッピングは大量のチャーシューだ。誰に習ったのか、半分のチャーシューを麵の下に隠し、残りを麺と一緒に食べるのだ。そして最後に麺の下に隠して置いたチャーシューを美味しそうにほおばるのだった。こうしてこの日のお昼御飯が終わった。食後のトマトジュースを飲み終えると美穂はまたピアノルームでの練習に、私はワープロでの作業を再開するのだった。

そんな午後、電話が鳴った。それは私の母からだった。あまりこの物語には登場しないが、父が転勤族で彼方此方へ移動しているようだ。また新しいところへ移ったとその連絡だった。昔、信子の母と一緒に洋裁教室に通っていたのだが、それ以降は疎遠になっている。一通り話を終えると美穂の声が聞きたいというので美穂を呼びに行き年始の挨拶を。明日の老人ホームの新年会の話をして美穂はキャっきゃと盛り上がっていた。

電話も終わりまた二人それぞれの時間が過ぎていく。美穂と一緒に居ると考えただけで過ぎていくこの時間が特別なものに感じられた。

おせちの残りとお雑煮で夕飯を済ませる。明日の話をしながら予定を確認する。明日は車が無いのでバスで老人ホームへ向かう。手袋を忘れないように美穂に声をかけた。

翌日、何時も通りに二人で起床。朝ごはんは厚切りトーストだ。

「パパとママってトースト大好きだよね。」美穂はそう言いながらもトーストをぱくぱくと食べ進めていく。しっかりと牛乳も飲んで後二人で片付けをして家を出る。

外は冷たい。美穂には革ジャンと厚めのズボン、ニット帽、マフラー、そして毛糸の手袋を纏わせた。荷物はすべて私が持つ。近くのバス停からバスに揺られて老人ホームへ。駐車場にはたくさんの車が停まっている。結構な人で賑わっているようだ。

正面玄関から中に入る。「おめでとうございます。」迎えてくださった職員さんに二人でご挨拶する。直ぐに控室に通された。そこには出演する方々が多数いらして皆さんに新年のご挨拶をした。美穂のことを存じていただいた方々もいらして、短い雑談の後、用意されたテーブル席に座った。三味線を弾くという女性たちが美穂にとお茶とお菓子を差し入れてくださった。美穂がお礼を言うと口々に「まあ!しっかりとしたお嬢さん!」とお褒めの言葉を頂いた。

いよいよ新年会が始まった。やはり美穂のピアノ演奏は大トリだった。最初はクリスマス会同様に手品のおじさんだ。美穂が見に行きたいというので会場へ。うわあ!超満員だった。椅子席だけでなく立ち見の方で会場は熱気にあふれていた。

「美穂お嬢ちゃん!こっち!こっち!」お年寄りたちの声がした。

数人のお年寄りたちが美穂の姿を見つけ呼んでくれたのだ。それに甘えて美穂を促す。美穂は人混みをかき分けるようにステージ前へ歩いていく。皆さんにご挨拶しながら辿り着いたのは竿前列のど真ん中の席だった。その隣には学校長さんのお母さまが。美穂は嬉しそうにお母さまと話している。そうこうしているうちに手品が始まり新宴会の幕が開いた。美穂は身じろぎもせずに手品に釘付けだ。

遠くからだが美穂の表情が手に取るように分かる。そうこうしているうちに津軽三味線の演奏が始まる。余りの三味線の迫力に美穂は驚きを隠せなかったそうだ。演芸、大道芸、獅子舞なども登場し、いよいよ美穂のピアノ演奏となった。

美穂は客席の椅子から立ち、ピアノの傍へ歩いていく。すでに拍手が起る。ホームのお年寄りたちは覚えていてくれたようだ。親としてすごく嬉しい。

美穂は何時もの様にピアノに片手を添えお客様に一礼をする。そして椅子に腰かける。先ほど演奏を終えた三味線のお姉さん方も美穂の演奏を聴きに詰めかけてきた。

「さっき聞いたんだけど、あの子プロ並みらしいわよ。」そんな会話が聞こえる。

「あー良かった!間に合った!」聞き覚えのある声が私の隣で上がった。何と優香さんだ。美穂の演奏を聴こうと駆けつけてくださったそうだ。新年の挨拶を交わす中、美穂の演奏が始まった。

オープニングは「リンゴの唄」、力強い何時もの美穂の演奏だ。

「おおおーっ!」会場から驚きの声が上がる。クリスマス会とは全てプログラムが違うようだ。実は私も全く知らない。

美穂の演奏は「長崎の女」、「有楽町で逢いましょう」と続いていく。

会場は一心不乱に美穂の演奏に聴き入っている。

「さすが美穂ちゃんだわあ!立派なエンターテイナーだわ。」優香さんのひとり言が私の耳に入ってくる。三味線のお姉さん方も唖然として演奏する美穂を見つめている。「丘を越えて」、「人生の並木道」、「蘇州夜曲」と美穂の指はピアノを奏で続ける。ホームのお年寄りの皆さん全員が目を輝かせながら美穂の演奏を聴いてくださっている。「こんな小学生がいるんだ!」誰かが叫んだ。最後の曲は「湖畔の宿」、そう、お母さまの大好きな曲だ。当のお母さまは感激で涙をぽろぽろ溢されている。美穂は演奏を終えると椅子から立ち上がりピアノに片手を添えて一礼した。

「ブラボオーッ!」大きな歓声と共に拍手が巻き起こった。会場は老人ホームとは思えないくらい興奮のるつぼとなっていた。

数人のお年寄りたちが美穂にぬいぐるみやプレゼントを手渡してくださった。美穂はびっくりしながらも笑顔でそれらを受け取っていた。「すごい!すごすぎる!」三味線のお姉さん方も興奮しまくりだった。同じ奏者として美穂の実力を認めてくださったのだろう。

美穂は両手にぬいぐるみなどを持ったまま入居者の方々一人ずつに新年の挨拶とお礼を言って回っている。これも信子のDNAだと私は確信した。

「やあ、お父さん、優香君。新年おめでとうございます。優香君も来てくれていたのかね。」

優香さんと私は驚いて声の主の方を見た。

「あっ!学校長さん!新年おめでとうございます!」思わず優香さんと声を合わせてご挨拶をする。

「いやあ、私の母が美穂ちゃんの大ファンでね。是非聴きに来いというものでね。それにしても素晴らしいの一言だよ。演奏もうまいが、あの懐メロを覚えて身に付けるとは。しかも楽譜も無しでだ。将来が楽しみすぎる子だよ美穂ちゃんは。」興奮した口調で褒めていただき恐縮千万の心地だった。美穂は未だホームの皆さんに囲まれたままだ。そんな私たちの元にホーム長さんが挨拶に見えた。大変喜んでいただいて、入居者の皆さんがあの通り元気になられたと言ってくださった。そんな中、また二人ご挨拶にいらしてくださった。

それは美穂が通う小学校の校長先生と担任の井上先生だった。お二人からも格別なお褒めを頂戴した。

信子が居たらどんなに喜んだことだろう。

老人ホームの皆様に見送っていただき、更に優香さんの車に便乗させていただき帰路に就いた。車中では優香さんと美穂のピアノ談義に圧倒されていた。どうやら信子の指導方法が美穂の成長に大きく寄与しているようだ。最初に美穂を見ていたのは優香さんだそうだ。店先でたどたどしくピアノを弾いていたこと、教えてあげたくても仕事が忙しくしかも外回りが多くて中々接してあげれなかったことを想い出し、美穂への謝罪の念を打ち明けてくれた。

「ううん。私弾くのに一生懸命で全然そんなこと思ってなかったよ、優香お姉ちゃん。」美穂は明るく笑った。

「ありがとう。美穂ちゃん、困ったことがあったら何でも言ってね。」

そうしている間にわが家に着いた。頂いたプレゼントを玄関へ運び、優香さんにお礼を言った。窓から手を振りながら優香さんの車は店へと戻って行った。

美穂は家へ入ると真っ先にピアノの上にプレゼントされた品々を飾っていく。よほど嬉しかったのだろう、着替えるのも忘れてアレンジを考えて並べ直していた。私は先に着替えを済ませ美穂のためにホットミルクココアを作っていた。ひとかけらチョコを入れるのがコクを出すコツだと学生時代から作り続けている。信子にもそうして振舞ってきた。美穂もこのホットミルクココアが大好きだ。

着替えが終わった美穂が手を洗ってから食卓の椅子に座るとこのホットミルクココアを出す。

「わあ!いつものだ。」満面の笑みを浮かべて口を尖らせふうふうしながら熱々のホットミルクココアを頂く姿はこれまた信子にっそっくりだった。冷え切った身体を温めてくれる魔法のドリンク、しれが私が作るホットミルクココアだった。

二人で飲みながら今日の演奏会の話をする。演奏も通常の譜面ではなく美穂の耳で聞いたレコードの音階が加えられ歌手の歌い方まで再現されていることに驚いたことを真っ先に話した。美穂はそのことを非常に喜んでくれた。譜面で弾く曲調と歌手の歌う曲調が微妙に異なるところが気になったと話してくれた。その話の最後になぜそんなに上手に弾けるのか?とわざと聞いてみた。

「えっ?だってピアノさんがこう弾けって教えてくれるからだよ。」当然の様に美穂は真顔で答えてくれた。

その日の夜遅く信子が帰宅した。真っ先に美穂の新年会の様子を尋ねてきた。私は一部始終を詳細に話した。信子は嬉しそうに熱い緑茶を飲みながら聞き入ってくれた。歌手の歌声に合わせてメインメロディーを演奏していたことを話すとうんうんと頷いてため息をついた。「うわあーっ。とうとうここまで来ちゃったのかあ。」

美穂の学習能力は信子の予想を超えているようだ。信子はまた次の段階を目指して美穂に課題を与えるという。ただ、美穂の小学生の指がそのレッスンについて来れるかが心配だという。なんせまだ3年生なのだ。かなり指使いが早い課題曲を考えているようだ。しかし美穂のことだ、必ずマスターしそうだねと二人で微笑んだ。

翌日、小学校から電話があった。どうやら老人ホームから小学校宛に荷物が届いているとのことだった。美穂に預けてくださいとお願いしたところ大きな段ボールに入っているとのことだった。驚いた信子が取り敢えず受け取りに出向くことにした。

職員室に入り日曜日のお礼を言いながら置かれた大きな段ボール箱を開けるとお手紙とぬいぐるみ、手編みの手袋、マフラーなどが入っていた。さすがの信子もその内容、量に驚いたとのことだ。丁度その時校長先生がいらしたそうで改めて新年会のお礼を申し上げたそうだ。校長先生は嬉しそうに美穂の演奏について話してくださった。

子供離れした演奏に大変驚かれたようだ。どこのピアノ教室に通っているのかとの問いに「私が教えております。」と答えたところまた驚かれたそうだ。そこで信子は自分はプロのピアノ奏者であることを伝えた。

「なるほど!それであの運動会での演奏となったのですね。」にこにことお褒め頂いたそうだ。

「そうだ、お母さん、美穂ちゃんのクラスを見に行かれませんか?」

「いえ、他のお子さんの気が散るといけませんから。」そう言うと

「二人でそおーっと行きましょう、そおーっと。」校長先生の誘惑に負けて笑いながら頷く信子。二人で足音を立てずに美穂のいる教室へ。後ろのドアの隙間からそっと教室内を伺う二人。皆一生懸命先生の話を聞いている。信子は後姿の美穂を発見しロックオン。自分の知らない美穂がそこにいる。が、まてよ。美穂は机の下で指を動かしている。あの子ったら!同様に覗いていた校長先生もこれにはびっくりだった。しかもさらに驚いたことに美穂はノートに書きこむ際に左手までも使っているのだ。その時美穂が両利きだと初めて知ったそうだ。実は私も両利きなのだが、小学校に上がるときに右利きに変えさせられた。その当時はすごく嫌だったが結局両方の手が使えることとなった。美穂はいつの間にか私の両利きの技?を盗んだのだろうか。

長居は無用とばかり二人は早々に引き上げて来たそうだ。

私が帰宅すると居間に多数の手紙が置いてあった。遅めの夕食を済ませると早速封筒の差出人の名前を1封ずつ見て行った。

「やっぱり中は見ないよね。」信子がお茶を入れながら私に話しかけた。信子も見なかったようだ。私たちはお互いにプライバシーは守るように心がけている。わが子とは言え美穂のプライバシーを無視することはしない。ただ、ざっと見て30通はある。それぞれの方に返事を書くのも無理がある。

「掲示板に貼って貰おうよ。皆様宛ってことで。」私の提案に信子も喜んで手を揚げてくれた。早速、明日、美穂が返ってくるまでに大きな模造紙を準備すると信子は大張り切りだ。そう二人で話しながら美穂のピアノを覗きに行く。ピアノの上には大小様々な可愛いぬいぐるみが並んでいた。くすくす笑いながら私たちはそっとピアノルームの扉を閉めた。

私は2階の部屋から“手紙の例文集”を持ってきて信子に渡した。文例に沿って書き進めれば失礼な文章にはならないはずだ。もちろんそれに沿って美穂の文章を書いていけばよい。きっと美穂の綺麗な、特に綺麗なひらがなが映えることだろう。

その日の夜、帰宅するとそれは出来上がっていた。新聞紙を広げたくらいの大きさで2枚に大きめの文字で美穂のお礼の文章が書かれていた。ひらがなが多いと美穂の字の上手さが映える。そしてそれは女の子らしい手紙となっていた。信子は明日にでも老人ホームに届けてくれるとのことだ。

2月に入ると節分だ。関西育ちの母を持つ信子は豆まきの代わりに恵方巻を作る。私も初めてのときは少し戸惑ったが、“郷に入れば郷に従え”に習い受け入れることにした。今ではすっかりわが家の習慣となっている。もちろん美穂は大好きな海苔巻きが食べれるとあってすっかり馴染んでくれている。今年は節分が日曜日のため信子と美穂の合作の恵方巻となった。美穂は小さな口で恵方巻を口いっぱいほうばっていた。食べ終わるまで話をしてはいけないそうだが、ほっぺたまで膨らませて恵方巻を食べている美穂が喋ることなど出来ようはずがない。そんな美穂の真正面に座る私は笑いを堪えるのに必死だった。信子はそんな私が指差す隣に座る美穂の顔を覗き込み思わず吹き出す。美穂はそれどころではないと一生懸命ほうじ茶で流し込んでいる。学校で書いてきた美穂の鬼はピアノの上に飾ってあるが、余りにも可愛い鬼さんである。

このところ美穂は4月に行われる音大主催のピアノコンクールに向け信子の指導の下で練習に励んでいた。今回は課題曲とフリーで選ぶ曲の2曲を練習しているようだ。ピアノルームが防音のためここのところあまり家に長く居ない私は美穂が何の曲を練習しているのかさえ分からなかった。

そうこうしているうちに3月を迎えた。3日は桃の節句だ。庭にある鉢植えの桃の木もこの日に合わせたかのように花を咲かせる。なぜ鉢植えなのかと言うと室内に入れるからだ。窓際に置いてあげれば風に当たることもなく綺麗な花が長持ちする。また、一層桃の節句が引き立つのだ。更に、この時期が近くなるとお雛様の準備で信子と美穂は大はしゃぎだ。この雛人形はお義母さんから信子が譲り受けたもので美穂を含め3代に渡って引き継がれることになる。

ひと昔の雛人形は結構大きく、つくりもしっかりしている。

私が組み立てた雛壇に信子と美穂が雛人形を一人ずつ並べていく。リビングが狭いわが家にはかなりのスペースが占領される。しかし並び終えた雛人形は未だ美しく色鮮やかだ。おそらく保存方法が良いのだろう。かなり家具を移動させたりで大変だが、飾られている様を見ると狭いだの大変だのはどうでもよくなる。一足先にわが家に春が来たようだ。

おやつには雛あられを頂く。カラフルな雛あられ、これも美穂の大好物だ。止めなければ一気に大きな袋を丸ごと平らげてしまう。

酒粕で作る信子お手製の甘酒は十分にアルコールを飛ばしてあり酔う心配はない。それでも美穂には小さな盃2杯位しか飲ませない。用心のためだ。そして桃の節句の夕飯はちらし寿司だ。大きな桶のまま食卓に上がるちらし寿司はお義母さん直伝の関西風であり桜でんぷと錦糸卵が沢山入っている。この作り方を美穂はもうマスターしてしまったと信子が喜んでいた。

来月4月は美穂の4年生の新学期とピアノコンクールが控えている。

また忙しくなりそうだ。

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ああ!昭和は遠くなりにけり! @dontaku

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