団扇ウサギ

千桐加蓮

団扇ウサギ

「雨ニモマケズ風ニモマケズ雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ」

 このアパートの陽当たりは良好である。鮎芽実隆あゆめさねたかは、平成初期に建てられたという木造二階建ての二階に住んでいる。

 彼は、床に寝そべって『雨ニモマケズ』を目を瞑って呟いていた。

 恐らく、今の実隆は、誰がどう見ても夏の暑さに負けているようにしか思えない。

 細身過ぎる身体、だらっとした長袖のTシャツ、だぼっとしたパンツ、床に転がっている理由は不明だが、『雨ニモマケズ』をちゃんと呟けている点は評価できる。俺は、『雨ニモマケズ』の内容は、大体しかできていないのだ。何も見ずに言えと言われても、俺には少し勇気がいることだった。実隆は呟き声は、効きの悪い冷房の音と交わっていた。

 俺の場合、出だしの『雨ニモマケズ』しか覚えていない。「今、抜き打ち暗唱テストをする」と言われたとしよう。間違いなく、「雨ニモマケズ」とだけ言って、すぐにリタイアせざるを得ないのが目に見えてる。


 小学五年生の時、国語の授業で『雨ニモマケズ』をクラス全員で音読した時の光景が蘇った。

 女性教師の丸い文字で黒板に板書された『雨ニモマケズ』。

 少し高い声が響き渡る教室。俺の前の席には実隆がいた。

 実隆とは、中学校に上がって二年間同じクラスである。

 加えて、それよりも前、小学校五年生の時も同じクラスだった。だけど、その当時は、あまり関わりを持とうとは思わなかった。実隆に関する興味をそそった事件が起こる前までは、の話である。


「丈夫ナカラダヲモチ」

 実隆の細身の体は、決して健康的とは考え難い。昔から肌はやけに白い。だけど、小五の実隆はここまで痩せ細っていなかった。俺は、キッチンからつながるリビング部屋の境界線に入らず、実隆の唇を見た。乾燥していて、清潔感がない。

「慾ハナク」

 最後、小さく母音を吐いた時、切なさと無力感を身体全体で溶かしていこうとしているのが伝わった。

 その呟きの後、彼は黙り込んだ。三十秒、一分……。時間が経過していく壁掛け時計の針の音が聞きたくなくても聞こえてくる。

 蝉が外でうるさく鳴いている。俺は昆虫には疎いので、何蝉かはわからない。今の実隆には、蝉の鳴き声が、泣き声に聞こえているのかもしれない。

「なすと小松菜のめんつゆわさび漬け、出来上がりましたよ」

 変に敬語を使ってみる。俺たちは親しい仲だというのに、最近は実隆に対してやけに敬語を使いたくなってしまう。

 実隆は、細い手を使ってゆっくりと起き上がる。卓袱台の上に漬け物を置いた。加えて、玄米ではなく白米を盛ったご飯と、味噌汁も添えて卓袱台に置いた。実隆から見て、ご飯は左に味噌汁は右に置く。漬け物は、中心にくるように並べる。

「ご飯と、味噌汁。少しの野菜も。ちゃんと食べろよ」

 実隆は小さく笑った。

「小松菜は、ほうれん草よりも鉄とカルシウムをたくさん含んでるんだ。優れものだよ」

「うん。永斗えいと、ありがとうね」

 実隆は、俺の名前とお礼を言った後、箸を綺麗な手で持ち、器用に漬け物を白米の上にのせた。

「なすに含まれてるコリンっていう水溶性ビタミン様物質で、食欲不振を解消できるらしい」

 彼の小さく開けられた口の中に、白米と漬け物が入っていく。

「ちゃんと工夫して作ったんだ。元気になってほしいから」

「うん」

 蝉の鳴き声の方が、俺たちの声よりも大きい。

「夏休みなんだから、どっか行ってきたら?」

 話を逸らしたかったのだろう。実隆は、外を見て、俺に夏休みの話題のことを質問をする。

「中学生って行けるとこ限られてるだろ。ただでさえ、俺の家そんなお金持ってないんだし。シングルマザーで育ててもらってるし、俺が出かけて、仕事してるお母さんに迷惑かけたくないし」

「確かに」

 実隆は、漬物を咀嚼した。ご飯を一口頬張り、味噌汁を飲む。彼は漬物を食べた後は白米を食べなくてはいけないという暗黙のルールでもあるのか? 俺は彼の姿を見ながら、先ほど彼が寝そべっていた床に寝そべった。

「二学期は、中学校来る?」

 先週、お盆が明けた。夏休みもそろそろ終わる。俺は、中二の夏休みのほとんどを実隆に捧げた。こうして実隆の住んでいるアパートまで来て、昼食を作りに行くのは、自己満足のようで、義務のようでもあった。実隆は、放って置くといつの間にか消えてしまいそうだから。

「行きたくない」

 やっと出してくれた声は、少し震えていて低かった。

 俺は、実隆に学校に来てほしい。でも、きっと俺の言葉では彼の胸に届かない。

美夏みかちゃんを見たくないから?」

「そうだね」

 美夏ちゃんというのは、クラスメイトの大江おおえさんの妹である。今年、小学六年生になり、小学校の中では最高学年と呼ばれ、責任感のある行動を取るように教えられるのだろう。

 そういう自覚を勝手に持つ者もいるだろうけれど、俺が小学六年生の時は、そういうことあまり考えないようにしていた。とはいいつつも、大人に迷惑をかけることが嫌いな俺は、常に学校の望む模範的な生徒でいた。

 ハメの外し方がわからなかったことから、それぞれが年代別に思う真面目な小学生のルーティンを読み取り、年代別で共通していた部分を合わせたような生活を永遠に繰り返していた。

「普通に過ごすのって、難しいの? それに美夏ちゃんと歳、そんな離れてないじゃん」

 俺は、彼の手元を見て疑問に思っていたことを素直に聞いてみた。彼が食事をしている手は止まる。

「今は、そうかもしれないけれど、対象の年齢だけが動かないままで、僕だけ歳を取っていったら?」

 実隆が、中学一年生まで好きだった女の子は大江さんだ。言わずとも、目で彼女のことを追っていたのでわかる。

 今の彼は、焦っていた。怖がっていた。声も震えている。

「自分が、大人になった時、子どもしか愛せないって思うようになったらって思うと、怖くて仕方がないんだよ」

 実隆の指先も震え始めた。

「でも、美夏ちゃんと会う機会ってあんまりなくない? 会ったの、一回だけでしょ? 小学生の下校時間をずらして登下校すれば解決するんじゃないの」

「でも、美夏ちゃんは俺のことを覚えてる。それが嬉しくて堪らない。それが怖い」

 実隆は、再び箸で白米と漬け物を口に運ぶ。俺は、彼が咀嚼する様子を眺めていた。彼は漬物を食べ終わった後、味噌汁を飲む。そしてまた白米を食べる。

「俺、中学の時、ずっと好きだった女の子がいたんだ」

「うん」

 それは知っているよ。

「その子がさ、そのまま小学生だったら、時が止まってたらって」

「うん」

「つまり、僕が怖いのは、社会からいずれバッシングを食らうこと。直接かもしれないし、画面の向こう側からかもしれないし。紙の本かもしれない」

 でも、そうなるとは限らないじゃないか。

「このなすだってそうだ。夏野菜で、一番いい時期に収穫される。でも、なすは実をつけるのに時間が掛かる」

 漬け物のなすを箸で掴み、口の中に入れる。

「うん」

 俺は、彼の声が震えていくのを感じた。

「でも、夏野菜って旬じゃない時期にも収穫できるんでしょ? だから、夏野菜が旬じゃない時に出回ってるってことは、それだけ農薬や化学肥料を使ってるってことになるって思ってる」

「うん」

 彼は、漬物を食べ終わった後、味噌汁を一口飲んだ。そして、また白米を食べる。

「農薬とか化学肥料は、毒だ。語弊が生まれる表現だけど。しかもその毒は、確実に俺たちの体に溜まってる」

「うん」

 実隆の指先は、震えていた。箸が落ちる。俺は彼に話しかけることが出来ずにいた。

「俺、味噌汁もなす小松菜のめんつゆわさび漬け物も白米も好きだよ。でも……」

 実隆が顔を上げて言った。

「もう、嫌だ。成長するために作られた薬が溜まったクラスメイトを見るのが、怖い」

 僕は置いていかれるただの幼児愛好家なんだ。そう呟いた後、彼は咀嚼しながら泣いていた。

 彼は、何をくよくよしているのだろう。小学五年生の時、俺を置いて行ったのは実隆の方なのに。

 俺は冷笑した。あどけない顔立ちの俺が冷笑なんて。大人から見たら、ただの子どもの戯言に過ぎないのかもしれない。でも、俺はこの残酷な事実を受け止めて、彼に伝えなければならない。

「実隆は、人一倍優しいから、人一倍傷つきやすくて、人一倍臆病なんだよ」

「だから?」

 彼は、涙目で俺を睨んでいる。

「だから、変化に怖がらないことだよ。俺は生まれた時から父親は家にいなかったけど、実隆は急に当たり前がなくなることを知っている。バイク事故でお前の父ちゃんは消えちゃったわけだし、お前はそうやって変化が怖くて、何かにしがみついていたくて、でも、その対象が小さい子っていうのは、小さくて弱いから、守ってあげたいってことだって自信つけてばいいんじゃねえの。大人になったら、幼児愛好家じゃなかったってなるかもしれないし、今決めつけるのはどうかしてる」

 俺はゆったりと起き上がる。実隆は小さく口を開けていた。

「ま、いいじゃん。男前ってわけじゃないけど、優しい軸ってのが、ちゃんとあるじゃん」

 中学生のくせに、大人を意識した慰めをしている自分に腹が立っている気がしたが、無視した。そもそも言葉が無理矢理で、社会で働いている人に、こんな慰めをしたら「何を言いたいの?」と首を傾げられるに違いない。

 それでも、許して欲しかった。今理解した。俺も求めていた。

「家に一人は寂しいから、今日もここにいていい?」

 昔から、人を冷めた目で見るクセがあった。おもちゃの取り合いに参加することもせず、思春期のせいから引き起こるものなのか、つまんないきっかけで引き起こる男子と女子の揉め合いに一度も参加しようとしなかった。

 幽体離脱をしたように、周りで何が起こっているのかを遠目で見ている方が好きだった。

「いいよ」

 実隆は小さい声で言ったのだった。

 俺は、冷めている。もっと、甘え方を教えてもらえれば良かった。

「ねえ、実隆。なんで小五の時、誘拐なんてされたの」

 味噌汁を飲み終えた彼は、俺を真っ直ぐ見た。

「いきなり誘拐してきた大学生に聞いてよ。僕とは二度と会わせないようにしてるらしいから、一緒に探せないけど」

 彼は、今の俺から見ると、可愛くもない。愛おしくも思わない。けど、放っておくのはできなかった。

「俺も、遠くに行きたい」

「じゃあ、その人の家で今日みたいな質素な食事を作ってあげなよ。今風に、玄米じゃなくて白米。それから、味噌汁と野菜」

 実隆は、細い腕で自分の長い前髪を後ろにやった。


 実隆は、小学五年生の暑い日が続く九月に、誘拐された。一人で下校していたところ、誘拐された。そのことを、次の日の学校の朝の会で聞かされた時、怖さよりも羨ましいと思う感情が自分の中にあることを不気味に思った。

 非日常に飛びたかったのかもしれない。真っ直ぐな冷たい雨のように、風のように、スピーディーに逃げたかった。自分のクセが嫌いになりつつあった現実から。

「実隆はさ、優しいから」

 俺は言った。この言葉にどれだけの信憑性があるのか疑問だ。彼は優しくなんかないのかもしれない。

 でも、彼の優しさを信じることで、俺が求めているものを手に入れられるような気がしているのも事実だった。

 

 誘拐されていたアパートを警察が突き止められ、部屋に無理矢理入ってきた時、実隆は誘拐をした大学生に大声で泣きながらこう言ったらしい。


『いや、いやだあ! お父さん! 置いて行かなで! 嫌! いやだあ!! 側にいてよ! お願い、僕から離れて行かないで!』


 そのまま、女性警察官に抱き抱えられ、実隆は保護された。

 

 もがいてももがても、その大学生を捕まえられなかった。小学五年生の実隆は、自分を誘拐した大学生をお父さんと呼んで、家族に近い関係になっていたという。大学生の供述では「家族ごっこをしてみたかった」と話していることから、小学五年生になる年にバイク事故で父親を亡くしていたのを、大学生は事前に調べていたのだろう。

 このような話しを、それから数ヶ月経った授業参観で知った。後ろのお母様方が、実隆を見て哀れな目を向けて言っていたのだ。だが、実隆は気付かないフリを続けているように思った。ある意味、変なところで強さが出ている。

 その言葉のせいで、彼はなんとなくで親しくしてもらっていたクラスメイトたちから距離を置かれるようになった。きもいとか、ダサいとか、中身があるようでない言葉を陰で投げかけていた。

 

 小学校を卒業した後、当たり前に地元の中学校にへ入学した。そこで再び実隆と同じクラスになった。声変わりで声が少し低くなっていたり、背が伸び始めていたりと、ちょっとした変化は目に見えたが、根本的な考え方は変わっていなさそうだった。雰囲気で、というか勘で思っていた。

 中学一年の一学期。最初の席替えを平等にするためだと担任が作ったくじ引きを、俺ら生徒たちがひいていった。

 結果、俺は実隆の隣の席になった。俺も、幽体離脱をし過ぎで、周りを眺めてばっかりだったので、特別親しい友達はいなかった。小学五年生の時から気になっていたのだから丁度いい。俺は実隆に話しかけるようになった。

 喋ってみると、一軍や二軍グループと呼ばれている子たちと話すよりも中々楽しく、充実した時間を過ごせた。

 構ってほしい、自分を見て! というアピールをしてこない実隆に対して、非常に親近感が湧いていたのである。

 

 少なくとも、俺たちは繊細すぎることは確かだ。こうして寂しさを、ご飯と盛り上がりもない会話で埋め合っている。


 俺は食器を洗い終わり、床に寝転がっている実隆の方に向かってしゃがんだ。

「寝てるじゃん」

 近くに置いてあって団扇で自分と実隆を扇ぐ。俺の方にも風が当たり、緩やかな風に包まれ、涼しくなる。暑さから少しだけ解放された。

 今年の夏で、実隆が五月から学校に来なくなった理由と、心情と、長いまつ毛を持ち合わせていることを知った。それから、彼は葉物野菜が嫌いじゃないことも知った。

 中二の五月頃から、学校に来なくなった実隆の家へ向かい、学校帰りに寄ることが日課となりつつあった。実隆もたまにいる実隆の母親も、俺を歓迎してくれた。すごく意外に思ったが、同時に嬉しくも感じていた。

 ある雨の日、実隆のアパートに置いてある惰性で流していた料理番組を見ていた。おばさんの言葉に、俺は付け加えた。ビタミン類を多く含むキャベツは、胃腸の保護作用があること。胃腸を強化するのであれば、オクラの粘液質との組み合わせがいいこと。

 彼は小さく驚いていた。それが誇らしかった。雨の音が喜びを表しているのかもしれないとさえ思った。

 学校が休みの日、俺は実隆の母親に言って、台所を借りて実隆に昼食を作りたいと言った。大喜びしていた。このまま痩せ細っていくこと心配していることも加えられた。夏休みも是非来てほしいと遠回しに言われ、材料費はこちらが出すとまで言ってくれたので、言葉に甘えることにした。

 普段から、家で料理を作っていたので、手つきは手慣れている方だと思う。

 レタスチャーハンは、火を通しすぎずに余熱をうまく使うのがコツであること。にらは、『古事記』や『万葉集』にも記載されている薬効のある野菜であること。

 なんとなくで読んでいた、母親が中古本で買っていた食材図鑑の知識は、この時だいぶ役に立った。

 

 一学期の終業式が終わって、いつものように実隆のアパートのリビングに、学校の荷物を置く。

 すると、「お母さんがりんごを剥いて仕事に出かけて行ったんだよ」実隆はふふっと声を漏らして笑いながら言った。

 冷蔵庫からカットされた冷えたりんごを持っている実隆をちゃんと見る。

 一緒に食べよう、と彼は提案してくれた。一つのお皿に入れられていたのを平等の個数になるように別の小さいお皿に盛り付けて、フォークを用意し、俺たちはそれぞれで食す。

 食しながら、実隆は言った。

「りんごって、人類が食べた最古の果物なんでしょ」

 そんなことを噛み締めていうので、尊敬の意を込めて食しているのかと思って、彼の方をチラ見すると、予想外れで驚いた。食べ方が汚い。俺がフォークを用意したというのに、両手に一切れずつ持って、豪快に食べていた。

「僕を誘拐した大学生の人が言ってた」

 冷たい空気が流れたような気がしたが、実隆の微笑が一番冷たく不気味だった。

「夏も、楽しもうね」

 実隆は穏やかな笑みに変わって俺を見た。俺はクスッと笑って頷いた。

「夏野菜の昼食、たくさん作ってやるからな」

 

 そんなことを頭の中で再生させていると、実隆がムクっと起きた。

「お腹いっぱいで幸せ」

 この時、実隆の顔は幼く見えた。なんだか可笑しくなって、俺は面白いものを見るように笑った。

「僕、二学期から学校行くわ」

 面白い感情から、驚きの感情に変わった。急に単純な人間になってしまったため、夢の中で何かあったのだろうかと疑う目で見る。

「ありがとう。美味しいご飯を食べて、元気になりました」

 かしこまったように、実隆が頭を下げた。

「いや、そんな……。俺こそありがとうだよ」

 俺は慌てて言った。実隆は頭を上げて、また笑った。

 彼は、俺の知らないところで成長しているのかもしれない。

「じゃあ、俺も元気出すために余った漬け物たちを食べまーす」

 俺は、子どもっぽい言い方をして、笑いながらキッチンに向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

団扇ウサギ 千桐加蓮 @karan21040829

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ