どちらさまですか?

蒼開襟

第1話

ピンポーン。

インターホンの音。

時計は深夜一時を指している。こんな時間に誰だろうか?

彼女は玄関に近づくと暗い玄関ドアを見た。

玄関ドアは木製で頑丈だが両脇上面をすりガラスで飾っているため、わずかだが外がうかがえる。

ドアの向こうには黒い影が見える。

ピンポーン。

またインターホンの音。

今夜に限って家人はいない。誰か居れば安心して対応できるのにどうしようもない。

電気をつけずこのまま居留守を使うべきだろうか?

少し後ずさりして部屋に戻ろうとした時、黒い影が動いた。

ドンドンドン。

今度はドアを叩く音。

『すいません、夜分遅くすいません。』

ドアの向こうから男の声がする。

『わたくし、・・・と申します。』

男の声が一瞬キュルキュルと何かに混じってよく聞こえなかった。

なのでついうっかり彼女は声にしてしまった。

『え?』

あっ、しまった。そう思って口を手で抑えたが声はすでにドアの向こうの男の耳に届いていたようだ。

すりガラスの向こうで体を動かしている。

『すいません、夜分遅くすいません。』

まずいな・・・応対しないといけないだろうか?

ドアを開けなければ平気だろうか?

彼女は玄関の電気はつけずに立っている後ろの居間のドアを開け放つ。ゆっくりと光の筋が玄関を照らし扇形に開いた。

『すいません、夜分遅くすいません。』

男はそう言うとドアをドンドンと叩いた。

このままこれが続くと近所迷惑でもある。

仕方ないと彼女は息を吐いた。

『・・・あのどなたですか?』

ドアの向こうの男の気配がぴたりと止まった気がした。

服を調えているのか衣擦れの音がする。

『わたくし、・・・と申します。』

また男の声が一瞬キュルキュルと何かに混じった。聞き覚えのあるような音。

ああ、そうだ。昔よく使っていたテープレコーダーのテープを早送りした時に鳴る音だ。

『あの・・・聞こえないのですが。』

そう問うと男はまた繰り返した。

『わたくし、・・・と申します。』

またキュルキュルと声に重なる。

『あの?すいません。』

『わたくし、・・・と申します。』

キュルキュル、同じ場所で肝心なところが聞こえない。

ドアを開けるという選択肢はやはりない。

誰だかわからないこの訪問者、しかも時間も深夜だ。さすがにと頭を振る。

『すいません・・・申し訳ないのですが出直してもらえますか?』

彼女はできるだけ丁寧に言った。

『明日、お昼間にでもお願いできるとありがたいです。』

玄関ドアの向こうの男の気配が止まった。彼女の言葉を聞いているようだ。

『すいません。』

そう言って踵を返し居間に戻ろうとすると男の声がした。

『すいません、夜分遅くすいません。』

『え?』

彼女は少し振り返りドアを見る。すりガラスにはかすかに人の顔と思われる何かが映っている。

逆光で黒くなっているがこちらを覗いているんだろう。

『ひっ。』と声をあげ、胸に手を当て深呼吸をする。

ドンドンドン。

男はドアを叩いている。

『すいません、夜分遅くすいません。』

ドンドンドン。

『わたくし、・・・と申します。』

キュルキュルと混じる声。

彼女は一歩後ずさる。

あの人、ずっと同じ言葉しか言ってない。

何?あれ?

ドンドンドン。

ドアを叩く音。

『すいません、夜分遅くすいません。』

ドンドンドン。

『わたくし、・・・と申します。』

キュルキュルと混じる声。

彼女は両手で耳を塞ぐと居間に飛び込んだ。ドアを閉めてしまえば、もし玄関ドアを破って入って来た時にすぐに逃げることができなくなる。

居間の電話の受話器を持ち上げると震える手で番号を押した。

『出て・・・出て・・・。』

その間も玄関ドアを叩く音、男の声が続いている。

ガチャリと通話音がして声がした。

『もしもし?』

無我夢中でかけた電話は父親の携帯電話だ。眠っていたのかぼんやりとした声だ。

『もしもし?お父さん!私。』

彼女の切羽詰った声に父親は目が覚めたのかトーンを落とした。

『どうしたんだ?何かあったのか?』

『うん、ねえ・・・今から聞かせるからちゃんと聞いてて。』

彼女は受話音量を最大にして受話器を玄関のほうへ向ける。

玄関ではまだドアを叩く音、男の声が響いている。規則正しく何度も繰り返されている。

『もしもし、聞こえた?』

父親はああ、と何度も繰り返す。けれど状況はつかめていないようだ。

『どうしようお父さん。今日は私一人なの。どうしたらいい?』

『ああ・・・警察だ。警察に連絡できるか?』

『お父さん、帰ってこれないの?』

『無茶を言うな。新幹線で二時間は無理だ。』

『分かってるけど。』

『すまん、こんな時に出張だなんて。いいか?このまま電話は切らずに待ってなさい。お父さんがホテルから警察に連絡してもらえるようにするから。いいね?』

『うん。お父さん切らないでよ?』

『ああ。分かってる。』

受話器を持つ手が震えている。

ドンドンドン。

ドアを叩く音。

『すいません、夜分遅くすいません。』

ドンドンドン。

『わたくし、・・・と申します。』

キュルキュルと混じる声。

まだ続いている。顔を玄関のほうへ覗かせるとすりガラスに両手をついて男が中を覗いている。

ドンドンドン。

ドアを叩く音。

『すいません、夜分遅くすいません。』

ドンドンドン。

『わたくし、・・・と申します。』

キュルキュルと混じる声。

『え?』

ドアを叩く音が二重に聞こえた。男はすりガラスに両手を付いている。はっきりと手の平がそこに見えている。

受話器の向こうでは父親が誰かと話している声がしている。

『お父さん!お父さん!』

父親は携帯電話を耳から離しているのか応答がない。

『お父さん!おと・・・。』

釘付けになっていた目に新しいものが飛び込んできた。

ドアのノブがゆっくりと回っている。

鍵をかけていたはずなのに、ゆっくりと回っている。カチリと音がして鍵が開いた。

彼女は受話器を落とし、そこに座り込んだ。

ドアはゆっくりと開いていく。

外を走る車のライトが入り込んでは消え、ドアの向こうに立つ影を照らしている。

ドンドンドン。

ドアを叩く音。

『すいません、夜分遅くすいません。』

ドンドンドン。

『わたくし、・・・と申します。』

キュルキュルと混じる声。

スリガラスには両手をついて中を見つめている男の影。そして・・・。

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