相・違・相・愛

おおきたつぐみ

相・違・相・愛

 彼女を好きになるまで、人は共通点がある相手に惹かれるのだと思っていた。でも私と彼女はまったく違った。ほとんど共通点はなかった。

 辛いものが苦手な私と、激辛好きの彼女。友だちと騒ぐのが好きな私と、ひとりで静かに過ごすのが好きな彼女。レポートが苦手な私と、成績優秀な彼女。それでもどうしようもなく私は彼女に惹かれた。

 けれど彼女と出会った時、私には和音かずねという恋人がいた。だから、彼女――結花ゆかのことを好きになってはいけなかった。

 

 私、渡辺万智まちと大橋結花が出会ったのは大学三年の春だった。それまでも同じ文学部には所属していたけれど、三年で同じ現代日本文学コースになって、初めて名前と顔が一致した。

 結花はちょっと周囲から浮いている学生だった。いつもひとりでいて、みんなが盛り上がっている時でも話に入らない。成績はとても良く、意見を発表するとその深い洞察力に毎回驚かされる。課題レポートはよく教授から最高得点と共に紹介されて、適当に文字数を埋めるだけの私なんか及びもつかない。昼には学食の激辛カレーを窓際の席で食べ、講義が終わればさっさと消えて飲み会の誘いもパス。スーパーで荷物を運んでいたとか、コンビニでレジを打っていたという目撃情報からすると、バイトをしまくっているようだった。

 正直、外見は好みだった。すらっとした細身の身体、誰にも興味を持っていないような切れ長の瞳、中心部が可愛らしく盛り上がった唇、無造作に後ろでまとめた背中までの焦げ茶色の髪は一度も染めたことがなさそうに艶やか。化粧っ気もなく、日焼け止めくらいしか塗っていないようなのに目鼻立ちが整って肌も白いからきちんとした印象がある。薄い顔でしっかりメイクしないと外に出られない私とは違う。なぜそんなにすごいレポートが書けるのか、なぜそんなに友だちづきあいもせずバイトをしまくっているのか、毎日カレーで飽きないのか……話してみたいとずっと思っていたけれど、なかなか近づくチャンスはなかった。

 とは言え、その時私は二年付き合っている和音が好きで、一緒にいられる幸せを感じていた。


 須崎和音は初めて付き合った女性だった。私は中学生の時から女性に惹かれることを自覚していたものの、想いが通じる相手とは出会えず、告白すらできない失恋を繰り返していた。

 大学に入学して入った映画サークルで出会ったのが同い年の和音だった。キリッとした顔立ちの美人で、飲み会で意気投合しふたりで会うようになった。感情豊かで涙もろく、考えていることがすぐに顔に出る。私への視線が熱くなり、スキンシップが多いなと気づく頃には私も和音に恋をしていた。サークルの夏合宿でみんなが酔い潰れた中、夜明けの誰もいない海辺で好きと告白したらキスしてくれた。サークル内で隠し通すのも難しいと思い、付き合って少しして私たちは辞めた。

 周囲には言えないし、喜怒哀楽が激しい和音とは喧嘩もするけれど、映画鑑賞やカフェ巡りという趣味も同じだし、しっかりしている和音はぼんやりしている私をいつも引っ張ってくれる。彼女とは、この先もずっと一緒にいると思っていた。


 六月のある日、和音が風邪で休んだ。昼休みに様子をLINEで聞きながら学食へ行くと、結花が窓際の席で例の激辛カレーを食べていた。チャンスだと思った。

「大橋さん、ここ座っていい?」

 中華飯を載せたトレイを手にしたまま尋ねると、私を見上げ、もぐもぐしながら無言で頷く。外の光を受けて結花の瞳が深緑に輝いていた。

「いつもカレー食べているよね。すごく辛そうだけど、好きなの?」

 彼女の前のカレー皿はその辛さを示すように赤黒かった。

「何食べようかって考えるのが面倒なの。美味しいよ、食べてみる?」

つつっと激辛皿を私に向かって押し出してくるのが予想外過ぎて、驚きながら私は慌てて両手を振った。

「ありがとう、でも私、辛いの苦手なの」

「そうなんだ。渡辺さんは何食べるの?」

「中華飯だよ。食べてみる?」

「ううん、いい」

 そう言いながらふっと結花が笑った。

「ほとんど初めて話すのに、食べかけのカレーを勧めるなんて変だよね」

「そんなことないよ、大橋さんって思ったよりフレンドリーで嬉しかったもん。でもごめんね、辛いのが苦手なのは本当だから」

「……カレー、好きだけど一番安いからでもあるんだ」

 バイトをしまくっているという噂を思い出していると、結花はさっさと食べ終わり、お先にと言って立ち上がろうとした。

「あの、激辛は無理だけど、今度私もカレーにするから一緒に食べよう」

 トレイを持った結花が私をしげしげと見つめた。

「渡辺さんって友だちいっぱいいるのに、なんで私?」

 外見が好みだから。なんて言えるわけない。

「大橋さんっていつもすごいレポート書くから、どうやって勉強しているのかなって思って。でも飲み会には来ないから話す機会がなかったし」

「私、奨学金もらわないといけないし、生活費も稼がないといけないからバイト掛け持ちしているの。だから飲み会に行く時間もお金もないんだ」

 大学の奨学金制度は前期・後期ごとに定期テスト結果で審査され、成績上位に入らないと打ち切られる。

 学費は親に出してもらうのが当たり前で、ファストフードのバイト代は全ておこづかいにしている私は、結花にはのんきな学生に見えることだろう。恥ずかしくなってうつむくと、少し優しい声が上から聞こえた。

「話しかけてくれて嬉しかったよ。また今度ね」

 私が顔を上げるより先に結花は歩き出していた。 

 結花はそれから教室で会うと微笑んでくれるようになり、たまに隣り合って座るようになった。経営学部の和音とは昼休みや放課後以外は会わないから、和音が大学に来ない日は学食で一緒にカレーを食べたりした。どこか後ろめたさはあったけれど、結花と話すのはレポートの書き方だとか講義の感想、教授の噂やお互いのアルバイトについてなどで、まさしく大学の友人そのものだった。結花は文章を書くのが好きではない分、定型を作って効率的にレポートや論文を書いているらしく、いくつかの定型を大学のメールアドレスに送ってくれた。

「すごくわかりやすい! 頭がいい人ってやっぱり違うね」

「悩む時間って無駄だから減らしたいだけ。でも私、渡辺さんの発想力とか些細な事柄から想像を広げられるところとか、すごいと思うよ」

 和音とも他の友だちとも違う、真面目な話が思いがけず楽しかった。


 だんだんと教授にレポートも褒められるようになった七月の週末。和音とデートで行ったカフェで焼きカレーを食べていると突然聞かれた。

「学食で一緒にカレーを食べてる女、誰?」

 バレたという驚きと恐れで、「ふへぇ」と間の抜けた音が口から漏れた。

 笑ってくれるかと思ったが、和音は真顔だった。元々吊り目気味の目がさらに鋭く光っていて、じんわりと冷や汗を感じた。

「……誰かから聞いたの?」

「最近万智が特定の女子といつも一緒にいるってなーちゃんが言ってた」

 なーちゃんこと尚実は映画サークルで知り合った同じ学年の友だちで、私たちが辞めた今でもたまに三人で遊ぶ。なんとなく尚実は私と和音の関係についても勘づいているような気がしていた。たぶん尚実も同じ文学部だから何度か私と結花を見かけて、心配になって和音に告げたのだろう。

「……同じ日文の子だよ。成績がいいから、課題とかレポートについて教えてもらっているだけ」

「私がいない時にふたりで会っているの?」

「そりゃ、和音がいる時は和音といるもん」

「大学でもデートでもカレー食べるなんて、余程好きなんだね」

「だ、だってここは和音が来たいって言ってたし、一番人気が焼きカレーだって書いているから……」

 オーブンで焼き上げたカレーは、焦げたチーズの中からとろりとルーと卵が溢れてサフランライスにしみ込み、ドリアのようで私にも食べやすい味だったけれど、つい、結花には物足りないかな、なんて思っていたのを見透かされたようだった。

「万智は辛いものが苦手だったはずなのに」

「この焼きカレーは食べやすくて美味しいね」

「私、学食のカレーなんか安っぽいレトルト味で食べる気にもならない」

 でも、結花と食べる学食カレーは美味しかった、と私は思い出していた。お金の節約のため、そしておばあちゃんの味に似ていて懐かしいのだと結花は言っていた。だんだんと見せてくれるようになった結花の笑顔がつい思い浮かんでしまう。

 はあ、というため息にはっとして和音を見ると、明らかに不機嫌な顔をしていた。

「その子のこと、どう思ってるの? 好きなの?」

「まさか。同じ学部の友だちっていうだけだよ」

「それなら、私と付き合っているってちゃんと言ってよ」

「え……大橋さんと恋バナなんてしたことないのに、いきなりそんな話をしたら変だよ」

 結花の醒めた顔を思い、胃の辺りがスッと冷えるような気持ちになる。

「なんで私の不安な気持ちがわからないの。今まで万智は私以外に誰かと特別に仲良くなんてしてこなかった。私とは学部が違うから日中は会えないのに、私には黙ってその子とは授業中もずっと会っているんでしょ」

 見る見るうちに和音の目が潤みだし、私は慌てた。

「わかったよ。付き合っているって言えば和音が安心するなら」

 頷く和音の目から涙がこぼれ落ち、私はハンカチを差し出した。

「不安にさせてごめんね。私には和音だけだから……」

 泣くほど嫉妬する和音が可愛かったし、愛されていると思った。


 和音はその後も一緒にいる間にすっかり機嫌が直ったけれど、帰り際に「ちゃんとその子に言ってね」と念を押すのを忘れなかった。

 結花はいつも授業とバイトに追われて時間がなく、たまに学食で一緒に食べる時も課題の話をする程度だったから、突然自分の恋愛話を――それも結花には関係ない嫉妬絡みの話をするのは本当に場違いに思えた。

 けれどまもなく定期テストが始まり、私と結花の席は学生番号順に指定されていて離れていたし、結花はどんな科目も私より先に終えて教室を出るので、話す機会もないまま半月ほどが過ぎた。

 最後のテストはジャーナリズム論だった。担当の講師は元新聞記者で毎回の出席にもとても厳しく、課題もよく出る。選択したのを後悔したけれど、結花の指導のおかげでレポートの成績も上がっていった。テストは千字のレポートが二題。先日終わったばかりの参議院選挙の結果についてと、増加している無差別テロ事件の分析。さんざん頭を悩ませて時間ギリギリで書き上げた頃には、もちろん結花の姿はなかった。

 ぐったりしながら教室を出ると、一時間早くテストを終えていた和音にLINEした。もうすぐ付き合って二年になるから、一緒に記念のプレゼントを買いに行く約束をしていた。

〈ようやく終わったよ。今どこ?〉

〈経学カフェにまゆゆといるよ。お腹空いた〉

〈学生協でレポート用紙を買ってからそっちに行くから、準備してて〉

 和音からOKのスタンプが送られてきたのを見ながら中央棟地下にある学生協へ向かうと、ちょうど結花が出てくるところだった。

「あ、渡辺さん。ジャーナリズム論どうだった?」

 結花は開放感ある明るい顔だった。奨学金の継続がかかるテストを終えて、ほっとしたのだろう。

「参議院選は予想していたけれど、テロまで来るとはね。でも大橋さんのレポート定型を思い出しながら、何とか書いたよ」

「九十分で二題はちょっとしんどかったよね。ねえ、学食行く?」

 結花から誘われるのは初めてだった。嬉しさがこみ上げたけれど、和音との約束を破るわけにはいかない。

「ごめんね、この後、友だちと予定があって」

 いつものように和音のことを濁して言った後、はっとした。こういう態度が和音を不安にさせるのだろう。ちょうど周囲には誰もいない。和音との約束を守るいい機会だと思い、私は思い切って言った。

「友だちじゃないんだ。彼女なの。私、付き合っている彼女がいるの」

 結花はぽかんとしている。そりゃそうだ、いきなり恋バナが始まったんだもの――しかも女同士の。でもここで話を止める訳にもいかない。

「そ、それでね、彼女は別の学部なんだけれど、大橋さんにやきもち妬いてて。だから、もう一緒に学食には行けない。ごめんね」

「……ああ、そういうこと?」

 結花は悟ったようにふっと笑いながら言った。

「別に謝ることじゃないよ、ひとりで食べるのが気楽だし」

 結花は私を特別に思ってなどいない。ただ、誘われたから一緒に食べていただけ。今日はたまたま会ったから誘っただけ。その通りなのに、胸が痛むのはなぜだろう。

「……バカみたいって思う?」

「ううん。私は誰かと付き合ったことがないからわからないけど、やきもち妬かれるほど好かれているのは、素晴らしいことなんじゃない?」

 結花の表情は冷ややかだった。

「ごめんね。そもそもお昼一緒に食べようって誘ったのも私からなのに」

「謝らないでいいったら。でも面倒だね、恋愛って。彼女がいるなら最初から私に話しかけなければよかったよね。巻き込まれるのも迷惑だよ」

 きつい声でそう言い放つと、結花は身を翻して歩いて行った。

 その後ろ姿の向こうから和音がやって来る。すれ違いざまにちらりと結花を見た和音は、私に向かって駆け寄ってきた。

「あの人、例の……大橋さん?」

「うん。今ちょうど言ったよ、付き合っている子がいるから、もう一緒にお昼食べないって」

「ふうん。そうしたらなんて言った?」

「やきもち妬かれるほど好かれるなんていいねって」

「何それ。まあ、その通りだけど」

 そう言いながらも和音は満足げだった。

「それじゃ、行こうよ。今日はまず、開店したばっかりの花屋さんと一緒になったカフェでランチだよ」

 私は上機嫌の和音に引っ張られるようにして歩き出した。


 カフェで食べたカルボナーラは絶品だったし、デザートのプリンも固めで私好みだった。公開したばかりのダークヒーローの映画を見て、ショッピングモールでシルバーのリングをプレゼントし合った。夕暮れの公園でお互いの右手の薬指にリングをはめ、木陰でそっとキスした。和音の唇は最初のキスの時と変わらず艶やかで柔らかで、私を優しく包んでくれる。

 それなのに、結花の言葉を思い出してどうしても心が沈んでしまう。

 オシャレめな居酒屋で飲みながら二年記念の旅行について話し、駅で和音と別れて家に帰るとすっかり疲れ果てていた。親に急かされてお風呂に入った後でスマホを見ると、メール到着通知が画面に表示されていた。

 差出人は――結花。濡れた髪もそのままにパジャマ代わりのTシャツを被ると部屋に戻り、急いでメールを確認する。


〈今日はとっさにひどいことを言ってしまって、ごめんなさい。渡辺さんと仲良くなれたのは、本当はとても嬉しかったのです。

 渡辺さんが初めて学食で話しかけてくれた時、なぜいつもカレーを食べるのかと聞いたよね。この大学で、私に興味を持ってくれたのは渡辺さんだけでした。

 学食のカレーが祖母の味に似ているからと言ったのを覚えていますか? 私の母は私が三歳の時に病気で亡くなり、困った父は自分の実家に私を預けました。祖母と母は料理の味付けも違うので、私は母恋しさもあり祖母の手料理をなかなか受け入れませんでした。

 悩んだ祖母が試したもののひとつが甘口のレトルトカレーで、初めて食べた私が喜んで完食したので、祖母はとても安心したそうです。それをきっかけに祖母の料理も食べるようになりましたが、食卓には私の成長に合わせて辛さをアップさせていったレトルトカレーがよく出ました。

 カレーは、私にとって紛れもない祖母の味です。祖母とはしばらく会えていないので、私はいつも懐かしくて学食のカレーを食べているのです。


 父は年に一度くらい顔を出しましたが、私に会いに来るというよりは祖父母にお金を無心するためでした。たまに女を連れて来ることもあり、私は本当に嫌でした。愛されてもいないのに女の前で見栄を張る父も嫌だし、そんな父を愛していた母も哀れでした。私は恋愛感情には振り回されたくない、恋愛なんて絶対にしないと思うようになりました。

 でもそんなことと渡辺さんの恋愛事情は全く関係ないのに、八つ当たりのような態度をとってしまってごめんなさい。彼女さんにとってはこんなメールも嫌だと思いますが、直接話す代わりに、今回だけ許してください。もう話したり、メールもしないようにします。

 こんな私に話しかけてくれてありがとう。渡辺さんは初めての大学の友だちでした。これからも彼女さんと仲良くしてください〉


 だから、結花はいつもひとりだったのか。だから、恋愛にあんなに嫌悪感を示したのか。気づくと私は泣いていた。痛みを背負う結花を、どうにかして支えたかった。それなのにもう話せないなんて。 

 涙をこすると、返信ボタンを押して私は結花へのメールを書いた。

〈今までのことを教えてくれてありがとう。私は大橋さんとずっと話してみたかった。一緒に食べた学食カレーは特別美味しく思えたし、話した時間はとても楽しくて、勉強になった。

 勝手なことを言うけれど、大橋さんが辛い時、少しでも力になりたい。メールだけでもいいから、これからも友だちとして話せたら嬉しいです〉

 返信を待っているうちに寝てしまったが、翌朝起きてスマホを確認すると、結花から〈ありがとう。またメールします〉という返事が届いていた。

 心の中から湧き上がる思いには、気づかないふりをした。


 それから和音には黙ったまま、私と結花は時折メールを交わした。本当は通話したり、LINEで一言ずつでもやりとりしたかったけれど、いつ届くかも、既読になったかもわからないメールでだけ繋がることが、「大学の友人」という言い訳の最後の証明のように思えた。

 結花は少しずつ自分の話の続きをしてくれた。

 結花の祖父は高校三年の冬、病気で亡くなった。祖父は遺産を妻と孫娘に相続し、息子には一切遺さないという公正証書遺言を作成していた。祖母は結花に県外の大学に進学するように勧め、父が祖父の死に気づく前に結花は家を出た。いずれ、自分には遺産が相続されないと知った父が結花につきまとう可能性を恐れた祖母は、連絡も帰省も禁じた。

 入学金は祖父の遺産で払い、祖父のツテで県人会が運営する学生寮に入居した結花は、生活を切り詰めてバイトをしながら奨学金で学費をまかなっている。結花の口座には祖母がまとまった金額を入金してくれているけれど、引き出すと居場所が父にバレるかも知れないのでほとんど手を付けていない。お金がかかるから友だちづきあいもしない。寂しくてたまらない時は、用心してスマホではなく公衆電話で祖母に電話している。

〈今度、寂しくなったら私に連絡して〉

 そう伝えたけれど、結花が私に甘えることは絶対になかった。


 和音とは八月の終わりに一泊で海辺の観光地に旅行する予定だったけれど、出発の五日前に足をくじいたから行けないと連絡があった。予約していたホテルもキャンセル済みだと言う。

 正直、ほっとした自分がいた。和音と二日間、どう過ごしたらいいのかと気が重たかった。付き合ってから何度も肌を重ねてきたのに、旅行先で和音を抱くことが、その時の自分の身体の反応が不安だった。

 自覚するしかなかった。私はもう和音ではなく、結花が好きだった。まさか自分が恋人を裏切るような人間だったなんて。自己嫌悪を感じながらも、結花への思いは募るばかりだった。

 旅行の予定だった日、別れをどう告げようか迷いながら和音の家に向かった。お見舞いにケーキを買って行くとちょうど家族は留守だったので、妙に緊張してしまう。右足首を痛々しくテーピングした和音がキッチンでケーキを皿に盛り付け、私がふたり分を持って部屋に入った。

 和音の部屋ではいつもベッドにもたれてラグの上に並んで座る。モンブランを一口食べた和音が私に顔を寄せてきた時、つい避けてしまった。

「あっ、ごめん、ケーキが倒れそうだったから」

 慌てて言い訳をすると、和音は大きな目から涙を落とした。

「万智はもう私を好きじゃないんだね」

「そんなこと……」と言いかけたけれど、言葉が続かない。

「わかるよ。私といても前みたいに楽しそうじゃないし、私をそんなに見ないし、話してても上の空。LINEもいつも私からになった。だから旅行は止めたんだよ。行ったってどうせ、私が惨めになるだけだから」

 涙声でまくしたてながら、和音は足首のテーピングを乱暴に剥がした。あざひとつない、綺麗な色の肌。

「じゃあ、足は……」

「くじいてなんかいないよ。そう言ったら万智がなんて言うかなと思って。残念がるか、私を心配するか……旅行がなくなってほっとするか」

 私は何も言えず、ティッシュで和音の涙を拭おうとしたけれど、その手を振り払われた。

「大橋さんが好きなんでしょ? あの子が出てきてからずっと万智は変だもん。もしかしてもう付き合っているの?」

「付き合ってなんて……」

「でも好きなんでしょ? ねえ教えて、あの子のどこがいいの?」

 私は涙を流し続ける和音の手を握り直した。胸が痛かった。

「ごめんね。和音と付き合っているからダメだと思ったけれど、どうしても大橋さんが好きになってしまったの。だから……」

「別れないよ。万智が私を好きじゃなくても、私は万智を好きだから」

 握った手を引っ張られ、唇が重ねられるとすぐに舌が入り込んできた。いつだって和音とのキスは夢見心地になったのに、今は苦く感じてしまう。なんとか唇を離すと私は鞄を掴んで立ち上がった。

「勝手なこと言って本当にごめんね。私と別れて欲しい。私はもう和音と付き合えない」

「絶対別れないからね」

 和音の声を閉ざすようにドアを閉め、階段を駆け下りて家を出た。


 その夜は眠れなかった。和音との指輪は買ってきた時の箱にしまった。罪悪感が重苦しいほど胸に広がるのに、それでも結花を恋しく思ってしまう。熱帯夜が続いた後の涼しい夜中二時、月も出ていない真っ暗な夜。きっと結花も眠っているだろう。

〈大橋さん、寝ている? いつもすぐ寝る私が今夜は眠れません。

 今日、付き合っている彼女に別れて欲しいと言いました。私は大橋さんのことが好きです。気持ちを抑えようとしてきたけれど、どうしても好きになってしまいました。もちろん、付き合えるなんて思っていません。ただ友人でいられたら私は嬉しいけれど、恋人を裏切るような私のことは、大橋さんも軽蔑するよね。連絡するのが迷惑ならそう言って下さい。

 彼女も私の心変わりには気づいていたけど、別れないと言ってました。彼女の気持ちが落ち着くまで話し合うつもりです。

 勝手な独り言を読ませてしまいごめんなさい。忘れて下さい〉

 勢いでメールを書いて送信した後で、猛烈な恥ずかしさと後悔に襲われた。彼女がいると言っても結花は変わらなかったけれど、同性の友人から突然告白されたら戸惑うだろう。送信削除ができないか調べているうちに結花からメールが届き、飛び上がるほど驚いた。

〈こんな夜に起きているのは私だけだと思って寂しかったから、渡辺さんからメールが来て嬉しい。うまく返事は書けないけど、渡辺さんのことは軽蔑しないよ。自分の気持ちを正直に言えるのはすごいと思うから〉

 結花からの返信はそれで途絶え、私はもう一度ベッドに潜り込んだ。動悸が部屋中に響くようだった。途方に暮れるほど、結花が好きだった。


 夏休みが明け、秋になっても和音は態度を硬化させたままだった。呼ばれてももうふたりきりになるような場所には行かず、大学で会うようにした。尚実も和音から相談されているようで、時折三人で話した。最初は和音に味方していたけれど、私の様子を見て尚実も考えを変えたらしい。

「万智ちゃんの心変わりは褒められたことじゃないけれど、人の気持ちってどうしようもないよ。このままじゃ和音ちゃんも幸せになれないよ」

「万智があの子と幸せにならなければ、それでいいの」

 頑として言い張る和音に、尚実が困ったようにため息をついた。

 でも和音のそんな感情もまた、どうしようもないことは私も分かる。

 結花とは教室で会っても話さないままだった。短いメールは毎日のように交わすようになったけれど、それ以上は関わりたくないのかも知れない。学食でひとりカレーを食べる結花を、気づかれないようにこっそり見ていたこともある。これ以上は望んではいけない、そう思うようにした。


 十二月、私たちは本格的に就職活動の時期を迎えていた。私はジャンルを絞らずに企業説明会に次々に参加し、マスコミ業界を志望する和音は秋から専門のセミナーに通い、顔を合わせる機会も少なくなったけれど、まだ私との別れは受け入れておらず、私は彼女との関係に疲弊していた。

 ある日学食へ行くと、いつもの席でスーツ姿の結花がカレーを食べていた。思い切って彼女の前に甘口カレーを載せたトレイを置いて尋ねた。

「一緒に食べてもいい?」

 顔を上げた結花が驚きながら頷いたけれど、恐れていたような拒否感はなかった。今日も和音はセミナーに行っていて、大学には来ない。

「こうやって話すの久しぶりだね。今日も就活?」

「うん、午前中に就職課で面談の練習。午後からは商工会館で企業説明会。通信業界希望だけど、なかなか厳しいし広げた方がいいかなと思って」

 考えながらメールを書くのではなく、結花の表情を見ながらとりとめも無く話せるのがやはり嬉しかった。まとめた髪も、スーツもよく似合う。

 食べ終えると一緒にトイレへ行って歯を磨いた。リップクリームだけ塗った結花に、ちょっと待ってと言って私はバッグからポーチを取り出した。

「大橋さんって元々目鼻立ちも整っているし唇も血色いいけど、スーツだともう少しメイクしている方が映えると思うんだ」

 手を改めて洗ってから、就活用に買った口紅を小指に少し取ると、結花の形の良い唇の中心に乗せて、そっと左右に伸ばした。

「あ、やっぱりすごく可愛くなった」

 そう言って結花と目を合わせると、顔を赤くしてうつむいたので私も突然動悸を感じた。唇に触れるなんて、なんて大胆なことをしてしまったのだろう。いや、友だち同士ならするか……就職活動のためだもの……。

「ありがとう……」

 消えそうな声で結花が言う。私は慌てて明るい声を出した。

「勝手にごめんね。この口紅、就活用メイクにいいって評判だったんだ」

「そうなんだ。私、化粧って何も知らないから……」

「じゃあ、これあげるよ。安物だけどまだほとんど使ってないし、大橋さんにとっても似合うから」

 私は半ば強引に口紅を結花の手に押しつけた。

「そんな、悪いよ」

「もらって。大橋さんが私の物を持っていてくれると思うと嬉しいの」

 結花は迷いながらも、ありがとうと言って受け取ってくれた。


 就職課に出す書類を忘れていたと結花が言うので一緒に向かうと、思いがけずに和音が出てくるところだった。和音の目が見開かれ、私と結花を交互に見る。大学には来ないはずなのに、予定が変わったのか……。

 和音は無言で近づくと、私の手を握ってぐいっと引っ張った。結花に何か言う間もなく、和音は私を連れて廊下をどんどん歩いて行く。

「和音、もうこういうのはやめて」

「――待って下さい!」

 私が無理矢理足を止めるのと、結花の叫ぶような声が聞こえたのが同時だった。振り向くと、走って追いかけて来た結花が和音の前に立った。

「私、渡辺さんが好きなんです。私に、渡辺さんを下さい」

 泣きそうな顔でそう言うと、結花は和音に頭を下げた。信じられなかった。あんなに恋愛を嫌がっていた結花が、私を――好き?

「何それ……私だって万智を好きだよ。私が万智の彼女なんだから」

「分かっています。でも自分でもどうしようもないんです」

 声を震わせている結花を見て、私は涙をこらえきれなかった。物静かでいつも冷静で、感情に振り回されることを嫌う結花が、どれほど勇気を出してくれたのだろう。和音も唖然として力が抜け、手が離れた。

「和音ごめん。私も大橋さんがどうしても好き。だから別れて欲しい」

 私も頭を下げると、もういいよ、と和音が小さく呟いた。

「ふたりとも頭上げてよ。わかってたよ、万智とは元には戻れないって。納得いかなくてここまで時間がかかったけれど、もういいや。邪魔して私が悪者になるのもバカバカしいし、別れてあげる」

 顔を上げると、和音が皮肉混じりの笑顔を浮かべていた。

「でも私、ふたりでイチャイチャしているところは絶対に見たくないから、私が行くようなところには現れないようにしてよね」

 そう言うと和音は指輪を指から抜いて私に渡し、カツカツとヒールの音を響かせながら去って行った。


 残された私は結花とそっと目を合わせた。

「あの……さっき大橋さんが言ったこと……」

 結花は涙目で首を振ると、「忘れて」と繰り返した。

「忘れられるわけないよ。完全な私の片思いだと思っていたのに、まさかあんな風に言ってくれるなんて」

「……私も自分が信じられない」

「いつから、私のことを好きになってくれたの?」

「夜中にメールで告白してくれた時かな。でも気づかなかっただけで、最初に話しかけてくれた時から好きになり始めていたと思う。……うまくいくなんて思えなかったし、渡辺さんには彼女もいたから、絶対言わないつもりだったけれど」

「そっか……悩ませてごめんね。でも嬉しい。それで、私たちのこれからだけど……大橋さんはどうしたい?」

 結花は不安そうな表情で黙り込んだ。恋愛をしないと決めてきたのだから、どうすればいいか、戸惑って当たり前だろう。


 ようやく心が通じ合ったけれど、不安なのは私も同じだった。自分のポリシーを曲げてまで思いを告げてくれた結花を絶対に傷つけたくない。大切にしたい。けれど現に、私はずっと付き合っていくと思っていた和音から心変わりしたのだし、それを結花に見せてしまった。二度とそういうことがないとは言い切れないし、逆に結花が私を見限る時が来るかも知れない。いつか互いの存在が重荷になるかも知れない。楽しいことばかりではない、恋という感情の不確かさ。先のことなんて誰にも分からないのだ。


 それでも。それでも私は、やっぱりどうしても結花と一緒にいたい。


「私と一緒にいても、いろんなことが起こるだろうし、一生幸せにするとか、絶対気持ちが変わらないとか言えないけど、でも今の、大橋さんを好きだと思う自分の気持ちを信じたいし、大橋さんの気持ちも信じたい。だから――私と付き合って下さい」

 心臓が痛いほど鳴って、手が震えている。

 結花の顔を見ることができずにうつむいていた私に、結花は手を差し出した。

「ありがとう。私も、渡辺さんと自分の気持ちを信じてみる。何もかも初めてだから、迷惑を掛けるかも知れないけれど、私を……私を、万智の彼女にして下さい」

 万智って、初めて呼んでくれた。

 驚きと喜びで反射的に顔を上げると、結花が耳まで真っ赤にしながら、不器用に笑顔を作っていた。どうしようもなく愛おしさが胸に広がる。

「――ありがとう。結花のこと精一杯大切にする。一緒に歩いて行こうね」

 差し出された手をぎゅっと握り、「大好き」と囁くと、結花は心から嬉しそうに微笑んだ。 

(終)

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