雨になりたい

天井 萌花

向日葵のようだから

 しとしとと降り続く雨が、公園の砂とねっとりと絡み合う。

 トンネル型の遊具に入って雨を避けても、嫌な湿気が肌を撫でてくる。

 毛先に絡みつく不快感は、僕を避けてはくれなかった。


 早く外気の干渉しない家に帰ってしまいたい。

 けれど、帰るつもりはない。帰れない。

 帰ると共働きの両親の代わりに、双子の弟が迎えてくれるからだ。


 弟は隣のクラスで、SHRが終わるのがうちのクラスよりかなり速い。

 だからいつも先に家に帰っていて、優しい声で「おかえり」と言ってくれるのだ。


 今の僕を弟に見られたくはなかった。

 弟と話すと、僕は自分を肯定してしまう気がしたからだ。



 昨日、僕はある失敗をおかした。

 とあるクラスメイトを傷つけてしまったのだ。

 いつものノリで何気なく言った言葉が――彼の“触れられたくないこと”だったらしい。


 冗談のつもりだった。傷つけるつもりなんてなかった。

 ただちょっと、騒がしい会話の延長で、笑いのネタのつもりで言った。


 けれど彼の心には、深い傷がついてしまったらしい。

 みんなに合わせた笑顔が引きつっていることには、僕も気づいていた。

 嫌だったのかな、なら明日の朝謝ろう。


 なんて思っていたのに――彼は今日、学校に来なかった。


 たまたま体調を崩した可能性もある。

 でもやっぱり気になって、心配の連絡を入れようとした。

 そして、SNSをブロックされていることに気がづいた。

 同時にようやく、自分が取り返しのつかないことをしていたことに気がついたのだ。



 連絡が取れない。家の場所も知らない。

 そもそもブロックしたということは、僕と話したくないということだろう。

 そんな中で如何にして謝ればいいのか……そもそも、謝罪とはいえコンタクトを取るべきではないのだろうか。


 もやもやとそんなことを考えるだけで何もできない。

 最早心から反省しているのか、自分が嫌われたくないだけなのかもわからない。

 腐敗しきった思考だけを抱えて、帰宅することなどできるわけがなかった。


「――兄さーん?」


 もやのかかった頭を、ふっと突き刺すように。

 数えきれない程聞いた優しい声が耳に入って来た。

 僕が聞き間違うはずはなく、間違いなく弟のものだ。


 何で、何でここにいるんだ?

 もうとっくに家に帰って、宿題でもしてるはずじゃないか。


 いっそのこと、気のせいならよかったのに。

 思いつめた僕が勝手に作り出した、幻聴ならばよかったのに。


 繰り返される兄を探す声は、どんどん近くなってきた。

 まるで、始めから場所がわかっているかのように。


「……見っけ!」


「わっ!?」


 すぐ傍に来たと思ったら、僕とそっくりな顔がトンネルを覗き込んできた。

 丁寧に傘を畳んだ弟はトンネルに入ってきて、僕の隣に座る。


「何でわかったんだ?」


 公園に行くとも言っていなければ、寄り道するとすら言っていない。

 なのにどうして弟は簡単に、僕を探し当てて見せたのだろう。


「俺が嫌なことあった時来るのが、ここだったから。」


 僕とばっちり目を合わせた弟は、その目を細めて柔らかく笑った。


「いっつも兄さんが俺を見つけて、こうして来てくれたでしょ?」


 弟は、僕と比べるとかなり大人しい性格をしている。

 おまけに少し人見知り気味で、口下手。

 そのせいで幼稚園や小学校低学年の時なんかはよく誰かと喧嘩して凹んでいた。

 喧嘩といっても、大抵一方的だったが。

 何も言い返せず、よくここに隠れて泣いていた。


「……そうだな。」


 その度に僕が見つけ出し、隣に座って慰めていた。


 だから、僕は今ここにいるのかもしれない。

 知らない間に、思い出中の弟をなぞっていたのかもしれない。


「友達から『今日お前の兄貴変だったぞ』ってDM来たんだ。何かあったの?」


 弟はスマートフォンを振って、変わらぬ調子で話しかけてくる。

 弟も僕と同じように、思い出中の僕をなぞっているのだろうか。

 僕はあの日の弟に、こんな優しい声をかけていたんだろうか。


「……まあ、色々あってな。ちょっと凹んでたんだ」


 一部始終吐き出してしまえば、少しは楽になるだろうか。

 そんな甘えが喉まで上がってきたが、ぐっと飲み込んでおく。


「色々って……大丈夫?」


「ああ、気にするな」


 心配そうに聞いてもらっても、話すわけにはいかなかった。

 この期に及んで“かっこいい兄でありたい”なんて、虫が良すぎるのはわかっている。

 それでも優しい弟に相談したり協力を仰いだりするのは、違うと思った。


「気にさせてくれたらいいのに。兄さんらしいけど」


 ふっと息を吐いた弟は、僕から視線を外す。

 ひんやりとしたトンネルにもたれかかって、静かに目を閉じた。


「兄さんはさ、いっつも明るくて、元気でかっこよくて……すごいなって思うよ」


 ――ずっと前遊びに行った、大きな公園覚えてる?


 何の脈絡もなく褒められ、予想していなかった質問を投げかけられた。

 勿論、覚えている。

 小1の夏休み、父に車で連れて行ってもらった広い公園のことだろう。


「そこに咲いてた、おっきい向日葵の花あったじゃん」


「ああ」


 その公園には色とりどりの花で彩られた、これまた広い花壇があった。

 花壇の真ん中に1輪だけ、普通よりも大きな向日葵の花が咲いていた。

 真っ直ぐに太陽を見つめるそれは、華やかに輝いていたのが記憶に残っている。


「あれが兄さんみたいだなって、ずっと思ってるんだ」


「あれが僕? どういうこと」


 僕が少し首を傾げると、弟は「冗談じゃないよ?」と笑った。

 優しい瞳が、再び僕を映す。


「太陽みたいに眩しくて、ずっと上を見てるかっこいい花。一度見たら記憶に残って離れなくなって――心の内側を、あったかく照らしてくれる花。兄さんって、そんな感じの人だよ」


 そんな大層な人じゃない。

 僕なんかと同列に語られるなんて、向日葵が可哀想だ。

 なのに弟の言葉にはやけに説得力があって、するっと心の中に落ちてきた。


 ――ずっと上ばかり見ているから、周りが見えてなかったのかもしれないけどな。

 ――僕が誰の記憶に残らないような人なら、彼をここまで傷つけることもなかったかもしれないけどな。


 明るい、と褒められたはずなのに、そんな暗い思考が広がってきた。

 弟に見せないように、強く抑え込む。


「だから何かあっても、兄さんなら大丈夫だと思う! 来る途中に咲いてた向日葵だって、雨でもへこたれてなかったもん」


「……ありがとう」


 にこっと笑って言われ、小さな礼の言葉を返す。

 すると弟は僕の手をとって、ぐいっと引っ張ってきた。


 トンネルの外に引きずり出されると見えるようになった空は、記憶より明るかった。

 いつの間にか雨は止んで、雲の隙間から漏れた陽光が、世界の明度を上げている。


「雨止んでるー! 気づかなかったね」


 ゆっくりと、雲を取り除くように流れていく空を見て、弟は嬉しそうに笑う。

 その延長線上、遠くの花壇に小さな向日葵が植わっていた。

 さっきまでの雨など忘れたように、じっと空を見上げている。

 その顔は、なぜか笑っているように見えた。


 雨すらなかったことにして笑っていられるところは、確かに僕に似ているかもしれない。


「冷蔵庫にプリンあったよ、帰って一緒に食べよ!」


 だって僕はきっと、今の悩みなんてすぐに忘れてしまう。

 彼が明日学校に来れば謝って、そうしたら彼は建前だけでも、僕を許してしまうだろう。


 そうしたら僕は解決とみなす。

 申し訳ないと思ったことも、彼の傷を見たことも忘れていってしまうだろう。


 彼がこのままずっと顔を合わせてくれなくても。

 弟や友達と遊ぶうちに、彼のことなど考えなくなってしまうだろう。

 今、弟の明るい笑顔に――笑い飛ばされそうになったように。


 忘れたいのは、痛みを抱えた彼のはずなのに。

 忘れるべきなのは、僕の言葉をいつまでも覚えているみんなのはずなのに。

 僕だけが都合よく忘れて、また真っ直ぐに太陽を見る。


 そんなの、どう考えたっておかしい。

 僕が、僕の言葉が、すぐにみんなから忘れられるようなものならよかったのに。


 丁度、知らない間に止んでいた今日の雨が。

 濡らしたアスファルトも乾き、じきに降っていたことさえ忘れられてしまうように。

 取るに足らない存在になってしまえば、彼を傷つけずに済むはずだ。


 優しい弟は、向日葵のようだと言ってくれたけど――。

 軽薄な僕は、そんな優しさすらも撥ね退けて――雨になりたい、と切に願った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雨になりたい 天井 萌花 @amaimoca

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ