瓶詰の恨み

棚霧書生

瓶詰の恨み

 その日、学校帰りに海に向かったのは新しくできた父と顔を合わせたくなかったからだった。思春期真っ只中の私には突然、母が連れてきた男性を父と呼ぶことがひどく難しく、半年ほど一緒に暮らしても打ち解けることができないでいた。

 そして、私がいつまでも頑なであったからであろうか、彼は少しずつ、しかし確実に私に憎悪を募らせているようであった。声が小さいと叱りつけられ、彼に張られてヒリヒリと痛む頬を冷たい海風が撫でていく。

 ザーッザーッと響く波の音に落ち着いた。慰めてくれる友達でもいればよかったが、母とあの男との結婚を機に、この海辺の町に引っ越してきた私には、家の話をできるほど親しい人はいなかった。

 海に来ると荒んだ気持ちがいくぶんか楽になるような気がした。波を見ているだけで時間が過ぎていく。スマホを買い与えられず、お小遣いもない私にとってはいい暇の潰し方だった。

 いつものように目的もなく浜辺を歩いていると砂の中に瓶が中途半端に埋まっているのを見つけた。どこかから流れ着いたのかもしれない。

 私はひょいとそれを拾い上げた。大きめのジャム瓶のようだったがラベルなどはなく、蓋はもともとは銀色だったのだろうがかなり黒ずんでいた。

 ジャム瓶がそうであるようにその瓶もガラス越しに中がよく見えるようになっていた。が、そこに入っていたのはきれいな苺色やオレンジ色ではなく、手のひらサイズの小さな石像だった。道端にでもありそうなお地蔵さんをそのまま小さくして、瓶に入る大きさにしたもののようで、中にあったのがそれだけなら、ちょっと珍しいものを見たと思うだけだったかもしれない。

 小さなお地蔵さんの周りには髪の毛が入れられていた。そして、瓶の底にはなにか粘っこい黒黒とした液体が溜まっている。不気味ではあった。けれど、私がそれを開けてみようと試みたのは瓶の中に紙片がいくつか入っていて、半開きになったそこに文字のようなものが見えたからだった。

 私が蓋を手のひらで包み込み、力を入れていくと果たして瓶はあっさりと開いた。呪いでもかかっていそうな見た目だけに構えていたところがあったが、カコッという軽い音に、なんだこんなものかと拍子抜けした。次の瞬間、指先に嫌な風を感じた。風というのが正確かはわからないのだが、指に触れていった妙な感覚は一瞬にして流れていったので、風と表現させてもらう。その風は瓶の中から出てきたもので、瓶の中に溜まっていた澱んだ空気が一気に外に漏れ出てきたように私は感じた。

 ああ、どうしよう。すぐに蓋を閉め直すべきか。私は瓶から蓋を外さないまま、しばらく固まっていた。海から吹き付けてくる風が誰かの吐息みたいに生暖かくて、脇や背中にじっとりとした汗をかいた。

 頭が痛くなってきて、なんだか息苦しくて、私は無意識に息をハァッと吸い込んだ。ハァハァと荒れた呼吸を繰り返して、ああ、自分はさっきまで息を止めてしまっていたのだな、ということにようやく気がついた。

 呼吸のペースが正常に戻ってから私は意を決して瓶の口から蓋を離す。おそるおそる中を覗き込めば、なにかドロッとした液体と髪の毛、お地蔵さん、紙の切れ端がある。ガラス越しに眺めたときとものは変わらない。ただ、蓋を外して直接目にするとそのものの存在をより濃く感じる。

 瓶の中に指を突っ込んでみる勇気はなかった。けれど、怖いもの見たさからだろうか、もっと検めたい気持ちはあった。探すと制服のポケットにボールペンがあったので、それを指の代わりに入れてみる。ペン先でお地蔵さんの頭を軽く押してみるが、まったく動かない。どうやら瓶の底に固定されているらしい。

 パキ……と手元からほんの小さい音がした。私はそれだけのことにたいそう驚いて、瓶を砂浜に落としてしまった。

 お地蔵さんを小突いていたボールペンのペン先にひびが入っている。プラスチックが劣化していたのが、たまたま今のタイミングで割れてしまったらしい。音の出どころがわかってしまえば、あんなに驚いた自分が馬鹿に思えた。

 砂の上に転がる瓶を拾い上げる。小さな紙が数枚、瓶の中から飛び出してしまっていた。素手で触るか迷う暇もなく、風につれていかれそうになった紙片を慌てて捕まえる。

 私はそれらを瓶に戻す前に書かれた文字を一通り読んだ。


 私は小さいお地蔵さんが入った瓶を岩陰に隠していた。海を漂流して、私の手に渡った不気味な瓶に奇妙な運命を感じたのかもしれない。私は毎日、瓶を置いた岩陰に通った。まるで熱心な参拝者みたいに。

 私が瓶を見つけてから三ヶ月ほど経った頃、豪雨が町を襲った。幸い大きな被害もなく、次の日の朝はさっぱりと晴れていた。

 私が例の岩陰に向かうと割れた瓶があった。どういうわけか髪の毛と紙片は燃えカスのようになり黒い液体は乾ききって瓶底にわすがにへばりつくのみになっていた。お地蔵さんの姿はどこにもなくなっていた。最初から瓶の中にはお地蔵さんなんていなかったみたいだった。


 家に帰ると母が心配そうな顔をしていた。どうしたのか聞くと、あの男が昨日から帰っておらず連絡もつかないらしい。私は家族想いの子どものように母と一緒になって、あの男のことを心配するフリをした。私にとっては帰ってきてくれないほう気が楽だったが。

 落ち込む母を慰め落ち着かせてから自分の部屋に戻って、ふとSNSを開くととある有名俳優の失踪が話題になっていた。私の心臓がドクッと鳴る。特にファンでもないし、失踪した俳優の身を案じたわけでもなかった。私の関心はその名前にあった。私はその文字列を三ヶ月ほど前に目にしていた、あの瓶の中にあった紙片の上で。

 それから一日待って、母は父の捜索願を警察に出した。だが、あの男が帰ってくることはなかった。父と同日に失踪したと思われる俳優のことを私はニュースで追いかけたがどうやらそちらも見つかってはいないらしい。

 一ヶ月経っても二ヶ月経っても、状況は変わらなかった。

 父と上手くいかないプレッシャーから解放されたからか、私は性格が少し明るくなった。学校で友達もできて、生活が前と比べ物にならないほど楽しいものになった。一方で日々、警察からの連絡を待つ母はすっかり憔悴している。母のことは可哀想だとは思ったけれど、私の心は全然痛んでいなかった。母は夜になると不安定になって、私に泣きながら愚痴をこぼす日もあったが、それを慰めるのは苦ではなかった。大丈夫だよ、お母さん、と繰り返し口にし白湯と睡眠薬を用意してあげる自分はとてもいいやつだとすら思えた。

 母が眠りについてから、私は家をこっそりと抜け出した。真夜中の空気は、昼間のものよりも澄んでいる気がして、気分がいい。

 私はあの瓶が落ちていた砂浜に立って、真っ黒い海を見た。寄せては返す波の音にヒヒヒ、ヒヒヒヒヒ……と自分の笑い声を乗せた。

 ありがとうございました! 私は海に向かって叫んだ。姿を消してしまったあのお地蔵さんにどうしても伝えたくなったのだ。おかげさまで私は幸せです、と。

 苦しめられていた私はなんでもいいから、すがるものが欲しかったのかもしれない。だから、あの瓶を素通りしなかった。

 願うだけならば許されると思っていた。だから、何度も通い詰めた。

 あのとき、私の中には明確にあの男に対する恨みはあったのかもしれない。けれど私はただそれを紙に書いて瓶に封じ込めただけなのだ。


終わり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

瓶詰の恨み 棚霧書生 @katagiri_8

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ