【ウサギ】

Track7 introduction ——街のいしずえ

【年月日XX 街のいしずえ】

月の裏には、死後の世界がある。

どんな思想からもこぼれた、どこにもいけない概念を、優しく暖めてくれる世界。

私は作った。半立体の絵の世界に。

ひとりの少女を眠らせるため。

ひとりの男を絶望させないため。



     ☾



 黒いセダンがデータ塔を過ぎ、クチュールの工房のある地帯を通り抜けようとしたころだった。

「あれは司会者の車じゃないか?」

 ヘッドライトに一瞬だけ、水色の車体が照らされたのがギャラリストには見えた。

「あの子を送りに行かせたんじゃないのか。なんでこんな所に?」

「……どうする? 戻る?」

 運転手のジェミリラはスピードを落とさない。

「私は問題ないと思います。先を急いでください、ジェミリラさん」

 後部座席から宣教師はそう言う。ジェミリラはうなずき、そのまま車を走らせ続ける。司会者に女の子を任せることを、ギャラリストはもちろん一度は拒んだ。しかし、宣教師は彼を信頼していた。長いこと側に置いているものだから、彼女からしてみれば何の疑問もない使役だったのかもしれない。合意を聞かないまま、宣教師は勝手に取り決め、ギャラリストを連れ出してしまったのだ。

「心配する気持ちは分かります、ギャラリスト。ですが、あの子がここを出るのにもし時間をかけていたとしても、あなたなら直接あの子を追放することが叶う」

「……ああ。そしてあの子は私との約束を守るだろう」

「ええ。何も私たちの思い通りにならないものはありませんね」

 宣教師の声は、結婚式を前にした若い花嫁のように高揚していた。彼女の喜ぶ姿がうとましい。ギャラリストはそんな自分が嫌だった。本質的でない問題へのいら立ちは非常に下衆で、くだらない。

 やがて車は一軒の、廃墟の前で停められる。色あせ、塗りつぶされた看板がつけられたままの建物が、こんな郊外にぽつりとある。変な光景だが、無秩序なこの街では大しておかしな場所でもない。

「解説者としてのお仕事をしていただく場所は、こちらの地下二階となっていますので」

 宣教師は車をすぐに下り、助手席のドアを開ける。

「……あの部屋だろう。しばらく見ていないが……」

「あら。ご覧になったことがあるのですね」

「ああ。絵は残念ながら、私の期待した物ではなかったが」

 宣教師はベールの下で、にたりと赤い唇の端をあげた。もしマネキンの体に表情があれば、ギャラリストは今とびきりの怪訝な顔になっていただろう。廃墟の階段を下りる宣教師についていく。……ジェミリラは何も言わず車中に残していく。あのカメラの目の女は便利だが、わざわざ気に掛けるほどの存在ではない。所詮はこの街に囚われた、救いようのない亡者のひとりなのだ。

「あなたの探す絵は、どんなことを表しているのかご存知ですか?」

 壁に手を添えながら、奥の踊り場にひとつ裸電球があるだけの、暗い階段を下っていく。ベールの隙間からのぞく宣教師の白い肌がおぼろに浮かんでいる。

「なに? もう知っているだろう。お前が改めて聞くこともない。月の世界だ。……古いおとぎ話に影響された、幻のな」

「ええ。その憐れな感性に幻想を重ねて、……さほど大作にするつもりもなく、軽い気持ちで着手された作品だったそう、ですよね?」

 暗い上に、階段は急で狭いので、杖で一段一段を確かめながら、ギャラリストはゆっくり下りていく。あの画家が影響を受けた記事はギャラリストも読んだ。月の開発についての投書を集めた、文芸雑誌の一部だった。

「そうだっただろうか。……そうだな。かつて構想を聞いた時も、彼女の数ある幻想的な作品と同じように扱える、普遍的な一作が出来上がるとしか私は思っていなかった」

 ――ベールのはがれていく幻想。私たちが生きているうちに、月の正体は知りたくなかった。私たちの子は月に帰ったと慰められた。あの子の住む幻想的な月の都が、見上げればいつも空にある。その世界観の中で人生を終えたかった。――スクラップの文面にはそうあったと覚えている。

「彼女はいつしか、よく知りもしない異国の世界観へ没入していったんだ。ソ連とアメリカによる月面の開拓競争が報じられる日々の中で……もう誰も夢見ることのない幻想の世界を作り続けていた。どうして、どこであんな考えになったのだろう」

「最初はシニカルな滅びの幻想を描こうとしていたんですって?」

「そうだな。なぜ彼女は、今まで興味も示さなかったテーマにああも没入したのだ……もはや最後にはとり憑かれたかのようだった」

「その幻想に共鳴してしまったのかもしれませんよ」

「ならば、もっと……例えば日本の童話、かぐや姫なんかを熱心に読んだり取材したりしたはずだし、私はそれを勧めた」

「本当のモチーフは民俗学的な既存の世界観ではなかった、とすればどうでしょう。ウサギは幻想という概念の変化に対する、焦燥や恐怖へ具体性を与えたトリガーにすぎない。彼女自身の歪みによって、あの世界観は築かれたのです。その心さえも取り込んで……」

「恐怖、歪み、……それは自ら創造した、死んだ少女の待つ世界に惹かれ……自殺するほどの闇だったのだろうか? そんなこと考えずに彼女は……感性のままに制作を続けていれば良かったのだよ。たとえその感性が枯れたとしても、すでに作られた作品と名声、手に染みついた技術だって残る。恐れるものなどなかったはずだ」

「なるほど。あなたらしい、建設的で優しい考え方ですね」

 怪談を下りつく先にある扉の前で、宣教師は立ち止まりギャラリストを待った。狭い地下でバネの伸縮する足音が響く。

「……その先に、行かねば……ならないのか。私はそこにあるものなど、本当は見たくないのだ」

「約束したじゃありませんか」

「なあ、宣教師よ。教えてくれ。お前は本当に私の探す絵と娘についてを知らないのか。勘繰りは的外れもいいところだが、こんなにあの絵と、私の画家について考えがあるというのに」

「ええ……でも、大丈夫」

「何がだ?」

「大丈夫なのです。あなたが私のそばに居てくれさえすれば」

「……意味が分からないし、私には帰るべき場所があるんだ」

 なるべく毅然と、それでいてきつく、彼女には伝えたつもりだった。扉に手をかけ、宣教師はこちらを数秒見つめる。何か言ってくると思って、ベールに透ける唇が動くのを待っていたが、そんなことはなく……彼女はまた前を向いて、小部屋へと続く扉を開けた。

 

 そこにあるのはガラスカバーのない油彩画用の額に入る、紙の切り貼りで描かれた、半立体のくだらない絵だ。ギャラリストが探している絵の、悪質なパロディのような作品だった。

 地下なので湿度と気温は安定しているだろう。宣教師がスイッチを点けた明かりは蛍光灯だ。意図されてはいなさそうだが、作品を保全する環境としてはそれなりに整っている。盗まれた絵もこういった場所にあれば、酷い劣化は免れているかもしれない。

「この絵に……私は解説をつけなければならないのか」

 ほのかに白い霧がかかったような空気の部屋で、ギャラリストは奥の壁にかかるその絵に近づく。部屋には他にほとんど物はない。ただ、小さなガラスのテーブルが絵のそばにあり、その上には赤いファイルで閉じられた書類が置かれている。あれはジェミリラが司会者のアナウンスを書き起こし、まとめたものだ。ただ、最初の一割ほどは、おそらく司会者自身のものであろう肉筆で記されていた。もしジェミリラという人物が街へ迷い込んでいなければ、多分全ての記録は彼の手書きだったのだろう。

「私、とっても楽しみです。本物のギャラリストであるあなたからの定義こそ、私が最も必要としていたものなのですから!」

 喜ぶ宣教師を背にして、ギャラリストは絵の前に立つ。

 赤いきのこを模したクッションに座る少女。切り箔で輝くプラチナブロンドの髪に、赤い目。薄紙を重ねた黄色いドレス。少女の白い肌は、毛羽立った柔らかな紙でできている。そして頭からは、その肌と同じ素材で造られた、長い耳が生えていた。

 ギャラリストが探している絵に描かれた少女はヒトだ。ウサギのような耳、顔立ち、毛皮のような質感の肌を持った異形の少女に、ギャラリストは嫌悪を覚えていた。記憶の中にある遺作との相違はそれだけではない。むしろ構図くらいしか絵の原型は残っていない。

 チャンドラ・マハルに着想を得た、綿密に作りこまれた空想的な建築物は、すべて退廃的で卑近な、汚らしさまで忠実に顕在させたゴーストタウンの並びになっている……そういった風景の描写そのものは当然否定などするワケもなく、ただこの作品のテーマにおいて、それはあまりに荒唐無稽であるのがやるせなかった。間違いなくその風景は、どこかで見た車や店舗を寄せ集めてモデルにしたと分かる上……月の世界のはずなのに、描かれている標識は東西南北が明記されているのだ。

 そして元の絵ではありもしなかった、異形の月星人もその街には追加されていた。月星人と一言でまとめたが、その姿には法則や創造性さえない。ヒトと変わらないものも、獣らしきものも、機械のようなものもいる。むやみにシンボリックなそれらが闊歩する構図は、超現実主義をなめた出鱈目な三流画家の凡作よりも酷く、ギャラリストの感性を逆なでしていた。

「漫画の扉絵ならばあるいは許したか……だが、いや。許せない。なぜなら彼女を冒涜する絵だ」

「あらあら。でも今見えているこれは、司会者の感性でこの絵の世界観を展開した結果であり、側面にすぎません」

「……司会者の感性」

「この絵は、この街の解説者次第でどんな意味でも持ちます。解説する情報の取捨選択、シンボルの読み解き、背景のねつ造によって。その仕事こそあなた、ギャラリストに任せたい。こんなこと、司会者なんて素人に任せたくはないでしょう?」

「……お前はずっと、何らかの理由で、私を部分的に熟知している。だがな。それは私を亡者の街へ引きずり込むための、悪魔のささやきのようなものだと思っている」

 ギャラリストはファイルに手を伸ばし、ページを適当にめくる。ウサギ礼拝の時報以外に響く、司会者からの臨時アナウンスはだいたい、どんな人物が街へ来て、どんな行動をとり、どんな住人になっていったのかを知らせてくる。その時目に留まったページには、山岳で迷い、混乱のすえ殺めあう仲間を見送り続け、唯一生還した男がこの街を訪れた際の記録なんかが残っていた。

「悪魔だなんて……」

 宣教師はすぐ背後に来た。ベール越しの息もかかりそうな距離だ。

「私はあなたがいないと、何の意味もない存在なのですよ。そんな大それたものじゃない」

 細い腕が、ギャラリストの首に絡みついてくる。

「あなたは、この街の意味を決めることができる。それは同時に、過去の誰かが変則的に解釈したこの世界観を、すっかり否定できるということなのです」

 ギャラリストはファイルを閉じ、その赤い表紙を見おろした。『ウサギ ――月の街に――』と手書きされている。失われた遺作の題名と同じタイトルだった。

「さあ、否定してください。ギャラリストたるあなたからの定義づけは、他の誰の解釈よりも揺るぎない価値となる。私を信じて」

 手の中の、情報の束は重かった。ガラスのテーブルにそれを戻す。

 そして、本当に細かい鱗粉のような、白い輝きをかすかにまとう、紙で作られたウサギの少女へとそっと黒い指を伸ばした。

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2024年12月20日 00:00
2024年12月22日 00:00

ウサギ憑きの街へ ファラ崎士元 @pharaohmi_aru

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